○
参考人(
小山剛君)
小山剛と申します。どうぞよろしく
お願いいたします。
レジュメに従って
お話をさせていただきます。
まず、新しい
人権と
一言で言いましても、多分大きく分けて
二つの類型があるんではないか。その
一つは、
プライバシーあるいは
情報自己決定権、あるいは
環境権もそうだと思いますけれども、これまで
憲法に書かれていなかった新しい事柄、新しい
事項についての
人権というものでございます。それからもう
一つは
特定の
主体についての
規定。例えば子供の
権利ですとか
高齢者、
障害者といった
特定の
主体についての
人権。これも恐らく新しい
人権と呼べるのではないかと思います。今回の
報告では
前者の方、
プライバシーそれから
環境を中心に、新しい
事項についての
人権について少し
お話をさせていただきます。
まず、今日の
報告の
結論なんですが、新しい
人権が重要であると。したがって、
憲法を改正するのであれば、新しい
人権は当然にその
有力候補になってまいります。しかし、新しい
人権のためだけに
憲法を改正する必要はないというのが
一つ目の
結論。
二つ目の
結論は、新しい
人権の
明文化を検討するに際しては、まずどのような
タイプの
憲法を望むのか、それから第二に、
基本的人権という
形式で記述するのか、それとも、例えば
国家目標規定といった別の
形式で記述するのか、それを考える必要があるということでございます。
二の
プライバシー権、広い
意味の
プライバシー権に進むことにいたします。
プライバシーといった場合に、いわゆる古典的な
プライバシーあるいは狭い
意味の
プライバシーというものと、それから
情報技術の
発展に伴って登場した新しい
プライバシーという
二つのものを区別することができると思います。
まず、
前者の
古典的プライバシーは、
私生活をみだりに公開されない
保障あるいは
権利という
定義になると思いますけれども、これについてはもう
判例上、最高裁も含めまして承認されているわけです。したがって、このような古典的な
プライバシー権を今更
憲法に明記しても、例えば
表現の自由との調整の仕方ですとか、あるいは
救済手段に直接の影響を与えるものではない。
プライバシー権の明記によって変わるものがあるとしますと、その
引用条文とか
参照条文が変わるだけだということになろうかと思います。
したがって、この
古典的プライバシー権自体には
明文化の
意義というのはなくて、他との
バランス、例えば
環境権書くのだったらやっぱりこの
プライバシー権も書かなきゃおかしいだろうといった、他との
バランスから考えればよいということになります。
一方、
情報技術の
発展に伴って登場した
情報自己決定権あるいは
自己情報コントロール権と言われるものですけれども、これは、先ほど申し上げた
古典的プライバシーとは全く別の
権利だとして考えた方がいいかと思います。
一九九九年のあのスイスの
憲法の十三条ですけれども、これは第一項では
私的生活、そして第二項では
個人的データの濫用からの
保護ということで、項の単位ですけど別の
条文にしています。それから、
ヨーロッパ基本権憲章になりますと、第七条それから第八条というふうに条の
段階で、古典的な
プライバシー、
私生活の
保護と
個人情報の
保護は区別されて
規定されております。
そして、こちらの
情報自己決定権型の新しい
プライバシーにつきましては、これは
憲法で制定することに
意義がないわけではないというふうに感じております。その
理由ですけれども、
個人情報保護法の
立法段階で
自己情報コントロール権を明記することが
議論されましたけれども、結局、
権利としての
成熟性に欠けるとして見送りになったという経緯がございます。そこからいたしますと、
憲法で
明文化した上で、さらに
法律の方でそれを受けて具体化していくということに
権利の
保障にとって
一定の
意義があるのではないかと思います。
ただし、
憲法に
自己情報コントロール権のようなものを書きさえすれば具体的な
権利が発生するわけではないということ。また、
裁判所がその気になれば、
自己情報コントロール権として言われていることも実は相当
範囲で
保護が可能だということ。そして、もしも本当に実践的な
