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鈴木(望)
委員 ありがとうございます。
私ども
日本維新の会の基本的な立ち位置からして、私どもは、見直しそのものについては反対はしておりません。私どもは、自立した
個人、自立した地域、自立した
国家を標榜しておりまして、特に、
国民のあるべき姿として自立した
個人というものを掲げているわけでございます。
私ごとで大変恐縮でありますけれども、私の父親、もう十数年前に亡くなりましたけれども、典型的な昭和のお父さん、普通の庶民でありました。家庭の中では若干唯我独尊で、
自分の考えを貫き通して私ども家族に迷惑をかけたこともありましたけれども、一方で、妻や子供は
自分が守る、体を張ってでもそのために頑張る、そんな気持ちを当然の心構えとして持っていたわけであります。
そんな父親が、私も含め子供四人をそれぞれ田舎から都会の
大学に入れ終わったときに、何とか御先祖の田んぼを売らずに子供を育てることができたというふうにつぶやいていたことを今でも鮮明に記憶しております。今さらながら、本当に、大した
能力もないのに頑張ってくれたな、ありがたかったなというふうに思うわけであります。
そういった
観点からしますと、子供のころ、父親が病気で倒れたときは家族一同青くなりました。その当時は、今のように
社会保障
制度その他が整っていなかったからであります。今は、
社会保障
制度が整った分、自立の心構え、気概が薄れてしまったように思えてなりません。
父親が生きていればちょうど百歳になりますけれども、
高校授業料無償化を何と評価するのか、こういう立場につきましたので非常に興味があります。いろいろ
自分なりに考えてみたんですが、多分、何とか頑張っている
自分たちはいいから、本当に困っている人
たちにお金を回してほしいというふうに言ったんじゃないのかな、勝手な臆測かもわかりませんが、私はそう思っているところであります。
普通に頑張っている、自立している
個人には、古代ローマ
時代のパンとサーカスのようなサービスは無用、そのかわり、失業や病気などで
社会的に困難な立場に立たされたら十分な温かな支援の手が差し伸ばされる、そういう
社会になっていかなくちゃいけない、これが私
たちの、自立した
個人の理念であります。
その
観点から考えますと、
高校授業料無償化は、午前中、また今までのさまざまな
議論、
質疑から、それなりの理屈、理論はもちろん
理解できるところであります。当然
理解できますが、一方で、困ってもいない
国民にまで
授業料を
無償化するばらまき
施策の一面を持っているのではないかと私ども考えておりまして、ばらまき
施策は自立した
個人をだめにし、
社会や国そのものを衰退させていく、これは歴史が証明するところであります。その
観点から、所得制限を
導入した今回の見直しを、方向としては私どもは支持をするわけであります。
ところが、所得制限
基準をめぐる動き、額の決定過程をマスコミ報道等で聞くに従いまして、これは一体何だろうかと、正直そういった不信の念がむくむくと沸き起こってきたところであります。
当初、七百万円という数字が自民党から出ておりました。これは、
平成二十四年二月二十八日、自民党の機関紙「自由民主」に出ておりますし、このような
法案が出された今でも、自民党のホームページにも掲載をされているようであります。だから、そういう
意味では、七百万円という数字は何なんだと。
そして、いよいよ
検討が本格化した時点では、これはマスコミ報道等で聞いたところという前提をつけさせていただきますが、最初九百万円、その次に九百三十万円、そして最終的に九百十万円で与党間の調整が決まったというふうに仄聞をするところであります。はたから見ておりますと、まるでバナナのたたき売り、理念がまるで私には感じられないところであります。
国会のこういう場はただすということでありますので、まずは最初に、七百万円の根拠、これは何なのかということを
文科省は当然把握しておられると思いますので、お聞きをしたいと思います。よろしくお願いします。