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鈴木貴良君
皆さん、こんにちは。私は、柏崎市高柳町門出というところから参りました
鈴木貴良と申します。
このようなところで
お話をさせていただくのは非常に光栄なことでありますけれども、何分、ふだんは野山を駆け回って
仕事をしておりますので、大変ふなれでございます。どうか、不行き届きの点、お聞き取りづらい点があろうかと
思いますけれども、きょうは、それこそ
中山間地の仲間の
思いや
地域の仲間の
思いを
お話しさせていただけるいいチャンスということで、一生懸命頑張って
お話をさせていただきますので、よろしくお願いをいたします。
先ほど申し上げました柏崎市高柳町というところは、旧刈羽郡高柳町であります。標高が、低いところが百メーターぐらいから、高いところは五百メーターという、準山間地といいますか、
中山間地よりも山間地の方に近い
部分かと
思います。
私は、その旧高柳町で、高校を卒業するまで地元で暮らしましたけれども、高校卒業後、東京に憧れまして、関東の方に就職し、旅立っていきました。東京暮らしといいますか、都会暮らしを楽しんでいたわけなんですけれども、二年ぐらいしたら、うちのおやじから連絡がありまして、実は、
地域でライスセンターをつくる
計画があるんだということで、おまえが帰ってくればやるし、おまえが帰ってこないと俺も商売にならねえんだがなと。
実は、うちは非農家であります。商売を請け負うだけの
仕事でありまして、農家ではありませんでした。まあ、公共事業だから、多分もうかるんだろうと、私は、そのころ全然わからずに、のこのこと帰ってまいりました。楽しい東京暮らしも捨てがたかったわけですけれども、公の
仕事をするという魅力にも引かれて実は帰ってきたわけであります。
当時、うちの集落は百八十軒ほどあったかと
思います。現在はちょうど百軒になりました。田んぼの面積も三十五町歩ぐらいあったのが、今は十町歩ほど減りまして、二十五町歩ぐらいになりました。平均耕作面積は、当時から五反ぐらいですね。今、一町歩ちょっとになりました。
ライスセンターでありますので、
地域の農家さんがいないと困るわけであります。徐々に減りまして、当然、過疎化が進んで減っていくわけでありますが、これは、就農したきっかけというのも、人がやめるので、うちの商売がなくなっちゃうとまずいので就農した、機械を自分で買ったりとかして田んぼをふやしていったということであります。
一時、多いときでは五町何反ぐらいまでふやしましたけれども、数年前におやじを亡くしまして、ちょっと面積拡大は大変だなということで少し減らしたり、それから、一番
最初は、今まさに国の
政策の方で出ましたけれども、薬草栽培というのが出ましたね。あれは、二十八年ぐらい前に、実は、アマチャヅルの栽培というのを私は始めまして、田んぼをいきなり貸してもらえないものですから、遊休農地といいますか、畑が大分荒れていましたので、それらを借りて薬草栽培に取り組んだんです。
きょう、上越市の副市長さんがおられますけれども、大潟にウチダ和漢薬さんという和漢薬のメーカーがございまして、そこと契約をさせてもらって、婦人病の基礎薬になる当帰芍薬散というトウキですとか、いろいろな、新潟でもつくれるような薬草の栽培を実はやってまいりました。
それから、うちの集落には、イチョウ団地といいますか、イチョウの木をたくさん、百五十本ぐらい植えた、集落で取り組んだんですけれども、そういう団地があるんですね。クリ団地というのもありまして、一生懸命やったんだけれども、実は、やられたのは、中国なんですね。
輸入品に全部やられました。薬草栽培もそうです、さっき言った果樹や何かもそうだけれども、一年や二年でできないんですね。このできないのを一生懸命つくったあげくに、最後、その技術をぽっと持っていかれて、中国からだあんと入って、みんなやられてしまったという経緯があります。
うちの門出という集落は、大昔でいいますと、ウサギの養殖をやりました。それから、綿羊の養殖をやりました。豪雪地帯でありますけれども、そんな中で、乳牛の生産といいますか、牛乳の生産もやった
地域であります。
すごく不利な
地域だけれども、実は、細かいそういうものを組み合わせて何とか生きていこうとしてきた
地域なんです。それらが全部、外の
環境といいますか要因によってどんどんだめになってしまう。それをいろいろ繰り返してきているわけですけれども、今唯一残っているのは和紙の生産であります。一軒しかありませんけれども、
皆様方、多分飲んだことがあるかと
思いますが、久保田という新潟のお酒のラベルになっておりますけれども、あのラベルの生産を我が門出集落で行っております。ここでは、コウゾという和紙の原材料も生産をしているというところであります。
