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参考人(
山内道雄君) 御紹介いただきました
島根県
隠岐の
海士町長の
山内でございます。
私
どもの小さなステージで取り組んでいることでどんな
お話できるか分かりませんが、今私
どもが取り組んでいることについて少し
お話をしたいと
思います。
その前に
隠岐の
海士町ってどこにあるかということを
先生方もお
思いでしょうけれ
ども、実は日本海に浮かんでいる四つの有人島の中の
一つの小さな島でございまして、竹島問題で、帰属問題でもめていますけれ
ども、それは隣の大きい方の
隠岐の島町で、私の島は隣の島でございます。
人口も今二千四百人ばかりの小さな島で、ただ
奈良時代から御食つ国に認定されているように、豊かな海とそれから名水百選がございまして、米も作っていると。まあ自給自足のできる半農半漁の島でございます。歴史的には、後鳥羽上皇が私の島で十九年有余御配流の身になられましたけれ
ども亡くなられたと、そういうふうな歴史的にはございます。
私が
町長に就任したのが
平成十四年でございますけれ
ども、それまで約、私はその前は
議会議員でございました、十六億ぐらいあった基金、貯金が、私が就任したときには四億に減っていました。そしてまた、
一般会計で今
公共事業も減りましたので四十億ぐらいなんですけれ
ども、借金が百一億五千万ございました。当時のシミュレーションでは、前年、
平成二十年度には
赤字再建団体に転落するという
危機に瀕しておりました。そしてまた、その証拠といいますか、この島といいますか、
隠岐全体、離島はそうだったと
思いますけれ
ども、これまでは
公共事業で生きてきた島、あるいは生かされてきた島だというふうに私は思っていました。
ただ、私
どもの島も昭和二十五年ごろまでには七千人近く
人口がいました。現在は今二千四百人まで減ったと。そしてまた、
高齢化率も三九%を超している。
唯一県立高校がございますけれ
ども、
高校を卒業したら、ほとんどというより、むしろ一〇〇%の
子供たちが出ていく。そして、生まれる
子供も今までは年に十人前後ということで、まさに島は消える寸前というところでございました。
そういう中で私は
町長に就任して、この窮状をどう切り抜けるかということで
職員と一生懸命に考えてきたんですけれ
ども、私は今もって考えていますけれ
ども、
中小企業の
社長だというふうな
思いで、
企業経営も
地域経営も
一緒だと、他力本願ではできないという
思いの中で、いろんな
職員の
意識改革に取り組んでまいりました。やっぱり自ら、島の
未来は自ら築くという
住民の
気概あるいは
職員の
気概が初めて
一緒になって、私は本当の
島づくり、
自立ができるんだというふうに思っています。
島と島との
合併ということについて、私は正直、
住民もそうでしたけれ
ども、
合併メリットを生かせないということで
単独町制をしいてきました。
皆さんの
レジュメの中で、
単独町制の制が政治の政になって間違っているようですけれ
ども、
制度の制でございます。三のところでございます。
そういう中で、実は、
三位一体改革等もございまして、
交付税もまた急に減されたということで、どうすべきかということで、
議員とそして
住民代表、
行政が
一緒になって、
海士町
自立促進プランというのを十六年の四月に作りました。
それは、
一つには徹底した
行財政改革によって守りを固める一方で、
攻めの方策は新たな
産業創出を強力に推進していく。外から原材料を持ってきてやってもとても太刀打ちできませんけれ
ども、島にあるものを使って、いわゆる第一次
産業の
再生というところでやろうということでございました。
私は、自ら身を削らない
改革というのは
住民に支持されないというところから、結果的には、今私は五〇%
カットでやっていますけれ
ども、これは正直言って、
最初にも言いましたように、
経営者としては失格だと思っています。
職員も自ら申し出て、私も泣きましたけれ
ども、課長、係長が十七年三〇%
カットをやったと。今は一九%。冬の
ボーナスと夏の
ボーナスと満額払っていますから、最高一五ぐらいに落ちています。
私は
自分の考えでそういうふうにしていますけれ
ども、それをやってきたといいますか、そのことによって、いろんな
町内で動き、
