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参考人(
高橋基樹君) このような機会を与えていただきまして、ありがとうございます。
横長の資料をお配りしております。適宜、御参照いただきながら聞いていただければと思います。
私は、
ODAの六十年を振り返って、残された二十一
世紀に我々が何を受け継いでいくべきかという
観点からお話をさせていただきたいと思います。
私の
観点は、
援助の本旨というのはあくまで
相手国の
開発に対する
支援である。
日本の
国益というのもこれを通じて実現されるべきでありますが、それはあくまでも情けは人のためならず、
国益というのは副次的に我々に返ってくるものだというふうに捉えて
評価をするべきだというふうに
考えます。また、
援助の
対象国というのは極めて文化の異なる様々な国から成っております。そういう国々との
対話の
プロセス、そして
対話に基づく
行動の
プロセスが
援助であったというふうに
考えます。
援助の質は
相手国の
人々の利益にかなっているかという
観点から測られるべきであり、そういう
観点から研究をする者として
ODAの回顧というのをさせていただければと思います。時期区分については
田中理事長がおっしゃったものと余り変わりませんので、それに従ってお話をさせていただきたいと思います。
一九五四年、
援助が創始をされました。研究者の中では、戦争賠償というものが元々起源であるので、
日本の
援助は非常に受け身的に始まったということが言われております。これはいまだに非常に影響力のある
考え方でございますけれども、最近では、五〇年代の
日本の指導者の中には、植民地を失った後、対等に
途上国との
関係を
構築し直して
途上国の
開発を真剣に希求しようとする
考えがあったということが少しずつ分かってまいりました。ただ、始まってからしばらくの
援助というのは、自国の
経済的利益、特に輸出促進であるとか資源確保が際立つ
援助だったというふうに言っても仕方がなかったかと思います。
その
援助が大きな転換を遂げたのは一九七〇年代であったろうと思います。詳しい背景については省略をさせていただきますが、このときに
日本は先進
援助国として真のスタートを切ったというふうに言えると思います。それを象徴するのが福田ドクトリン。ここでは、特に
日本が大国化する中で疑念や反感がございました。それを払拭するために平和主義を掲げ、相互
信頼を求め、まさに対等な
協力というのを大きく掲げて
途上国との
対話を開始したというふうに
考えます。更に重要なことは、そのときに
日本の
援助は二つの柱を立てる、
相手国の工業化を
支援する、産業の
発展を
支援するということと、
貧困の
削減を真摯に追求していくことでございました。今までに続く、相互に依存する
国際社会への
貢献、そして人道主義というものがこのときに大きく
理念として掲げられたというふうに言っていいと思います。
八〇年代、東
アジアの
時代が始まりました。
日本は、工業化を成功させた
アジア諸国に
円借款や高度な
技術移転を供与することによって伴走をしてまいりました。同時に、
注目すべきことは、ベーシック・ヒューマン・ニーズがこの多くの国で充足をされていったということでございます。
九〇年代に
世界最大のドナーになった
日本は、その責任を明らかにするべく、
ODA大綱というものを制定をいたしました。新しく掲げられたのは、
自助努力の
支援、そして
環境保全を目的とするということであります。さらに、平和主義というのを前面に打ち出して、民主的価値に沿った
支援をしていくということを高くうたいました。これに沿って
アフリカ開発会議が始まったということを我々は忘れてはならないと思います。
ただ、全てのことが順風満帆であったわけではございません。九〇年代の後半になると、残念ながら
ODA予算の
削減ということが始まりました。更に難しい問題は、重債務
貧困国が債務を返せないという
状況に陥りました。条件の良い公的債務を返せない。ここから破綻
国家あるいは
脆弱国家と言われる問題が顕在化をしてまいりました。
貧困というのは、以前からそうでありましたが、座視できないレベルで
世界中に広がっている。特に
アフリカ等では広がり、さらに深刻化をしているという
