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丸山和也君 自由民主党の
丸山和也でございます。
今日は、今、
足利事件なんかも非常に取り上げられておりますので、そういうことも念頭に置きながら、主として刑事司法の在り方そのものというか、基本的なところで
質問させていただきたいと思っております。
私も弁護士を長い間やっておりましたけれども、常々思っていますのは、日本の刑事司法というのは
当事者主義に基づいて公平な審理が行われて
裁判官がジャッジをすると、こういうことに教科書上はなっているんですけれども、どうも構造的には、実際の動きを見てみましても、決してそうはなっていないと。どちらかというと、
検察、
裁判官一体チーム対被告人、弁護士と、こういう形でずっとなされていまして、なかなかその中に、被告人、弁護士が個々の
事件において
当事者主義を主張しても、実際の中ではなかなか公平に
当事者的には扱われてこなかったと。いわゆる
検察と
裁判所のなれ合いですよね。これは役所のなれ合いと一緒で、やっぱりチーム制の中で個々の弁護士が入って被告人が戦うということがどれほど不公平で、実際的に公平になされていないのかというこの連綿とした中で、やはりいったん
検察がこうだと思って固めて
起訴したのについては
裁判所もそれに沿った形で認定をしていくという、こういう基本的なやっぱり、細かいことはいろいろありますけれども、大きな流れとしてはそういう印象がどうしてもぬぐえない。私が三十何年間弁護士やってきた感想なんですけれども。
ここらは今後、
裁判員制度が入ることによってかなり改善されることも期待をするんですけれども、取りあえず、個々の資料といいますか視点から見たいと思うんですが、例えば今、松野先生が、
法務大臣は御覧になっていないという「それでもボクはやってない」という映画のことを、周防監督の、出されまして、あれは私は見ております。それで、監督ともちょっと話をしたことがございますけれども、非常に、
裁判がこのように流れていって、このように、やっていないという人でも、実際はいかに論理的に合理的に第三者的に、結果だけ見ると説得力ある形で
有罪にされていくのかなということがよく出ているんですね。そういう意味では非常に優れた作品だと思います。ただ、あの映画にけちを付けるわけじゃないんですけれども、それはやっぱり、ただ構造的な問題があるという視点はないんですね、あの映画では。
裁判官が替わってがらっと変わってしまったとか、いろいろなのあるんですけれども。
私は、やっぱり
刑事裁判の仕組みそのものを根底的に
見直していく必要があると思うんです。例えば、東京地裁刑事第何部とありますと、そこの担当判事、もちろん転任とかいろいろありますけれども、そこが大体いて一年、二年やられます。そこに公判担当、公判部、
検察がいて、彼らはやっぱりいろんな情報交換をやっているし、チームなんですね。午前中やったら午後はこの
事件。一件一件で余り対立すると非常にやりにくいといいますか、やっぱり仲間なんですよ、基本的に。仲間の中に仲間でない人間が入っていくという、そこでいかに真実を立証する、
証拠を採用してもらうこと、あるいは評価してもらうことが難しいかという、こういう構造的な問題があるということを我々はやっぱり考えていく必要があると思うんです。
それで、例えば
有罪率、先ほどの映画を見ますと九九・九%
有罪になると言われていまして、若干その計算についてはいろいろ問題はあるんですけれども、例えばちょっと古い資料ですけれども、私がアメリカの地裁で、二十六地裁でずっと調べた統計なんか見てみますと、一九八〇年代なんですけれども、そう変わっていないと思うんですけれども、大体
無罪率が二七%なんですね。それで、日本は〇・一%か〇・二%。ですから、仮に〇・二%としましても、約百三十五倍の差なんですよ。ですから、アメリカで一年に
無罪になる人を日本で同じ数を、輩出と言うと変ですけれども、
無罪勝ち取ろうと思うと百三十五年ぐらい掛かるんですね。
だから、これは一つは、
法務当局辺りでは、日本の場合は非常に
捜査が充実しているんだと、いいかげんなやつは
起訴しないんだということで、だから非常に
捜査が充実した結果、それがほとんど間違いなく認められて
有罪になっているから、九九・九%は誇るべき数字なんだと。これは、全部がうそだとは言いません、私は。やっぱりアメリカの司法と比べて、アメリカの場合は確かに若干雑な面もいろいろありますけれども、ただ、いったんこうだと思って
起訴してしまったら何が何でもそれを結論に持っていくというこの流れが非常に日本の場合は強いと思うんですね。それに、司法、
裁判所、公平な第三者である
裁判所自身が、やはり
検察庁におもねるというか、
検察庁の意向に沿った判決を出していくという、認定をしていくという、こういう基本的な、まあ、仲よしクラブじゃないですけれども、流れがあるということは、これは体質的な問題として、非常に間違いを生んだ場合取り返しが付かない、途中でブレーキが掛からない。
例えば、この
菅家さんの
事件にしても、途中で何回も再
鑑定のあれとかいろんなあれが出されていても、いったんこうやって地裁から積み上げられてきたら、
最高裁まで行っても引き返せないという、もう盤石の流れをつくってしまう。ここが非常に危険性が内在していると思うんですけれども、ここら辺の総論的な私の印象を持っているんですけれども、この点について、だれに聞こうかな、まあ、刑事局長の方がいいかと思いますので、どう思われますか。その後、
大臣にも一言
お願いしたいと思いますが。