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参考人(
桑野和泉君) 本日は、このような機会をいただきまして、ありがとうございます。
先ほど
合併のお話がございましたが、今私ども
由布院は、三町が
合併いたしまして三万七千人の由布市になっております。その
意味でも、私どもは、しっかりと
自分たちの
由布院盆地というところの観光を考えていくということが必要ではないかと思っております。
町づくり、
地域づくりというのはやはり、私自身思うことは、歩ける範囲であると。昔でいう
小学校区のことが私は必要ではないかと思っておりますので、今私どもは、
由布院温泉の観光をしっかりやっていくことが由布市全体につながるというふうに考えております。(
資料映写)
さて、
由布院の場所でございますが、今でこそ
由布院は行ってみたい、
由布院いいねと言っていただいておりますが、この地図を見ていただきましても、東京からの距離はこれだけございます。
九州の中におきましても真ん中の位置にございまして、決して交通の便がいいところであったわけではなく、また
由布院という名前の響きが良かったということは今評価されていることでございまして、実は、先ほど見ていただいた由布岳のふもとの
由布院盆地は、昭和二十年代はダムにしようと言っておりました。
また、私は一九六四年の東京オリンピックの年に生まれましたが、私の
子供時代、高校に入るぐらいまで
由布院は奧別府と言われていました。とても
由布院という名前では人に覚えていただけないと。ですから、今の
由布院があるのはこの二十年ぐらいでございます。
私どもの町はこの盆地の中に、今
人口がこの
由布院温泉の中には一万人、年間四百万人の人にいらしていただいております。定住と
交流の
人口が同じ町でございます。ここの土地を見ていただきまして、
温泉街というのは私どもにはございません。どこでも
温泉が出る町でございます。ですから、何よりも私どもが大事にしておりますのは、この地形を生かした、最大限生かしたものをつくっていこうと。
それはどういうことかと申しますと、大正十三年、一九二四年に、私どもの町に日比谷公園や明治神宮の外苑を設計いたしました本多静六博士が来ております。その博士が一日だけ講演くださっているんですが、
由布院が目指すのはドイツの保養
温泉地のようなところである、健康を重視した町を目指しなさいと。そして、公園を造るんではなくて町全体を公園にすべきである、安易な開発をすべきではないと。町を見ていくときには専門家として長い経験というものが必要であるので、そういうことに関して百年の計で物を見ていく、そういうようなことを残してくださっております。
それから、私どもの町が言えることは、もちろんダムになろうという
時代もございましたが、やはり長い目で見ていく、そういう
意味では、この地を見ていっていただきますと、小規模点在の滞在型保養
温泉地というのが私どもの生きる道ではないかと思っております。よく四百万人のお客様が来る町でしたら、より多くのお客様をもっと来ていただきたいんではないか、また宿泊
施設も増えていっているんではないかと、そういうことを言われますが、宿泊
施設は百二十軒ほどございまして、十二・四室でございます。
ですから、あくまでもこの土地に、この中に存在するのは大きなものではないということで、小さな旅館、
施設を造り、そして私どもは
温泉地であり、もう一方で農村です。これだけの農村というものを抱えているわけですから、私どもが観光するということは、
地域づくりをしていく上でもこの農村との
関係なくしてございません。
今私ども、これは年表がございますが、旧湯布院町の取組とございます。ダムにしようと言った町の後から、一九七〇年代から、私どもは住んでよし、訪れてよし、
自分たちが誇りを持てる
地域をつくっていこう、小規模点在の
地域との共生のある町をつくっていこうということで動いてまいりました。
そうしていきますと、やはりいろんな問題点は出てまいりますが、住んでいる
人たちが楽しめる町、
交流ができる町、そして
地域経済を支えるような町にしていくと。その上で、
交流人口が増えていくに従いまして、
由布院の
