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参考人(
似鳥昭雄君) じゃ、早速させていただきます。二十分いただいておりますので、説明させていただきます。
それでは、まずスタートを
お願いします。(
資料映写)
うちの現在の概要なんですが、一九六七年に私が二十三歳のときに始めました。そして、五年後、三百万円で
会社をつくりまして、現在は売上げが三千百四十三億円、
連結利益で五百三十六億円であります。
資本金は百三十三億ですね。最初は
家具店から始めました。ですが、今は
家具は四六%、その他のインテリアと言われる
ホームファッション、五四%です。
店は二百六十四
店舗で、
台湾が約十
店舗。内訳は、
ニトリホールディングスというのは昨年つくりまして、物流の
会社もそのときにつくりました。ホームロジですね。合わせまして一万四千六百六十一名と、
社員が三千三百名、
ナショナルスタッフというのは
外国人であります、四百五十九名。それからニトリファニチャーは、これも
外国人でありまして、
スマトラ島メダンに千三百名、それは十六年前につくりました。そして、六年前につくったのがベトナムのハノイに今千七百人と、
日本人は両方合わせて十人であります。
あと、
ニトリパブリックというのは
広告会社であります。東証一部が二〇〇二年に上場いたしました。
企業理念ですね。私どもでは
ロマンと。
ロマンと
ビジョン、
ロマンと
ビジョンといつも言っておりますが、志、人のため世のため進めることなんですが、
欧米並みの住まいの豊かさを
日本の
人々に提供する。そして、最近は、
プラス、今、
台湾、今度は、再来年は
アメリカということが計画されていますので、
世界の
人々に提供するということにしました。
創業当時なんですが、一九六七年ですね。このように、私もサラ
リーマン一年ぐらいいたしまして、それから土木、住宅の基礎工事とか、それから水道本管、給水工事をやりまして、その後、首になりましたので、結局は自分で何かしなければならないと。二十三歳のとき、独身で、親戚から百万円を借りてスタートしました。最初はこの店は三十坪ですね。一月四十万しか売れなくて、当初は非常に食べれなくて、いつ倒産してもおかしくなかったという状況でありました。ここからスタートしまして、この後、今度、二階に住んでいましたが、二階の方も売場にしまして、一年目の売上げが約一千万円、年商が一千万円弱でありました。
そして、ここ、二店目が
昭和四十七年、三年後ぐらいにオープンしましたが、また大きい店、五倍ぐらいの大きい店が倒産しそうになりまして、その後、
アメリカは一回倒産する前に行ってみたいということで、また親戚から四十万円借りて
アメリカに行った後、
アメリカに行きましたら、このように衝撃を受けました。
日本では商品を買う場合、考えてから、見てから、名札を見てから、価格を見てから買うと。だから、悩んでから買うと。
アメリカに行くと、特にウォルマートなんかは、価格見ないでカートにもう好きな感じのをどんどん投げ込んで、レジ通ればほとんど変わらないという。価格は三分の一ですね。買物の楽しさというのは、やっぱり価格を見ないで買物ができるということが一番楽しいということが分かりました。
日本は非常に、三倍高いわけですね。給料が、大体所得が
アメリカ人も
日本人も同じぐらいでしたが、
日本人だけが何で三倍高いものを買わされるんだろうという衝撃を受けましたですね。
それから、
日本の場合にはメーカーが川上に立って、卸屋さん、私
たち小売ですから、もう常にメーカーさんが
自分たちの考えで作った、売る立場ですね。そうじゃなくて、
アメリカの場合は、小売業が川上に立って、そしてメーカーが下請ということでありますので、買う、使う立場で商品が作られていると。
三つ目が、
日本の場合は多目的、多用途が多いんですが、あちらの場合はTPOS、特にス
タイルですね、がらがらっとス
タイルを変えて、その中から選べると。サイズは、
日本は少ないんですが、
アメリカは多いということですね。それから、品種が、
日本は少なくて
アメリカは多いと。
それから、組合せの場合はちぐはぐ、
日本の場合には。私
たち、
家具でも、食器棚作っている、ベッド作っている、たんす作っている、みんなメーカー別々です。カーテン作っている、カーペット作っている、皿作っている、もうみんな別、ばらばらですから、形もデザインもス
タイルもカラーも、組合せなんということは絶対一〇〇%できないと。それに比べて、
アメリカの住宅に行くと、みんなトータルにコーディネートされていると。大体、色は一家で三色以内と。
日本は何十色もあるわけですね。形もデザインも価格も違うと。どうしてこんなに違うんだろうかというと、やはり
日本はメーカー主導であって、
アメリカは小売業が企画、設計、デザイン全てのことをやっているということですね。で、商社が少ないと。
そこで、私二十七のときなんですが、お金はないけれど一生を懸けて
アメリカのように
日本人の暮らしを豊かにしたいという、考え方を変えまして六十年計画を作りました。二十七ですから、まあ六十年というと八十八歳ですね。その前半の三十年、後半の三十年というふうに作りまして、前半は、当時一億六千万でして、二
