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丸山和也君 ありがとうございます。
是非、やや強調し過ぎるぐらい、そういう
ディベートの
能力とか、
相手の立場を認めてもしかし
自己も
主張すると、そういうぶつかり合う中から互いを認め合うというのは一番、けんかして仲よくなるという
言葉が
日本にもありますけれども、やっぱり適当なところでとどめていると、なかなか本当の信頼が生まれないということもあるんですね。だから、
国際社会は、やっぱり激しい
議論の応酬、
ディベートの応酬の上に
相手の本当の姿が分かり、
自分も
主張もでき、そしてお互いを認め合うことで本当の信頼が生まれてくると思うんですね。やはり、
日本はそれを事前に抑制する事前抑制型が非常に、
日本の特徴なんですけれども、強いものですから、集団主義と合わせて、だからそこが育ちにくいんですよ、そういう
能力のある人が。
社会環境的にもそうなんですよ。親もそうですし、
子供だけでなく、
教育だけではできないんですけれども。そういう
意味で、やや特に意識的にそういう
ディベートをする
能力を付けるように指導していただきたいと思います。よろしくお願いしておきます。
それから次に、
大臣の所信の中にもあるんですけれども、
科学技術イノベーションの推進というところで、今般のノーベル賞、中村修二さん外二名の青色発光ダイオードのうれしいニュースがありました。確かにうれしいんですけれども、これ単純にうれしいといって喜んでいられない側面が本当はあるんですよ。
大臣に、これはもう水差すわけでは決してありません。
この青色発光ダイオードにつきましては、中村さんが
日本で二〇〇一年ですか、東京地裁に訴訟を起こしました。要するに、職務発明の正当な対価を求めて訴訟を起こしたんですね。それが二〇〇四年に判決が出たと。最終的に決着して東京高裁で、判決が東京地裁で一月でしたかね、それでその十二月に東京高裁で和解が成立したと。ちょうど、だから十年前になるんですね。だから、このときは、その後、中村さんはカリフォルニア大学サンタバーバラ校へ行くんですけれども、そのときの捨てぜりふと言ったらちょっと悪いんだけれども、最後に残した
言葉は、
日本の
社会は会社も司法も腐っていると、こういうところで未来はないと、研究者の未来もないという有名な
言葉を発したんですよ。だから彼が悪いというのじゃないですよ。だから、そこに、その
問題点というのを我々は決して忘れてはいけないと。その十年後にノーベル賞を取った。評価されたんですよ。
それで、一審には、御存じかと思いますけれども、二〇〇四年の一月でしたか、中村さんの請求が二百億円、概算二百億円の請求に対して満額を認めた、二百億円。それで、非常に大きなニュースになりました。それで裁判所の認定は、青色発光ダイオード、四〇四特許と言われているんですけれども、発明による会社の利益、会社が得た利益というのは六百億円だという、彼の貢献度は五〇%だと、だから彼を三百億円請求する権利があるとわざわざ言ったんだね。だけど、弁護士、中村さんが二百億円しか請求していないから二百億円を認めたと。まあ、百億円損しているんですけれどもね。これぐらいの大きな、ある
意味でショッキングな影響を与えた判決だったんですね。
彼の弁護人も私もよく知っていますけれども、それでそのときはよかったんです。日亜科学の方は東京高裁に控訴しました。知財高裁がなかった頃ですね、控訴しました。そして、東京高裁の判事の、これは判決じゃありませんからあれですけれども、伝えられるところによると、結果は六億円と、四〇四特許その他百数十幾つの特許全部を合わせてもうたたき売りみたいなものですね、それで六億円ということで金額的にはまとまったと思います。六百億の六億で百分の一ですよね。ほかの特許も全部合わせているんですから、本当は三百分の一ぐらいの評価になったと思うんですね。
つまり、彼の特許、争いになったのは貢献度、六百億という会社にもたらした貢献はそんなに争われていなかったんですけれども、中村さんの発明の貢献度をどれだけに見るかというところで、会社側の
主張は、要するに彼の
個人の功績ではないんだと、これは。確かに発明は一部あったけど、それは発明にすぎないと。それを商品にするためにいろんな努力も要ったし、商品を売るためにはやっぱり営業も必要になるし、そもそも会社がやっていくためには一人の力ではどうもならないんだというこういう、単純に言えばそういう理屈ですよね。それで東京高裁は、そういうみんなの力でこうなっているんだから、あんたの発明だけの
価値というのは、まあ恐らく、たしか僕の
記憶では数千万円だと言ったと思うんですね、数千万ぐらいのものじゃないかと。だけど、いろんな特許を合わせて六億円と、遅延損害金みたいなのを入れて八億円になりましたけどね。そういう判定だった。
これを見ましても、非常に面白いというか
日本的なんです。これを恐らく