人口というものが減っておりません。あれだけの、例えば今、
人口が一万人ぐらいの町が
平成の
合併のときに言われたことは、都市部の近くの町は
人口が減らなくて、増えていっているかと思います。
でも、私どものように、大分市から見ましても、車で今高速ありましても五十分、電車では一時間以上掛かります。福岡からも一時間半掛かる。そういうようなところで
人口が減らないというのは、この町が観光
交流をしてきたことの成果ではないかと思っておりますし、同時に、働く場があると。この赤線というのが
由布院地域で働く人でございます。決して豊かな町ではないわけですが、皆さんが働ける場をつくっていく、そういうことをしていくことによって、
人口が減らずに、また周辺部の
人たちの働く場になっていっていると思います。
繰り返しになるんですが、私たちが言い続けていることは、住みよい町こそ優れた観光地であるということでございます。
また、私は旅館業をしておりますので、この旅館を見ましても、私ども観光だけで成り立っていることではございません。
地域があってこそ成り立っていると。
地域の皆さん、特に農村である私どもは
由布院の食卓というのを大事にしてまいりました。これは昭和四十年代後半からしていっていることではございますが、私ども観光業、外との
交流をしていく者ができることは、皆さんとのつなぎ目であること。そのためには、いらしてくださる方たちに
由布院のものを食べていただく。お金をいただくということですから、ただそのままを出すんではなくて、そこは料理人やまた
経営者を含めて、皆さんにそれをよりよく召し上がっていただくということをしてまいりました。
これは私どもの朝食なんですが、クレソンのスープとクレソンのサラダ、こういうものは
農家の人、昔は
由布院の町の中でもどこでもクレソンというのは取れました。でも、
環境が変わり、クレソンというのが取れなくなると、
農家の
人たちにクレソンを作ってくださいとお願いし、クレソンを作ってもらう。クレソンを生のままで召し上がっていただくのと、また料理人の技が入ることによってスープが生まれると。このスープが生まれることによって、クレソンが例えば百円の
価値であっても、スープになると千円、千五百円のものを生むと。
また、
農家の方たちだけではなくて、今、生産者の方たちとのつながりもございます。それは、いろんな方たちが
地域で生きていくという
意味では、チーズを作る
人たち、生ハムを作る
人たち、そういう
人たちが
地域に移り住んでくる。それを今度は私どもがちゃんとお客様にお出しすると。そのときに、じゃ、おいしいフレッシュチーズであればどういう組合せがいいのか、それを考えるのが私どもの観光業また旅館業の役割ではないかと思っています。
この食卓の中がより
由布院のものになっていく、また
由布院近郊のものになっていく、これが
人口を減らさないことでもあると思いますし、私どもが
地域で生き残っていける方法ではないかと思っておりますので、このことを続けてやっていきたいと思っております。
一方で、私どもの町は、多くの
人たちがかかわらないと
町づくりというのはできません。旅館
経営者の私が幾ら言いましても、それは机上論でしかありませんので、今この十年始めていることは、料理
人たちが
農家の
人たちの現場に行って話そうと。そこで話すことによって、今まで使えなかったと思っていたトマトであったり、キュウリであったり、ネギであったり、それが料理人の技が入ることによって生かされると。直に料理を作る
人たちが
農家の
人たちに話していくことによって、よりいいものを作っていけるようになってくると。
その
関係性、より多くの
人たちを巻き込むということで、今、こういう料理
人たち、また料理研究会というのをつくっておりまして、町の中の多くの
人たちが参加していく。特に、料理人のように一番食というところと身近な
人たちが
地域に何を還元できるか。その彼らがやはり
由布院で料理を作るという
意味を分かり、その
意味で一皿、一皿を大事にしていくということが、
交流人口を持っている私どもの町の使命ではないかと思っております。
ちなみに、私どもの料理人も含めて、朝の仕事は何かといいますと、
農家のところに行く、あとは
直売所に通う、そのことの繰り返しでございます。でも、