店舗でしたが、一千億、百
店舗目標と、それに一部上場を最終的に向かうと。
それから、札幌出身でありましたが、札幌から道内、そして全国にと、ナショナルチェーンという
ビジョンですね。それから、
家具屋から発想でしたが、家の中を全部総合的に提案するという、そういうホームファニシングというふうに
アメリカにありましたので、
アメリカをまねて
日本で普及活動をしようということで現在に至っておりまして、二〇〇二年で三十年が終わりました。一年違いで達成できまして、次の三十年計画を、今九年目であります。
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皆さん、釈迦に説法で、大変御成功された方ばかりで私が生意気なことを言うのはおこがましいんでございますが、私のそのままの経験でありますが、
アメリカの行く前ですね、私は樺太というかサハリンの引揚げでありまして、一家が全然金がなくて食べていくのに大変だと。うちのおふくろも米のやみ米をやってそれで生計を立てていた、父親はソ連に抑留されてかなり後から帰ってきたけれども日雇という、そういう貧乏で学校もろくに両方とも行けなくて、私は一応行かせてもらったんですが、非常に出来が悪くてコンプレックスの塊でありまして、このように、仕方がないと、それから宿命であると、自分のことだけ努力しようとか、楽々、もう明日のことは余り考えないとか行き当たりばったりとか、そういう木を見て森を見ずというか、こういう方でしたね。商売を始めても、もう売上げ、売上げ、売上げということでした。
ところが、
アメリカへ行ってから少しずつ変えまして、やっぱり志であると、人のため世のため何とか変えていきたいと。結果、理想主義であって、生きがいと。死ぬまで一生の間、八十、九十までやっぱり人のために生きていこうと、
人々の幸せにつながる努力ですね、そうしないと生きていく価値はないなと、そういうふうに思うようになりました。
で、超ハードワークでありまして、土曜日、日曜日もないと。そして、六十年計画、三十年計画の逆算ですね、両方とも方向が悪くて倒産したりしましたが、やっぱり方向、進む方向が、現在の方向ではなくて何か
特徴を持って将来に対してこうなるんではないかという
経営戦略ですね、それを常に人よりも先に、五年先に手を打っていこうと、そして方法が間違っていないかどうか、手順も優先順位からなっていないかということを考えてやってきました。
それはやっぱり木を見て森を見ずじゃなくて、やっぱり山からと、それから木の部分も見えない根元の部分から見ていくとか、
あとは、一面的でなくて四次元というか、縦横、上からとか、立体的にして三提案をしようというのはうちの社風であります。
それから、前例から学ぶというのは、もう
アメリカとかヨーロッパとか成功した
企業を学んでそれを
日本で取り入れると。そして売上高ではなくて客数であると、社会貢献のバロメーターはお客がどれだけ増えたかと、減った場合にはもうその店とか
企業は要らないというふうに宣告されたものと思って、そのときは閉鎖しようと、
社員でいつもそういう合い言葉でしました。政治が悪いとか、状況が悪いとか、景気が悪いとかいうのは、天気の、寒いから売れないとか、暑いからとか、早いとか遅いとかいうのと同じですね。私
たちだけでとにかくそれは打破していこうということで、客数を増やしていくということですね。
それから、店数は、やっぱり一店よりも十店、三十店、百店。百店やることによって標準化によってコストが下がっていくと。二百店やることによって更に倍のパワーアップがするということですね。やっぱり店数が、そしてまた
日本全国、十万人とか五万人の地区というのはいい店がなかなか行かないんですよね。だから、経費掛かるけど、そういう都市に店を出して、その地域の人にいいものを安くという、そしてコーディネートが楽しめると、センスのないお父さん、農業とか漁業の方でも一気にコーディネートが楽しめて気楽に買えるということをしていきましょうという、それが一つの社会貢献であるというふうに考えて取り組んできました。
次は、
ロマンと
ビジョンなんですが、前半の
ビジョンが終わりまして、今この三十年計画の二〇一一年なんですが、今年で二百七十二店になります。来年が三百店を超えて、そしてその十年後は千店、その十年後は三千店というふうに、これから
日本から、
台湾ですけどアジアは後にして、
アメリカ、一番
世界で競争の激しい
アメリカに行って、そして
アメリカのチェーンストアと戦って、戦うというか競争して、
アメリカ人のよりも
日本の
企業が、ニトリファンにさせると。そして、次はヨーロッパ、全
世界というふうに考えて、棒ほど願って針ほどかなうといいますか、できそうもない計画を作ったんですが、それもできましたので、今度はこういうような大きな目標を立てて、僕は必ずいくと思いますよね。やっぱりこれは全
社員が総力を結集していけばどんなことでも可能でないかなというふうに思っています。
結果的に売上げが三兆円という数字になりますが、北海道の
企業においても、やっぱりもっと津軽海峡を渡って、怖いんですよね。私も怖くて本当は行きたくなかったんですけど、
