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参考人(
櫻井敬子君)
学習院大学の
櫻井でございます。
今日は、このような貴重な機会をいただきまして、誠にありがとうございます。レジュメがございまして、それに沿う形で
お話をさせていただければと思っております。
私の
専門は
行政法という分野なのですけれども、現在、
行政関係で生きている
法律というのは約千九百本あると言われております。
我が国の
統治構造ということからしますと、
憲法価値というものが基本的には
法律以下の
下位規範でもって実現していくという、そういう
構造からいたしますと、
憲法の
議論をする際に、ちょっと手前みそなんですけれども、
行政法の視点を持つということは極めて重要ではないかというふうに考えております。
本日は、大変大きい
テーマをいただいておりますけれども、そのような観点から日ごろ考えておりますことを申し述べさせていただければと思っております。
まず、一の
憲法の
意味合いについてというところですが、初めに、
行政法から見て
憲法がどのような
意味を持つ
規範であるかということについて述べさせていただきます。
まず、
憲法と
法律の
関係についてですけれども、これは今申しましたとおり、広い
意味では
憲法を実現するものとして
法律があるという言い方が可能なのですが、他方で、
法律は一旦できてしまいますとそれはそれとして完結するという存在でもございまして、実は
憲法と遮断されているところがあります。
オットー・マイヤーという
ドイツ行政法学の父と言われる人がおりまして、
日本の場合は
輸入法学でございますので、
ドイツの
お父さんは
日本の
お父さんでもあるという
構造があるんですけれども、その人が、
憲法は滅びても
行政法は存続するという、そういう
言葉を残しております。
我が国は一度だけ
憲法改正を
経験しておりますけれども、
憲法の
意味を考察する上で、
憲法改正によって
法律あるいは
行政実務がどう変わったのか、あるいは変わっていないのかというのを見ることは、
憲法論議をする上で重要と思われます。
(2)の
憲法と
行政実務の
乖離についてというところですけれども、
両者の間には無
関係ということも含めて結構な
乖離があるというのが私の認識でございます。
明治憲法は、
ドイツ・プロイセンの
憲法を主たるモデルとして制定されておりまして、その下で近代的な
行政活動が始まって、それが連綿と続く中で、ある
時点で全く異質なアメリカ的な
憲法が制定されたということから、
両者はいまだに融和していないところがあり、
行政の方から見ますと
憲法が浮いて見えるということが間々ございます。
最近何かと話題の
地方自治法を例に取りますと、
地方自治に関する規定というのは、これは新
憲法になって初めて置かれたものでして、これを受けて
地方自治法が制定されるのですが、具体的な
法律の内容は、これはついこの間まで、御案内のとおり、
機関委任事務制度というのがあって、
地方の首長というのは、これは国の
下部機関として扱われていて、
大臣は
命令を出すことができましたし、しかも
命令に従わなければ、選挙で選ばれた知事が
内閣総理大臣によって罷免されるという
仕組みがついこの間まで堂々と存在していたということは驚くべきことかと思います。
罷免制度は
平成三年に廃止されまして、
機関委任事務制度は、現在、
法定受託事務というようなことで組み替えられておりますけれども、ニュアンスは変わっておりますけれども、しかしながら今なお
地方自治法が
自治体に対する
法令統制の道具として機能しているということは、これは周知のところかと思います。
また、これとは逆に
憲法に適合的な
法律というのも結構できていまして、昭和二十年代ですけれども、そこに書きましたように、
公務員法制とかあるいは
港湾法なんというのは、文言上は結構適合的なんですけれども、そうであるがゆえにいきなり空文化してしまうというような事例も少なからずあるということも言えるかと思います。
明治憲法につきまして
一言だけ申し上げますと、
明治憲法については、これは新
憲法との対比で
マイナスイメージで語られることが多いのですが、実は客観的に言うと、
憲法の
出来としては決して水準の低いものではないということが言えるかと思います。むしろ、私は
