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石原参考人 河野談話が発出される経緯について申し上げます。
実は、この問題が起こりました発端は、一九九三年、二年でしたか、東京地方裁判所に従軍慰安婦と称する
人たちが、自分
たちへの侵害に対して
日本国
政府の謝罪と損害賠償を要求するという訴えを起こされたわけです。
その訴訟に関連いたしまして、当時、宮沢
内閣発足直後でしたけれども、
日本国
政府としては、一九六五年の日韓国交正常化条約によりまして、戦中の、戦前のいろいろな問題は全て最終的かつ完全に決着しているということが明らかでありましたので、加藤官房
長官から、
日本国
政府としてこれに対応する余地はないという趣旨の談話を発表いたしました。
これに対して韓国内ではいろいろな反発があったようでありますが、その翌年、盧泰愚大統領になってからですが、宮沢
総理と盧泰愚大統領の首脳会談がソウルで行われまして、これからは過去の問題にこだわらずに未来志向で両国
関係を発展させましょうという趣旨でこの会談が持たれたわけですが、実は、その会談の場に従軍慰安婦と称する
人たちが押しかけまして、会談が静かな雰囲気でできる
状況でなくなってしまったわけです。
それで、そのときに、この従軍慰安婦問題について、実態はどうだったのかということを
日本政府として調査してほしいという韓国側からの要請がありまして、
政府として検討した結果、では事実
関係を調べてみましょうということで、初めは、これは戦中の、戦後処理の問題は主として厚生省の援護局が担当しておったんですが、援護局に話したところ、そのような資料はなかなかないと。もう戦時中の資料でありましたので、非常に散逸しておりまして、なかなか集まらないということであったんです。
しかし、何としても事実
関係を明らかにする必要があるというので、当時の厚生省だけでなくて、労働省や、あるいは警察庁や、
外務省、
防衛省、非常に幅広く
関係が広がっておりましたので、最終的に官邸の方で、官邸の外政
審議室が中心になりまして、各省に資料の調査の要請を行いました。
その過程で、私は各省に対して、できるだけ努力して、戦時中の資料であるけれども、努力してその種のものを集めるようにという要請を行いました。再三再四、これは
協力要請をしたわけですが、その結果を加藤官房
長官から発表になりました。
それは確かに、慰安所の設置だとか、あるいはそれに従事する慰安婦と称する
人たちの輸送とか、あるいは衛生管理とか、そういう慰安所の存在を前提とするような通達とか連絡とかというのは文書で明らかになりました。しかし、女性
たちを強制的に従事させるという種のものは発見できなかったわけであります。
それで、その段階でそういう事実
関係を加藤談話として発表いたしましたが、その後、やはり
関係者が、自分
たちは自分の意に反して強制されたんだということを非常に強く言っておりまして、韓国側が加藤談話ではもうおさまらないということで、引き続き、ではさらに調査しようということで、官房
長官が河野さんにかわられたわけですが、河野さんにかわってからも引き続き調査を行いました。
しかし、アメリカの図書館まで行って調べたんですけれども、女性
たちを強制的に集めるというふうなことを裏づける客観的なデータは見つからなかったわけです。
それで、当方としてはそういうことだと言ったんですけれども、韓国側が、やはり彼女
たちは自分の意に反して強制されたということを強く訴えているので、何としても彼女
たちの話を聞いてもらいたいと。
そこで、話を聞くか聞かないかということで
政府としても種々協議いたしましたが、最終的に、日韓両国の将来のために、彼女
たちの話を聞くことが事態の打開になるのであればということで、最終的には、十六人の慰安婦とされた
方々からその当時の
状況をいわば客観的に公正に話していただくということで、調査官を派遣してヒアリングを行った。
そして、そのヒアリングの結果、どうも募集業者の中には、かなり強引な手段で募集した、あるいはだまして連れてきた、それから、その募集の過程で当時の官憲がこれにかかわった、かなりおどしのような形で応募させられたということを証言する慰安婦の人がいまして、それらの証言内容を全部とってまいりまして、それを総合的に、我々聞きまして、調査官から話を聞いて、それをもとにして、最終的な河野談話としてまとめたものであります。
したがいまして、当方の資料として直接、
日本政府あるいは
日本軍が強制的に募集するといったものを裏づける資料はなかったわけですけれども、彼女
たちの証言から、どうも募集業者の中にその種のものがあったことは否定できない、そして、その業者に官憲等がかかわったこともまた否定できないということで、河野談話のような表現に落ちついたところでございます。