○山内
徳信君 私は、
日本国民にとりましては八月は、広島、長崎の原爆投下によって想像を絶するような被害を受けてきた、そういう
日本国民でございます。あれから六十八年経過しております。
〔
委員長退席、
理事柳田稔君着席〕
さらに、六月といいますと、
沖縄は六月に入ると同時にあの
沖縄戦の悪夢がよみがえってきまして、県を始め市町村、小さい集落に至るまで全部慰霊祭が行われる、それが
沖縄の六月でございます。
私は新聞でしか知っておりませんが、
沖縄の慰霊祭が始まりましたのは対日講和
条約が発効した一九五二年と言われておるんです、私は高校の二年生でありました、あれから今日までずっと慰霊祭が行われております、そこに初めて
日本政府の
外務、
防衛大臣も御
出席をされるということを新聞で読みまして、私の気持ちはまだ整理が付かない状態にあるんです。
そして、
沖縄戦のとき、あの県民から慕われた島田叡という、大阪の内政部長から、前の人が断って
沖縄県知事がいない状態があって、内務省は島田叡さんに県知事として赴けと。ところが、奥さんと娘さんは、上陸は必至だと、目の前に上陸を、そういう
状況でお父さんが行くのかと言われたときに、島田さんは、私が断ったら次の人が行って死ぬことになるじゃない、私は生き残りたいから
沖縄県知事になるのは断ると、こうは言えないと。その前任者は、実は
沖縄から、上陸を、これはもう間違いないと、こういうことで
本土に
沖縄の人は逃げたと言っているんです。そういう知事もいらしたわけです。
〔
理事柳田稔君退席、
委員長着席〕
そして、両
大臣が献花される二十三日のあの慰霊祭の献花台のその南の方で、島田叡知事は県庁職員と一緒に、後退に後退、敗退に敗退を続けておるそのときに、恐らく艦砲射撃か爆弾か、そこはよく知られていませんが、一緒に歩いていた人々が一瞬のうちに知事の姿がなくなったことを、どこにふっ飛ばされたのか、それさえ分からない状態で島田叡知事は亡くなっています。
この人は、知事に就任すると同時に、席の暖まる間もなく、
食料を調達をするのに、時間を惜しみ、日を惜しみ、そういうふうにやった方といって
沖縄の人は今も尊敬をしておるんです。
さらに、その慰霊祭のある南の方ですね、そこには黎明之塔があります。その黎明之塔の崖下で
沖縄守備軍の第三十二軍の牛島司令官と長参謀長は壮絶な自決を遂げておるんですね。昔の武士みたいなそういう
やり方で亡くなっていったと言われております。
片や、那覇市の南に豊見城という市があります。海軍ごうがございまして、そういうところは両
大臣も訪問されたこともあろうかと思いますが、海軍の中将、
沖縄戦に投入された海軍たちをまとめていく大田中将は最後、
沖縄県民かく戦えり、将来格別なる御高配を賜りたいという打電を海軍次官にしております。そういうふうに、国のために県民と一緒に、その年はずっと雨が多くて、大変な雨の多い日だったと私は記憶しておるんですが、そういう中で海軍中将はそういう打電をして、これまた壮絶な自決を遂げております。
そういうふうに、国家の責任を任された人々は責任を取って国民や県民とともに歩んできた。そういう古武士のような姿を、私は黎明之塔に、あるいは海軍ごうに行くたびに思うんです。
何よりもずっと心に生き続けておるのは、大阪府から、内政部長から県知事になって、奥さんや娘さんたちが思っていたとおり、島田叡県知事は亡くなっていったわけです。私は、そういうふうなことも両
大臣の頭の片隅には置いて、あの菊の花を総理に続いて献花されるんだろうと思っておるんです。
したがいまして、広島、長崎の人々が献花をするのと同じように、花をささげるのと同じように、
沖縄の人々ももう基地の島は御免だと、これ以上基地の島は御免だと。
沖縄の基地は戦場と直結しておるんです。
在日米軍の基地とは違うんです、在沖米軍の使っている基地は。
私は、朝鮮戦争、高校生でした。ベトナム戦争は六五年前後でございますから、社会人になっております。それは大変でした。ベトナムのお母さんたちは
沖縄のお母さんたちにもどんどん手紙を送ってきたんですよ。あのB52を止めてくれと。そのB52が毎朝飛び立っていくんです、爆弾を満載をして。私は、そのB52が飛び立つ嘉手納飛行場と嘉手納弾薬庫の間の道路を通って職場に向かうんです。彼らはトレーラーに爆弾を満載して弾薬庫から出てくると、
沖縄県民の車両は全部止めて、十分も十五分も二十分も止めるんです。止めて、飛行場に爆弾を積み込んでいって、ベトナムに行って無差別に投下をしていくわけです。ですから、
沖縄におる海兵隊たちは言うんです。目の前に、戦闘員であろうが非戦闘員であろうが、何かの
動きがあったら、こっちから相手を先に撃ち殺さぬと自分が撃ち殺されてしまうと。まさに
沖縄の基地はこういう基地なんです。
だから、戦争始まると、アメリカの若い連中は、兵士たちは、事故、事件を起こして逮捕されて留置所にぶち込まれれば生きる保障がされるということなんです。持っておるお金をベトナムに持っていくわけにもいかないから、浴びるほどウイスキーを飲むわけです。これが事故、事件につながっていくんですね。そういうふうな
沖縄の
状況は今も続いておるんです。
したがいまして、私は、是非、両
大臣に対しまして
お願いを申し上げたい。
沖縄の慰霊祭というのは、全戦没者の御霊を慰めるとともに、慰めるだけではいかぬのです、世界の恒久平和を願う
沖縄県民の心を世界に発信をするという
趣旨の慰霊祭であります。平和を世界に発信するということなんです。そして、県民にとっては、基地の島
沖縄を一日も早く平和な島にするという、霊前に菊の花を差し上げながら、あるいは手を合わせながら、平和な
沖縄をつくりますという、そういう決意を霊前に誓うのが
沖縄の慰霊祭です。
私は、広島のあの八月の行事に一度は行って手を合わせてきました。それとは別に、長崎、広島のあの資料館をちゃんと見ておかなければ
日本人としていかぬだろうと、こういう思いで何度か訪ねております。
そういうふうな私の体験も含めて今申し上げておるわけでございますが、
沖縄戦で二十万余りの人が無念の死を遂げていったわけですね、遂げていったわけです。それで、そういうことを過去の歴史として終わらすのではなくして、
沖縄に戦争につながる辺野古の新基地建設計画を今
政府は
日米合意ということで強引に押し付けております。そして、人権と民意を全く無視し続けております。あの建白書を差し上げたのに、それさえ全く無視して、
日米合意ということで辺野古に造るとおっしゃっておるわけです。そういう無視し続けている、強引に押し付けておる安倍首相や
岸田外務大臣、
小野寺防衛大臣は、私の言葉で言いますと、何のかんばせあってこの慰霊祭で菊の花を差し上げようとするんだろうかと。
是非両
大臣に
お願い申し上げたいことは、辺野古新基地建設計画は、単なる施設ではないんです。戦争につながるものゆえ、
沖縄県民は幾重にも反対を訴え続けているのです。どうぞ両
大臣におかれましては、辺野古新基地建設計画を断念するとの決意を固められまして、御霊の前で手を合わせて、献花をされてお帰りになってきてくださいと、そういうことを申し上げておるわけです。長い
説明も要りませんが、両
大臣のお気持ちだけ伺っておきたいと思います。