○
参考人(
玄田有史君) 改めまして、
東京大学社会科学研究所の
玄田と申します。今日はよろしくお願い申し上げます。
私の方は、今回、「
幸福度の高い
社会の
構築」というテーマでお呼びいただきましたけれども、幸福と大変似ていてちょっと違う
希望ということについて少し
お話をさせていただきながら、
幸福度の高い
社会について若干考えるところを
お話し申し上げたいと思います。
希望と幸福の
関係、
希望と幸福はどう違うのかということを考えたときに、幸福という
概念は
大変継続、
持続ということと密接な
関係があるようであります。例えば、今その人が幸せというのを感じているとすると、この幸せな
状態がずっと続いてほしいというふうに思うのが通常幸福というものであります。例えば、結婚式、披露宴などお招きいただきますと、大変幸福に満ちている瞬間というのを感じるわけでありますけれども、
新郎新婦はこの幸せをずっと続いてほしいという非常に強い理想を感じたりするわけであります。多分、子供が生まれた瞬間などもやっぱり幸福というのを大変強く感じる瞬間で、是非このまま健やかに育ってほしいというようなことをやっぱり感じるわけであります。そういう
意味で、幸福という
概念は非常に
継続というものと密接にかかわっております。
それに対して、
希望というのは何かということを考えますと、
希望というのはどちらかというと
継続よりは言わば変革、変わっていくこと、英語で言えばチェンジという
概念と強くかかわっているようであります。
具体的に言えば、今よりも少しでもいいからいろんな
意味で良くなりたい、
経済的に、
文化的に。先ほど
草郷さんからもいろいろ
お話がありましたけれども、とにかくいろんな
状況をより良くしたい、今よりも良い
未来を迎えたいとか、今大変苦しい
状況にある中でこの苦しみを少しでも和らげたいという、
現状の肯定ではなく、今を変えていきたいという思いを持つときに人は時として
希望という
言葉に
未来を託すことが多々あるようでございます。
ですので、
希望というのを調べてみますと、比較的こういう
言葉が使われますのは、大変厳しい災害、自然災害等に遭遇した場合ですとか、過去でいきますと、様々な公害問題のようなときにいろんな立場の
方々が
希望という
言葉に託されて様々な行動をなされるということがどうもあったようであります。
話が前後しましたけれども、なぜ
希望ということを
お話しするかと申し上げますと、二〇〇五年の四月から私の所属しております東京
大学の
社会科学
研究所で
希望学という、
世界的に見てもほかにない学問というのにチャレンジしてまいりまして、その中でいろいろアンケート
調査をさせていただいたり、歴史
研究をしたり、聞き取り
調査などをしながら
希望について学んだことを今
お話しさせていただいているわけであります。
そういう
意味で、
希望と幸福というのは、
継続を求める幸福と、変革を求める
希望という、言わば車の両輪のような、恐らく、どちらが大事でどちらが大事でないというわけでもなく、共に重要な
概念だろうというふうに思っております。
また、
希望ということで、よく夢と
希望の違いは何ですかなどと聞かれることがございます。
希望と夢の違いは、夢はどちらかというと、まさに睡眠をしていて見るように、意識的に見るものではなく、もう無意識のようにわき上がってくるものが夢であったり、例えば、いろんな会社経営者の
方々がしばしば夢というのをお語りになったりされるのは、やっぱりいろんなアイデアがどんどんわき上がってきて、それを何とかかなえたいという、どちらかというと無意識的、自然発生的にわき上がってくるものが夢であるとすれば、
希望はどちらかというと先ほど申し上げたような苦しい
状況だからこそあえて意識的に持とうとするもの、それが
希望であるというふうな
関係があろうかというふうに考えております。
そのほか、
希望と安心との
関係で申し上げますと、安心というのは、やっぱりある程度見通しがある、結果、
成果が得られそうだというふうなものがあって初めて人は安心という
概念を感じるようで、それに対して
希望というのは、結果よりもむしろプロセスと申しますか、模索をするというその過程においてこそ
希望というものが求められるというふうな
関係があるように思います。
さて、
希望について
幾つかの
概念との対比で御説明をしてまいりましたけれども、じゃ一体そもそも
希望というのは何なのか。恐らく、幸福とは何なのかという
概念も大変難しい
概念かと思いますが、
希望というのも大変難しい
概念であります。
過去の様々な学問的な
研究をさかのぼってまいりましても、これが
希望だというふうな明確な定義をなされているものはございません。その中で最も有名なのは、ドイツの哲
学者のブロッホという人が提示しました、まだない存在、これこそが
希望であるという、大変なぞ掛け問答のような、まだないけれども存在する、やや矛盾めいた
言葉が
