○
小西洋之君 民主党・新緑風会の
小西洋之でございます。
本日は、
我が国の司法制度、また、それは最高裁そして司法行政をつかさどっていらっしゃる
法務省でございますけれども、それぞれについて、
我が国の法の支配の在り方、それを決める司法権の在り方について
質疑をさせていただきます。
我が国の司法というのは、国民審査によって信任を受けている十五名の最高裁の判事によって担われているところでございます。そして、その司法権の作用というのは、一点、全てその十五名の判事が出す判決文等によって担われているところでございます。
私が本日この
委員会で御議論をお願いさせていただきますのは、私自身、実は戦後司法最大の
改革であると思っております、戦後司法に名立たる
改革といえば、国民が司法制度のプロセスに参画をするようになった裁判員制度といったものが挙げられると思いますけれども、私がこれから御議論をお願いさせていただく論点につきましては、その司法制度が本来の憲法が定める司法権の趣旨、そうしたものをちゃんと果たしているのかどうかというその根源を問うものでございます。
これにつきまして、実は私、最高裁と二年余りにわたりまして議論をさせていただいておりました。実は、最高裁判事を退官された元最高裁判事の方に複数名、私の
考えが正しいのかどうかについてヒアリングに伺わせていただきました。基本的には皆様、私の
考え、全面的に賛成してくださった方、また実務の問題はあるにしてもその趣旨については理解をくださった方ばかりでございました。また、我が参議院の誇る議会法制局の皆さんにもしっかりとサポートをいただいておりました。
しかし、実は、最高裁の今の事務総長、大谷さんとおっしゃる事務総長なんですけれども、その方がどうしても私の主張というものを、見解というものをお認めにならないと、司法権の独立に抵触することであるというふうにおっしゃり、私の今から申し上げる話は、実は最高裁の判決文の書き方がある
意味問題を持っているのではないかという論点なんですけれども、その肝腎の判決文を出される最高裁判事に私のこの問題の指摘というものを全く伝える気がないと、二年前にも伝えないし、今回もどうしても絶対伝えないと、自分のところで止めてしまうというようなことをどうしてもおっしゃいますので、そのままでは司法権が救う国民の命、あるいは自由や人権といったものが守れない、すなわち司法権の究極の趣旨が
達成できないという私は判断に至りまして、本来はこうしたある
意味司法権の問題をこういう平場の場で、また立法権の場で議論するということは私は不本意なんですけれども、そのことは再三最高裁の方にも申し上げていたんですけれども、今申し上げました司法権が国民の命、人権等に持つ重みに鑑みまして議論をさせていただきます。
まず、幾つか資料をお配りさせていただいておりますけれども、法の支配の全う等のための
裁判所法の改正についてという紙を、これをベースに御
説明をさせていただきます。
実は、今から申し上げます最高裁の判決文の書き方を変えていただくべきではないかという提案なんですけれども、憲法によって最高裁が作れることになっております最高
裁判所規則でも規律できますし、また、議会法制局とともに議論させていただいた結論では、
裁判所法、我々
国会の、立法府の行う
裁判所法の改正でもできるという私なりの結論に達しているところでございます。
ちょっと、今既に五分余りしゃべらせていただいておりますけれども、これから十分ほど、ちょっと少し長めの御
説明をさせていただきます。論点は実は本当にシンプルでございます。
今、
我が国の司法の頂点に立つ最高裁でございますけれども、十五人の裁判官から成る大法廷、また五人の裁判官から成る小法廷によって成り立っております。それぞれの
案件について評議というもの、つまり真剣なる議論というものを行いまして、ただ、その結果については
裁判所法の規定によって多数決で、それぞれ大法廷、小法廷、すなわち八名以上あるいは三名以上の多数決によって決するというふうにされております。
そして、多数決によっていわゆる勝ち組となったその判決を多数意見と言うのでございますけれども、多数意見に反して敗れ去ってしまった意見、これは一般に少数意見と言われております。その少数意見の中でも、この一番上に書かせていただいておりますけれども、その多数意見と
考え方、すなわち理由あるいはその結論からもう全て、全て全く違う、全く違うその憲法の解釈の在り方、あるいは事実の当てはめ、そしてそこから導き出される結論、
考え方、理由あるいは結論、結論も両方とも違う、真っ向から対立するものを反対意見というふうに言っております。
ここに、一ページ目に書かせていただいておることでございますけれども、反対意見は、これは当たり前のことなんですけれども、判決文の中にそれを記すときに、もう論理を振るって、
