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神本美恵子君 去る六月九日、岩手県において、東日本大
震災による
児童生徒及び
学校施設の
被災状況等に関する
実情を
調査してまいりましたので、その概要を御
報告申し上げます。
派遣委員は、
二之湯委員長、藤谷理事、橋本理事、水落理事、
大島委員、
斎藤委員、
横峯委員、
石井委員、上野
委員、
熊谷委員、草川
委員、そして私、神本でございます。
東日本大
震災によって、
学校も、そこに学ぶ
児童生徒も大きな被害を受けました。しかし、壊滅的な被害を受けた
被災地にあっても、
避難所として、
地域住民の拠点として、
学校はかけがえのない
役割を果たしてきました。あれから三か月が過ぎた現在、
被災地の各
学校においても
授業が再開され、瓦れきの中にあっても、
子供たちは日常を取り戻しつつあります。このような時期に
学校を訪問し、
実情を
調査することが今回の
委員派遣の目的でございます。
まず、宮古市内におきまして、宮古市長、宮古市議会議長及び宮古市
教育長と意見交換を行いました。
意見交換の中で、
震災後の教職員の活躍に関する
お話がありました。
学校の
先生は、ふだんから
子供たちを統率して班分けするなど、いわゆる学級集団づくりに慣れております。このことが
避難所で生かされ、避難された
住民をグループ分けし、リーダーを決め、仕事を分担させるなどして、
避難所に規律を持たせることに大きく貢献されたそうです。また、二週間自宅にも帰れず、献身的に
避難所で働いた教職員もあったとのことでした。
なお、宮古市長から、小中
学校教員の加配の継続等についての
要望書をいただきました。
次に、宮古市立鍬ヶ崎
小学校を訪問いたしました。
初めに、
震災当日の緊迫した避難の様子を御紹介いただきました。昭和三陸大津波の日として
震災前の三月三日に避難訓練が
実施されたこともあり、地震発生直後には、訓練どおり約二百人の児童が十数分のうちに
学校そばの神社の高台に避難できました。その後、安全が確認でき、保護者に引き渡せる児童は引き渡し、三十名程度の児童が
学校で心細い一夜を過ごすことになりましたが、翌日の昼までにはほとんど保護者の下へ帰ることができたそうです。一方、教職員の
皆さんは、御自身の家族の安否や家屋の状態も分からぬまま、全員三日間
学校にとどまり、避難された
住民の
対応に当たりました。三月十六日、児童に卒業証書、修了証書を授与した後は、三交代の過酷な勤務態勢の下で、再び避難された
住民の
支援へと従事されました。こうした奮闘の中、四月二十五日に
平成二十三年度始業式を迎えることができました。
鍬ヶ崎
小学校は、以前から防災
教育について熱心に取り組んでおり、津波防災カルタや鍬ヶ崎地区の防災マップの作成により、
子供たちの防災意識を高めてまいりました。ただ、残念なことに、防災マップに関しては、原稿を印刷所へ持ち込む日が
震災当日であったため、ついに日の目を見ることがなくなってしまいました。
子供の心のケアについては、
震災加配教員が配置され、きめ細かな観察と
対応が可能となりました。また、神奈川県のカウンセラーが六週にわたって交代で派遣され、
子供たちを丁寧に見てくれたとのことです。
校長先生の御
指摘として、
子供たちの心のケアには保護者のケアが大前提であり、保護者のケアとは、失業した保護者へは就業
支援、家をなくした保護者へは
仮設住宅の提供など、ただ寄り添うだけではない具体的な
支援が必要となるとのことでした。
学校側の御
説明の後、校舎の屋上に上がり、鍬ヶ崎の町を見渡しました。
子供たちが避難した神社の高台が
体育館の奥にあり、瓦れきが撤去され、僅かに残った建物の向こうには海が見通せました。校庭に目を移すと、週末の
運動会に備えて
子供たちが予行演習をしていました。
子供たちは、私
たち派遣委員に気付くと校庭から元気いっぱい大きく手を振ってくれました。鍬ケ崎の変わり果てた町を見て、津波の恐ろしさを実感するとともに、校庭にいる
子供たちが無事に生き延びてくれたことに感慨もひとしおでございました。
