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及川参考人 南相馬市立
病院の
及川でございます。
まず、このような
機会を与えていただきました後藤田議員、それから私をこの場に立たせてくれました多くの国
会議員の皆様に心から
感謝申し上げます。
なお、この場をかりまして、我々南相馬市立
病院、それから南相馬市の御
支援にかかわった多くのボランティアの
方々、御
支援の皆様方に心から御礼申し上げます。深謝いたします。
私のきょうのお話は、三つに分けてお話をさせていただきます。
一つ目は、
震災後行われました屋内退避指示、それから緊急時
避難準備区域、これが我々の
地域にどのような影響をもたらしたか、このことについてひとつお話しさせていただきます。
二つ目、現在の南相馬市の人口を
もとにしながら、町がどういうふうな
状況になっているんだ、
震災後二年たった今もどういうふうになっているんだということをお話しさせていただきます。
三つ目は、私は医療者なので、医療の立場から
復興とはどういうふうに
考えるべきなのか、これは医療者だけではなく
個人の
意見も含まれますが、医療者として
復興をどういうふうに
考えるかということ、この三点についてお話をさせていただきます。
まず、私の立場をお話しさせてください。実は、私は内部被曝者です。今回の
福島第一
原発の
事故によりまして、私も内部被曝をしております。
一番最初に内部被曝をはかったのは、
震災の年、二十三年の六月。当時、内部被曝をはかるホール・ボディー・カウンターがございませんでしたので、女川
原発に出向きまして
自分の体を測定しました。約四千ベクレルの内部被曝をしたということがわかりました。これを契機に、我々の
病院の進む方針が決まりました。
それに先立ちまして、これが私の立場で、内部被曝者としてまず今の
状況をどういうふうに見ているかということをお話しさせていただきます。
最初のテーマです。
当時の政権が出しました屋内退避指示
区域、これは皆さん当然
御存じだと
思います。屋内にとどまりなさいという指示なんですね。二十三年の三月十五日に出されました。
我々の南相馬市というところは、実は、地方
行政区では、
原発から二十キロから三十キロの
行政区では最も大きい地方
行政区で、当時約七万一千五百人の人口がそこに居住しておりました。この人口に対してどのようなことが起こったか。屋内に退避しなさいと。実はこの指示が非常に曖昧で、僕らもどうしていいかわからなかったんですが、額面どおりに受け取れば、家の中にいて外には出るなという指示です。これが四月の二十二日まで続いたんですね。
僕も講演をしながら、さまざまなところで主婦の方に、あなたはどのくらい自宅に食料品を備蓄していますかと聞くと、若い人、二十歳代の人はほとんど一日ですね。
高齢者の方でも五日と言います。もし政府の指示をそのまま額面どおりにとったら、皆、餓死していたわけですね。
何を言いたいかというと、皆さんは我々市民に対してさまざまな裁量権を持って指示を出すことができますけれ
ども、それをきちんと検証していただきたいということです。
実際に、もう
一つの検証はぜひしていただきたいのは、屋内退避指示
区域は
原発から二十キロから三十キロ圏内に出されました。それが民間にどのような影響を及ぼしたか。皆さん、これを
考えてみてください。
資料のスライドにちょっと出したんですが、資料のスライドの三枚目の一番左上ですね、実は
支援が全く入らなくなりました。国が三十キロ圏内というふうな指示を出しますと、民間の業者は五十キロ圏内です、五十キロ圏内に入るなと。
ここに書きましたけれ
ども、実は、ドクターヘリはさまざまな議論を呼びましたが、ドクターヘリも三十キロ圏内に入っていないんですね、入れない。隣に、三月十五日発表、これは国交省の資料を提示しましたけれ
ども、三十キロ圏内にドクターヘリが入れなくなったんですね、入らなくなったんです。
救急車両、救急車両というのは消防署の救急車です。これも全く三十キロ圏内に入らなくなりました。DMATも入ってこない。DMAT、皆さん
御存じのように、
震災時に活躍する医療チームです。それも入らなくなった。そのほか、さまざまなボランティア、公的ボランティアの医師団や看護師、マスコミも入らなくなっています。