自分たちのその憲法解釈、あるいは
自分たちのその事実の認定、当てはめといったものが正しい、よってこの結論が正しくて、多数意見、つまり勝ち組となった判決などは間違っているということを論理を尽くして論駁をしております。しかし、それに対して実は多数意見は、その反対意見についてほとんど反論あるいはその言及を行っていない例がこれはほとんどでございます。
谷垣
大臣は法律の専門家で、法曹の専門家でございますのでよく御存じだと思いますけれども、実は私もかつてロースクールを受けて合格したことがあったんですけれども、そのときに、勉強しているときに、ちょっとこれについて違和感を持ちました。そして、
国会議員になって、二年前にこれが憲法論点ではないかということを気付いて、先ほど申し上げたような研究をさせていただいていたところでございます。
つまり、簡単に申し上げれば、勝ち組となった多数意見と、いや、それとは全く違う結論にならなければいけない、反対意見というものが判決文上で擦れ違っているという問題でございます。
じゃ、この擦れ違いが一体どういう問題を生むのかということでございますけれども、今日、時間が限られておりますので、皆様、全てのこれ裁判の事案に関わる問題なんですけれども、あえて非常に重たい
案件をお持ちさせていただきました。この横紙の裁判例という紙でございますけれども、これは犯罪事件を起こして死刑が最高裁で争われたケースでございます。二つのケースを御用意させていただいております。
一つ目のこの裁判例一というものは、これ実は、その下の方に事案の名前が書いてありますので、これは社会的にも大きな問題意識を持たれた殺人事件でございますけれども、これは結論は最高裁は死刑でございました。実は、最高裁で死刑判決を出すときは、今まで慣例というふうに言われておりますけれども、最高裁に今回聞きましたけれども、最高裁も、私の知る限り、戦後、実は最高裁の死刑判決で反対意見が付いた、つまり死刑ではなくて高裁に差し戻すべきだという反対意見が付いたのはこれ一件だけでございます。
後で少し御
説明申し上げさせていただきますけれども、この多数意見は、これ一ページおめくりいただきますと、右側の方でございますけれども、被告人が犯行時少年であった、少年であったんだけれども、このことは、残念ながら、死刑を回避するために酌むべき事情というふうには、法的なものとはならないという判断でございました。
反対意見、つまりこの少年は、当時少年は、この被告を死刑にするべきでないという反対意見が、そこから次のページをめくっていただきまして、左側のこのぐるぐる巻きのところでございます。実は、最高裁の判決文というのはとても読みにくいんですけれども、ぐるぐる巻きの、反対意見というふうに書かせていただいているところでございますけれども、この反対意見の趣旨を私なりに簡潔に申し上げさせていただければ、確かにこの被告人は、その犯罪、殺人事件を起こした当時は十八歳と僅かではあったわけでございますけれども、実はこの少年は、世間一般でいうところの十八歳と同じレベルの精神的な成熟に達していなかったのではないか、すなわち死刑の選択を回避するに足りる特別の酌量をする事情というものがこの少年にはあって、それに即してこの少年が行ったその犯罪の経緯、内容等、犯罪の計画性等々を分析してみたならば、もう一回審理してみたならば、この少年に対する刑法の当てはめの、刑法基準の量刑の当てはめが変わる可能性があったのではないかということでございます。
つまり、今申し上げましたように、勝ち組となった多数意見は、たった一言、被告人が犯行時少年であったということを言っているだけでございます。それが酌むべきものにはならないと。しかし、反対意見というのは、それは問題は、少年であったか、十八歳であったかということではなくて、通常の十八歳に足りるような精神的な成熟度があったのかどうか、そこから説き起こしているわけでございます。つまり、全然観点が擦れ違っているわけでございます。
そして、先ほど言いましたように、多数意見というのはたった一言、少年であったことというふうにしか書いていませんから、この反対意見がこの後何ページにもわたってるる自らの主張をしていることについては何も答えていないわけでございます。
もう一つの裁判例二というのは、これは今申し上げたのと逆のケースでございまして、ある殺人事件についてこれは三対二で無期懲役になったものでございます。これについて二つの反対意見が付いておりまして、無期懲役に対する反対意見ですので、つまり死刑に処するべきだという反対意見でございます。
これ、少しページをおめくりいただきまして、先に一番
最後のページを、裏返していただければ見れるんですけれども、御覧いただけますでしょうか。一番
