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参考人(
池田昌弘君)
池田と申します。本日はよろしくお願いいたします。(
資料映写)
私は、実践を通しての提案ということで、
パワーポイントを使って進めたいというふうに思っております。
私
ども、
全国コミュニティライフサ
ポートセンターは、誰もが
地域でその人らしく最期まで住み続けられるような
地域社会を
実現しようとしている様々な
団体のネットワークを
支援しているということで、これまで特別養護老人ホームのユニットケアあるいは小規模多機能ケア、
共生ケアというようなものを実践者と制度に向けての
活動をさせていただいてきました。
今回の
震災では、
震災後二日目に、
東北関東大震災・
共同支援ネットワークというグループを、特に介護の
全国のネットワークの
人たちと共同して、避難所あるいは介護施設等への介護、看護の専門職の派遣というふうなことの
活動を進めてきました。
資料をお渡ししている中に、これまでの間、十一月二十五日までの間に千七百人の方に登録いただいて、二十九の施設あるいは避難所に約一万三千人の方、延べですけれ
ども、
活動をいただいてきました。あわせて、物資それから介護施設の公用車あるいは職員の通勤車両の提供もさせていただいてきました。
今日は、その中で、やはりその人らしく最期まで
地域で暮らし続けられるように、もう既に避難所はなくなりましたが、避難期、
仮設期、
復興期、それぞれに孤立の防止、そして支え合う
地域コミュニティーの構築がやっぱり求められているということを実感しています。
特に、私
どもでは今五つの
支援の必要性を感じていまして、一点が、多くの
支援者の方は
仮設住宅に向かうんですけれ
ども、
仮設住宅はいずれ自立できる方が少しずつ自立していって、これまでの阪神・淡路大
震災等の経験からですと、
支援の必要な方が多く残っていくというふうに言われていますので、その意味では、
仮設住宅の隣接する
地域の
人たちも含めた一体的な
支援あるいは支え合いが必要だというふうに感じています。もう一点は、津波の被害から逃れた住宅が点在するような集落の
支援。そして、みなし
仮設と言われています借り上げ
仮設や、親戚や知人のお宅に暮らしている避難者の
支援。
四つ目は、原発二十キロ圏域から集団避難している
人たち。そして五つ目が、自主避難も含めて
全国に離散する
被災者の
支援というようなことを、今、私
どもで
支援をするというような
活動をさせていただいています。
今、
宮城県では、
被災者を
支援する
支援員が約一千人
雇用されています。厚労省の老健局あるいは社会・援護局、そして緊急
雇用対策で採用されている方がそれぞれ
活動されていまして、
皆様それぞれ
被災者であり、これまで保健、福祉、医療の経験のない方々が
支援者として
活動しているんですが、その方々の研修ということでいうと、それぞれ
雇用されてそれぞれ
活動先に行くんですけれ
ども、そうしますと、皆さん、
仮設住宅に向かっていって、別々に
雇用されている関係で
活動先でバッティングしてしまうようなことが起きてくるというようなこともあるので、できれば、採用の予算は別として、
活動先では協働できるような研修が今求められているということで
活動をしてきています。これは、岩手と
福島県においてもそのような
活動が必要だというふうに感じています。
あわせて、岩手県と
宮城県の県境、そして
宮城県と
福島の県境の
支援者の交流というのも今求められてきているというふうに感じています。特に
宮城県の
福島県境の方々については、原発等の
福島県と同じような
課題を抱えて暮らされている方がいらっしゃるので、その意味では、それぞれ三県で今施策が進んでおりますが、それぞれの県境の
人たちの
支援ということにも目を向けていく必要があるのではないかというふうに感じています。
このように、
被災者支援に
活動する
一般の
支援員の方々が
復興期において町をおこしていく、あるいはその
地域福祉の社会をつくっていくに当たってこの
被災者支援の
活動が大いに役立っていくだろうというふうに感じています。
ここで、避難期のときの
活動をちょっと紹介をさせていただいて、今後のことについて提案をさせていただきたいというふうに思っています。
これは、
宮城県
仙台市青葉区の国見という地区にあります、ふるさと
雇用再生特別
基金で
仙台市の企画提案型という形で運営されている「ひなたぼっこ」というところです。
ここは、制度から漏れる