意義を
憲法改正に求めるのであれば、結局は、どういうやり方で
個人情報を
保護しろというかなり具体的な
規定を
憲法レベルで書いたような、そういった場合になってくるのではないか。
その例としては、先ほど申し上げました
欧州基本権憲章の八条三項に、独立の
機関を設置して
個人情報の
保護の
条件が遵守されているかを監督しろというような例がございます。ただ、このような細かい
規定というのは、
立法府、
国会との
関係で、
憲法がそこまで細かいことを
国会に対して指示しなきゃいけないのかという、そういった疑問も生じてくるところです。
次に、
環境権のところに進ませていただきます。
環境権というのはいろいろ
定義はございますけれども、少なくとも人の
生命や健康にかかわる場合には
人格権又は
人格的利益ということで
判例上も救済されているわけでありますから、
環境権というものを唱える以上は、それをはるかに超えた
部分、要するに、より良好な
自然環境それ
自体の
保護というのが
保護法益になってくると思います。
環境保護の
重要性については、これは今日では全く
異論のないところです。ただし、
環境権というのが
憲法学説でも有力に主張されているんですけれども、結局は
保護されるべき
環境の
範囲とは何なのかがよく分からない、あるいは
環境権の
権利主体が誰なのかよく分からない、あるいはそもそも
環境というのは
公共財ではないかといった問題がございまして、結局、
環境権というのは
抽象的権利ですらない理念的な
権利という性格にとどまるのではないかと、そのように私も考えております。
そのことは、
権利として
環境を
保護することの
限界、
言葉を換えて言いますと、
環境保護というものが重要なんだということを宣言するのであれば、
憲法において別の
形式を取ることを考えた方がよいのではないかということにつながってまいります。
その別の
形式というのが
国家目標規定という
形式でございます。この
国家目標規定の
定義はちょっとややこしいんですけれども、
市民に
権利を与える
タイプの
規定ではないと、そして
国家権力をある
一定の
目標の実現に向けて
法的拘束力をもって
義務付ける、そのような
規定でして、最もよく知られているのがドイツの
環境国家条項というものでございます。この
条文は、国は、次の世代に対する責任を果たすためにも、
憲法的秩序の枠内において
立法を通じて、また、
法律及び法の基準に従って執行、
裁判を通じて自然的な
生命基盤を
保護するという、
権利主体としての
国民は出てきませんで、国の
責務という
形式でうたっております。
ほかにもこの
環境保護、比較
憲法的には様々な形で書き込まれておりまして、例えば
環境保護にとって一番、何ですかね、衝突する、あるいは壁になるような
人権は何かというと、
経済活動の自由なわけですから、幾つかの国の
憲法では
経済活動の自由の
限界として
環境保護というのをうたうと、そういった例もございます。
レジュメにお書きしましたルーマニアの
憲法、これは
財産権についての
条項の中で
環境保護をうたっている。あるいは、別の国の
憲法では、
市場経済の諸原理という形で
環境をうたっていると。それから、国によっては
環境権型なんですけど、
ブルガリア憲法では、
市民は
自然環境を享受する
権利を有すると書くとともに、
環境の
保護を
義務付けられるという
義務も併せて書くと、そういった
形式の
憲法もございまして、これを見ても分かりますように、どこの国でも
環境というものの、大事だというのは
共通の
認識であるとしても、どうやってそれを
表現すればよいのかについてはいろいろと悩んでいるところではないかと思います。
三ページ目に進ませていただきます。
冒頭申しましたように、新しい
人権を
憲法に追加するかどうか、それは
一つは、どのような
憲法を望むのか、
憲法に何を求めるのかという問題にかかわってくることであろうと思います。
まず一点目は、
人権と統治というのは基本的に筋の違う話でして、例えば
国会について、
二院制を取るのか一院制を取るのか、あるいは審議・議決の要件、三分の一なのか二分の一なのかといった、そのようなことは