続きまして、鍬ケ崎
小学校から田老地区へ向かう車中において、宮古市危機管理監から宮古市の
被災状況と復興の現状について
説明を受けました。地震直後から大津波が襲来するまでの経過や、電気が消え、通信が途絶え、正確な情報が得られない中での救助活動や救援活動、燃料不足による移動手段の麻痺など、非常に過酷な経験を
お話しいただきました。
説明が終わりますと、バスは田老地区に入り、宮古市立田老第一
小学校に到着いたしました。田老第一
小学校には
被災して校舎が使用できない田老第一中
学校が
学校施設を共用しておりましたので、両校の
実情を伺うことができました。
まず、小学生の
授業を参観いたしました。そこには、どこの
学校とも変わらない
子供たちの笑顔と日常の
授業風景がありました。ただ、廊下には
被災した児童向けの
支援物資が並べられ、校舎のあちこちに全国の
小学校から送られた寄せ書きや応援のメッセージが張り出されていることが、ここが過酷な
被災地であることを物語っておりました。
その後、田老第一
小学校の
お話を
伺いました。
児童の家族の多くが
被災し、保護者を全て亡くした児童が二名おりました。
震災による就学援助申請は六十九名にも上り、その結果、全校児童の半数近くになる九十六名が準要保護児童となってしまいました。家屋が
被災した児童も多く、現在も田老地区の
避難所から二十二名、
仮設住宅からは二十名が通学しています。また、
学校から近い家であっても安全を考慮し、全体の八割以上がスクールバスで通学しております。そのため、スクールバス八台の体制でも一度に全員を運ぶことができず、二往復して通学させている地区もあります。また、御家族の
避難所から
仮設住宅等への移動に伴い、頻繁にスクールバスの運行
計画を変更しなければならず、これが非常に困難な作業のため、加配教員も加えて業務に当たっています。さらに、全国から寄せられた多くの
支援物資に対してお礼をすべく、この業務に対して加配教員二人を担当としています。
校長先生によりますと、
子供たちにも全国からの
支援に対して感謝の気持ちを持つよう
教育していきたいが、
子供たちに作業を
負担させるには量が膨大で、加配教員の力に頼っているとのことでした。また、中
学校が校舎を共用していることについては、今の状態を小中併設校ととらえて、前向きに
評価したいとのことでした。
次に、田老第一中
学校の
お話を
伺いました。
田老第一
小学校の校舎は地震、津波での被害がなかったのに対し、田老第一中
学校は校庭が瓦れきで埋め尽くされてしまいました。今回の
震災によって、中
学校でも六十六名の生徒が就学援助を申請し、認定を受けました。既に要保護、準要保護、二十名が認定されているので、全校生徒百三十一名中、六六%に当たる八十六名の生徒が何らかの経済援助を受けていることになりました。
防災
教育については、地震、津波と火災を想定して年二回の避難訓練を
実施しており、今回の地震の後、約四分という短い時間で校庭に避難できたのは訓練の成果と言ってよいようです。また、昨年九月には、昭和三陸大津波を体験している女性の津波てんでんこという講話を聞き、
地域の伝承を学ぶとともに、防災意識を高めました。てんでんこというのは、津波が来たならば、肉親に構わず各自てんでんばらばらになっても一人で高台へ逃げなさいという
意味で、三陸
地方の津波防災の言い伝えになっています。
校長先生によりますと、今回の経験を風化させずに語り継いで、自分の命をしっかり守ることができる力を付け、田老のため、宮古のため、岩手の未来を展望して努力できる生徒を育てたいとのことでした。
最後に、今回の
調査に当たり、多忙を極める中、御協力いただきました宮古市を始め関係の
皆様方に対しまして、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。宮古市の
要望書につきましては、本日の会議録の末尾に掲載していただくよう
お願い申し上げます。あわせて、
被災地の一日も早い復旧復興を祈念いたしまして、派遣
報告を終わります。
以上です。