状況がございました。他方で、紛争等の人道的危機が深まってまいりました。
御承知のとおり、二十一
世紀になってから
アフリカの
成長は再開をしておりますが、こういった
国家の脆弱さ、あるいは
貧困の深刻さというのは存続をしておりますし、
成長がもたらしているものの
一つは格差の深刻化であります。重要なことは、そういった中で国際合意としての
ミレニアム開発目標、これは特に
教育や
保健医療に集中をしておりますけれども、こういったものを地道に
達成をしていくということが必要になりました。
日本は、こういう新しい内外の
援助を取り巻く
課題に直面をして、新しい
理念とアプローチを打ち立てる必要に迫られました。それが二十一
世紀の初めでございます。そういうことの模索の結果として、
人間の
安全保障の
理念というものが定立されたというふうに私は理解をしております。現行
ODAに高くうたわれております。これは、
日本の平和主義、そして
世界的な
理念である
貧困削減、そして
途上国、人類社会の喫緊の要請に応える、
世界に誇るべき
理念だろうというふうに私は思います。
また、これまでの
経験を通じて、
日本が目指すべき
援助モデルというものも浮き彫りになっていったというふうに思います。それは、息の長い
対話型の
支援、相手方の
開発課題を深く包括的に理解をし、同時に、
相手国の意思、主体性を尊重する。特に、相手方が作った
開発戦略や
自助努力というものを尊重してそれを
支援していくということでございます。もう
一つ付け加えるべきは、他の主体、特にほかの
援助国であるとか国際機関、さらに
我が国内外の、あるいは
相手国の民間組織と幅広く、そして透明で公正な形で重層的に
連携をしていくということでございます。
二十一
世紀も十数年がたちましたが、ここまでの
経験の中で培われた、
ODAの六十年の
経験の中で培われた
我が国の資産というものがあると思います。これをほかのドナーとも比較しながら申し上げたいと思います。
一つは、
地域的な広範さであります。
アジアを主体としてまいりましたけれども、
アフリカやラテンアメリカにも様々な
活動を展開しています。さらに、
日本は、
援助分野、手法の多様さという資産を持っています。特に、単純化しますと、産業
発展と
人間開発、
貧困削減といった
相手国の
状況と
課題に対応して供与のできるメニューを多く持っているということでございます。さらに、問題がいろいろありますけれども、
日本の
援助は多くの案件が非常に長期的視野で行われている。その中に
対話型のアプローチというのが含まれているということが非常に重要なことであろうと思います。
この六十年の
歴史の中で培われた最も重要な資産というのは、
国際協力の
人材であろうと思います。
思いますに、私も
援助に付き合いましてから二十数年以上になりますが、昔の方には失礼かもしれませんけれども、最近の
人材には非常に優れた
方々がおられます。昔もおられたかもしれませんが、ますます優れた
人材が増えているように思います。それは
ODAに限らず、
NGOの職員の方にもとてもすばらしい能力と知見を持った方がおられる。そういった高い能力を持った
人材が、現場で一生懸命汗を流して誠意を見せ、献身をしてきたということによって勝ち取られた尊敬や
信頼というのは、敗戦後あるいは一九七〇年代に先人たちが渇望してきたものが今実現をされているのだろうというふうに思います。
さて、私は、スマートな
援助大国というものを目指すべきだということをかねがね申し上げてきました。スマートというのは、痛みを感じるという
意味は元々の語源にあるようですけれども、大変重要なことは、単に
援助を通じて相手の国と利益や成功を分け合うということだけではなくて、相手の苦難あるいは
課題を共有するということが重要であり、不可欠であろうと思います。
なぜ
人間の
安全保障の
理念が非常に優れているかというと、この
理念は、
人々の暮らしに困難をもたらす要因、例えば欠乏であるとか恐怖というものを正面から把握して、それに知的に対処することを我々に求めているからであります。
防災がその典型であろうと思います。
こうしたことを踏まえたときに、今
日本が
援助国として直面している大きな
課題というのは、やはり
アジアの中に立っている
