○赤松(正)
委員 何だか、要するによくわからないことを言われたんですが、そういう表現
そのものが、
日本的に言うと、僕は防災外交という言い方をしましたけれ
ども、私がきょうこうやって取り上げるのは、法政大学の下斗米伸夫さんですけれ
ども、彼がそういう震災外交という表現を使っているということから、きょう取り上げているわけです。
彼いわく、大きく言って三つある。
一つは安政東海大地震、一八五四年。
二つは関東大震災、これは一九二三年です。三つ目は、これはちょっと小さいんですけれ
ども、小さいと言うと怒られますが、新潟震災、これは一九六四年。この三つの事例を挙げて、とりわけ、それぞれその後に日ロ
関係に変化をもたらしている。
一つ目は、いわゆる安政東海大地震というのは、ディアナ号
事件と言われている、日ロの
関係の中でしばしば、一番原点的なもので、話題になるときに取り上げられるものですけれ
ども、プチャーチンが
日本にやってきたそのときに大地震に直面をした。その大津波、今回と似ていますけれ
ども、その安政東海大地震による津波によってディアナ号が大変大きな痛手を受けた。それに対して、
日本、当時の下田、戸田、このかいわいにおける救助
活動というものが見事な結果を生み出して、その後、日ロ
関係の大きな進展に役立ったというふうなこと。
もちろん、それ以後にいろいろな歴史が日ロ
関係にあるわけですけれ
ども、いわば江戸の終わり、その時点での、言ってみれば、大変に不幸な
事件をきっかけにしていい
方向に進んでいった大きな
一つの事象として、この地震がある。
関東大震災については一九二三年。二年後の一九二五年に日ソの基本
条約。日ソ基本
条約を結ぶに至った機縁になっているということですね。
それから、三つ目の新潟震災。これは新潟とハバロフスクが姉妹都市を結んで、地方都市との
関係が進んでいった。こういうことが
指摘されるわけですね。
こういう観点で見ますと、私は、この
外務委員会においても申し上げたのは、日ロの
関係と北方領土の
関係で、あの一九四五年の八月十五日から九月二日に至るまでの間に非常に不幸な出来事があった。作家の浅田次郎氏が「終わらざる夏」の中で表現しているような、言ってみれば、どさくさに紛れて当時のソ連は
日本を侵略して北方領土を勝手に占領しちゃったという、この観点から、領土の問題に関して、ソ連、そして今のロシアに対しては、私は非常に厳しいまなざしを持って強く言ってきた人間でありますが、同時に、こんなことは
外務省の人たちに釈迦に説法であろうかと思いますけれ
ども、外交は複雑な、総合的な、多面性を持ったものですから、同時に一方で、先ほど来申し上げているような震災というものを機縁にして、言ってみれば、
関係性をより深め、改善していくという
方向に持っていく必要がある、そんなふうに思っているわけですね。
だから、そういう点で、今回の震災においても、過去の事例、わずか三つだけを挙げましたけれ
ども、そうした
意味で、日ロ
関係を一方で大きく前進させる手だてとしての震災外交、防災外交が必要だということを言うわけです。
そこで、今回のロシアの首脳の動き、先ほど副
大臣が早口でぱっと言われましたけれ
ども、物資とか医療
関係の救援に対する
申し出とかそういうものとは別に、ロシアの首脳の動きに、
日本に対する今回の震災について明らかに
関係改善と見るシグナル、そういうものがあるということを
指摘している学者がいますけれ
ども、そうしたシグナルというものについて、それはどの国にもそういうのはありますなんという答え方ではなくて、ロシア限定で、言ってみればプーチンとメドベージェフ、この二人の大統領、首相、この二人の三・一一から今日に至るまでの流れの中で、彼ら二人がとった
行動で印象に残っているものがあれば、答えていただきたいと思います。