人たちに対応するということで、元学生下宿を活用して運営されています。部屋が十三部屋ありまして、制度で対応できない方々を、おととしの十二月から運営をしているんですけれ
ども、今回ここがボランティアの拠点にもなりましたので、こんな形でボランティアの
コーディネートの拠点にもなりましたが、もう一方、自宅で暮らせなくなってしまった高齢者の方や、あるいは
福島県から親子で避難してきた方々がここで一時期住まわれていましたが、この間、この被災されてきた高齢者の方々が
地域で被災されてガス、電気がない時期、そしてお店が開かなかった時期にお弁当の宅配をここでさせていただいていたんですが、その間、避難してきた
人たちが、自分
たちも何かしなきゃということで
活動をしていただきました。
今回、
活動の中で、この「ひなたぼっこ」というところから半径一キロ、一キロ半、二キロというふうになっておりますが、ここで、在宅で、ガスが来なくて、お店が開かなくて、高齢者で食事を作るあるいは食材を買うことができないという方の配食、そして、訪ねてみますと、どうですかと聞きますと、いや、大丈夫ですと言う高齢者の方が多かったんですが、家の中をのぞかせていただきますと、たんすが倒れている中で、そのすき間で暮らしている高齢者の方もたくさんいらっしゃったんですが、そういう方の片付け、あるいは余震等で不安で暮らせない方に住んでいただいたりというようなことや、買物代行、それから介護者の方でおむつが買えない、あるいはお子さんを育てる中で子供のおむつが買えないとか、お風呂に入れないのでお風呂ツアーをしたりというようなことの
活動をさせていただいてきました。これは、多分、
仮設期においても、あるいは
復興においても、これから高齢期で暮らしにくくなった
人たちに、
地域の住民の方と共同してこういった
支援の必要な方を支えていくということはとても重要になるのではないかということを感じています。
同じように、これは石巻市の桃生公民館というところですが、この隣に桃生小学校の避難所がありましたが、避難所で暮らしている方々にとっても、ここはボランティアの拠点になっていたんですけれ
ども、そこに造った
仮設のお風呂に避難所の方がやってきたり、あるいはこの公民館で食事作りをして、サロンをすることで、避難所の方々が津波のことを忘れるというような
活動をされました。その意味では、避難所の時期においても、出かけていくような場が求められていたのではないかというふうに感じています。
その上で、
復興構想
会議の検討部会で専門
委員として提案させていただいたのは、
地域支え合いセンターというものです。今回、
支援センターという言い方が強くあって、
支援する、されるというようなセンターのイメージがあるんですが、やはり、
大滝参考人の話にもありましたが、
被災者自身が支え合って
復興をしていくというようなことが求められているのではないかというようなことのための支え合いセンターというような場が求められているのではないかということを提案させていただきました。これは専門職だけではなくて、
地域住民と専門職と
自治体な
ども一緒になって運営していくということが求められているという提案をさせていただいています。
介護保険が十年前にできるときに、介護の社会化ということを言われておりましたが、介護保険の
お金は社会化されたんですけれ
ども、介護は家族介護が専門職介護に移っただけで、実は、家族とその
地域社会で支え合うというような場は余り発達しない中で来たのではないかというふうに思っています。
その意味では、今回は、専門職と
地域住民と
自治体な
ども参加をして支え合っていく社会をつくる拠点が校区程度に整備していく必要があるというふうに考えておりまして、その中では、
仕事づくりとか生活資源の開発、お店をつくったり、移動販売も
地域住民で取り組んでいくというようなことも進めていくことが必要になると
思いますし、こういう
地域支え合いセンターの
支援を市町村、そして都道府県にも、その支え合いセンターの
支援センターの整備が必要だというふうに考えています、これは先ほど申し上げたとおりで。
これも先ほど申し上げましたように、家族介護から専門職、制度前の専門職介護は整備されたんですが、この間も埋めていかないと、
地域で最期までその人らしく過ごすということはやはり困難なのではないかということで、こういった専門職と
地域住民の共同の
地域ケアが必要になってきているというふうに思っています。
そういう中で、
共生社会を目指して、これまでのどちらかというと分野型の分別型福祉から、小
地域型
共生福祉への転換が求められているのではないかというふうに考えています。
この度の