由布院にいらしてくださる方が何を求めているか。それは、
由布院で取れた新鮮なもの、しゅんのもの、それをいただきたいと思っている。そのことを私どもは外につなげる役割があると思っております。
また同時に、お料理だけではなくて、そのお料理が乗る器というものもございます。
由布院にいろんな物づくりの人が移り住んできております。その物づくりの
人たちがやはり食卓に乗れるものをつくっていく。それをまた、料理人、料理だけではなく、私どもが使っていくことによって、
一つのものがちゃんと
地域につながっていくと。
大分県は林業県でございますので、風倒木とか間伐材がございます。それは
価値を生まないものであっても、一人の職人がその技をもってすれば二千円、五千円、一万円のお皿になる、器になる。それを私どもは外の皆さんにつなげていくと。そういうことによって、その器を作る方のところに若い
人たちがまた修行に来る。そういう小さなことなんですが、その繰り返しをしていっております。
もう一方で、今、出会いの場としてというのがございます。私どもの町は農村というお話をしましたが、非常に開かれているとは言い難いような人間
関係も多々ございます。
地域の人にとって、外の
人たちが入ってくることは決して居心地のいいことだけではございません。そういう面で、三十年近くやってきたことは出会いの場をつくっていくことでございます。
出会いの場の
一つは、いろんなイベントがございます。
由布院のイベントはもう三十年以上続いております。それは、私たち迎える側も楽しむ、いらしていただく方たちも楽しんでいただく。そこは小さな町ですから、大きなホールがあるわけではない、映画館があるわけでもない。でも、やれることは、良質なもの、この町でしかできないことをしていこうと。
音楽にしろ、室内楽であったら我が町でできると。では、室内楽の若手を呼んでやろう、その質を保っていこう。映画祭にしろ、日本映画を、
由布院だから見れる映画をやっていこうと。そういうことの良質なものを絶えず町の中でしてまいりました。そのことによって、町の
人たちが、最初は映画祭、音楽祭と言っていた方たちが、
自分たちもお金も出します、また夜のパーティーにもいらっしゃる方もいると。
公民館でありますから、その映画祭に参加する、パーティーに参加すると。地道なんですが、外とのつながりを持つ、良質な空間を持っていくということをやり続けていくことは重要ではないかと思っております。
また、一番上に牛喰い絶叫大会というのがございます。私ども観光のメンバーがやれることは、出会いの場をつくることです。
由布院が昭和四十年代後半、牧野が買い取られる、畜産が危ないというときがございました。そのときに、じゃ畜産振興と牧野を守るためには何ができるかと。それは、都市の人に応援してもらおう、都市の人に子牛のオーナーになってもらって、そして
農家で取れたものをお送りしようと、そういう
関係性をつくりました。
ただ、そのときに、その
関係性で終わるんではなくて、私たちは現場に来ていただかないと始まりません。ですから、一年に一回、
自分たちが守った牧野にいろんな皆さんにいらしていただいて、そこで
交流していくと。そういうような
交流を持ちながら、三十数年やり続けていっております。
また、出会いの場としてもう
一つあることは、良質なものをつくっていくということで、例えばJRさんが駅を造る、こういう列車を走らせる、それぞれの小さな美術館が生まれると。
由布院の町の中の
人たちがいい空間、良質な空間で育っていくというのは大事なことだと思っております。
駅がこのような駅に変わるとき多くの人が、昔の駅が良かった、何が悪いんだ、新しい駅なんて造る必要はないと。これは建築家としては磯崎新さんの建築なんですが、お任せではなかったんですね。私たちも一緒になって考えた駅です。
由布院らしい駅を考えて造った駅なので、私たちも自信がありました。でも、
地域の
人たちは、この駅が褒められる、いろんな
人たちからいいねと、
子供たちも自慢をしてくると。そうすると、二十年たったこの駅が今
由布院の
人たちにとっては当たり前のように
自分たちの、由布岳もいいよと、でも
由布院駅も自慢だよというふうに言っております。
