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木村仁君 どうもやっぱり異床同夢でありますからなかなか
論点がはっきりしませんが。
それでは、このペーパーを御覧いただきたいと
思います。これは、
日本の
地方自治の
成り立ちを私なりに
理解をして書いたものでございます。
明治の初期に
山県有朋が
市制町村制という
法律を作って
日本の
地方自治制度を発足させるわけでありますが、そのときの
考え方がこの
考え方であります。
図表では、何でもやれるということが一番左の端に書いてあります。一番右には何もやれないというゼロが書いてあります。
日本の
地方自治というのは
概括的授権の
方式というんだそうでありますが、もう御承知のことをあえて釈迦に説法でありますが、そこからスタートするのが
日本の
地方自治であります。これに対して
個別的授権の
方式という
方式がありまして、これは
地方自治の母国と言われる
英国の
制度であります。これは何もできないということからスタートするわけでございます。ただし、やはり
団体の、
公共の福祉でありますとか
存立目的をきちっと達成していくべきものであるということで、その大枠がはまっていることは言うまでもありません。
それで、
日本では何でもやれるということから始まって、しかしそこに国の
専権事項であるよとか、あるいはこれはもう国が先占してしまった
分野ですよとか、それから
地方が独自にやろうとしていることに対して、
必置規制というのは必ずこれはやりなさいと。それから、
枠付け、これは御党がお使われになっている
言葉でありますが、枠をつくってこれからはみ出してはいけませんと。あるいは
負担をさせる。それから、多くの関与があります。
協議、承認、許可、
指導エトセトラ、いろんなものがあります。こういう
規制ががんじがらめになって、
日本では何でもやれるはずなのに何もやれなくなっていると。
これが実は
明治以来百四十年の歴史であったと思うんです。それは、最初からとうとうと
流れている
中央集権の
流れには違いありません。
山県有朋自身が
地方制度をつくるに当たって、どんどん政党化していく国の
政治に対してこれを
地方に及ぼしてはいけないということで、その
セーフガードとして
地方の
有望家たちが、
名望家というんですか、その
人たちが
中心になって
地方自治というものをつくっていくということを
考えたわけですから、基本的には
中央集権的考え方、しかし
制度そのものは非常に
地域集権的な
考え方でできていたんだと私は思っております。
その下にちょっと笑い話みたいな例を出しておきましたけれども、これだとよく分かると
思います。
日本のすぐやる課や何でもやる課は、
住民の要望にこたえて、ため池の
食用ガエル、これはうるさいからですね、それを捕獲したり、あるいは
夫婦げんかの仲裁までやっておりました。これは別に、無駄でありますからやがてそういうことはしなくなりましたが、
権限踰越でも
違法支出でもないと私は
思います。
ところが、
イギリスの
制度はどうかというと、
個々の
法律あるいは
ゼネラルローというんですか、
一般法で授権したり、
個々の
法律で、プライベートローというのは、もう
女王陛下の下では
地方公共団体も市民も一緒でありますから、
地方公共団体が
権限を得ようとすれば、
プライベートアクトというのを国会に出して、そして議決してもらって新しい
権限を取ると、こういうことでずっとそれが重なって
地方自治の機能が大きくなっているんだと私は
考えておりますが。
その例でありまして、
英国の
女王陛下の
オンブズマン、これは
女王陛下と
書きましたのは、
日本の
オンブズマンとは違って、
英国では数少ない
オンブズマンが
女王陛下の任命によってありまして、それがいろんな
国民の苦情を受け付けているそうでありますが、それが
幽霊を
市営住宅から引っ越しさせるよう市に勧告してほしいと要請した
おばあさんに対して出した回答です。非常にこの
オンブズマンというのは人格高潔な方々でありますから、妄想に悩んでいる
おばあさんを冷やかしたりするようなことはしないんです。本件は、私が
申立人に代わって
幽霊を引っ越しさせるよう
自治体に要請すべき事案とは思えなかった、また私は
幽霊が害をなすことを禁止する
権限を
自治体に与える
法律があることを知らないのであると、こういうことを言っておるわけであります。つまり、これは冷やかしでもからかいでも何でもなくて、この
地方団体には
幽霊を追い出すための措置を講ずる
権限はないと、そういうことを言っている、そういう
プライベートアクトはありませんと。
もっとまじめな例でいえば、
路面電車を運行する
権限を得た
地方団体がその
路面電車に荷物を積んで運ぼうとしたら、これは
差止め命令が来て、そして訴訟になって結局その
団体は負けたと、こういう例があります。
日本ではそういうことは
考える必要がないと。なぜならば、何でもできる
地方団体だからであります。
そういうことで、その何でもできるはずの
地方団体、
明治にその
団体ができたときに何を一番にやったかというと、みんな一生懸命
小学校を造ったわけですよね。ですから、伊豆の
岩科学校なんというのはすばらしい
小学校で、ほとんど総
建設費の五%を使って、あそこの名人と言われた何か長七か長八か知りませんけれどものこて絵を講堂に飾ったりしているわけでありまして、そういうのが言わばこの
日本の良き
地方自治の根っこにあった伝統だと思うんです。
それをもう一度私は生かしていくことが必要だと、そういうふうに
考えておりまして、そういう
意味で、
地域主権地域主権というと、何か
地域が
主権を持っていて国とけんかすればいいんだと、そういう
考えになるおそれがあります。こういう元々の姿をもう少し大事にして育てていくようなことが私は必要ではないかと。そのためには、今おっしゃられるとおりの
分権改革というのをやって、そしてどんどんこの
規制の部分を消していけば
理想の姿になっていくんだと
思いますが、私の言っていることはうんと間違っているでしょうか。