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虫明参考人 虫明です。発言の
機会を与えていただきまして、どうもありがとうございます。
私は、このカラーコピーをもって説明いたします。
私は、ここ十数年、社会資本
整備審議会とか国土審議会で、現在の
利根川の基本方針あるいは利根荒プランにかかわってきた者でして、そういう立場からきょうは
お話しいたしますけれ
ども、前に断っておかなきゃいかぬと思うのは、私は
ダム推進派でも反対派でもありません。八
ツ場ダムに限って、
利根川における八
ツ場ダムの
治水と
利水の
効果について、科学技術的な立場から
お話ししたいと思います。
一枚はぐっていただきまして、話の内容ですが、まず、
利根川流域の
治水における八
ツ場ダムの意義と
効果、次に、
首都圏の水供給における八
ツ場ダムの役割、それらをまとめたものとしてやりたいと思います。
最初に、
治水上の
効果について、これはやはり
利根川治水の難しさ、これは人工河川でして、今まで大変な改造が行われ、
治水に
努力が行われてきたという背景を御理解いただかなきゃいかぬと思いますので、その辺から
お話しいたします。
五、六となっていますところをはぐっていただきますと、
江戸時代以前の
利根川というのが五ページに出ておりますけれ
ども、これを簡略化してみると、下の六ページの図のようになります。
利根川は、
江戸時代以前は渡良瀬川とともに
東京湾へ直接流下していた。鬼怒川、小貝川、さらに小河川で常陸川というのが銚子の方へ流れていたということがあります。それを、徳川家康が
江戸幕府を構えてすぐにやった大
事業、六十
年間にわたった大
事業ですけれ
ども、これを東へ東へ移して銚子へつなぐと同時に、
江戸川も開削して現在のような形ができたんです。
これは何のためかというと、諸説がありますけれ
ども、今最も有力な説と考えられているのが、幕府の交通運輸体系の確立、特に、東北の米を
江戸へ運ぶのに房総半島の沖から
東京湾へ入るというのは非常に難所だったので、内陸にそれを持ってきた。さらに、関東
地方の米を集めるということで、八番のスライドにありますような形をつくったわけです。
河川は、明治に入っても実はこの交通体系としての
整備が中心でして、例えば、
利根川では明治二十三年には利根運河というのをつくって、
江戸川と
利根川を短絡するということをやられておりました。
当時どのような
治水体系をとっていたかというのが九ページでございますけれ
ども、
洪水は
流域の
各所で散って流れている。重要なところを守るために、輪中、あるいは
堤防から垂直に出るような
堤防、横堤、控え堤といいますが、そういうものをつくっていたわけです。
ここでは中条堤というのに着目してほしいんですが、当時、
埼玉平野を守るために、
埼玉平野の上流部、妻沼とか深谷というところ、最上流部に中条堤というのをつくって、そこへ遊水させて
下流を守るという、重点的な守るところを守るために地先
堤防をつくるというようなことがやられていたわけです。十ページの写真が、これは現在でも中条堤というのは残っておりまして、こういう形であるんです。
これは、十一ページの図で見ていただくように、面積は、今の渡良瀬遊水地が約二十三平方キロなんですが、それよりも倍以上の面積を持っていて、人工的に
下流に狭窄部をつくって、そこを閉めて、
洪水が出ると
水位を上げて上流ではんらんさせるということがやられていたわけです。
そういう前提で、明治になって新田開発も
江戸時代から随分進んで、開発が進んで水害が顕在化してくるという中で、明治二十九年に
治水工事をやることを目的とした高水
工事へと移るわけです。
その後、明治に最初に
河川改修計画が立てられたのは、明治三十三年、これは栗橋という地点、
江戸川が分派する少し上流ですが、そこを
基準点として
計画が立てられ、なおかつ、
計画対象となっている
洪水は二、三年に一度起こるような中小
洪水だったわけです。つまり、この時点では、先ほど申しました中条堤上流のはんらんを許容する形での
治水計画が立てられていたわけです。
そういうことで進んでいたわけですが、十三ページに移ります。これは、全国的に大きな被害が出た明治四十三年
洪水というのがあるんですが、このときに、この中条堤が、遊水した水が、そこが破堤して、
東京まで達するような大水害が起こります。このときに、この中条堤という
堤防を
強化するのか、あるいは廃止するのかという議論が起こりますが、結局、遊水地上流の人
たちの反対の要望が受け入れられて、ここは締め切ると。つまり、この時点で、遊水を許さないような連続
堤防で
治水をやるということになったわけです。
それが十四ページの明治四十四年の改修
計画ですけれ
ども、そのときに、
基準点を栗橋から
八斗島へ、上流の
埼玉平野の出口に移しますと同時に、明治四十三年の
洪水というのは一万トン級の
洪水だったんですけれ
ども、それを対象にはできなくて、その半分ぐらいな流量で