憲法でルールとして明確に定めておかないと、これは全くどうしようもないことなんですね。あるいは、この二分の一、三分の一を変えたいのであれば、それはもう
条文を変えるしかないということになってきます。一方、
人権については、原理あるいは普遍的な理念という性格がございますので、
憲法にどれくらい書いてあろうが、
憲法解釈上は主要国の
人権の
保障のレベルというのは大体似てくるようなものだというふうに思っております。
憲法改正といいますと、新しい
人権をどこまで増やすかというところに目が向きがちですけれども、逆に
憲法改正によって今ある
人権規定をどこまでばっさり切れるかと考えてみた場合には、例えば十三条の個人の尊重ですとか、あるいは十四条の平等ですとか、あるいは新たに一般的な手続的な
保障のようなものがあれば、この
憲法第三章で
保障する、例えば
表現の自由とか思想、良心の自由みたいな個別
規定を仮に削ったとしても、今言ったような包括的
規定から演繹可能なんですね。
人権というのは、およそそういったものだというふうに私は思っております。
憲法改正ということになりますと、やはりあれも欲しい、これも欲しいで、どんどんどんどんいろんな案が出てくると思うんですけれども、特にそういうような場合には、どこまで逆に簡素化できるのかという逆の方向から考えてみることも有益なんではないかというふうに思います。
それからもう一点、個別の
人権として
保障されているかどうかにかかわらず、
国民の一般的な自由を制限する限り、
国家の行為には目的の正当性あるいは手段の合理性というのはどのみち要求されるわけですから、新しい
利益、新しい重要なこと、それを逐一
憲法に書き込む必要もないんではないかというふうに思います。
最後に、いかなる
憲法を構想するかということなんですが、大きく分けまして、ここでは
二つの
憲法の構想があるということを
お話ししたいと思います。
一つは、
憲法のシンボリックな
意味、あるいは
国民を含む政治過程に対する
意義というものを重視して、そしてその
国家や
国民が実現すべき価値や理念、それを明確に宣言するという、そういった
タイプの
憲法。もう
一つは、
憲法裁判を前提に、法として
裁判所によって貫徹できる
範囲、要するにそれ以上の余計なことは書かない方がいいという、そういった
憲法構想がございます。
前者の例がワイマール
憲法、後者の例がドイツの基本法、現行
憲法だということになると思います。このドイツの現行
憲法では、ワイマール
憲法とは異なりまして、古い古典的な基本権、あるいは前
国家的な
権利のカタログに
人権規定を限定した。
御存じのように、ワイマールの場合ですと、社会権その他、様々な
条項が含まれていたわけです。
このどっちの
憲法を選択するかによって、特に
環境保護ですとか、あるいは子供や
障害者や犯罪
被害者の
人権といった、そういったものを書いた方がいいのか、書かない方がいいのかに対する回答は違ってくると思います。ただ、その
二つの
憲法構想のうち、どちらが正解というものではございませんで、正解というのは存在しないと、どちらかを自覚的に
議論した上で選択していくものだということになってまいります。そして、どちらの
憲法観に立つのかを決めた上で、その上でどの
条項を導入するのか、それらを決めていくことになってくると思います。
本当の
最後になりましたけれども、特に新しい
人権というのは、
立法による具体化に依存するものというのが非常に多いと言うことができます。ただ、新しい
人権として書いた場合はもちろんですけれども、書かなかった場合も、この
立法というのは、よく
立法裁量と言われますけれども、その
立法裁量というのは行政裁量とは全く違った性質のものだというふうに思います。
要するに、行政というのは
法律を執行する
機関ですけれども、
立法府というのは
憲法の執行
機関ではないんですね。自ら価値を設定して、自らその手段を探求して、そして制度を構築していく、そのような
立法の
責務というのを十分果たせば、逆説的に新しい
人権の
条項は要らないのかもしれませんし、あるいはそれをより力付けるために新しい
人権の
条項が要るのかもしれませんし、その辺私はよく分かりませんけれども、ちょうど時間が参りましたので、これで私の
報告とさせていただきます。