しかしながら、先ほど申し上げたいろいろなものはありますけれども、非常に細い線でありまして、それが圧倒的な強さの経済につながっていくことは今まで実は余りなかったんですけれども、私
たち中山間地で続けてこられたのも、それこそ農政に取り組まれた
先生方の今までのお
仕事の結果だと思っています。
中山間地直接支払いも今期で、三期はもうすぐ、もう一年で終わりますが、これが続いてきたおかげで、今、
中山間地が維持できているというふうに思っています。
私が就農したときには、あと五年で門出じゅうの集落の田んぼはみんなおまえのものになるよと言われたんですけれども、実はなりませんでした。おかげさまで全然ならなかったんですけれども、その言葉を聞いたときに、うわあ、恐ろしい話だなというふうに当時は
思いました。この山、坂を越えなきゃならぬ田んぼが全部自分のものになったら、どんだけ大変なことになるんだろうと
思いましたけれども、先ほど申し上げたように、最近では、それこそ
戸別所得補償制度ですとか、いわゆる
中山間地直接支払制度、そういった制度のおかげで今が維持できているというふうに私は思っております。
中山間地直接支払制度も、時間をかけながら、いろいろ
現状に合わせていただいたというふうに私は思っています。
一期目から二期目にかわるとき、それから二期目から三期目にかわるときもそうでしたけれども、例えば、隣接農地であれば、勾配は
関係なく、寄せてもいいよ。当然、農道はみんなつながっていますので、この田んぼとこの田んぼ、平らのところと勾配のあるところを分けているわけじゃないですね。その平らのところを通って急勾配のところに行くわけでありますので、現場を見ていただいたおかげで、非常にいい制度に成熟をしつつあるなというふうに感じております。
ただ、長く続くということであっても、とにかく、
現状を見ながら、少しずつ少しずつ変えていくことで現場に反映されることだと
思いますので、今後ともそういった御配慮をいただきながら、これを
法律化していただきましたので、本当に心強く思っていますし、また、そういったことに御配慮いただくことをお願い申し上げたいというふうに思っております。
先ほど言いました
戸別所得補償についてですけれども、先ほど布施さんの方からも
お話がありましたけれども、農家としてはすごく当てにしているといいますか、私もそれこそ
戸別所得補償のお金を当てにして機械を買っていますので、これを半減されると、またどこからか用意をしなきゃならぬ、借金がふえるというような結果になろうかと
思います。
そういった声は、私の町内でも
中山間地でも同じように聞こえてきます。この
中山間地の
農業を支える根幹、根っこの
部分だというふうに思っていますので、廃止をするという
お話になっていますけれども、どうか今後とも、個に対する支援というのは、必ずここを続けていただかないとまずいんじゃないかなという気がいたします。
先ほど、平場の方でも人間がいないという話がございましたけれども、私
たちの
地域、
中山間地に来ればなおさらであります。今、制度を、人・農地プランの中でも新規就農者の
皆さんを支える制度とかたくさんありますが、残念ながら、その制度に合わないんですね。
例えば、先ほど言った、私が二町歩や三町歩の田んぼをやって、三年後に
所得は百八十五万を確保しなさいという制度が、百八十五万の
所得というと真っ赤な
所得ですので、売り上げじゃないので、その制度に、今、多分、私
たち近所全部合わせても、誰もそんな
所得ねえよなという話なんですね。それこそ、直払いにしろ、人・農地にしろ、
環境型にしろ、全て、先ほど言ったように、事務というのが膨大に出てまいります。それらをこれからの若い
人たちからやってもらえるように人材を呼び込みたいんだけれども、なかなかそういう手だてが得られない、個に対する支援の形がないということが、集落
地域にとって一番切実な問題であるというふうに
考えています。
それこそ、私が三十年間、ここで、門出というところで暮らしてきていて、若い
人たちが来たいというニーズはたくさんありました。でも、それらの
仕事やサラリーをつくってあげることが私
たちはできませんで、今、自分が指導
農業士をさせていただいているんですけれども、その間に、三人、就農を御支援させてもらいましたが、彼らの人生にとって俺は悪いことをしたんじゃないかなという気持ちがまだどこかにあります。この将来の見えなさというか、不安を払うことは全然できませんので、その
部分を非常につらい
思いで今見守っているところであります。
いろいろ
考えてきたんですけれども、言いたいことをなかなか言えないものですね。済みません。