援助先進国としてリーダーシップを発揮していくことだろうと思います。今、
成長の波は東
アジアから西に及んで環インド洋圏に及ぼうとしています。そこに眠る大きな潜在性は、
貧困とかあるいは
安全保障上の非常に深刻な問題をクリアすることなしには生かすことはできないと思います。そこに
日本のリーダーシップが大きく期待されると私は思っています。
さらに、苦難というと
日本国民の多くはそっぽを向いてしまうのではないかというふうに言われるかもしれません。しかし、私はそういうふうに
考えるのは早計だと思います。平成二十三年の
世論調査によれば、
東日本大震災でいただいた
支援、そのお返しのために
援助を続けるべきだというふうに、答えた方の六割の方が答えておられます。
さて、今直面する具体的な
課題は、やはり
援助予算の再
拡大であろうというふうに思います。予算
削減は、特に
貧困国向けの
援助の運営を硬直化させています。なぜかといえば、
技術協力や
無償資金協力に大きな制約が掛かっているからであります。また、
日本は、国際公約であるGNIの〇・七%供与という公約を、言ってしまえば一顧だにしなかったという問題がございます。予算抑制というのは、そういった
意味でも非常に大きな問題であろうと思います。
実務の
方々から
援助スキーム間の
連携というお話がございましたが、まだまだ足りないというふうに思います。
一つのプロジェクトにたくさんの
スキームを取り入れて、あるいは内外の
NGOの力を組み入れて多くの
活動を多様に行っていくべきだろうというふうに思います。
さらに、全
世界にとって、あるいは
日本にとって未
解決の
課題があると思います。それは、産業
発展と
貧困削減という二本の柱があるわけです。これは普通に
考えれば本来相乗作用を発揮すべきものですが、なかなかこの両者をつなぐアプローチというのが見付かりません。
一つ大きな鍵は、この両者をつなぐ本来の責任は
対象国の政府にございます。しかし、多くの我々がこれから相手にしていくべき国々は若い脆弱国であり、若い国の政府というのは、
人々の意思に応え得ず、あるいは
代表していないおそれがある。特にそういった国では、大規模な
開発を行ったときに住民の権利が十分に保護されない可能性がある。我々は、
援助側としてそこにきめ細やかな配慮をしていく必要がありますし、こういったことをつなぐ政府の能力の
強化を助けていく必要があります。まさに、
国づくりを
支援する必要があるのだろうと思います。現在のように、格差が
拡大する、この
状況の中ではこういった
支援はますます必要になっているというふうに
考えます。
先ほど来お話がございましたように、
国際情勢というのは構造転換をしています。
日本の国の形も、申し上げるまでもなく、大きく変わろうとしている。その中で、
日本のためにも
途上国のリソース、活力を導入することは不可避でありますし、そのために
ODAが使われるということについて異論はございません。しかし、
民間経済を振興するというのは
ODAを超えた様々な難しい
技術、スキル、知識が必要で、私は、
ODA以外の政策手段の拡充をより一層図っていくべきで、現在
ODAにあるいはその組織に掛かっている過重な負担というのは軽減をし、
ODAの局面では公共政策
支援により集中をしていくべきだろうというふうに思います。
もう
一つ、
新興国との様々な形の
関係が生まれています。その中には、
援助競争が今生まれているのかもしれません。中国は、
日本に対して、
援助の質がどのレベルでどっちが高いかというチャレンジをしてきているようにも見えます。こういったものを建設的な競争にしていき、さらには、できればこういった前向きな側面ではお互いの比較優位を生かして協調をしていくということが将来求められているのではないかというふうに思います。
最後に、将来、五十年後を見ますと、
世界の人口の半分以上は大きな
意味での環インド洋圏に集中をいたします。四分の一は
アフリカに住みます。ここに対する戦略、そして
支援の方向性を持たない先進国というのは、恐らく先進国の名に値しないということになると思います。そうした大きな目を持って
日本のリーダーシップを
考えていただき、
ODAの機能、
役割を
考えていく必要があると私は
考えております。
機会を与えていただきまして、大変ありがとうございました。