○有田
芳生君 あの混乱の中、お父さんもお母さんもおじいさんもおばあさんも赤ちゃん
たちも、ずっと逃げてきた。さっき取り上げました藤原ていさんは当時、五歳、三歳、そして生まれて一か月の女の子を抱えて、お母さん一人で逃げてこられました。そういう悲惨な経験、体験を
日本人はする中で、今
お話がありましたように、いまだ二万体以上の
日本人遺骨が
北朝鮮地域に眠っております。
その中でも一番多くの犠牲者が出たのが、平壌の郊外、大体車で二十分ぐらいのところにある龍山墓地というところ、今
皆様方にお示ししておりますけれども、資料の中に、平壌駅から、赤く塗ってありますけれども、龍山墓地というものがあります。これ、後に移転をしましたけれども、そこに
日本人が二千四百二十一体少なくとも眠っております。当時、悲惨な
状況の下で、寒さの中、栄養失調そして発疹チフスが発生する中で多くの人
たちが亡くなっていきました。
日本人というのは私は優れたものだなと
思いますのは、当時、平壌に暮らしていた、その龍山地域にいた人
たちが、当時ですよ、こういうものを作っているんですよ。(資料提示)これ全部、龍山墓地に埋められた
方々の
日本人一人一人のお名前、二千四百二十一人、これが昭和二十一年の四月四日現在なんですよ。こういうものを当時、
本当にあの飢えの中で
日本人が作られた、これが戦後
日本に持ち帰られているんですよ。
さらに、このお一人お一人の遺体がどこに埋められていたのかと、そのことが分かるように、やはり当時のこういう地図ができているんですよね。一、二とか、イ、ロ、ハ、ニというような数字がありまして、こっちの遺体の、お亡くなりになった方の名簿にやっぱりイとかロとかハとかあるんですよ。だから、この地図とこの名簿を照合すればお墓のどこに埋められているかということが分かるように二千四百二十一人分示された、それが戦後
日本に戻ってきた。
ただ、今
お話ししましたように、昭和二十一年の四月四日現在ですから、それ以降もお亡くなりになる方がいらっしゃって、恐らく三千人以上の方がこの龍山墓地、一番多くの犠牲者が出たそこに
日本人として眠っているという現実があります。
そして、先ほども申しましたけれども、初めあった龍山墓地が
北朝鮮側の開発によって、発電所のようなものを造るために移動したんですよね。近くの小高い山、それも資料をお示ししましたように、この
写真に出ておりますけれども、ここに
日本人の
遺骨は移動したんです。大体、小高いこんもりしたところに五体から六体、
日本人の
遺骨が今でも埋まっているというふうに
関係者から聞きました。
この墓地について、やはり墓参をしたい、もう八十、九十になっている
方々がいらっしゃいますから、例えば関西地方の九十を超えたある女性なんかは、この墓地に二歳の娘さんが亡くなったので埋葬したと、だけど戦後ずっと墓参りに行くことができなかった。だけど、墓参が最近ちょくちょくありますから、行った方に石でもいいから持ってきてくださいということで、石を持ち帰って、私は行くことができないけれども、行きたいけれども行くことができないので、自分が亡くなったときにはこの娘代わりの小石をひつぎの中に入れてくれという話があるんです。
そのような
思いをしている方がいっぱいいらっしゃるんですよ。だから、この事業もやはり戦後残された
課題として前に進めていかなければならないというふうに思っております。
そこで、外務省にお聞きをしたいんですけれども、最近、一部報道などで、水面下の
情報として、
北朝鮮がこの
遺骨問題において一体につき二万ドルを要求しているという話がテレビでも、あるいは週刊誌、新聞などでも書かれましたけれども、この間の
日朝交渉においてそのような事実はあったんでしょうか。