各種団体、そこに書いてございますけれ
ども、いろんな動きが出てきたということです。
ただ、
職員や
議会の
皆さんから、
カットするだけで、それを
一般財源に入れても目に見えないようでは駄目だということで、
海士町
子育て支援条例を作りました。そこに書いてございますように、
すこやか支援条例の代表的なものを挙げますと、例えば結婚すればペアで二十万、
出産祝い金は三人目五十万、四人目からは百万、あるいは
保育料、第三子からは無料とか。国も
制度を設けましたけれ
ども、私のところでは
産婦人科医院がございません。松江か鳥取、米子へ行ってお産をするわけですから、それの健診、十四回までの健診のお手伝い。あるいは、
Iターンがたくさん来ています。
東京へ帰ってお産すればその旅費の一部とか、いろんなことを今やっております。
そういう中で一番良かったと思うのは、
住民との
一体感が出てきたと。
行政もそこまで頑張るかという中で、いろんなことで、今
ボランティアの話も出ていましたけれ
ども、町の
整備等についても、非常に今まである
程度金を、委託料を払っていましたが、全部返上してきたと。あるいは、
ゲートボール協会とか
バス賃の七十五歳半額ももういいんだということで、非常に
意識が共有できたということで、私は、そういう共有することでやっぱり
危機というのは脱出できるんだなというふうな今
思いを持っています。
一方の、
攻めの戦略なんですけれ
ども、これは
最初に申し上げましたように、ただ
行政改革だけやっておればもう生き延びるだけなんですけれ
ども、生き残るためにはやっぱり
産業おこしが大事だということで、国のあらゆる
支援措置を積極的に取り入れてきました。
その中で、
産業おこしの
キーワードを海、潮風、塩という三本柱に絞りまして、島まるごとブランド化しようということで、一気に
成長を島の外へ求めたと。島の中で経済が動いてもひとつも
活性化になりません。私は
外貨と言っていますけれ
ども、島の外から金を取ってくることが
外貨獲得だ、そしてまた、それが
雇用につながるんだということで取り組んで今きておるところですけれ
ども。
まず、
キーワードの海ですけれ
ども、これは
さざえカレー、今までお母さんらが作った
さざえカレーがまさか金になるとは
思いませんでしたけれ
ども、今、横浜とか
東京の
カレーショップでも
大変人気を博していまして、これは
平成十年からやっていますけれ
ども、これはもうほっておいても売れるようになりました。
そしてまた、
岩ガキにつきましては、今、
東京で、私の漁協では小売で一個四百円ぐらいですけれ
ども、品川の先日も
オイスターバーへ行ってみましたけれ
ども、一個千二百円から千五百円で私
どものものが取引されていると、お客様に食べていただいているということです。私も、業者さんは大分もうけているなと思っていますけれ
ども、そういうことで、大変ある面でこれは非常に良かったなと思っています。
その裏付けとして、これはいろいろ議論もされましたし、農水省さんもいろんな形で
支援をしてくれましたし、いろんなまた誤解もあったようですけれ
ども、
CASシステム、セルズ・アライブ・システムという、これは細胞を壊さないという
凍結システムを入れました。
一般財源が四十億の中で五億を掛けて
官設民営で今やっていますけれ
ども、その
民営の
社長を私は今兼ねておりまして、十年先でないと黒にならないかと
思いましたけど、五年目にしてようやくこの上期が黒になりましたから、これだったらいけるのではないか。
議会からも、
県辺りも相当、早く撤退せよという
お話をいただきましたけれ
ども、私は島に生き残りを懸けたそういう設備だということで、今、一月にも中国へ
白イカ一万匹出していますし、今はニューヨークには
すし屋さんにも出したり、
東京のお
すし屋さんとか、そしてまた大手の
外食産業にも出して、七十社ぐらいと今取引しております。四十
品目ばかりで、島の特徴としては少量多
品目ということでしかできませんけれ
ども、そういうふうな取引をやっていると。
もう
一つは潮風なんですけれ
ども、これはもう建設業が肉用牛に始めた、農業特区を取ってやったと。
公共事業でもうけて、この際、
社長いわく、若い
社長ですけれ
ども、
地域に還元したい、そして
雇用の場を守りたいというところから、島生まれ・島育ち・