とにかく、私
たちは直接支払いが頼みだということをまた御
理解いただきたいと
思いますし、今後、人数が減ってきますと、直払いを受ける側の金額が上がってきます。一人百万円を超えないようにという制限がありますが、百万円を超えてしまうような可能性は今後たくさん出てくると思うんですね、集落営農やあるいは法人化していく中で。それを今度外してもらわないと、
思い切ったことができなくなっていく。それらが本当に支える仕組みの根本になるので、その
部分を少し
考えていただけないかなということは、
地域の中でたくさん話が出た
部分でありました。
それから、先ほど言った人・農地プランの中で担い手を支える
部分とありましたけれども、若干、
資料だけちょこっと用意させていただいたので、ごらんをいただきたいと
思います。
二枚つづりのものがありますけれども、一枚目、上の方は、新潟県の
農業大学校の志願者数というのがございます。それから、二枚目の方は、
新聞の切り抜き記事となっています。
一枚目の方は、実は、ここ数年来、しゃばの景気が悪くて、
農業大学校にわっと志願者がふえたんですね。それで、
平成二十一年からしばらく高い数字をとっていまして、全寮制でありますので、近い子はうちから通えというようなことで、定員をオーバーしていたということでありました。ところが、御承知のとおり、アベノミクスの効果でしょうか、急に下がったんです。ことしは定員割れをしました。景気がよくなると、あっという前に、地方からでもごっそり若者を大手企業さんにとられてしまうということが起きたんですね。
これはいろいろな要因があると
思いますけれども、単純にそう見てしまえばそうかもしれませんし、またほかの要因もあるかもしれないんですけれども、世の中では、これから起きることは、そういうことなんじゃないかな。
子供の数もどんどん減ってまいりますので、
農業を志そうという
人たちの数、それから質が、少しずつまた落ちてしまうんじゃないかなという危惧はされるわけであります。
何かいろいろな、先ほど、中国にいいところを持っていかれたりとか、世の中の経済にいいところをみんな持っていかれるような、そういう
農業では将来続けていくのは難しいんじゃないかな。そこの
部分、また
皆さん、
先生方からお
考えをいただければありがたいなというふうに思っております。
もう一枚の方は、また上越市さんの記事をおかりして申しわけないんですけれども、私
たちの
農業というのは、
農業じゃないんですね、百姓なんです。さらに、
農業をやるということは、農村維持をやるのとイコールなんですね。隣のばあちゃんがきょうは体調が悪いといったら、心配してやったりとか、雪掘りができなきゃ、雪掘りを手伝いに行ったりとかというのがやはり農村維持の大事な
部分だと
思います。誰かが、
農業は一人で始められるが、一人では続けていくことはできないというふうに言われました。この
関係性は、山間地に来れば来るほど、なおさら強くなります。
先ほど言った、私
たちの
地域で百八十五万円の
所得を上げられないという要因の
一つには、
地域の
仕事、集落維持の
仕事が膨大にあるということがやはり要因の
一つにあります。
環境が、条件整備が整っていないのと同時に、そういった
仕事も担わなきゃならぬ。先ほどの百八十五万じゃなくて、八十万でもいいよ、あとは、残りの
部分は集落維持を一生懸命頑張ってくれればいいよというような免責をつけていただけるとありがたいのだがなと私は思っています。そういうのがないと、その制度をうまく利用できるチャンスも逃してしまうんじゃないかなという気がいたします。
今の
新聞の方ですけれども、住民組織というのが各地に、私
たちも
平成の合併で合併をしましたので、そういったことが、大きなところであれば、
地域の農家と非農家が連携をするということはできますけれども、純然たる高齢化社会と純農村でありますので、全部ここに負担が、私
たちの方へ来ている。こういった組織をつくっても、それを維持するための資金もなければ、人材もつながっていかないということがあります。
とにかく農村は、
中山間地の
農業に対しては、人を育てること、若い人をとにかく育てていただくこと、あるいは、周りの
環境の整備をしていただいて、私
たちが直払いで担えない
部分は、国の
環境保全あるいは国土保全という観点の中で御整備をしていただく、それしかないんじゃないかなと
思います。その
環境が整えば、多分若い
人たちも入ってくる、暮らせる社会ができるんじゃないかな、そんなふうに思っております。
いろいろなことを申し上げたかったんですけれども、時間がちょうど来たようであります。
以上で意見を終わらせていただきたいと
思います。本当にありがとうございました。(拍手)