最後の裏返しでございます、十一ページでございますけれども、反対意見を書いた裁判官、二重線のところでございますけれども、私が裁判官として関与した死刑事件の刑の量定との比較において著しく公平、均衡を失するものである。つまり、この方は職業裁判官というふうに私承知しておりますけれども、今まで自分が関わってきた死刑、自分が出してきた死刑判決の量刑基準に照らしても、無期懲役とする
考え方はどう
考えてもおかしいということを言っているわけでございます。この反対意見は二人付いているんですけれども、その前の方もそれと同じようなことを言っております。
時間があれですので詳しくは御
説明させてはいただけませんけれども、これは無期懲役で相当だというその理由について、それはそれぞれ幾つか無期懲役にすべきだという理由を、勝ち組の多数意見を挙げているんです、多数意見、勝ち組というのはこういうケース、穏当ではありませんけれども、挙げているんですけれども、それぞれが法的な理由にならないということを反対意見は論理を尽くして論駁をしているわけでございます。ただ、結果、その多数意見はこの反対意見の主張について具体的な論理的な反論あるいは言及を何もしていないというケースでございます。
つまり、申し上げたいこと、多数意見と反対意見の擦れ違いというのは、一つは、裁判当事者にとってこういう判決を受けて納得ができるかどうか。あるいは、先ほどの無期懲役になったケースですと、その残された遺族、そして何よりも無残に殺されてしまった被害者が、この殺人事件を起こした犯人はどう
考えても今までの裁判の運用、自分がやってきた運用に照らしてどう
考えても死刑だと論理を尽くして言っていて、それに対して何の具体的な反論もないのに、結果、無期懲役になっている。そうしたことで、その亡くなった被害者や遺族の方は果たして御納得がいただけるのかということでございます。
私、今日の
質疑で個別の事案の当否について一切申し上げるつもりはございません。この事案が死刑であるべきか無期懲役であるべきか、そういうことを私は一切申し上げるつもりはありません。私がこの機会で論じさせていただきたいのは、司法権の独立には抵触しない判決文の書き方というシステム論そのものでございます。
では、ちょっと先ほどの縦の紙にお戻りいただきまして、これの二ページ目をめくっていただきたいと思うんですけれども、ここから私なりに、さっき申し上げました多数意見と反対意見の擦れ違いについて九つ余りの憲法論点を含めた重要な深刻な問題があるという理解に今達しております。
真ん中下の一つ目でございますけれども、一つは司法権のもう存在意義そのもの、司法権の存在意義。すなわち、我々
国会やあるいは内閣といったそういう国家権力から国民のかけがえのない権利、自由を守る
最後のとりで、この
最後のとりでを果たす機能というものがこうした擦れ違い判決の上では十分に果たせないのではないかということでございます。
これはどういうことかといいますと、
我が国の最高裁の判事というのは全て国民審査によって信任を得ているところでございます。つまり、我々国民は、主権者は、各判事に対して、国民のかけがえのない自由や権利を国家権力あるいは行政権力、国家権力といったものから守ってほしいと、そういう守護神として信託をしているところでございます。
ところが、ある裁判のケースがあった際に、これが国民に対する人権侵害の裁判だとします。結果、国民が負けたとします。つまり、小法廷で四人の多数派は、いや、これは人権侵害には当たらないというふうに言ったとします。しかし、たった一人のその反対意見を付けた裁判官が、いや、これは憲法違反だと、この被告の人の思想、良心の自由といったものを侵害するという反対意見を付けていたとします。ところが、先ほど申し上げましたように、多数意見と反対意見というのは往々にして擦れ違っておりますので、それが擦れ違っている場合には、判決文を幾ら読んでも、この反対意見を付けた最高裁判事の主張、この国民の人権、侵害されている人権というのは憲法に照らして守られなければいけない、その守護神たる意見というものが、実は、結果的には、その判決文を幾ら読んでもなぜその守護神の意見が葬り去られたか理解できないわけでございます。
つまり、こうした一人一人の判事が国民審査制によって担っている国民の究極の自由と権利を守る守護神としての機能が、こういう擦れ違いの判決では守ることができない、つまり司法権としての本来趣旨を果たすことはできないというのが私の第一の問題意識でございます。
次のページをおめくりいただけますでしょうか。二つ目でございますけれども、適正な裁判を受ける権利の十全なる保障と書かせていただいております。
先ほど申し上げました、元最高裁判事の