隠岐牛ということで、今まで子牛の段階で出て、それが松阪牛になったりしていたんですけれ
ども、島で完全に肉用牛まで育てて、
東京の品川市場へ毎月、今の十二頭ですけれ
ども、生体のまま持ってきて、ただ肉質がいいということで非常に好評を得て、今もって、わずか今まで四百何頭ですけれ
ども、これの肉質が全然落ちていないと。市場の平均の上物率からすれば、もう倍以上の上物率、A4・A5が八三%を今超しているというようなことで、大変市場関係者からは注目を浴びております。
そして、三つ目の塩なんですけれ
ども、これはもう昔ながらの製法で、まきでたいて塩を作っております。非常にミネラルが豊富だということで料理研究家の目にも留まっていますし、また、
東京の三つ星ホテルでも今使っていただいております。
ただ、それだけですと、どこも塩やっていますけれ
ども、漁師の奥様方が、だんなの手伝いは漁協の浜でしてそれで終わっていたのが、
自分たちで塩辛を作ったりあるいは塩干物を作って、しかも、商売を知らなかった奥さん方が今、松江のそういうカラコロ広場とかいろんなところへ、あるいは県庁の
職員の食堂へ行って売り込みを始めたと。私は、そういう面では非常に
コミュニティーのパワーアップにつながったということで、私は塩に大変感謝をしているところでございます。
そういう中で、実は、私もまだ原因分かりませんけれ
ども、島に若者がたくさんやってきています。それは、
一つには、一点突破型の
産業振興をやったということが多分功を奏していると
思いますけれ
ども、十六年度から去年の十二月までで、島の中でU・
Iターンを含めて百三十六人の
雇用を生んでおります。
そしてまた、
Iターンの
皆さんは、職があるから来たんじゃなくて起業しに来たんだと、
町長、島に宝物を探しに来たんだということで、人が人を呼んで、去年の十二月までで、それもしかも四十歳代以下の人ばかり。家族持ちの方、独り者の方、百四十四世帯の二百三十四人の方が島へ来ておられます。ちなみに、別にUターンは百四十七名です。むしろ、Uターンよりも
Iターンの方がたくさん来ておられます。
そして、十五年ごろまで減り続ける一方だった四十歳以下の年齢層が増えてきている。絶対数は増えておりません。三九%、
高齢化率ですので、私が一週間出張しておれば大体一人ないしは二人亡くなる。一方では寂しい状況で、絶対数は増えておりませんけれ
ども、四十代以下の
人口が増えて、正三角形のくびれた部分が今真っすぐになりつつあるということで、これは大変私にとっては有り難いし、島のパワーにつながるというふうに思っております。
それで、私はもう本当に若い
人たちとの
思いの中で、やっぱり自ら切り開くというのが、いろんな
制度も大事ですし国の
支援ももちろんお願いしたいところですけれ
ども、まずやっぱり
地域づくり、
コミュニティーづくりは志が大事だなというふうに思っております。そういう面では、人づくり、なかなか島には人材が少ないんですけれ
ども、スキルを持ってきた彼ら
Iターンの若い
皆さんの力を借りながら、今一生懸命人づくりをやっておるところでございます。
私は、もう
海士町は日本の
未来の縮図だと、同じ島国の中でもと思っていますから、ある面じゃ、その先取りで頑張れば必ずや世の中は良くなるだろうというふうな
思いで若い者と今やっているところです。
そういう面では、
子供たちも、ここ三年間、決して金で釣るという私は考えはないんですけれ
ども、
子育て支援条例を作ったおかげでもう
Iターンの奥さん、Uターンの奥さんに喜ばれていますけれ
ども、ここ三年、もう二十人前後まで出生率が伸びたということも大きな私はこれから力になるだろうと
思いますし、
子供たちが
地域に目覚めてくれていますので、今の
高校三年生以下は必ずや何人かは町づくり、
島づくりに帰ってくるというふうに思っています。
与えられた時間が以上のようでございますけれ
ども、一方では、唯一の島前
高校を守るために、せんだっての十五日の朝日新聞全国版に載っていましたけれ
ども、県立
高校ですけれ
ども、二千万の金を町から出して、
高校の魅力化、本土から学生を呼ぶよう、今八人ばかり今度応募がありましたけれ
ども、そういうことで少しずつ、本当にわずかな動きですけれ
ども、何とかこの島を持続可能な島にしていきたいという
思いで今
地域の人と
職員とやっているところでございます。
以上です。