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宮家参考人 皆さん、おはようございます。
宮家邦彦でございます。
きょうは、こんな席にお呼びいただき、大変緊張いたしております。せっかくの機会ですので、この
自衛隊法の一部を
改正する
法律案について、私の個人的な
意見を私の個人的な
経験に基づいて
お話ししたいと思います。今まで余りし
ゃべったことのない話で、
資料がないのは残念なんですが、そのかわり、一度もしゃべったことのないことをいろいろ
お話しいたしたいと思っております。
結論から言うと、まず
最初に申し上げますが、
結論は、これはそんなに難しい話ではないと個人的には思っています。むしろ
各国の
軍隊が、どう呼ぶかは別として、
軍隊が自
国民を守る、救出する、
輸送する、これは当然の話でございます。そのことを、私は、外務省に入って、
アラビア語を
研修いたしまして、そのときから痛感をいたしておりました。
きょうの
お話は、私は
イラクにおける
四つの
経験がございますので、その
お話をさせていただいて、後ほど
田中さんからは、
アルジェリアと
アフガニスタンの
お話があるということなので、
中東の
お話を中心に
お話しになると思います。
時間が限られておりますので、先に進めさせていただきます。
私の個人的な
体験第一回目は、一九八〇年九月二十二日、まさに
イラン・
イラク戦争が勃発したときでございます。
私は運悪く、
イラクの近くの
クウェートにちょうどおりまして、
バスラに千百人の
日本人の方がおられた。そして、命からがら、彼らが
クウェートに逃げてこられた。九月二十二日ですから、まだ灼熱の、物すごい
砂漠のところで、暑いところで、彼らが逃げてきた、その救援のお手伝いをいたしました。まだ
研修生ではありましたけれども、強烈な印象を持っております。
幸い、彼らは
バスラにおりました。
バスラから
クウェートまでの国境はそれほど遠くありません。しかし、あのとき、もし百キロ、二百キロ奥地におられたら、恐らく彼らは、そもそも来られなかったんじゃないかと思っています。
最初の数時間、数日間の最もクリティカルな時期に、こういうときに
輸送があったらいいなということを本当に
おぼろげに思ったのが一九八〇年のことでございます。
当時、
大使館におりまして、館員と
一緒に、といっても私は
エジプトで
アラビア語を勉強していたんですが、
クウェートの
大使館でお手伝いをして、
各国の
大使館の
人たちとも
お話をしました。そして、一番印象的に今でも覚えておりますのは、
アメリカ人が、我々は
軍隊が必ず助けてくれるんだ、実際には来なかったわけでありますけれども、彼らはそういう信念を持っていた。それは健全だったんだろうなと私は当時思いました。
私は、これが実は
中東における原点でございます。
中東において、
戦争と
邦人保護、これで、
研修時代ではありましたけれども、私のキャリアが始まりました。
そして次に、
イラク・
エピソード、
パートツーでありますが、
パートツーは、この一九八〇年から二年後、
研修が終わりまして、私は
イラクの
バグダッドに赴任をいたしました。
当時も実は
戦争は続いておりました。私の
実戦体験の
最初は
バグダッドでございました。当時、
戦争中でもありながら、実は
バグダッドから遠く離れたいろいろな
サイトで、
日本人の
労働者の方、
技術者の方が働いておられました。彼らは週末になると
バグダッドに飲みに来られました。いろいろ話を聞きましたが、実は当時も相当多くの
日本人の方が、
戦争中にもかかわらず、ビジネスでおられました。
そのときに、忘れもしません、一九八二年七月だったと思いますが、
イランが
バスラの周辺に
相当数の師団を配置して、まさに南部に攻め入ろうとしたわけでございます。当時、私が覚えておりますのは、私は
政務班員でしたけれども、大使と二人だけになって、どのようにしてこの
バスラにおられる
日本人の方を救出すべきか、
輸送すべきか、そして、何も
手段はないんですけれども、
退避勧告を出すべきかということを本当に悩んだのを覚えております。これが第二でございます。
そして第三、もうこのくらいでやめたいところなんですが、まだ
二つ残っております。申しわけありません。第三は、これは一九九〇年の
湾岸戦争であります。
湾岸戦争のときも、私は運悪く
北米局におりました。一九九〇年の八月二日にサダム・フセインが
クウェートを侵攻いたしました。そしてその翌年、九一年の一月十七日に
戦争が始まるわけであります。
そのときに、当時は
日米安保を担当しておったんですけれども、
実戦は見ませんでした。しかし、
輸送それからロジというものの大切さというものを実際に学びました。当時は
日本が、ツーリトル・ツーレートといいますが、遅過ぎる、少な過ぎる
支援をしたと言われて批判された時期でありますけれども、当時
米軍がサウジアラビアと、
クウェートを解放するために駐留をいたしておりましたが、その
部隊を全部見ることができました。
やはり、ああいう
能力を持つこと、使うかどうかは別として、
能力を持つということはいかに大事かということを当時学びました。
当時の一番大きな
思い出、
思い出といいますか
経験は、恐らくここにおられる方も御存じないかもしれませんけれども、発表されておりますが、当時、幻の
邦人、
避難民輸送計画というのがございました。
戦争が始まった直後でありますけれども、C130をヨルダンのアンマンから
エジプトの
カイロまで運航して、そして
湾岸戦争で
避難民が出た場合にはそれを
カイロまで
輸送するという
アイデアがありまして、その
調査ミッションで参りました。そのとき、
関係者と
