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笹田参考人 笹田でございます。
こういう会にお招きいただきまして
発言の場を与えていただきまして、どうもありがとうございます。
十一年前の衆議院の
憲法調査会でも、ほぼ同じようなテーマで私は
お話ししたことがございます。それを思い出しながら、若干、先生方と比べまして、私、数字を使ったレジュメをつくりましたので、長目のレジュメとなりましたので、それを見ながら
お話をさせていただきたいと思います。
今お二人の先生方の
お話にもありましたように、とりわけ
小林先生の
お話にありましたけれども、
立憲主義のかなめ、最後の実現過程として違憲審査制というものがあります。
例えば、ドイツを考えてみますと、ドイツで
憲法の優位、そして
憲法裁判が初めてやはりリアルに出てきたのは戦後でございます。同じように、
日本もそういう形で出てくるわけですけれども、ただ、ドイツは
憲法裁判所という
制度をつくり、
日本はアメリカ型の
司法裁判所という型をつくったということになります。
そこに二つのタイプというふうにお書きしておりますが、具体的事件の存在、これも
小林先生の方から少し御説明ありましたとおりでございまして、やはり我々のとっている
司法審査型というのは、
自分の
権利、法的
利益が侵害されたときにそれを回復するというのがベースになります。したがって、この具体的事件の存在というのがどうしても大きなものとなります。
アメリカの
司法審査が典型でございますが、アメリカの場合は、合衆国
憲法に明文で
規定されているわけではなくて、判例によって、一八〇三年以来確立されている。
これに対して、
憲法裁判所型というのは、具体的な事件が存在しなくとも、
憲法裁判所への訴訟の提起が可能であるということになります。
資料をまた別に用意しておりますが、資料の一に出しております。三年前でございますが、ESM、欧州安定メカニズムにドイツが予算をどれぐらい拠出するのかということでもめたことがございました。そのときに、ドイツ連邦
憲法裁判所は制限つきで拠出を認めると。それによってEUがだめになるんじゃないかということを言っている向きもありまして、私も、この判決が出る二週間ぐらい前に、イタリアの研究者が、ドイツ人でありましたけれども、すごく心配していたことを覚えております。
ですから、それぐらいこの
憲法裁判所がすごい力を持っているのは、これはもう確か。特に、ドイツの力が強いことと一緒に、やはり
憲法裁判所が強くなっているということだと思いますが、それが抽象的規範統制と言われるものでございます。
先ほどもちょっと御説明ありましたように、
政府であるとか連邦議
会議員の三分の一が申し立てて行います。したがって、連邦議会で負けても、カールスルーエでリターンマッチをする、カールスルーエでまた会おうという、本当に言っているのかどうかわかりませんけれども、そういうことがよく伝わってきます。
ただ、三に入りますが、この区別は最近になって非常に接近している。これは大分前から接近していると言われております。つまり、アメリカの連邦最高裁も事件性の要件を緩めてきておりまして、具体的事件が従来であればないと言われていたものでも認め始めているという点が大きくて、そうしますと、実は、アメリカの連邦最高裁も
憲法保障にかなり近づいてきている、やっているというふうなことを言っております。
今回、カナダの例を挙げておりますが、カナダはアメリカ型の
司法裁判所型に属するのでございますが、ここでやっている、
政府が最高
裁判所に勧告的
意見を求める照会、レファレンスというものがございます。これは
憲法事件の三分の一と書いておりますが、現在、これより大分少ないと言われております、恐らく四分の一ぐらいかもしれません。これは、具体的事件は存在しなくとも、違憲審査権限を
行使しているのではないかと言われているものでございます。ですから、このやり方は、実は
日本でも使えるのではないかという主張が大分前から出てきております。
一方、
憲法裁判所型の代表であるドイツの連邦
憲法裁判所をちょっと見ていただきますと、資料の二でございます。
これは私がつくりました資料ですが、ドイツの
憲法裁判所というのはいろいろな機能を持っておりまして、一番興味深い抽象的規範統制を見ていただきますと、申し立てられている件数は、実は毎年五件から三件ぐらいであります。実際、判決を出しているのも五件以内ということであります。そして、機関争訟という
国家機関
相互の争いも二〇一三年度は三件なわけです。