日本の
予算制度の歴史について調べたことがかつてあるんですけれども、
明治期の
予算制度に関して言いますと、これは近代的な
予算制度を初めて持ってきたわけなんですけれども、その導入に至る過程の
議論というのは本当に広くて深くて、しかも当時の
ヨーロッパ各国の
憲法典を
参考にして非常に国際色豊かにつくったものであったということを見まして、率直に驚いた
経験がございます。
明治憲法の場合には、
近代国家を建設するという大目標があって、知的な、クリエーティブな作業として、しかも時間的余裕がある中で行われたということがその
成果物の
出来具合に影響を与えるというのは当然のことかなというふうに思っております。
さて、二ですけれども、
人権論に話を進めたいと思います。
今般の
大震災では、今、
西條参考人からも
お話ございましたように、ある日突然全てが奪われるということが現実に目の前で起きたわけでありまして、文字どおり人間的な
生存が脅かされる
極限状況が生じていると言うことができるんだろうと思います。
かつて一時期、いわゆる新しい
人権論というのがはやったことがあって、
喫煙権とか
嫌煙権とかそういう話だったかと記憶しておりますが、社会が豊かになるにつれて
人権の重みがだんだんなくなって、
人権の
インフレ状況が生じているというような指摘がされたことがございました。しかし、今回の
事態というのは、
言葉の素直な
意味での
憲法的な
状況というふうに言えるんだろうということで、まさに
人権を論ずるべき
事態が出現しているものと考えられます。その
意味で、
大震災と
人権保障というのは
大変テーマが大きかったので、今日何を話そうかなとちょっと思ったんですけれども、誠に正鵠を得ている問題設定かなというふうに考えるものでございます。
そういうふうに考えますと、今の
憲法の
人権カタログというのがございますけれども、これは基本的には歴史的に迫害のリストであったということからいたしますと、ここでは
大震災において最も過酷に感じられるものは何であるかということが
人権の中身とされてしかるべきであろうというふうに思います。キーワードといたしましては、今
お話もあったように、家族とか共同体とか住まいとか仕事とか、あるいは放射能汚染なんかも考えますと空気とか水とか、あるいは生きがいとか希望とか速やかな
復興とか、そんな
言葉が直ちに思い浮かぶところでございます。
なお、テクニカルに言いますと、ある法益を
人権というふうにして書くか、あるいは国家の責務として書くかという問題もありまして、具体的な制度をどうつくるのかということをにらんで
憲法を作るといたしますと、あえて国家の責務として書くという選択肢もあるのかなというふうに考えるものでございます。
次に、(2)ですが、
大震災のうち地震と
津波に関連しましては、今回の
事態を受けて、現実のニーズとして、危機管理ないしは緊急
事態に関する規定を真剣に考えるべき
状況に立ち至っているのではないかというふうに考えております。
自然
災害に関しましては一応現行
災害対策基本法という
法律がありますけれども、これは比較的小さい
災害を念頭に置いているもので、市町村を中心にしたボトムアップ型の
仕組みを採用するものでありますので、今回のような大規模
災害への対応ということで考えますと、いかにも役不足であるという感じは否めないところでありまして、制度としてはベクトルの向きをトップダウン型に反転させて、それから、主体としても国とかあるいは都道府県というのがもう少し前面に出てこられるような
仕組みが求められるように思っております。
ところで、この災対法には、御案内のとおり、
災害緊急
事態における緊急政令の制度というのが実は置かれているわけなんですけれども、つくるときは
憲法違反じゃないということでつくったんですけれども、しかし、
憲法上の疑義があるということが言われているために、実際執行しようとするとその執行がちゅうちょされるという
状況があろうかと思います。危機管理と
人権保障が究極においては対立するものではないということを明示するなりしませんと、新たな危機管理法を作るということ自体が非常に難しいですし、作ったとしても動かしにくいというところがあると思います。この種の問題については、とりわけ
憲法と
法律を一体的に整備するという発想が必要かつ有益ではないかと考えるものでございます。
