○渡辺秀央君 久しぶりにこの
ODAの関係の
議論を聞いておりましたが、ちょっと、以前私は、十七、八年前は、行政改革
委員会に入っておったときに、いわゆるこの
ODAの問題は、こういう
議論からではなくて、
日本の
国民の金を具体的にその国のためになるように
援助する、しかしその国でどう使われているか分からぬというようなところから実は始まっておった。そこから見ると、そっちの方のことは、私は当時、国会法百五条を初めて戦後で発動して、そして会計検査院に本
会議でこの
ODAに関する報告をさせたことが今思い出されたわけであります。
しかし、実際問題として、当時私は自由党で、わずか十五分ぐらいの今日と同じような時間をもらいながらの中での
質疑の中で、みんなが危機感を持ち、あるいはまたいかに
国民のお金を効率的、効果的、しかも国益に沿って
各国に役立てるかと、
各国の
国民に喜んでもらうかということの中での
議論が、私のたった一人の発案のこの国会法百五条の発動によって、今は決算
委員会で、そしてここでこうやって取り上げられるようになったと。極めて私は健全な方向に向かっているなと思って実は喜んでおりますが、同時に、この
ODAの問題というのは非常に難しい問題だと。
質問よりもちょっと
意見を先に言っちゃうと。また時間なくなっちゃいますので。
それはどういうことかというと、余り
日本の
国内で、
援助してやるよと、やる方がぎしぎし規則あるいはまた決まり事が余りにもぎしぎししていると、受け入れる方がおっかなくて受け入れられなくなっちゃう。そういう問題もあるので、そこは柔軟とは言わないが、しかし、悪いことはさせないように、あるいはまた不法なことが行われないように、しかも無駄なことが行われないように、そういう中で一体何が適正であるか、どういうことが大事なことかということを是非事務当局は、あなた
たちも、やっぱり偉い人は替わるから、
大臣も替わるけれどもあなた
たちも替わるから、だからなかなかそこに健全なものが定着していかない。今度は
外務大臣がはっきりとこの
委員会で約束されたことですから、少なくとも先ほど来の
お話のようにしっかりしたベースをつくっていただくということが大事だろうと、また期待をいたしておきたいというふうに思うわけであります。
私は今日は、皆さんそういう
議論をなさいましたので、少し角度を変えて、この間、改革クラブの松下君がミャンマーのことを
質問をしたようでありますが、実は昨年の七月に私は八日からミャンマーに、ミャンマー友好議員連盟という超党派の、この中に入っておられる人もいるし入っておられない人もいますが、この会場にも、
委員会にも。
だけど、私は、あの大サイクロンというのは大変なことだったと。しかも、
日本が、
アメリカとある
意味においては同調しながら、これはやむを得ずミャンマーに
協力、
援助をすることができない、やりにくい状態になっている。これいつまでもやっていると、今に中国だけの独占的な国との関係になってしまうよとずっと十年間憂い続けて、また訴え続けてきましたが、現実に大サイクロンという、百年に一回と言われたこのサイクロン、
日本でいう暴風雨でありますが、台風でありますけれども、実際にこういうものを目の当たりにして、少なくとも我々の聞いた範囲では百四十万人とか百五十万人の人
たちが被害を被ったと言っているさなかに、人道
支援はやると言ってきた
日本の
政府が何ができるかということで、超党派の議員連盟の中で話合いをし、かつまた自民党だけでやっている議員連盟、もう
一つはスー・チーさんのことに同情しながらまとまっている議員連盟というのもあるわけです。
この三つの議員連盟で話し合って、これは少なくとも最低限人道的だねということで、この機会に
日本の
国民の気持ち、それから国家の、言うならば第二次世界大戦のそういうことをも思いの中に入れながら、これは
国民には何の罪もない、この機会に是非
協力をし、
援助し、そしてミャンマーの皆さんに喜んでもらおうということで話合いをしたことに基づきながら、どの議員連盟もなかなか調整が付かなかったので私が出かけていくことになって、ミャンマーのテイン・セイン首相、恐らく、
外務省、副
大臣が行ってくれたそうですが、その副
大臣、行政の
責任者以外初めての対話だったと思うんです。非常に好意的に、しかもまた期待を込めて会っていただき、三、四十分が一時間半ぐらいの時間帯で話合いをした。もちろん
外務省にも伝達は来ている、大使が立ち会ったわけですから、来ておるわけですが。
私は今日申し上げておきたいことは、何も宣伝で言っているわけじゃない。それはどういうことかというと、さっきの話を聞いておっても、要するに、
JICAの新井さんか、来ておられるけれども、計画はいいんだ、計画は。ところが、実行が極めて遅い、