そうしますと、何が多いかといいますと、六の
憲法異議の訴えというものでして、これは、公
権力によって人権が侵害されたとして
憲法裁判所に訴えるものです。だから、
司法裁判所型の訴訟と非常によく似ているわけです。
ただ、これはドイツの
裁判所の判決に対する訴えという形をとるものですが、しかし、これが六千四百七十七件、九七、八%を占めているということになります。ですから、この点、
憲法裁判所と言われても実はこういうものであって、アメリカと比べてもそんなに議論が、
日本と比べて全く違う
世界という気はないのではないかなという気がいたします。
次に、大きな二でございますが、
日本国憲法の制定過程で、最高
裁判所が違憲審査権を持つという大改革が行われました。このときに、実は、
憲法制定過程では三つの選択肢がございました。
一つは、明治
憲法の
改正に備えて
政府に置かれました
委員会が唱えましたもので、
裁判所がある
法律を違憲と
判断した場合に、その違
憲法律を適用しない、消極的といえば消極的でございますが、そういう形での違憲審査は認めようと。これだと明治
憲法改正は必要ないよねということでありました。当時の代表的な
憲法学者たちの見解はおおよそこういうものでございました。
マッカーサー
憲法改正草案は、人民の
権利義務を定めた
憲法第三章を除く事例について、最高裁の違憲判決に対して
国会の再審を認めようとしました。ですから、人権侵害を除いて、
国会に改めて審査をしてもらう。これはイギリスの貴族院が持つ終審
裁判所としての役割を
参考にしたものと言われておりますが、
国会が最終的
判断をするという余地を認めるものでございました。
現在の
憲法八十一条は、これが抜けております。これは、
日本側が、なぜそういうものを入れるのか、要らないのではないかと言ったわけですね。そうすると、連合国も、それならそれでよろしいということで現在のスタイルになりました。いわゆるひょうたんから駒という表現をされている先生方もいらっしゃいますけれども、そういう形で現在のスタイルになっているというわけです。
最高裁は、もう御承知のとおりで、十五名の大法廷と五人の裁判官から成る三つの小法廷がございます。やはり特徴的なのは、全て小法廷で審理されて大法廷には回らない、年間で恐らく二、三件程度が大法廷に回るんだろうというわけでございます。これはなぜそうなのかは後で述べます。
憲法裁判の沈滞と一定の活況ということでありまして、十一年前に衆議院の
憲法調査会で、私、
参考人として申し述べたときには、実は、一定の活況がちょっと出るかなぐらいのときでございまして、余り元気がなかったわけです。一九九〇年代に法令違憲判決はゼロなわけです。見ていただきますと、二〇〇二年からふえ始めまして、ここ最近は非常に重要な違憲判決が飛び出してきている。恐らく、霞が関とか
国会の方でも、これは何なんだというような違憲判決が出てきているというわけでございます。
まず、先に沈滞の方から若干見ていきますと、最高裁がまず法令違憲をしたのは一九七三年であります。最高裁の発足が一九四七年ですから、二十六年かかってようやく法令違憲が出た。したがって、なぜこんなに少ないのかというのが批判の的でございました。
これについて、二〇〇四年に、矢口洪一元最高裁長官、ミスター
司法行政と言われた辣腕の方でしたが、こんなふうにおっしゃっていました。皆さんは戦後の
裁判所をごらんになって
違憲立法審査権をもっと
行使すべきだとおっしゃるけれども、今まで二流の官庁だったものが急にそんな権限をもらってもできやしないのですと、極めて率直なお考えを述べられております。
なぜこれが一定の活況を示すようになったのかというのは、いろいろ考えてみますと、まず第一に、これは藤田宙靖前最高裁判事もお書きになっていると思うのですが、世代交代を挙げられております。最高裁判事、その裁判官を支える
調査官が交代してしまった。最高裁裁判官も一九四五年以降に誕生した者が三名、全員が
日本国憲法のもとでの教育を受けている。これが一つでございます。
次が、外圧としての
憲法裁判所導入論、これはやはり
意味があった。衆参両院の
憲法調査会で、
憲法裁判所導入論というのが非常に出てまいりました。私も十一年前にここに来たときに、そのときは最高裁の事務総長でありました方が同席されておられましたけれども、その前でもそういう
お話が非常に出てまいりまして、それはやはりあったのではないか。
それが、例えば定数不均衡訴訟における福田反対
意見、この方は外交官出身でありますが、このまま違憲
判断を回避し続ければ、独立した