計画し、それでも、なおかつ、渡良瀬遊水地という平地で水をはんらんさせることが必要だという
計画です。
このように見てきますと、
利根川治水を最も難しくしているのは、今のような東遷
事業によって、低平地を流れる
河道が
江戸川、
利根川下流も含めて大変な距離を持ったということです。そこに、なおかつ、川を一本化し、渡良瀬川、鬼怒川、小貝川、さらに
利根川上流のような支川をいっぱい集めて
洪水を集中させるということをやったというのが、これが
利根川治水を難しくしている条件であります。
十六ページを見ていただきたいんですが、全国の川で見て、大河川で、それぞれの
地域で特有な
治水方式をとっているわけです。北上川というのは、北上川放水路というのを掘って、仙台平野を守るということができます。放水路が決め手になる。信濃川は、大河津分水というのを掘って、これは信濃平野、新潟平野を守ると言うことができます。木曽川については、木曽三川。あるいは、淀川については、琵琶湖、これは非常に大きな貯留能力を持っておりますし、それと
下流の大阪を迂回する新淀川という放水路という決め手があるんですけれ
ども、
利根川は、低平地の長い
堤防を
強化、
整備すると同時に、それだけではもたないので、中
下流部の遊水地、さらに上流の
ダム群調節という、決め手がない中で三つを適切に組み合わせた
治水が必要だということでございます。
時間がありませんので
治水の経過を簡単に
お話ししますけれ
ども、
利根川では、その後も
洪水、水害を受けてから流量を改定するという経過が進むわけです。明治四十三年の改修
計画後に、昭和十年、十三年、十三年は六月と八月にあるんですが、水害を受けて、また
計画を改定します。そのときには、一応、明治四十三年
洪水の一万トンというのを
八斗島地点での
計画流量にし、渡良瀬遊水地に加えて、
下流部で、菅生遊水地、田中遊水地という遊水地をさらに加えます。
それでも、
下流は、今まで非常に小さな
洪水しか流せないような川だったものですから、佐原とか銚子とかという
下流部は守れないというので、放水路というのを
計画します。これは実はまだ実現しておりませんけれ
ども、こういう
計画をせざるを得ないというところがあります。
十九ページに参りますが、
カスリーン台風を迎えて大被害を受けるわけですが、この辺は御存じのとおりなので。
二十二ページ、
カスリーン台風のときに、初めて上流
ダム群による
洪水調節を導入したわけです。これも申しましたように、平地での調節が非常に難しいというので、これで八
ツ場ダムも位置づけられるわけです。
次の二十三ページに参りますけれ
ども、それが、
カスリーン台風後の
計画の後で三十年を経過して、
流域も変化し、なお、一番重要なのは、この
カスリーン台風から三十年後に、関東平野に
人口と資産が大変集中したということもあって、
計画の見直しが行われるわけです。そのときに、流量が一万七千から二万二千に大幅に増加されます。これは、河川局の説明では、上流の河川
整備、流出形態変化となっておりますけれ
ども、私はこれは、
利根川の
人口、資産がふえたことに対して
安全度を上げるという意図があったと推定しております。と同時に、当時、水資源開発が非常に重要になってきた中で、多目的
ダムとして
治水も乗って、上流での調節力をふやそうという意図があったと思います。
二十五ページに参りますけれ
ども、
利根川の最も重要なことは、
下流に非常に資産と
人口が集積しておって、
治水担当者、私も含めてですけれ
ども、二度と
利根川を、
東京がつかるようなはんらんをさせないというのが非常に強い意図としてあるということを御認識いただきたいと思います。
二十六ページですが、
整備計画で見直しが行われます。ここでもほぼ五十五年
計画を踏襲しておりますけれ
ども、上流
ダム群については、これから
ダムが余りできるような
状況ではないということで少し低下させていると同時に、既設
ダムを有効に使う、あるいは、
かさ上げとか再編ですけれ
ども、容量を変えるというようなことで対応するということで、新規の
ダム計画は少なくともこのときには議論になっていません。
これに対しては、
計画が過大だという批判があります。これは後で議論になると思いますけれ
ども、私はやはり、
利根川については、基本高水を下げて
治水計画を縮小するというのではなくて、重要な
首都圏を控えているのですから、むしろ一万年に一回あるいは千年に一回ぐらいな
計画を立てて、これは
ダムで対処するということではありませんけれ
ども、そういう目標のもとに
治水計画を進めるべきだと思っております。
ちょっと時間がありませんので、
堤防について先ほど
お話がありましたが、三十一ページです。
堤防というのは土でできておって、特に
利根川は、そこに地盤が出ておりますけれ
ども、いろいろな旧
河道とか堆積物でできたところへつくるというわけで、それに、古い
堤防に盛り上げてつくるというので、
