○柳澤光美君 おはようございます。民主党の柳澤光美でございます。
昨年の臨時国会で、一年一か月、福島の原子力
災害現地
対策本
部長を務めさせていただいた経験と、むしろ私の考えを交えて質問をさせていただきました。福島の復興再生なくして
日本の再生はないというのは、与野党を超え、党派を超えての
最大の課題だというふうに
認識をしております。前回の
議論を踏まえて、そのことがどうなっているのか、
確認も含めて
お話をさせていただきたいと。
そして、今日は
内閣府の岡田副
大臣もお越しいただいています。どうしても最後になってしまうんですが、関連死が増える、特に福島だけ自殺者も増えているという実態もございまして、最後にその
お願いもさせていただきたいというふうに
思いますので、よろしく
お願いしたいと
思います。
あの三月十一日から丸三年が過ぎました。実は、お手元に資料を出させてもらいました。ちょっとお時間をいただいて、この三年間の経過を
確認させてもらいたいと思うんですが、あの三月に事故が起きて、避難指示を二十キロ圏内に出しました。しかし、その後、放射線量が、風でかなり流れて、浪江町あるいは飯舘の皆さんには大変御苦労と御迷惑をお掛けしたことが分かる。私はお伺いするたびに浪江町の馬場町長さんからは何回も何回もお叱りを受けましたけど、それを受けまして、四月に線量によって警戒区域と
計画的、緊急時の三つに区域の見直しが行われました。
私が着任したのは、九月の五日に任命を受けて、八日に現地入りをさせていただいて、そのときの
最大の使命は、一日も早く、一人でも多くの方にどう戻っていただける
体制をつくるかというのが
最大の使命でした。真ん中の表を見ていただきたいんですが、そこの紫色の緊急時避難準備区域、これは線量的には全く問題ないんでできるだけ早く解除をしたいというふうに考えました。
市町村を回って、実は、あの亡くなられました当時の
経済産業副
大臣に大変な御協力をいただいて、首長さんあるいは住民の皆さんに
お願いをして、ようやく九月末にこの紫色の部分の解除が済みました。
その後、福島第一原発の
復旧復興が
最大の使命で、私も福島第一原発の事故
現場には何回も入らせていただいて、実は、
現場で働いている作業員の皆さんの献身的な御努力には本当に頭が下がりましたし、
日本人の
現場力のすごさというのも肌身で感じさせてもらいました。
原発の事故
現場はもちろんなんですが、実は、敷地内をいかにきれいにするか、そして放射線が外にいかに飛ばないようにするか。当時は、ほとんどの皆さんがタイベックスを着て、
瓦れきを人海戦術で全部運んで封じ込める、そして大型掃除機を掛ける、あるいは一号機にカバーを掛けるという大変な努力をしました。その結果、境界線の空間線量が収まってくる。
さらに、十二月には、ここにありますように、冷温停止状態という
確認が取れて、ある程度福島第一原発のところから放射線が飛び散っていないということも踏まえて、本格的な除染と同時に、実は、この二十キロ圏内は
法律で一切入れなくなっていますけれども、ここも含めて線量別に区分をして、帰れるところは帰れるという警戒区域の見直しを線量別にせざるを得ないという方針を立てて、ここから本格的に動き始めました。
市町村を回る中で御理解をいただいて、実は二〇一二年の四月一日に川内村、田村市、それから四月の十六日に南相馬市、七月の十七日に飯舘村、そして八月の十日に二十キロ圏内の楢葉町、ここは大変、住民の協議会にも私も出させていただいて、
お願いをして区域の見直しが済みました。
その後、多くの皆様に大変な御努力をいただいて、右上にありますように、昨年の八月に避難指示区域の見直しが被災十一
市町村で全て完了をするというステップを踏むことができました。
そして、実は大変うれしかったのは、先回も、私はその一番右端の田村市の水色になっている地域、これが都路地区です。その後、ずっと地域を回る中で、次には、今度は解除をするところをどこにしようかと。田村市の都路が、いわゆる除草、草も全部刈る、それから除染も進む、ここが一番
最初に解除をするターゲットになるだろうということを
お願いして、その九月の末に現地本
部長を辞めることになって現在に至っています。
先回も赤羽本
部長に、本当にこの解除、大変だと
思いますけどという
お願いをして、赤羽本
部長も大変な御努力をされ、実はこの四月一日にここが解除をされるという大変うれしいニュースを見て、自分のことのように喜んでおります。
今日は、赤羽本
部長に来ていただいておりますので、その辺の住民の皆さんの話も含めたり、苦労話も含めて少し御
報告をいただければというふうに
思います。