方々をヒアリングで伺わせていただく中で、これはまたびっくりするようなことではあるんですけれども、判決を出すに当たって評議という議論を裁判官はやることになっているんですけれども、非常に難しいケースでは、元々もう反対意見というのが十分議論できないような、そういうことも実はあるというようなことをおっしゃっている方もおりました。すなわち、かけがえのない国民の自由や権利が懸かった司法権の最高裁の裁判の議論の場で、評議の場で、それが十分できていないというような話もあるところでございます。
であるならば、その反対意見がなぜ間違っているのか、多数意見に判決文の中でしっかりとその論理を展開させる、論駁をさせる。そのことによって、しっかりとした評議、判決に至るまでの評議の過程を
確保するとともに、その反対意見が守ろうとした国民の自由や権利というものを最大限実質的に守るようなプロセスというものが担保できるのではないかということでございます。
三つ目でございますけれども、公正かつ公平な裁判を受ける権利の十全なる保障という、ちょっと難しい、恐縮でございますけれども、申し上げさせていただきました。
これは、端的に申し上げれば、先ほど申し上げた殺人事件の判決のようなケースでございます。つまり、判決文を受け取った当事者、原告であれ被告であれ、多数意見と反対意見が分かれているときに、反対意見がなぜ多数意見で採用されなかったか、そのことは、多数意見が反対意見について何にも論理を展開していなければ、判決文を受け取った原告であれ被告であれ納得が私はできないと思うわけでございます。そういう国民が納得ができないような裁判というのは公正かつ公平な裁判の前提を欠くわけでございますので、ここはやはり問題であるということでございます。
さらに、その二つ目でございますけれども、特に刑事事件についての裁判について重要だと思うんですけれども、刑法罰というのはもう究極の、ここに書いておりますけれども、人の生命すら奪うことのある強大な国権の行使というふうに最高裁自ら言っているわけでございますけれども、それをある人に出すのに、両方とも反対意見が付いていた二つのケースがあった場合に、一つの判決についてはその被告を守ろうとする、被告の刑を軽いものにしようとする反対意見が付いていた場合に、あるケースについては多数意見がそれを無視している、あるケースについては多数意見が、なぜその被告の刑を減じようという反対意見が間違っているのか、正しくないのかということについて一生懸命論じている、こういう二つのアンバランスな判決がそれぞれ国民に対して出るということでございます、現行の運用では。そうしたものは甚だ国民において公平な裁判とは言い難いのではないかということでございます。
次のページでございますけれども、冤罪の危険性でございます。
今回、袴田事件の再審が実現等いたしましたけれども、袴田事件の一審で無罪の心証を得ていた当時の裁判官が、評議の秘密という
裁判所法の規定をあえて破って、人間としての良心に懸けて袴田さんは無罪だと私は心証を持っていたというような言論をしていたところでございます。それが最高裁の法廷であったというふうに想像いただけたらと思います。この人は無罪であるというような反対意見が付いているのに、それについて真摯な論理的な多数意見からの論駁がなければ、私は冤罪の危険というものは防げない、冤罪の危険というものは生じるものだと思います。
五つ目でございますけれども、これは実はとても分かりやすい例でございます。
先ほど申し上げました、全ての最高裁判事は国民審査によって信任を得ているところでございます。ところが、国民が最高裁の判事を審査する唯一の道具というのは判決文しかございません。国民が判決文を読むのかということはあろうかと思いますけれども、私は、この国民審査制度というのは、司法権を国民主権の下に置くという極めて重要な私は憲法の仕組みであるというふうに
考えております。
そうすると、国民が多数意見と反対意見でそれぞれ擦れ違っている判決文を見たときに、ある国民の人は、いや、自分はどうしてもこの反対意見の方が正しいと思うんだけれども、それがなぜ採用されなかったのか多数意見を読んでもさっぱり分からない。これでは、多数意見を書いている裁判官の方が自分は適格性があると思うのか、あるいは反対意見を書いている裁判官の方が適格性があると思うのか、つまり、国民審査を行う国民が、その裁判官の資質について、適格性について主権者としての審査を適切に行うことができないわけでございます。こうした問題からも、擦れ違い判決というのはなくしていく必要があろうかと思います。
六つ目の三権分立及び違憲立法審査権でございますけれども、これは実は我々立法府、同僚の議員の皆様は深く賛同していただけると思うんですけれども、最高裁は、違憲立法審査権によって我々が立法した法律を違憲、無効、つまり葬り去ることができます。ところが、過去のこの擦れ違いの判決の例を見ておりますと、最高裁の判決によって違憲、無効となったその裁判において、実は