洪水が来なければ弱点がわからないという事情があります。先ほど
嶋津先生の
お話にもあったように、水防活動の中で行われているわけです。
三十三ページです。やはり
ダムは、全川にわたって
水位を下げるということが非常に重要な役割を持っているわけで、できれば、全川にわたって
効果があるということ。
三十四ページですけれ
ども、上流の
ダム群によって
洪水調節するというのは、
利根川にとっては重要だという
お話は先ほどしましたけれ
ども、
利根川の上流では、その地図にありますように、大きく分ければ、奥利根、吾妻
流域、それから、烏、神流という、ほぼ同じような
流域が三つあるわけですけれ
ども、奥利根については矢木沢初め幾つかの
ダム群があります。それから、烏、神流川については下久保
ダムという
ダムがあります。実は、吾妻川にはこれがない。
カスリーンのときにここに雨が降らなかったからという
お話がありましたけれ
ども、台風というのはどこをヒットするかわかりません。
八斗島をホーム
ベースとして見ますと、ライトには奥利根、それからレフトには下久保がありますが、センターに守備がないわけです。ここに
ダムをつくるということは非常に
治水上重要でありますし、先ほど
効果がないという
お話ですけれ
ども、実は、この八
ツ場ダムの
流域に大きな
洪水があれば、数十センチ、三十センチから四十センチの
水位を下げることができます。
ちょっと
利水について
お話しする時間がほとんどなくなりましたので、簡単にざっと見ます。
三十六ページを見ていただきたいと思いますけれ
ども、やはり高度成長、急激な都市集中によって、特に身近な地下水を利用するということが行われて、地盤沈下が起こるわけです。
東京の地盤沈下はある程度鎮静化しておりますけれ
ども、まだ
埼玉では地盤沈下が進行中であります。今度の水資源
計画でも、そのあたりの
埼玉の地下水を用水に転用するというのが含まれております。
三十九ページを見ていただきたいと思いますが、水資源開発促進法に基づいて、数年おきに、利根荒、全国の主要水系のフルプラン、いわゆる基本
計画が改定されるわけですけれ
ども、直近の改定というのは
平成二十年七月に行われました。これは、
平成二十七年度を目途として、それまでは
平成十二年度を目途として
計画されているものでしたけれ
ども、それをかなり大幅に下方修正しております。これは、一都五県の
水道利用者の需要見込みをまとめたものを、国土省の水資源部で、それを別の方法でチェックして積み上げたものですけれ
ども、とにかく下方修正をしてきた。
このフルプランができれば、四十ページにあるグラフのように、一応、先ほど
お話しの不安定
取水も解消されて、
水需給がバランスするという見通しでやられているわけです。
四十二ページから、北関東ではいまだに地盤沈下が進んでいるというその経過を示してありますけれ
ども、四十七ページを見てください。四十七ページに、
埼玉県の観測点での地盤沈下の進行
状況ですけれ
ども、栗橋あるいは越谷というところでは、いまだに地盤沈下が進行している。累積で一メートル四十以上ということで、いまだに一センチ以上の地盤沈下が進行しているところがあります。これは非常に
治水上にも好ましくない影響を及ぼしているということ。
あとは、もう時間がありませんので飛ばしますが、
首都圏の
水余りということがありましたけれ
ども、実際に
取水制限を三、四年に一回は行われているというようなこと、五十ページですね。それから、たまたま大雨が降って大
渇水を逃れたというのが
平成六年、
平成八年ですけれ
ども、五十一ページのような
状況。決して
首都圏の水は安定した
状態にあるとは言えないと私は思っています。五十二ページにありますように、
首都圏の
利根川の水の
安全度は五年に一回、あるいは三年に一回というようなことで、他の水系に比べても
安全度は非常に低い
状態にある。その中で、
首都圏の水がそういう不安定な
状態でいいのかということでございます。
最後、まとめに参ります。
五十五ページですが、一般論として、都市用水の需要が
減少した現在は、多目的
ダム計画は当然見直すべきだというふうに私も考えています。現に、
水需要が減ったために多目的
ダムをやめた例は幾つもあるわけです。
それから、八
ツ場ダムそのものの
必要性については、
治水上も
利水上も、一都五県の議会で議決されて、その手続によって行われているということ。
それから、発案から五十七年着工できなかったというのは、これはいろいろないきさつがあって、非常に
地元には申しわけないことだと思いますけれ
ども、やはり
水没地の
生活再建をどうするかという合意を得ることが時間がかかったということだと思います。
その合意も一応得られたという段階で、都市の需要もあり、
洪水の調節の
効果もあり、
水没地域の合意が得られたというような条件の中では、八
ツ場ダムはやめる
理由が見当たらないのではないかというふうに私は思っています。
以上です。どうもありがとうございました。(拍手)