希望については大変、一番よく知られている説明というふうになっております。
では、
希望学の中で
希望とは何かというのをどういうふうに定義したかと申しますと、今日お手元に、私は
パワーポイントがないものですから、紙の資料を御準備いただきまして、その中で百三十ページにも書いたものなんですが、
希望とは何かということを議論しましたときに、
希望というのが大変大きな議論になりますのはどうも
日本だけではなく、
世界各国でも、
希望がなかなか持てない、じゃ、どうすれば
希望が持てるのかというふうな議論があるようで、海外の
研究者も交えていろいろ
希望について考えたんですが、
希望というのは英語で次のように定義をしております。ホープ・イズ・ア・ウイッシュ・フォー・サムシング・ツー・カム・トゥルー・バイ・アクションという。
日本語にあえてしますと、ホープ、
希望というのは、ウイッシュ、つまり強い思いである。そして、フォー・サムシング、具体的な何かである。この何かというのは、毎日三度三度食事ができることが
希望の方もいらっしゃるでしょうし、
世界平和のようなものを
希望というふうにお感じのこともありますけれども、まず具体的な何かという対象が定まっている。そして、それがツー・カム・トゥルー、実現する、実現の見通しがある。そして、四番目にアクション、そのための行動がある。
御縁があって全国の中学校とか
高校で
お話をさせていただいたりすることがあったり、ニートですとか引きこもりとか、そういう非常に生きること、働くことに苦しさを抱えている若者たちと交わるときに、やはり、しばしば
希望がないというふうなことを感じざるを得ないときが多々ございます。
ただ、本
人たちも実は潜在的には
希望というのを持ちたいと思っているけれども、じゃ、どのようにして持てばいいのかなかなかきっかけがつかめないときに、先ほど
希望というのは
四つの柱があって、
一つは強いやはり思いがある、情熱とか思いがある。
一つには、やっぱり何でもいい具体的な何かが思い定まっている、そして実現のための道筋というのがある程度見えている、そして行動がある。もし
希望が持てないとするならば、そして持ちたいと思うならば、この
四つのうち、どれが自分に欠けているのか自分自身で考えてみることから始めてみようかなんてことを申しますと、少し対話が始まったりもいたします。やみくもに
希望を持て、夢を持てと言うよりも、
希望というのは
四つの柱から成り立っているんだ、自分にとって何が足りないんだろうかというふうなことを
一つ一つつぶしていくことによって
希望というのは比較的見出したりできるようなものであるというようなことを感じたりもいたしております。
さて、じゃ
希望というのは一体どういう実情にあるのかということを少し、
希望学で行ったアンケート
調査の結果などを御紹介させていただきながら、御説明してまいりたいと思います。
先ほど開いていただいた資料の百三十ページをもう一ページめくっていただきますと、百三十二ページに
希望についてのアンケート
調査の結果、ここでは将来実現してほしいこと、させたいことの有無ということで聞いてみました。二〇〇〇年に作家の村上龍さんが「
希望の国のエクソダス」という本をお書きになって、この国には何でもある、本当に何でもあります、ただ
希望だけがないというそういう中学生のセリフが大変大きな
社会的な
関心を呼びました。その後は、先ほど格差という
お話もありましたけれども、
希望格差などという
言葉も出てきたりして、
希望が持てない人が世の中たくさんいるんではないかというようなことを印象として多くの人が感じたわけであります。
ただ、実際、
希望についてアンケートしてみますと、二十代から五十代までの成人男女に伺ったわけですけれども、実のところ八割は何がしかの
希望があるというふうにお答えになっております。この八割を大
部分があると考えるのか、一方でやはり二割の人が
希望を持てないというようなことを深刻にとらえるかというのは
考え方の違いがあろうかと思います。ただ、この八割のうち、その
希望は実現できる、若しくは多分実現できるという実現見通しを持てる人は、その八割の中の八割、つまり八掛ける八で全体ではやっぱり三人に二人、六四%ぐらいは実現できそうな
希望が持てると、持っている。つまり、言い換えれば三人に一人は
希望がない、若しくは一番かなえたい
希望は多分実現しないというふうに考えている。三人に一人がこのような
状況にあるというのは、決して少なくない数字ではないかというようなことを強く感じるわけであります。
お隣に、
希望の内容というのを聞いてみますと、
日本の場合には、
希望の内容、何についての
希望かと聞きますと、圧倒的に働く、仕事にかかわることについて
希望を語られることが多々ございます。これは、国際比較という面の
研究がまだ十分に
世界的になされていないものですから正確なことは申し上げられませんが、どうも、
希望について仕事というのが最も大多数で来るというのは、もしかしたら