国会が作った法律は合憲だと、
国会が作った法律は残しておいてもいいんだという反対意見が付いているものがございます。ところが、判決を見てみると、
国会が作った法律はこのケースでも合憲だと言っている反対意見に対して、多数意見、つまり違憲である、無効であると言っている多数意見は、何ら反対意見の合憲性というその主張について論理を展開していないわけでございます。
つまり、違憲立法審査権を振るって、我々国民の代表である立法府の法律を違憲、無効にするに当たっても、やはり最高裁は
国会に対する
説明責任というものを全うしなければいけないと思います。その判決において
国会が作った法律が合憲であるという反対意見が付いてあるんであれば、それを論理的にしっかりと論駁するような多数意見がなければ
国会に対する
説明責任が全うされないというふうに
考える次第でございます。これは行政処分についても同じことが言えるわけでございます。
七つ目、次のページでございますけれども、裁判員制度の適正かつ円滑な運用
確保に係る問題という点でございます。
これは、先ほどの例を申し上げました。殺人事件において、無期懲役にするか死刑にするか、プロの裁判官ですら反対意見、多数意見によって真っ二つに分かれるわけでございます。それを国民に裁判員制度によってその審判をお願いするのであれば、どういう場合が死刑になるのか、あるいは無期懲役なのか、その量刑の基準をきっちりと、反対意見について多数意見が論駁していくことにより、最高裁は示す責務があるというふうに
考えます。
これは、先ほどの裁判例二の後ろから二ページの十ページでこの反対意見を書いている裁判官がまさに言っていることでございます。これは裁判員制度が始まる前のケースだったんですけれども、裁判員制度の実施を目前にして死刑と無期懲役の量刑基準を可能な限り明確にする必要がある、これも最高裁の使命であると。しかし、このときの多数意見は、この反対意見について何ら実質的な論駁を行わずに判決を下しているところでございます。
次、八つ目でございますけれども、今申し上げたこと、つまり国民から見て
自分たちの自由や権利を守るその守護神がちゃんと役割を果たしていると実感できるような判決、あるいは国民から見てちゃんと理解が、納得ができるような判決、あるいは裁判員制度に参画する国民がしっかりとした基準を持てるような判決、あるいは、我々立法府あるいは行政といったものが司法からちゃんと
説明責任を全うしてもらえるような判決、そうした司法権というものは、国民その他の社会の構成員に対して
説明責任を果たす、つまり、そのことによって国民の理解、信頼を
確保する、これがこの擦れ違い判決ではできていないという問題でございます。
最後、ようやくたどり着きましたけれども、九つ目、
我が国の法の発展に係る問題ということでございます。つまり、多数意見と反対意見があった場合に、今のように擦れ違いではなくて、反対意見がなぜ間違っているか多数意見が論議を尽くして論駁をしていれば、そこから様々な豊かな法律の議論が生まれるわけでございます。下級審の判決も生まれるでしょう。あるいは弁護士あるいは学者の議論、あるいは我々立法府の議論も生まれるかと思います。
皆様も御案内のとおり、過去違憲や合憲と言われた判決が、後に判例変更によって、その当時付いていた反対意見が後の多数意見になって判例がひっくり返ったケースがございます。こちらの資料に付けさせていただいておりますけれども。そうしたことを
考えると、その判決を出した当時、この擦れ違いというものを徹底的になくしておくということが
我が国の法の発展のために必要だというふうに
考えるところでございます。
次のページをめくっていただきまして、つまり、こういう仕組みを、判決が擦れ違わないような仕組みを
裁判所法の改正あるいは最高裁規則の改正によってできるわけでございますけれども、私が申し上げるまでもなく、これは司法権の作用に関わる問題でございますので、我々立法府が、今申し上げたような問題に鑑みて、立法権を行使する前に、我々立法府は憲法の至高の価値であります国民の自由や権利を何が何でも守る国権の最高機関でございますので、最高裁がどうしてもこうした
取組を取り組まない場合は、私は、我々立法府が立法権を行使して
裁判所法の改正を行うべきだと
考えておりますけれども、まずは、申し上げるまでもなく、最高
裁判所において、司法権の独立の名において、
裁判所事務処理規則によって改正をしていただきたいというふうに
考えるところでございます。
以上、大変御
説明が長くなってしまいましたけれども、ここで最高裁に伺わせていただきます。最高
裁判所規則を変えて、今申し上げたような深刻な多々の問題を生んでいるこの擦れ違い判決の問題というものをどうにか、何らかの対処をするというお
考えはありますでしょうか。