経済の流通、物流が全くストップしたんですね。どんなことが起こったか。市内に食料品もなくなりまして、ガソリンも入らなくなった。
後でこの辺の検証を私
たちなりにしたんですが、救急車両に関しては、消防庁ですか、当時、宮城県、岩手県、
福島の他の
地域に消防署が送るときに全国から救急車両を集めたそうなんですが、そのとき、我々の
地域には入らないことを条件に集めた。これは私、確証しているわけではありませんが、いろいろなところから聞いてくる話です。
これはどういうことなんだ。いわゆる我々の
地域は見捨てられた
地域なんですね。これを国会の
方々がどういうふうに
考えるか。ぜひ検証していただきたい。
四月二十二日から、一カ月以上にわたる屋内退避指示がなくなりまして、そのかわりに緊急時
避難準備区域が制定されました。これは九月三十日まで約六カ月間続いております。
これは当時の内閣から出された指示なんですが、これに関しても、緊急時
避難準備区域ですから、いつでも
避難できる、これはいいんですが、
地域に
子供、妊婦、入院を要する者、要介護者は入らないようにというふうな指示が国から出されています。
地域に、自治体に
子供や妊婦がいなかったら、皆さん、どうなりますか。その自治体はもう、その後、行く末がないと言っているのと同じです。しかも、それがいつまで続くかも我々には知らされませんでした。
その結果、どのようなことが起こったかといいますと、医療崩壊です。我々のところには、南相馬市の旧緊急時
避難準備区域、二十キロから三十キロ圏内に五つの
病院がありましたが、残念ながら、当時、入院を置けませんから、我々の南相馬市立
病院以外は全て休院となっています。
そのときに人口はどのぐらいいたかといいますと、大体三万人ぐらいいたんですね。三万人というと、市の
行政が保てる、何々市と持てる
行政になるべき人口です。その市、三万人の中に、入院患者さんが全く入れなくなったんですね。これも国から出された
行政指示で、その状態がずっと続きました。
国
会議員の
方々も五十人以上我々の
病院に来てくださったんですが、我々の
病院に来ると、あそこが非常に孤立された
地域だということがわかります。他の医療機関に行くまで、時間として救急車で一時間ぐらいかかるんですね。そういうところに入院が置けないというなれば、当然、国の指示によって医療的な
被害を受けた方がたくさんいらっしゃいます。そのことについても、ぜひ皆さん検証していただきたい。
つまり、国の出した指示はさまざまな影響を及ぼします。
避難しろと
一つ言っただけで、さまざまな影響を社会全体に及ぼしますので、ぜひそれを皆さんに知っていただきたい。
次に、我々の南相馬市の人口から、現在の南相馬市の
地域の
状況をお話しさせていただきます。
先ほど申し上げましたように、我々の南相馬市には七万一千五百人程度の人口がおりましたが、今、大体七割程度、四万八千人程度まで戻ってきております。
先ほど
遠藤村長さんがおっしゃいましたように、人口は七割弱戻ってきたんですが、やはり同じように大きな少子高齢化社会を迎えています。資料にも出しましたが、人口の分布が、かなり減ったんですね。
南相馬というところは、実を言うと、老年人口は
震災前は二五%程度で確かに老齢化社会だったんですが、幼年人口、
子供の人口は全国平均より多かったんですね。つまり、
子供は結構いた
地域なんです。それが、
子供が減って、
高齢者も三五%近くになる。
子供の人口は八%ですね。
震災前は一五%であったのが八%まで減りました。
しかも、こういう少子高齢化社会が一晩のうちに出てしまう、これが問題です。多くの自治体は時間をかけて、多分、十年単位のスケールでどんどん少子高齢化社会、これは
日本全体の傾向ですから仕方がないんですが、それが一晩のうちに出てしまう、これが問題です。全く対応ができない状態になってしまうんですね。
医療はどうなるか。
少子高齢化が起こりますとどうなるか。よく、その世帯に、介護保険をとる人数が
震災前と比べて倍増しているというようなデータがございます。なぜか。それはそうですね、
高齢者がふえたから。これは当たり前なんです。
それならば、もう
一つ、在宅はどうなったんだと。実を言うと、医療の中で、患者さんを御自宅で診るという在宅、これは国も進めていると思うんですが、在宅はどうなったんだと。
実は、少子高齢化が進みますと、家庭の中で