日本は。
今日聞いてみても、私、今日書類を持ってきた、去年私がミャンマーに行くときの、あるいは帰ってきてからの書類を何枚か持ってきてあるんですけれども、もう時間がないからやめますが、実際問題として、あの当時に、私が帰ってきてから七月の二十二日にシンガポールで
アジアの外相会談その他があって、そこで話合いをした。そのことが一体全体どの程度進んでいるかねと。
しかも、ヤンゴン港の船の引揚げ等の問題は、最初のころは、私は当時はもちろん民主党にいたわけですけれども、最初のころは国土交通省の
局長辺りでも、いや先生ね、これはサルベージ持っていかなかったら解決できませんと。それぐらい真剣にとらえておったね。ところが、今や全くもうほとんどそういうところまで行かない。しかし、自力で彼らはやってある程度のところまで来ているんです。
それは何でこんなことを言うかというと、自力でやれたんだからいいじゃないかというんでは、
日本の信用あるいはまた
日本の
アジアにおける発言、そういうものがどんどん衰退していくね。僕はそのことを憂えるわけですよ。特に、外相会談等で、高村君が
外務大臣のときも、私はじかに連絡を取って、言ってもらった。しかし、現実にはどうもはかばかしくない。
例えば、こういう提案をした。それも
外務省と話し合って言ったんですよ。私は、野党のときだからね、民主党だから、野党のときの話合いですよ。それは、どういうことかというと、学校の建て直しをしてやりなさいと。学校だったら人道的、何の
アメリカから文句言われることないねと。しかし、あそこの学校というのはもう簡単なやつだ。風が吹いていけば吹っ飛ぶかも分からぬ、悪いけれども。しかし、そこにコンクリートで、鉄骨で学校を造ったら、毎年来るサイクロンのいわゆるシェルターにもなっていくでしょうと言ったら、首相が目を輝かして喜んで、それは是非お願いしたいと言った。帰ってきて、それをやるねと言ったら、やりますと言って、どれぐらい進んでいるのかね、一体、これは。もう一年になる。
だから、我々同僚議員が、いわゆるさっき役所の諸君
たち、
大臣が一生懸命前向きでやろうとしているのに何も答えることができないというのでは、事務局の諸君
たちのやることが、これはもう
JICAも遅い。今年なんていうのは中曽根
外務大臣のおかげで
予算増えたんだろう。いまだかつてない増え方しているんじゃない。こんな絶好の機会に何で一体そういうことを本省と打合せをしてやらないのかね。絶好の機会じゃない。
アメリカにもヨーロッパにも何の文句も言わせることはない。非常に情けないね。
しかも、それは渡辺さん、スー・チーさんの問題にかかわっていますよと、こういう話が必ず出る。しかしそれは、
国民の大半が、スー・チーさん一人で犠牲を払っているということであってはならぬというのが私の考えなんです。それは、自然体でいわゆるミャンマーの民主化というのは進めないとね。現に、来年は選挙をやりますよ。もうあらゆるところで聞いても今選挙のことで一生懸命だ。しかしそれは、我々の、
日本のような民主主義を、あるいはまた
アメリカのような民主主義、こんなものが一気にできるはずがない、そんなの。まだそんなことを求めるのはナンセンスだと言ってきた、僕は、首相にもあるいは各
大臣にも。民主主義というのは永遠の理想だ、これ、ロマンだ。我々人類が永久に、永久に
努力し積み重ねていかなけりゃならないことですよ。
だから、そういうことが、回答が出てからやるというんじゃなくて、そういうものに近づけるように環境をつくってやるためにも、
我が国が今まで二十年差し控えてきた実はこの
援助、ちょうど二十年になるんです、今年。マウン・マウン・カ首相が、民政にされた首相が
日本に来たときからするとちょうど二十年になる。
そういう
意味で、私は、この機会に是非
大臣も、
大臣が直接行ってくれとは言いません、難しい
アメリカとの調整も、クリントンさんもかなりちょっと今までのブッシュ政権とは違うようですから。しかもまた、
日本が後がまになってはいけません。是非そこら辺のところを注意しながら、事務局はもう少し意欲を持ってこの問題によく、意欲というのは欲だよ、
日本の
利益を守るための欲を持ってやってくれよ、ね。
そういう
意味で、
大臣、もう時間が来ましたから、最後に
大臣のこの問題に対する誠実な是非検討を、さっきの第三者の機関もさることながら、これも非常に、
アジアにとっても、問題は北朝鮮とこのミャンマーの問題だ、
アジアにおいては。しかも、ミャンマーは今もう
努力している、民主主義をやるために。是非、御検討していただくようにお願いをいたしたいなというふうに思いまして、今日は
質問に立って自分の
意見が余計になりましたが、よろしくお願い申し上げたい。