日本特有なことかもしれない。もっと
個人の
生活とか家族とか様々なことに
希望があるのがもしかしたらほかの国の
状況で、やはり
希望というと仕事ということになるのが
日本の
状況であるというふうに言えるのかもしれません。
さて、次のページをめくっていただくと、
希望と幸福との
関係ということを
幾つか御紹介しているわけですけれども、一言だけ申し上げますと、やはり
希望と幸福は、先ほど
継続と変革の違いがあるとは申し上げましたけれども、やはり密接にかかわっていて、やっぱり
希望を持って生きている人は幸せを感じやすい。ただし、
希望のうち、やはり実現見通しのある
希望を持てる、実現見通しのある
希望を持てる場合においてこそ強い
幸福感がある。ですから、ただやみくもに
希望を持つというだけではなくて、何か自分なりにかなえることができそうだというふうな、そういう実現見通しがあってこそ初めてそこには
幸福感というものにつながるようだということを表の中で御紹介しております。
さて、
希望、三人に一人が持っていない、ないしは持っていたとしても多分かなわないと思っている、じゃ持てる人、持てない人が分かれているときに、何が
希望の有無に影響を与えるのかということを
三つの観点から整理いたしました。
希望を左右する
一つの大きな観点は、言わば
可能性にかかわる観点であります。
希望を持てる人と持てない人の違いは何か。
一つには、仕事、収入、健康
状態、
教育、あとさっき余命という話が出ましたが、年齢。比較的収入に恵まれている、仕事にも恵まれている、健康に恵まれている、十分な
教育を受けることもできた、そして比較的年齢が若く、将来の時間という非常に有限な資源を多く持っている人ほど一般的には
希望というのを持っているというふうにお答えになることが大変多々ございます。先ほど、年齢や失業やストレスというのが比較的
幸福度を下げるというふうな
お話がございましたけれども、大変似たようなところがあります。やっぱり自分の
可能性を広げられる、
選択肢を広げることができるとすると、そういう人は非常に
希望を持って生きることができる。そういう面で、やはり収入、健康、
教育というようなものは
希望、幸福に大きな影響を持っているというふうに思われます。
可能性に加えて、もう
一つ希望を左右する重要な要因として
関係性というものがございます。お手元の資料の百四十二ページをもし開いていただけると大変有り難いと思うんですが、
希望には
関係性、人間
関係が強く影響を与えております。
百四十二ページを御覧いただきますと、そこには自分が孤独だと思うか、大変自分は孤独だと思う人は
希望というのが余り持てない。それに対して、余りそういう孤独だとか思わない人は非常に
希望が強く持つことができるという面がございます。また、自分は友達が多い、自分は友達に恵まれているという人ほど
希望が持ちやすい。
それから、次のページをめくっていただきますと、百四十四ページになりますが、人間
関係の最も核たる
部分である家族との
在り方、家族から小さいときから信頼されていたとか期待されていたという感覚を持つ人と持っていない人では、現在
希望の有無というのが全く違ってくる。家族や友人、人間
関係というのが大変強く
希望には影響を与えているようであります。
そう考えますと、逆に、先ほど引きこもりとかニートの話をしましたが、一方で高齢者の孤独死というふうなことが言われるように、非常に
日本社会全体に孤独感の広がり、寂しさの広がりがあるとすれば、これが近年の
希望が持てない、そして場合によっては
幸福感が感じられない、こういう人間
関係ということの観点がやはり実は大変重要だということも改めて見出せるわけであります。
可能性と
関係性と並んでもう
一つどういうものが
希望について重要であるかということを、
希望学では、やや奇異な表現に聞こえるかもしれませんが、物語性という
言葉で表現しております。百四十九ページをめくっていただきますと、
希望に関する新たな
三つの事実として
三つの観点を御紹介しております。
希望というのは、多くの場合にはかなうことが実は難しい。以前にアンケートをしましたところ、中学三年生のときに持っていた職業
希望、なりたい仕事に実際成人になってから何%ぐらいの人が就けたかと調べてみましたら、一四%でございました。中学二年生ぐらいで持っていた職業
希望をかなえることができた人は一四%、八割以上がかなわないというわけであります。そう考えてみると、
希望なんて持っていたってどうせかなわないというふうな
考え方につながるような印象もございます。
ただ、重要なことは、
希望というのが仮にかなわなかったとしても、それを修正させていくことによって実は生きがいとか
幸福感とか新たな
希望というのを見出すことができる。よく講演等で