憲法裁判所の動きに直結して、現在の司
法制度から違憲審査を奪う結果につながるんじゃないかという危惧感を反対
意見の中で述べられております。
三番目は、やはり司
法制度改革があったのかなと思います。裁判員
制度が生まれまして国民的基盤が確保されたということと、最終
意見書が違憲審査権は不十分だということを明言しましたので、これはあったのかなと思います。
これを考えていく上で、伊藤正己元最高裁判事の提言というのがやはり大きいのかなと思います。一九九三年に伊藤正己先生は、最高裁判事として十年の経験を経て、さらに東京大学の英米法の教授でありましたから、この方が、
憲法裁判所をやった方がいいんじゃないかということをお書きになった。
通常事件は最高裁でよろしいんだけれども、
憲法裁判は別の
憲法裁判所に委ねる方がいいんじゃないかということをおっしゃったわけです。
その理由としてやはり出てくるのが、なぜ最高裁が違憲審査に踏み込まないかということでございますが、
政治部門への礼譲の意識の存在、これは現在でもあるかなと思います。当然だと思います。二番目が、処理件数がとても多くて、特に小法廷にあっては
通常事件の最終審という意識が強くて、
憲法の
裁判所という
考え方は出てこない。三番目に、二から続いてくることでございますが、大法廷回付を慎重にする、結局のところ小法廷でやっちゃうということになります。
そうしますと、最高裁を考えていく上で、やはり事件処理件数の多さというのは考えていかなきゃいけないということになります。
それが、次の三の違憲審査制の活性化に必要なファンダメンタルズ、基礎的条件は何かということでございますが、まず、最高裁について、二重の役割があるということであります。
一つは、最終審として
違憲立法審査権を
行使するということでございますが、もう一つは、民事、行政事件、刑事事件の上告審という役割であります。これが、年間三千件を一つの小法廷が処理しておりまして、その大半は
憲法事件ではありません。最高裁は、こういう
意味では上告審としての機能に傾斜しているというわけでございます。
これに対して、ドイツは
憲法裁判所と五つの連邦最高
裁判所がございまして、そういう
意味でいいますと楽なのかなと思われますが、しかし、先ほど言いましたように、実はドイツでも事件処理件数の多さに音を上げておりまして、
憲法裁判所の長官が、これは何とかならないのかと。つまり、いろいろな訴訟が起きてくるので、特に
憲法異議の訴えでございますが、中にはどうしようもないのもあるので、そういうものに対しては罰金を科したらどうかということまで言うのだけれども、議会は反応してくれない、しかしこれは何とかしてほしいということを言っていらっしゃるようでございます。
アメリカは、その点、裁量上訴というのをやりますし、州最高裁がございますので、年間百件程度というわけでございます。
最高裁の
負担というのを最後に述べますが、藤田宙靖最高裁判事は、おやめになった後に、「最高裁回想録」の中で、一つの小法廷で三千件を処理すると。これは、現在は三千二百件に伸びております。このうち九五%が持ち回り審議と言われまして、これは合議するまでもなく上告棄却あるいは上告不受理ということで裁判長が
判断して、一件書類の押印欄に判こを押す。全部判こを押すんだそうです。一年間におよそ二千五百五十枚に印鑑を押すと。藤田先生は、チャップリンの「モダン・タイムス」に出てくる機械工とか養鶏場の鶏だという、非常にある種不謹慎でございますけれども、率直な御感想を述べられております。
こういう回想は、「最高裁回想録」に非常に頻繁に出てきます。十一年前に私ここにお呼びいただいたときに、最高裁の事務総長は、この件につきまして私がこう言ったところ、御自身が最高裁の現職の最高裁判事全員にお尋ねされたところ、どなたもそういうことはおっしゃらなかったとおっしゃいまして、私はそのときに反論がなかなかできなかったのでございますけれども、実は、在職中はそういうことは決して言わないというのがやはり不文律だそうでございます。そういうことは言ってはいけない、申しわけないと。ですから、おやめになった後にいろいろ出てくるということであります。
その最高裁の重労働を支えているのが、実は最高裁
調査官であります。この
調査官は、三十代後半から四十代の裁判官でありまして、身分は東京地裁判事で、同期の優秀な方がお入りになるわけですが、その上に民事、行政、刑事の上席
調査官がいて、さらに首席がいるということになります。現在、三十九から四十名前後です。非常に事細かな