一緒に私も出張いたしました。
そうしたら、ある人がこう言いました。
宮家さん、今の
計画では、これは
湾岸戦争の
避難民を運ぶことを目的として
アイデアをつくってあります、しかし、もしそこに
日本人の方がおられて、助けてくれというふうに言われたときに、我々はどうしたらいいんでしょうかと言いました。当時、私も、うっと詰まりました。そのようなことは
想定していなかったのであります。しかし、私はこう言いました。
相手は誰だとは申し上げられませんが、それは、まず運んでから考えましょう、
日本人がそこにいて、助けを求めて、
自衛隊機が、もしC130が一機あって、それに乗せられるんだったら、まず乗せてから考えましょうと私は言ってしまいました。幸い、その
計画は途中で立ち消えになりました。
しかし、当時から、もし
邦人が
在外において
輸送が必要だと言われたときにどうするかという
議論はありました。しかし、それについては触れなかったんです、一九九〇年の
段階、九一年の
段階では。これも私はトラウマとして残っております。
続きまして、パートフォー、これが
最後でございます。最近の
イラク戦争であります。
当時、二〇〇三年に始まりました
イラク戦争ですが、私は北京におりました。そうしましたら、
戦争が終わり、しかし、
イラク国内の
状況は悪くなる一方で、我々は同僚を二人失いました。その後、私は、おまえ、
アラビア語だろう、行けということで行きました。私は、行かない理由はないと思いました、そのために
アラビア語を勉強したわけではないんですが。四回目の
イラクとのお
仕事になりました。
このとき、ちょうど
サマーワには
自衛隊の
部隊がおられて、そして、この
資料にも書いてございますとおり、C130の
輸送機が一部の
邦人、記者の方を
輸送したという話が残っております。
もちろん
サマーワも大事でありますけれども、我々は実は
丸腰で
バグダッドにおりました。そして、もちろん
自衛隊員の命も大変大切でありますけれども、我々は本当に
丸腰で、ある
意味で、
米軍と
一緒に
仕事をしておりました。そのときも、やはり誰に救出されるのか、誰にみとられるのか、私は死を覚悟したなんて偉そうなことを言うつもりはありませんが、最期は、死ぬときは
日本語で言い残して死にたいと思いました。それは本当です。正直な話でございます。
これが私の
バグダッド、それから
イラクにおける
四つの
エピソードでございます。全てに共通することは、やはり
在外において
邦人をどのように
保護するか、救出するか、これは
各国、当然の義務だと思っております。
今申し上げたことから、私は
四つか五つの教訓を導きたいと思っております。
まず第一でありますが、残念ながら、
危機というのは必ず起きるのです。この世に悪意のある
人たちがいる限り、
危機は起きるんです。起きないのが一番いいに決まっていますけれども、起きた場合、これは何か
対応しなければいけないんです。
第二に、だからこそ
各国の
軍隊はいろいろな
準備を備えているのであります。そして、考え得るあらゆる
可能性について
対応するように
準備をしているわけであります。
第三に、この問題は戦闘の話ではありません。しかし、先ほども申し上げたように、
オペレーションの中では、何が起こるか実際にわからないのであります。私も、
バグダッドにいて、
グリーンゾーンの中にいて、
グリーンゾーンを出るときは本当に怖かったです。怖いなんて言えません、今だから言えるんですけれども。それは、何が起こるかわからないので、あらゆる
手段を持っていたいというのが本音でございます。
第四に、大変失礼な言い方かもしれませんが、今だから言えると言ったら言い過ぎかもしれませんけれども、過去数十年、私が
経験してきた、特に
イラク戦争、
イラクでの
戦争等を見て私の感じたことは、
日本の安全保障問題に関する
議論の一部は、明らかに現実離れしているということでございます。私は、
戦争を美化するつもりもありませんし、
戦争は正しいなんて言うつもりはありません。しかし、これは必ず起きることなんです。そして、場合によっては不可避かもしれません。そのときの
準備をすることが
国家として当然だと思うわけであります。
最後に、もう一点だけ申し上げます。
こんな
準備をしても、結局使わないじゃないかという
議論があるやに聞きました。私は、使うか使わないかは問題ではないと思っています。そのような
能力を持つことが、そのような
状況において
危機管理をするために絶対に必要な要件なんです。その
能力が
一つでも欠けることによってその
危機管理の
オペレーションの
能力が低下するということ、そう考えれば、私はできるだけ多くの
能力を認めていただくことが正しい道だと思っております。
最後に、私と、これから
お話しします
田中さんは、最近、
アルジェリアの
事件に際して
邦人保護の
観点から
懇談会がつくられまして、
委員として話をいたしました。そのときも、この
輸送の問題は当然
議論をされました。しかし、当時、既に各党間で
議論がされていたということもございましたので、私どもの
報告書には書きませんでしたが、当然それは
議論されたことでございます。
最後に、もう一点だけ。
この問題というのは、やはり
国家が
国民をどのように守るかという
観点から
議論をしていただきたい問題だと思っております。
政局も大事だと思いますけれども、
政局と政策は区別をしていただきたいと思います。
政局のためにこのような
法律ができないことによって、万が一、将来、救える人が救えなかったとすれば、浮かばれないのは
国民でございます。それだけは避けていただきたく存じます。
以上、私の話を終わらせていただきます。ありがとうございました。(拍手)