社員に後押しされて、本州に行かないともう辞めるというふうに言われまして、仕方なしに東京にとか、最初は茨城に来て、千葉に来て、なかなかうまくいかなくて、神奈川に来てから売れるようになって、そして、ああ、人口の多いところが一番だと思って、東京、埼玉、そして大阪とか、それから飛躍的に伸びるようになりました。
そして、今度は、
日本の
企業も
海外にやっぱり打って出るということをまず小売業でも、ユニクロさんとも、僕は柳井さんとも友達なんですけど、どんどん我々が
海外に行って、売上げも利益も店数も増やしていこうというふうに誓い合っております。
具体的に、
海外輸入、直輸入への取組ということですね。こういうふうに、一九八二年、
海外直輸入開始。そのときは一ドル二百五十円でした。今は七十円台ですが、かなり
円高になっております。一九九四年にインドネシア
工場ですね、そして二〇〇四年にベトナム、ファニチャーをつくりまして、現在は三千人ということです。
一番初めは、旭川の
工場を、倒産しそうなんで、そこの専務から買ってくれと言われて、
従業員を引き受けたんですね。そのときは二百何十名でした。旭川でしばらくやったんですが、うまくいかなくて、中国の深センというところで扉を作って、
タイのハジャイで箱を作ってと。それでもうまくいかなくて、やっぱり一〇〇%人事権と財務権がないと駄目だということで、そのときにインドネシアでたまたま一〇〇%外資
オーケーということがありましたので、進出したのが一九九四年です。
当時は、インドネシアの年収は五万円でしたね、賃金が。今は二十五万円に上がっています。ベトナム
工場も、進出したときには年収五万円の給料ですね。だから月三千円、大体三千円ぐらいからスタート、月給三千円ぐらいからスタートですね。今現在はベトナムも年収十五万ぐらいと。だから
日本人、四百万ぐらいですから、やはり十分の一、二十分の一なんですね。
だから、どんなことしてももうかなわないと、だから先に
海外行って
日本の
技術を教えて、そして
日本に輸入する、又はアジアとか
海外に輸出するという形が絶対必要だと、でないと生き残れないというふうに私
たちはそう思いまして、首から上が
日本人の企画、設計、デザイン、その
ノウハウを得るのは
アメリカとヨーロッパと、それを
日本流にアレンジして、そして体はアジア各国のところと。これからはミャンマーとかカンボジア、また今現在はアフリカ、南米の方にも企画しておりますが、常に早め早めに手を打って取り組んでいくと。私
たちも今度農業の方から、具体的に言うともう綿が二倍に上がりましたので、中国含めて、だからアフリカのあるところに
調査して、そこで綿作りから始めたいというふうに今思っています。
このように、企画、設計、デザインから、年十二万コンテナですね、
日本最大だと思いますが、それを全部、
海外の
工場から港、港から船舶、
会社と契約しまして、
日本の全国ということをやっております。
それから、社会貢献のバロメーターとしまして、今四千三百万人お買上げいただいておりまして、一五年には八千五百万人がお買上げですね、来場者はこの二・五倍ということになります。
それから、
海外輸入品売上げ構成比で一九八八年は二・五%でした。今は、現在八〇%が輸入で、二〇%が
日本で作っておるということになります。
それから次、急速な
円高が進行してこういう状態が、景気が下振れ、
産業の
空洞化、
円高メリットと、こういうことになっております。
ニトリの取組としましては、安さの実現と
ロマンの実現と社会への貢献と。
もう
最後になりましたが、
円高の、まあ
皆さん、釈迦に説法で、当たり前に
皆さん御存じですが、一応こういう
円高のメリット、デメリットということを書いてきました。原材料が安く手に入る、商品も安く入るということでございます。MアンドAもしやすくなると。
日本の主な、これも
皆さんデータ持っていると思いますけれども、輸出品目と輸入品目の構成比ですね。こういうふうになっております。
世界各国の輸出依存度ですね。
日本は高いようでそうでもないんで、一一・四%ですね。
タイ、韓国、ドイツ三三と。中国、ロシア、イギリス、フランス、このように輸出依存度、
アメリカ合衆国は七・四で少ない。そして一方では輸入依存度ですね、
タイで五〇、ドイツで二八とか、
日本は一〇・八%と、このように
アメリカ合衆国より低いというふうになっております。
もう終わりますが、
あと、
円高というと、一例なんですが、一九四九年、イギリスの一ポンドは千八円でした。今現在百十八円、約十分の一になっております。
日本も、これですと三百六十円から十分の一だと三十六円、このときの一二%ですと四十三円ですね、特殊な例でありますが。これは人類の経験法則で、どんなにいろんなことがあろうが、だんだんそういう傾向になっていくんではなかろうかなというふうに思っております。
それに対して、生意気ですけれども、やはり
産業の
空洞化ということがありまして、
アメリカみたく第三次、第四次
産業にもう就業人口が移っております。
日本も同じように規制緩和をしていただければ、まだまだ僕はそういうふうに雇用の拡大が得られると思うんですよね。是非そういうことも取り上げていただき、検討していただけたら有り難いなというふうに思っておりまして、時間が来ましたので終わりとします。
どうもありがとうございました。