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参考人(
小林節君) 私は現場の首長でも
日弁連の
活動家でもありませんので、憲法学者としてこの
法案を見せていただきました。こういう
法律が必要だという
社会的事実
関係、いわゆる立法事実については今お二人の
参考人がおっしゃったとおりでありまして、要するに、
社会の変化に伴って危険な
団体もやり方を微妙に変えてきておりますから、罪刑法定主義の
観点からいけば、それも駄目だよ、それも駄目だよときちんと
規定してあげないといけないわけで、そういう意味で今回の
改正は妥当な
改正であると私は思います。
ただ、二点、疑問をというより問題
提起をさせていただきます。
先ほど
疋田先生のお話にもありました、
事業者の、
暴力団員に不当な
利益を得させることがないようにという
努力義務規定、これは正しいと思います、
制度そのものは。つまり、
暴力団との
関係を断ろうとする人に
法的根拠を与える、正しいと思います。ただ、
業界によっては、例えばはっきり言うと銀行なんですけれども、銀行というのは実にディフェンシブな
業界で、組織としても落ち度を好まない。ということは、組織員は自分のデスクで落ち度を好まないので念のためということをいろいろやってしまうところでありまして、たまたま先週、ああ、なるほど、こういうことがあるんだと。
大阪の
事例なんですけれども、知ったんですけれども、要するに、
企業舎弟ということが明らかになって、しかもそれが
犯罪になる
行為をしたのでぱかっと捕まったんですね。ある会社が乗っ取られて、ある組に、そこを注目していた
警察が違法
行為を見付けてその
関係者を捕まえたんですけれども、それも
社会で
活動している会社ですから乗っ取られる前からいろんなお
取引があって、そこと善意で
取引していた会社に送金がなくなってしまった。つまり、集金を代行してもらっていたんですけれども、その会社の役員が捕まったために銀行が一切止めてしまった。そうすると、善意の第三者に二か月お金が来ないと手形が飛んでしまって大変なことになる。そのとき、善意の第三者でありますという証明が大変なんですね。ただ、銀行員としては後で自分の落ち度になりたくないから、何というか、悪魔の証明みたいなことを
要求する、あなた方、きれいであることを証明してください。これ大変なことでありまして、一次的には、たまたま検挙した
警察当局にきちんと正式にお話しして、この会社は
関係ないと認識しているということを言っていただいて事なきを得たんですけれども。
たまたま
弁護士の個人的人脈でやるのではなくて、この努力義務が過剰
規制になってしまった場合の救済措置をどこかに用意しておかれたらよろしかろう。つまり、
暴力団の
資金源を断つことはとても大事なことで、これは絶対否定する理由がありません。だけど、
暴力団も
社会で存在しておりますし、
企業を乗っ取って侵食したりしているわけでありまして、そのとき、乗っ取られる前のまともな会社と善意で
取引していた人があおりを食らってしまう、これを公式に救済する手続をお考えいただきたいのが
一つです。
それから、迅速果敢にやらないと、彼らは過激で、先ほどのお二方の御
説明のように、本当に私がその
地域に住んでいないでよかったと思うほど恐ろしいことが起きているわけでありまして。でも、だからといって、
法案では、
指定したり
命令したりする手続に、
行政手続法三章、すなわち告知と聴聞ですね、ノーティス・アンド・ヒアリング、要するに、国家権力が国民に対して自由を制約しようとする場合には、前もっていかなる理由であなたにいかなる不
利益を与えようとしているよということを告知して、逮捕状だってそうじゃないですか、それに対して本人に構えて抵抗するチャンスを一旦あげるんですね。フェアプレーの精神です。
法の世界というのは、御存じのとおり、戦争の世界、武士道の世界から、武器を捨てて六法全書で闘うわけでありますから、そういう意味で、基本的にはスポーツや戦争と同じフェアプレーの精神がありまして、その告知と聴聞、つまりノーティス・アンド・ヒアリング、告知と、聴聞と弁明ともいろいろ言いますけれども、この
制度は、憲法三十一条、明治憲法じゃなくて日本国憲法で初めて導入された、すなわちアメリカ合衆国憲法の修正の十四条とか修正五条、元々はマグナカルタにたどり着くんですね。つまり、国際
社会の
常識でありまして、特にアメリカというのは多民族国家であるから、
内容の一致がなかなか難しいから手続をきちんと踏むという習慣ができて、それが今世界のスタンダードだと思うんです。
何を言いたいかというと、告知と聴聞の手続を入れることによって引き延ばしをさせろと言っているんではありません。それは、引き延ばしをさせない手続の取り方ってあると思うんです。全くこれがないと、例えば、急に話飛びますけれども、在日米軍の地位協定の問題なんかで、米軍の被疑者に対する裁判権なぜ日本に与えないかという議論の中に、人権の保障されたアメリカ人を日本の当局に与えたら何されるか分からないという日本野蛮な国家論が前提にあるんですよね。そういう意味で、相手がいわゆる彼らでいうところのマフィアであるからといってデュー・プロセスを与えないというのはいささか野蛮に見えるのではないか。だけれども、それは、法制局もありますし、日本の衆知をもって引き延ばしに使わせないという工夫をした上でこのデュー・プロセスはきちんとお踏みになった方がよろしいんではないかということを申し上げたいと思います。
それから、話戻りますけど、よく、私も六十三年以上日本で暮らしておりますので、いろんなところでいろんな方にお会いする。幸い大学人という気安さで
取引がないものですから、現役の組長さんだと称する方といろいろお話ししてみたりするんですけれども、言い訳としては任侠道なんですね。強きをくじき弱きを助けてどこが悪いと。だけど、それはおかしいと思います。つまり、清水次郎長さんの時代は法治国家がなかったわけですから、つまり、人によって権力が恣意的に行使される人治政治の時代でありましたから権力が間違っていることも露骨にあったわけで、そういうときに、正しいけど弱い人を助けて、強いけど悪い人をくじくという清水次郎長は存在理由があったと思うんですね。
ただ、明治以降、日本は近代、現代、法治国家として歩んできているわけですから、この法治国家において何か
社会的危険が
発生したら、それはあくまでも法
制度の作用として処理すべきであって、何かボランティア
暴力団体に委ねるというのはあり得ない話でありまして、よくこの
暴対法のおかげで外国のマフィアが日本にのさばるようになったという議論をされますけど、それはそれで新しい危険に法治国家として新しく
対応すればいいだけであって、だからやくざ屋さんに改めて何か自由を与えるという話ではないと思うんです。よくこういう議論をちまたで聞くものですから、これを補足させていただきました。
時間が残っているようでございますけど、私の
意見は以上でございます。