アメリカであったら、あるいはヨーロッパであったら、二百億円、高裁へ行ったら恐らく三百億円請求していると思いますね。それで認められる可能性も十分あった。ところが、やっぱり、
個人の功績に対する評価というのが
日本は非常に素直にしないんですよ。それは、もちろん営業のためにはセールスマンも必要だし、いろんな人要るけど、でも発明というこれがなかったら、この四〇四特許が、発明がなかったら、後ほどノーベル賞をもらうほどのこの発明がなかったら、あり得ないんですから。
どこに
価値を置くかというところで、やっぱり
日本は集団主義なんですよね。
個人を余り高くは評価しない。それは、
一つは妬みもあるんですよ、と私は思うんだ。最高裁長官だって、定年退職したって一億も退職金入らぬでしょう。まあこれは余談ですけれどもね。それをたったこんな、こんなって失礼なんだけど、特許を
一つ発明して二百億とはとんでもないという、こういう感覚なんですよね、
日本の
社会というのは。
だから、
個人が
主張する、また
個人が評価されるということが非常に難しい国であるということを我々は知って
国際競争の中でやる。だから、中村さんは、司法も腐っていると言っていましたけど、会社も、
日本の産業界、
個人を認めない
社会では研究なんかやっていられないということで行っちゃったんですけどね。頭脳流出と言われています。それから帰ってもきません、もちろん。だから、単純にこれが十年後にノーベル賞をもらってめでたいことだと喜んでいられないんですよね。
こういう問題があるということを我々は考えなきゃいけないし、その後特許法も改正されて、ややそれを制限するような、職務発明に対する対価の事前に取決めをした場合はそれに従うというような内容の、制限する法律改正がなされました。さらに、その後、今も話題になっているんですけど、更にそれを、職務発明そのものが
個人の権利じゃなくて会社のものにしてしまったらどうかという
議論すら一部出かかっていると聞いています。そうなると、これイノベーション大国、
日本はアベノミクスの中で言っています、イノベーションに非常に重要にと。アベノミクスの成否も懸かっている。そういう発想からすると、やはり私は非常に危惧するんですよね。二百億、三百億が正当かどうかは別にして、極端に言えば二百億や三百億、それだけの
価値があれば会社は払えばいいじゃないかと私なんかは思うんですけど、だけど、そういうのが司法も含めて抑え込まれてしまったという現実、一側面はあるんですよね。
だから、やっぱり
世界で一番起業しやすい
社会とか一番イノベーションの起こりやすい
社会をつくっていくんだと、もうスローガンとしてはいいことがいっぱい掲げられているんですけれども、やはりこういう
個人の華々しい貢献、これはもう
スポーツにしたって、どの分野にしたってみんな一緒ですけれども、だから、やっぱりこれを素直に褒めたたえるというか、そういう気質というか風土をやっぱりつくっていく、これはやっぱり小さいときから、協調だけではできない。
橋本先生おられますけど、立派なオリンピックアスリートですけど、やっぱり優れた人に対しては評価していくと、こういう風土をつくっていくことが必要じゃないかと思うんです。
例えば、オリンピックで金メダル取った人が、金メダルでも銀メダルでもいいんですけど、選手がインタビューで言いますよね。これ、私、国際
比較をちょっとしてみたのよ、大ざっぱに。
日本の選手の場合は必ず
自分がやったとは言わないのね。コーチのおかげ、皆さんのおかげです、家族の励ましのおかげで金メダルが取れましたと言うのよね。おまえは努力していないのかと。でも、それは言わない、一言も言わない、ほとんどの人は言わないですよね。みんな、おかげで、おかげで、おかげさまで取れましたと。まあ、頭が非常に低姿勢なの。外国の選手は、私はこうやってやりましたとか、
自分の
能力を誇示するような選手が多い。これもやっぱり
自己主張をすることに対する後ろめたさというか、それをプレッシャーを掛ける風土があるんですね。
これは学問書でも出ていますよ。
社会科学者がこういう国際
比較した、オリンピック選手のコメントをずっと
比較したら、
日本はもうほとんどいない、私の力でこうやりましたとか、私がこうであったから勝ちましたと言うのはまずいない。そういう
教育になっているんですよ、だから。
自分がやった、
自分の力でやったと言うと、生意気なやつだなとか、おまえだけの力じゃないなと。これはこの青色発光の判決と全く同じなんですよ。
ここら辺について、私は、やっぱりジャパン・スタンダードも非常に、
大臣おっしゃったように、
他人を思いやる、バランスの取れた、いいんですけど、ややもう少し
自己を
主張するというふうにしないと、強い
個人というか、それと、それをおおらかにたたえるという風土をつくっていかないと、やっぱり外国人も
日本人と一緒にやっていくのに対して非常に閉鎖性を感じちゃう面があるんですよね。そこら辺について、もう時間がなくなってまいりましたので、一言感想をいただきたいと思うんですけど。