次に、原発についてです。
人権論としましては、今後は原子力
災害も視野に入れた環境権の理論というのを展開していく可能性があるように思いますけれども、ここでは裁判所の問題について触れたいと思います。
裁判所は
人権保障の最後のとりでということになっているはずなんですけれども、少なくとも、これまでの原発訴訟を見ますと、裁判所が原発
行政を有効に統制するということは全くなかったということは、これは事実として受け止めざるを得ないのではないかと思います。
実は、福島第二原発訴訟というのがありまして、これは最高裁まで争われているものがあるんですけれども、今回の事故の後、その訴訟で原告が何を主張していたのかということが気になりまして、改めて判決を読み直してみたのですけれども、原告である住民側の主張というのは、
憲法十三条の
幸福追求権、これを援用しながら、原子炉が安全なのかどうかということを言わば日常用語で問うているというものであるのに対しまして、被告の国あるいは裁判所の側というのは、これ、問題の施設が原子炉等規制法上は問題がない、
法律的には安全であるというふうに言うばかりで、住民側のそういう素朴な問いかけにはこたえるものとはなっておりません。
この点、控訴審判決は、法的安全性とそれから現実の安全性は別問題であるというふうにはっきりと言っておりまして、その上で住民側の訴えを棄却しているんですけれども、この種の裁判で
両者が全く別問題だというふうに言ってしまいますと、事実上裁判をする
意味がないだろうというふうにも思われるところで、いずれにしましても、
憲法価値に対する一定の配慮というものが必要ではないかというふうに思います。
なお、
行政訴訟が現在深刻な機能不全に陥っているということについては、実は戦後
法制とやっぱりかかわりがありまして、戦前は、
我が国は
ドイツ型の
行政裁判所という特別裁判所を持っておったんですけれども、戦後は、アメリカ法に特別裁判所という概念がございませんでしたので、これは非民主的な裁判所であるということで
憲法の明文で禁止をされております。
そこで、現在は通常の司法裁判所が民事事件、刑事事件共に
行政事件を扱っているのですけれども、これは客観的に申し上げて、
行政訴訟というのは門前払いが極端に多くて、これは司法統計で計算しますと、通常事件の大体六十倍の却下があるという数字が出てくるんですけれども、何といいますか、事実上の裁判拒絶みたいなことが日常化しているような
状況にございます。これは、
憲法の理念ということからしますと、今の裁判制度がどうもそれに合っていないのではないかという疑問を持つところであります。
そのほか、原発テロ対策との
関係では海の問題というのがあって、戦後、海の問題って放置されているんですけれども、これは国家主権と密接にかかわるのでちょっと
人権の話ではないんだろうと思うんですけれども、
憲法上の課題として取り上げる価値はあるのではないかということを
一言申し上げたいと思います。
あるいは、
行政組織の在り方という点に関しましては、現在
議論あるようですけれども、政治が科学技術に対してどういう立ち位置であるべきかという問題について言いますと、今回の事故を教訓といたしまして、レジュメに書きましたけれども、例えば、
行政は科学的でなければならず、国はこれを確保する責務を有するというような一文があってもいいのかなというふうに思ったりするところであります。
最後、まとめでございますが、まず
憲法価値の設定というのは、これはやっぱり国民の
代表者である議員の先生方の専権事項ではないかなというふうに思っておるんですけれども、私として申し上げたいのは二点目でして、
憲法の価値というのが結局個別法に生かされていないと余り
意味がないんですね。
経験的に言って、実務というのは
憲法と無
関係に展開していくものなので、ここに何か仕掛けが必要だろうというふうに思います。あるいは三点目は、
人権保障の
仕組みといたしまして、これも
人権保障システムも画餅に帰してしまっては
意味がありませんので、それを担保する
仕組みというのが必要であろうと。そういう
意味では、裁判所だけじゃないんですけれども、
権利救済の
仕組みというのも併せて考えていく必要があるだろうというふうに思っております。
以上で私の
意見陳述を終わらせていただきます。
どうもありがとうございました。