○石破
委員 自由
民主党の石破茂であります。
私は幾つか問題意識を持っているのですが、主権は
国民に存するという
国民主権の原理は、確かに小学校から教わってきました。これに何ら異論はありません。主権者とはいかなるものかということについては、また何かの機会に
議論をさせていただきたいと思います。
ただ、この国の
憲法に国家主権という概念がどこにあるのかということだと私は思っております。
非常事態条項にしても、
国民の
権利や自由を守ってくれる主体はあくまで国家なのであって、その国家そのものが存亡の危機に瀕したときに、国家存立のために、かなり厳格な条件を付した上で
国民に義務を求め
権利を制限するということは、自由と
権利を護持するためにこそ必要なものだと私は思っております。その
規定がないということはどういうことか。
もう
一つは、軍と警察はどこが違うかといえば、国家の独立を守るのは軍であり、
国民の生命財産、公の秩序を守るのが警察であります。軍の警察的流用はありますが、警察の軍的流用というのは絶対に概念としてあり得ません。そうすると、この
規定も
憲法にないというのはどういうことか。
つまり、国家主権とか国家の独立というのがすべてこの
憲法から落ちているというのは、それは占領期にこの
憲法ができたからだということと密接な関係があるという論理的な必然だというふうに思わざるを得ないのであります。さればこそ、
日本国が独立を果たした後に誕生した自由
民主党は、自主
憲法の制定ということを掲げてきた。
私は、占領下にできた
憲法だから無効だという説をとりません。強迫とかあるいは詐欺とか錯誤による意思表示でも、それは取り消し、無効という法的効果がきちんと書いてあるのであって、これは占領下にできたのだからということは何らエクスキューズになると私は思っておりませんし、だから無効だとも考えておりません。
国家主権というものをどのように考えるかということは極めて重要なことだと私は思っております。
憲法九条は
憲法前文とセットですから、
日本国民は、平和を愛好する諸
国民の公正と信義に信頼して、我らの生存を保持しようと決意した。そうじゃなかったらどうするのだという
規定はどこにもない。そしてまた、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争というのと、これは私はセットだと思っております。ですから、芦田修正がありますので何とか何とかつじつまを合わせてはおりますが、やはり本来想定したものではないということだと思います。
私は、この
憲法を制定したとき、あるいは戦争を
経験された
方々、そういう
方々が第一線におられる、あるいはそういうふうに評価される、その間にこの
議論はしておかねばならぬのだと思っております。全くそういう
経験がない者同士でこの
憲法の
改正を
議論するということは、かなり危険なことだと思っております。そのことは何年か前に当時の
民主党の岩国哲人
議員がおっしゃいましたが、そのことに大きな共感を持った次第であります。
いま
一つは、解釈改憲と明文改憲というのをどのように考えるかということでございます。
憲法九条の一項、二項、どこからもロジカルに集団的自衛権は使えないというのは出てきません。どう考えてもロジカルには出てこない。国際紛争を解決する手段だから、それはもうおかしな
議論です。あるいは、交戦権の行使につながるから、これも違います。ロジカルには出てこないはずです。だとするならば、
憲法の解釈が正しいのであれば
憲法を
改正しなければならないが、解釈を誤っているのであれば、それは
法律を
改正すれば足りるのであろうという
議論は必ず成り立つものだと思っております。
衆参両院で過半数をもって
法律を制定するということに対して内閣法制局が何か力を持ち得るかといえば、それはそうではないと思っております。それは、国権の最高機関の最高機関たるゆえんだと思っています。だから、内閣法制局が悪いのだとか長官をかえろとか、そのようなことを
国会が言ってはならないと私は思っております。その
議論もきちんとしていきたい。
明文改憲、解釈改憲、私も当然、九十六条を
改正し、
憲法の
改正への
手続は経るべきだと思っております。しかし、何を明文改憲に付するか、何が解釈でできるのかということは、きちんと
議論をし、結論を出さねばならないことであります。
長年、私もこの
議論に携わってまいりました。そんなに長く時間があるとは思っておりません。
議論することに意味があるのではなく、結論を出すことに意味がある、そのように思っております。
以上であります。