高齢者ばかりが残りますね。そうすると、在宅もできにくくなる、いや、できなくなってしまっているんですね。つまり、患者さん一人一人を見る
家族力量が減ってしまって、本来ならば自宅である程度幸せな
生活を送れる人が、
家族の構成崩壊によって、つまり、若い世代が
避難して
高齢者ばかりが
地域に残るということで、残念ながら在宅に帰れなくなってしまう。そうするとどういうことが起こるかというと、老人健康保健施設が満杯になってしまう。
そういう医療の崩壊に結びつくようなことが現在起こっています。
我々のところで、最終的に医療の崩壊を何で示すかということは、ちょっと戻りますけれ
ども、一旦休院した
病院は現在どうなっているか。
資料七をごらんください。我々の南相馬市の二十キロから三十キロ圏内に五つの
病院がございまして、許可病床数が千四十六ございました。実際に今入院可能な数、さまざまな理由で病床数を全てあけられないんですが、それが四百四十三です。つまり四二%。
人は約七割戻ってきているのに、入院できる数は
震災前の四二%にまで減っています。つまり、これこそ医療が崩壊している。本来ならば入院させなくてはならない患者さんも入院できないんだということを示しています。
最後に、医療
復興についてちょっとお話をさせてください。
この数字を見てもわかるんですけれ
ども、入院数が少し少ないんですね。満杯ではありません。これは医療に携わった方ならばすぐわかると
思いますが、
病院は満床では動かないんです。ある程度人数を減らしていないと、入院もできませんし、上手にベッド回転もできません。いい医療はできないんです。ですが、こういう数字を見ながら、
本当に医療の需要はあるのかと言う
方々がいます。
復興に関して、これは実は私自身が国の皆さんに、国会の皆さん、政府の皆さんにお聞きしたい。何かというと、
本当に二十キロ圏内、三十キロ圏内の市
町村を
復興させるのかということなんですね。これの明言が我々市民には、医療者には届いていません。
どういうことかといいますと、医療の計画を立てますにも、中長期的な計画というのがございます。
皆さん、医療圏という
言葉をちょっと聞きなれないかもしれないんですが、医療圏、つまり、例えば我々南相馬市立
病院、私は脳神経外科が専門なんですが、脳神経外科がどの
地域までカバーしているかというと、北は宮城県の、隣の新地町、そこから我々の
病院に患者さんが来ます。南の方は、実は一番遠かったのは、いわき市に四倉というところがあるんですね、いわき市の患者さんも我々のところに来ていたんです。ということは、
病院は南相馬市というところにありますが、医療圏は
福島県の太平洋岸、北三分の二をカバーしていたということになります。
とすれば、私が今後医療を
復興させる上に
考えなくてはならないのは、そこの人口がどうなってくるんだ、将来的に町がどうなってくるんだ、ここがわからなければ、実を言うと、きちんとした
復興のビジョンが描けないわけですね。
ぜひ、国会の皆さん、ここにいる議員の皆さんは国を動かせます。
地域の再生を、特に
原発二十キロ圏内の
地域の再生をどうするんだということを、きちんと我々一般市民に知らせていただきたい。
ちなみに、今回、被災後、百人以上の国
会議員の
方々とお話をさせていただきましたが、お一人だけ、国
会議員の中で、二十キロ圏内は、もうあそこはだめだと言った方がいらっしゃいます。私は、地元に住む人間として、全くそれに対して憤りは覚えていません。この人、
自分の
考えている
本当のことを言ったのかなというふうに感じました。
我々医療者は、さまざまな方向、医療を通して、医療
復興を通して町の再生に寄与したいと
考えています。その中で、明確な
復興ビジョンがなければ、我々医療者としても医療
復興の
考えをきちんと持つことができません。まず国の方から、きちんと医療
復興のビジョンを立てていただきたい。
さまざまな御
支援、それから人的
支援、
お願いすることはたくさんございますが、まず基本となる、
原発二十キロ圏内をどういうふうにするんだと。我々現場では、医療者一人としても、
行政の人間ではありませんが、一市民として、町を
復興させたいと思って日夜頑張っております。ぜひ国会の
方々にも御理解をいただき、そして、大きな方向づけをきちんと示していただきたいというふうに
考える次第でございます。
以上であります。御清聴ありがとうございました。(
拍手)