震災でも、障害のある息子さん、娘さんと一緒にその親が避難をされたという中で、石巻市の知的障害者の施設の中には親も一緒に避難をしてきたという方々がいらっしゃいました。この方々を制度で
支援しようとすると、親が一緒に住めないというのが今
現状にあります。もう一方、
支援の必要な方とその介護をされる御夫婦も、一方は介護保険施設に入居することができますが、その際には一方の自立した方は一緒に施設に入居するということは困難だというふうになっております。そういう中で、一緒に暮らすことができるようなことが
一つ求められてくるのだろうというふうに
思います。
あわせて、高齢者保健福祉計画、あるいは
地域福祉計画などで、できるだけその人らしく最期まで
地域で暮らすということがどこの
自治体の計画でもうたわれておりますが、なかなかその
実現は近くありません。そういう意味では、せっかく理念として計画にうたっているものをどうやって
実現できるかということの具体策が、あるいは具体的な
支援策が求められているのではないかというふうに考えています。
富山に、富山型デイサービスということで、同じ場所でお年寄りと子供と障害を持った方が過ごす富山型デイサービス、別名
共生型サービスというものがありますが、この東北の特に沿岸部の小さな町あるいは集落においては、高齢者の施設あるいは障害者の施設あるいは子供の施設をそれぞれに整備するということよりも、高齢者の施設でも近隣の子供や障害を持っている方が利用できますよ、障害者の施設でも隣に住んでいる高齢者や子供が利用できますよというような形で、従来の分野型のサービスを少しほかの利用者にも開放していくような形で、小
地域型の
共生福祉への転換が今大きく求められてきているというふうに考えています。
五番目に、
全国で避難生活を送る
被災者の方の
支援、それから、元住んでいた
地域とのつながりの
支援のことについて取り組んでいる中での提案をさせていただきたいと
思います。
現在、例えば大阪府の豊中市では、豊中に避難された日から孤立させないということで、三月、
震災直後から、全小学校区、豊中市は三十九万で三十八小学校区に住民の
組織である校区福祉
委員会というのが設立されているんですが、この方々と
支援物資を集め、そしてこの方々と一緒に避難されてきた方のお宅に
情報も提供しているというような
活動をされています。
そのほか、
被災者の交流会、あるいは困ったことを相談に乗るような場づくりをされておりますが、こういった
活動をよその市町村にも先駆的な実践を伝えていくような、あるいはお互いに実践を交換するような
取組が求められているのではないかというふうに思っています。
これは豊中の例ですけれ
ども、豊中市のライフセーフティネットという
仕組みがあります。豊中市がなぜ
全国から避難してきた方々をすぐ支えることができたかというと、実は日常的に
地域で困った人がいるときには
市民の方と一緒になって支え合うという関係がつくられていた。
なおかつ、
市民の方が福祉なんでも相談窓口の相談員をされていて、そこで発見した
活動を専門職や市の行政と一緒になって
問題解決をしていくというようなことの
仕組みがしっかりできていて、
課題があったら、市役所でこたえられないということではなくて、市役所でどうこたえていくかということを市と専門職を含めて協議をし、解決する問題を日々積み重ねているという
取組があって、今回、
全国から避難されてきた方の
支援も取り組まれているということを考えますと、
震災のときだけではなくて、日常的に自分の市町村の住民を支えていくということが、ひいては
全国の
支援の必要な方々も受け入れ、つなげていくということにつながるのではないかというふうに感じています。
あわせて、避難者の方々は皆さん
地元のことが気になっていらっしゃいますので、その意味では、被災、避難してきた元々の
地域との交流、つなげていくような
情報提供や交流も必要になってきているというふうに感じています。この辺は
福島大学等でも取り組まれているので、ネットワークをしながら
支援をしていくということを取り組ませていただいています。
最後に、これも
大滝参考人からありましたが、我々
被災地に本拠のある
NPOが
支援活動に参加していく中で、
一つは、小さな
NPO等がなかなか実際に
復興支援にかかわれないでいるという現実もあって、そういう中では、
全国で行動力のある方々と違って、
被災地の小さな
NPO等が
復興にかかわっていくような
支援策が必要になってくるというふうに思っていますし、これは私
どもの
NPOでも同じですが、何らかの公的な
支援も含めて御協力いただきたいなというふうに思っています。
以上です。