○渡辺(周)
委員 これはもちろん、
原発を立地しようというところの住民、さまざまな恩恵を受ける人あるいはそうでない方、変わらない方、もっと言えば、直接的にそこにはいないんだけれ
ども、近隣に住んでいて非常に不安に思っている方、そういう方もいるんだろうと思います。
私は、ある意味では、
国民の意識の最大公約数というところがどこにあるか、また
日本の
原発に対してどんな思いを持っているかということに対して、もし不安があるのであれば、それをどう解消していくかということは今後必要になってくるんだろうと思います。
そういう意味では、
原発は、
日本の国がそもそも安全だと思われているかどうかということについては、どういう思いを持っているかについては承知していないということなんですが、しかし、それは、何か直観的な、ばくっとつかむようなことを言うのではなくて、やはり何らか客観的なデータの上に立って、
トルコ国民が、あるいは立地予定の町の周辺の住民がどういう思いを持っているかということをやはり把握しておくべきだろうというふうに思いますし、また、そういうことを大使館なり調査団なりがしっかりやっていただきたいというふうに思うんです。
なぜ私がこういうことを言うかというと、
一つ申し上げたいと思いますが、これはもう言うまでもなく、一九八五年三月十七日、テヘランの空港に取り残された邦人を救出するために、
トルコ航空の飛行機が邦人救出をした。これはもう御存じのとおりで、当時のオザル首相が、当時、
我が国がまだ法的整備ができていなくて自衛隊機が派遣できない、そして民間の航空会社に要請したところ、乗員の安全を確保できないということで、
トルコ航空が首相の命によって決断をした。そして、そのときにパイロットに志願を求めたら、全員が手を挙げて、全員が
日本救出のためにテヘランに向かってくれた。これは、四十八時間以内に退去しないと、四十八時間以降は上空を飛ぶ飛行機は民間機であろうと無差別に攻撃するとサダム・フセインが言って、自
国民を優先したほかの国はみんな行ってしまったわけです。そこで最後、二百名からの
日本人が残ってしまった。しかしそれを、残り時間わずかな、タイムリミットが迫る中で救出をしたのが
トルコ航空。このときのオルハンさんという機長さんは、先般亡くなられたときに
日本からもお悔やみがあったというふうに聞いておりますけれ
ども、旭日小綬章を二〇〇六年に受けられた方である。
こういう命をかけて守ってくれた親日国に対して、もっと言えば、これはもうさかのぼること百二十年も前の、和歌山県串本町沖でのエルトゥールル号の座礁
事故で、地元住民が、言葉も通じない異国の
国民を救うために、明治二十三年、やはり命をかけて救ってくれた。そのことは
トルコの教科書にも載っていて、そのときの恩返しだと言わんばかりにした。
そしてまた、先ほど申し上げた、時代はまた戻って、
トルコ北西部で六万人の死傷者を出す地震があったときは、今度は
日本から仮設住宅を運んでいったときには、住民たちはそこにニッポン村という愛称をつけたり、あるいはコウベ通りだとかトーキョー通りだとかというニックネームをつけてその恩に応えたという、お互い持ちつ持たれつというか、本当に
国家が危機に瀕したときには、
国民が危機に瀕したときには、見返りを求めずお互いが助けたということの歴史があるわけでございます。
だからこそ、この親日的な
トルコに対して、我々は、そんなつもりはないということはもちろん承知していますが、やはりいいかげんなことをしてはいけないな、そんな思いを強くするわけです。
そういう意味では、今後、この
協定が結ばれることによって
原発の技術を
移転するということになった場合、例えば、行われるであろう地震国
トルコの地層調査であるとか、あるいは周辺インフラの整備であるとか、そういうことについて、
日本国としてある程度は、やはり私は、民間の問題、民民の問題だからといって投げるのではなくて、民間の契約であっても、何らかのしっかりとした裏書きをしてあげる、できることはしていくべきではないかと思うんですね。
どこの国に対しても
我が国は同じようにするのでしょうが、とりわけ
トルコという国に対しては、歴史的いきさつの中で、やはり
日本の威信にかけてそれはしなければいけないのではないかと思うだけに、今これから、例えば地層の調査もそうでしょう、それから周辺インフラのあり方について、あるいは
日本が
原発事故を起こしたことに対して、やはりその情報というものはしっかりと提供しなければいけないと思うんですけれ
ども、この点については、どうでしょう、
大臣、何かお考えはございますでしょうか。