○前川清成君 前川清成でございます。
各党代表の先生方が本当に丁寧に御準備をされてそれぞれの御
見解を述べられたことに敬意を申し上げますとともに、私、いつものように思い付きで御
発言申し上げることもお許しをいただきたいと思うんですが。
自民党の
憲法改正草案の中で、現在の
人権相互間の調整原理である
公共の
福祉を
公益あるいは公の
秩序に書き換えていることを私は前々から大変憂慮をしておりました。それを、過日、予算
委員会で安倍総理に、安倍総裁にお尋ねした際は、分かりやすく書き換えただけだと、こういうふうにおっしゃっていたんですが、今日、
中川幹事のお話を聞くと、
人権相互間の調整に限らないんだと、それ以上のものが含まれるんだというふうな御
発言がありましたし、維新もほぼ同じような御
発言でなかったのかと思います。そうであれば私は大反対でございます。
人間が生まれながらにして自由で平等なんだと、
個人として、
人間として生まれてきたからこそ尊いんだというこの
個人主義の
考え方、あるいは
基本的人権の
尊重というのはまさしく人類
普遍の原理であって、
人権相互の調整にとどまらずに、更にお国のため、社会のため、お上のためというふうな名目で
人権が
制約されてしまう、そのことに道を開いてはならないと私は思います。
社会の
変化に伴って、単純な
人権相互間で済まない、そういう問題もあると思います。それは、例えば
憲法の二十二条と二十九条、
人権カタログの例えば二十一条の
表現の自由や、そのほかの個別の
人権カタログには
現行憲法でも
公共の
福祉という文字は入れておりませんが、二十二条と二十九条だけ
公共の
福祉が入っていると。それはなぜかと。二十五条以下の社会権、
生存権を実現するためには、経済的な自由、営業の自由に対する広範な
制約を認めなければならないだろうと。
そうであれば、
人権相互間の調整原理である十三条の
公共の
福祉にとどまらないという思想自体は現在の通説でもありますし、私もそのように思いますが、営業の自由であろうが、財産権であろうが、
表現の自由であろうが、何であろうが、全部
公益、公の
秩序によって、言わばお上によって
制約されてしまうというのは、私は
人権の
歴史そのものをもう一度見直していただく必要があるのではないかと、そんなふうに
考えます。
それと、
生活の党がおっしゃられましたように、
犯罪被害者の
権利を明記するという方向自体は、私は賛成であります。ただ、その際に、もう一度くどいようですが
人権の
歴史というのを振り返ってみたいのは、やはり
国家権力こそが最大の
国民の自由や平等に対する脅威でした。
人権にとって最大のリバイアサンは
国家権力でした。だから、
国家からの自由というのが現在の
人権カタログの中心になっているわけで、
国家による
人権侵害が最も先鋭化する場面というのは刑事手続。世論も、悪いことをしたやつなんだから少々
人権を侵害しても構わないんだという雰囲気になってしまうと。それは良くないんだということで、
現行憲法は三十一条以下に詳細な刑事手続の
規定を設けているわけで、その
歴史的な背景あるいは
人権侵害の
状況ということも勘案すれば、私は、
犯罪被害者の
権利というのも大切ではありますけれども、同じように刑事手続における
人権保障、これも大事にしていかなければならないのではないかと、こんなふうに
考えております。
以上です。