お話をさせていただいている例なんですが、以前、プロ野球選手になりたかったという若者がいて、それがなれなかったということで大変大きな挫折をいたします。ただ、その後彼は、小さいときに親に野球場に連れていってもらって、そこで緑の芝生の上でプロ野球をする選手にあこがれて野球選手になりたいと思った。そこで、彼は、野球選手にはなれなかったんだけれども、野球が好きだという気持ちを守り続けるために今度はそこで芝生職人という新たな
希望に転換していくわけであります。
希望というのはかなえることは難しい。ただ、大事なことは、
希望ははぐくんでいくもの、
希望は育てていくもの、
希望というのをそれ自体を成長させていくことができるとするならば、それはもしかしたら今回のテーマであります
幸福度の高い
社会というふうに言えるのかもしれない。
希望をかなえられる
社会もすばらしいけれども、
希望をかなえようと思ってかなわなかったとしても、それを次の
希望へと、まさに挫折を新たな
希望へとつなげることができれば、それは大変
幸福度の高い
社会というふうに言えるのかもしれません。
百五十二ページに、物語性ということを考えましたもう
一つの理由として、
希望というのは挫折というものと密接にかかわっております。実際、
希望というのを調べてみますと、挫折経験とか過去の困難な経験をお持ちの方ほど
希望というのを持っていらっしゃる。それはどういうことかというと、やはりこういう様々な人生の挫折を経験しながらも、いろいろな人間
関係ですとか周りの応援など、もちろん本人の努力によってそれを乗り越えたときに非常に
希望というのは持てる。挫折経験、困難経験をやっぱりくぐり抜けるというふうな超克体験というものが
希望には大変重要であるというふうなことも
データ分析などから見出されております。
三番目の物語性にかかわることで、百五十六ページに
希望を持って行動されている方の特性として、できるだけ無駄なことはしたくないとか損なことはしたくないという気持ちがやや強過ぎますと将来に対する
希望を見出しにくいというふうな傾向があるようであります。言い換えれば、何が損か何が得かはやってみなければ分からないじゃないかとか、余り損得勘定に過度にとらわれ過ぎない、少なくとも目先の損得勘定にとらわれ過ぎずにとにかくやってみる、そういうふうな思考を持てる言わばチャレンジ精神のようなものをお持ちの方ほど
希望というものを持って行動されていることが多いようであります。
なぜこういうことになるのか。もし
目標のようなものが見えていれば、最短距離で、一番いい適切な近道で
目標をかなえるために努力するのがいいとは思うんですが、
希望というのは、先ほど申し上げたとおり、
希望自身は出会ったり育てていくものであるということを考えたときに、余り目先の自分の今持っている情報だけで
希望を決めるのではなくて、余り損とか得とかだけにとらわれ過ぎずにまあとにかくやってみること、チャレンジしてみることの中で
希望に出会うというふうな
機会も多くあるような気がいたします。
もちろん
社会の中には必要ではない無駄、この無駄をやめることによってみんなが幸せになるものもございます。ただ一方で、例えば遊びという
日本語に表現されるように、損とか得とかそういう利害
関係を超えて、まず余白として残しておくことが
社会や
個人のクリエーティビティーですとかイマジネーションを促すという面があるようであります。
希望がないというふうなことを
お話しになる方の
一つの傾向として、そもそも、さっき仕事ですとか収入という話もありましたけれども、イマジネーション、
未来を想像することに様々な観点から困難を抱えている方ほど
希望が持てない。やはりイマジネーションとかクリエーティビティーを育てていく
環境をつくっていくことも大変重要な論点になろうかと思っております。
最後に、
幸福度の高い
社会の
構築と
希望との
関係を四年にわたって
研究してきたところで、やはりこの
希望とか幸福というのは
教育というものと密接につながっているだろうということは強く感じております。最近、キャリア
教育というのが様々なところで
指摘されるところでありますけれども、キャリアという人生の長い道のりは時として様々な試練とか困難を経験していく。ただ、この試練とか困難をどういう形で乗り越えていくことができるのか、その経験とか、
日本語で言う知恵を提供するということができれば、その困難を乗り越えるチャンスになっていくのではないか。
よく高齢
社会というのは非常に活力の低いとか負担の重さというふうなマイナス面ばかりが強調されますけれども、考えようによっては高齢
社会というのは非常に経験の宝が豊富にある
社会というふうにも言えるのかもしれません。様々な困難な経験、その中で
希望を成長させていった、修正させていった経験というのを世代を超えて共有するような
環境をつくることができれば、新しい高齢
社会の中での経験に基づく
希望を
構築できる
社会というのも形成できるような印象を持っております。
私の方の御説明は以上にさせていただきます。
ありがとうございました。