内容が上がってくるわけです。事実関係とか先例の有無とか論点の学説、判例とか、毎朝行くと、風呂敷に包まれたものがどんと載っかって、さあ、次を読んでくださいと来るというのが、聞いたり見たりしたところでございます。これなくして、最高裁判事は判決を下すことはできないだろうということであります。
最後になりますが、我が国の違憲審査制の行方というところになりまして、こういう状態はもう既に、三十年、いや、戦後の二十年代の後半から続いているわけでございますが、なぜこれが改善されないのか。改善しようとしたことも実はございます、五十年代に。しかし、さまざまな事情でうまくいかなかった。
最高裁の
調査官の増員による対応が一つの対策です。十一年前は三十名だった
調査官が、現在は四十名にふえております。この方々の努力というのは大きいかなと思います。
最高裁の改革というのは、最高
裁判所に何を期待するかによって変わってくるだろうと思います。先ほど
小林先生もおっしゃいましたように、
憲法保障の最後のかなめというようなところをここに期待するのか、民事、刑事、行政事件の最終審として適正な判決を下していただければよいのではないかということでよいのかとか、いろいろあると思いますが、民事、刑事、行政の最終審としての適正な判決を下すことを期待したのであれば、現在の体制を維持すればよいのではないか。
あるいは、それだけではなくて、
憲法事件についての最高裁の積極的な
憲法判断を期待するのであれば、上告審機能を大胆にカットするしかない。これは、資料の五番目に私が考えた案がございますが、特別高裁なるものをつくって、上告審機能はここに全部やっていただいて、カットするしかない。そうすることによって、最高裁の本来の機能が発揮できるのではないかということですね。だから、ここでは判例変更であるとか新しい
法律問題の処理とか、もしかしたら、死刑事件はやはり最高裁でということになればそこも入るのかもしれませんけれども、大胆にカットしてしまえばよろしいということであります。これによって、違憲審査に今よりもより集中できるだろう。
さらに、いや、これでも足りないということになりますと、カナダで行われております、
政府が最高裁に勧告的
意見を求める照会、レファレンスという
制度も検討の余地があろうかと思います。この勧告的
意見は、法的拘束力を有しておりません、事実上の拘束力しか持ちませんが、そのインパクトは無視できません。
司法裁判所の機能に適合するように十分
司法化された
制度設計をすれば、現在の
憲法上も立法において導入可能ではないかという見解もあります。ただ、この案を導入するにしましても、最高裁の上告審機能の軽減は不可欠であろうかなと思います。
最後に、統治システム全体にかかわる問題の解決のためには、より強力な権限を
司法が持つべきだとするのであれば、さらに大胆な改革ということになるかと思います。それが
憲法裁判所だろうと思います。この柱は、抽象的違憲審査です。
例えば、読売新聞社がかつて出しました案がそうでございまして、条約、
法律、命令等について、
内閣あるいは一定数の
国会議員の申し立てがあった場合に
憲法判断を行う抽象的審査を任務の一つとする
憲法裁判所の設置を提言しております。ただし、これは
憲法改正というハードルがあることは否めません。
すなわち、現在の
憲法解釈では、学説、判例ともにそうだろうと思いますけれども、
法律の効力をその公布とともに直接に違憲審査の対象とする抽象的違憲審査は、現行法のもとではできない、
憲法でできないというのが一致した見解だろうと思います。何かやはり一つの
国家行為があって、それに基づいて、処分があればそれをとっつかまえて、少なくともそれが要るという理解でございます。
さらに、
制度設計上の問題もございまして、資料二の四の方をあけていただきますと、ドイツの
憲法異議の訴えというのが現在多大の
負担を強いております。しかし、
憲法異議の訴えがないとしますと、逆に
憲法裁判所の担当する事件は本当に少ない、年間でいくと三、四十件になっちゃいます。そうすると、このような
憲法裁判所を創設することはどこに
意味があるのかということも一方において出てくる。しかし、
憲法異議を出してしまいますと、すごい件数になってしまう。
ちなみに、アジアで最も今元気のいい違憲審査制を持っているのは韓国だろうと思いますけれども、韓国は、
憲法裁判所を、ドイツ的なものをつくりました。しかし、抽象的規範統制の権限は入れなかったという点は、やはりそこには何か原因があるのかなという気がいたします。
以上で終わります。どうもありがとうございました。(拍手)