また、隣にゆふいんの森号という列車が走っております。
地域の
NPOの
人たちが今言う言葉は、森号が走るにふさわしい町にしようよ、菜の花を植えていこうよ、森というなら森をたくさんつくっていこうよと。そうやって
地域の
NPOの
人たちも含めていろんな方たちがかかわり、出会いの場が生まれてくることに変わっていっております。
こういうような小さな美術館も決して資本があるわけではないんですが、ここでしかないものをつくっていく、そういうことを心掛けております。
もう一方、私どもの観光協会、旅館組合の役割は、外と内とのつながりを持つことでございます。人を育てていくということが
地域の中では非常に大事なことだと思っております。
観光協会と旅館組合でこういう情報センターをつくっております。二十年前につくりまして、つくった後の事務局長は、お金がない私どもの
由布院温泉ですから、いろんな
自治体に、事務局長をしませんか、
由布院の
町づくりを勉強しませんかということで、静岡県の方から来ていただいたりしておりましたが、今から十一年前に
全国公募で事務局長を公募いたしました。私ども百名ぐらいの方が応募があったんですが、お一人、都庁を辞めてこの観光協会の事務局長になっています。
一方で、隣に書いておりますように、いろんなことを
地域の中で若い
人たちはやられます。でも、
自分たちの仲間内でやっていくことだけではなくて、どう
地域に、
町づくりにかかわっていくか。その仕掛けということで、こういう
事業委員会というのを協会の中につくっております。三百二十の会員がおりますので、若い方からやはりキャリアのある方、いろんな方がいます。でも、若い方たちを
中心にいろんな
事業委員会でイベントをする、景観のことを勉強する、そういうところで彼らの動きをつくってまいりました。
由布院のこれが一九六〇年代から今の観光の推移でございますが、私どもは、この年間四百万人の方たちが、これから増えるというよりも、この方たちがより長く滞在していただきたい。滞在時間が長くなるということは、
地域に負担が掛かりませんし、いろんな
人たちを巻き込んでいけます。
地域の
人たちと触れ合うことは、
地域にとっても元気になりますし、いらしてくださる方たちにとっても元気になっていくことだと思っています。
一方で、じゃ、観光をしていく、
交流していく、問題はないのかといいますと、
平成の、私どもが
交流を始め、
人口が減らなくなった
時代から、このような土地が変化してまいります。昭和四十六年、ほとんど町の
中心部は旅館と一般のお店でございました。それが、バブルの
平成二年になりますと、駐車場とお土産屋さんが増えてまいります。そのときに、こういう条例を作り、また
平成十六年になりますと、ほとんどもうお土産屋さん、駐車場の町になってしまったと。コントロールできない現象が生まれ、開発が進み、このような動きが草原の森林化。
ただ、こういう問題があるときに、
地域の中の
人たちが、
自分たちのことだけではなく外の
人たちの応援をもらいながら、
地域を持続できる、サステーナブルなところにしていこうと。決して
交流というのは悪いことではなくて、私たちが、
自分たちでしっかりとした目を持ち、やれる形をつくっていこうということで動いております。
今、国の
事業を今年度やらせていただいているんですが、今すごく私どもはチャンスをいただいております。こういうものも、
由布院の小さな町の観光協会でも、出せば十倍ぐらいの倍率でも通ることがありますし、いろんなことを仕掛けながらやっていきたいというふうに思っております。
これは国土交通省の観光庁で出している
資料で、いつも出ていることですが、もう
人口は減っていっている
社会の中で、都市部ではなく、
地域の格差は地方の中でどんどん起きる。その中で
一つ言えることは、
交流人口が生む定住
人口一人分は外国人旅行者七人分でありますし、私どもの町がしているように、宿泊をしっかりしていくことは二十二人分のことで、
経済的なものを持っていけると。
そういう
意味では、私どもは、
由布院で少しでも多くの時間を過ごしていただけるように、そういうことをしていくことが、私たちが生きていけることではないかと思っております。
最後になりましたが、これは私どもの、こういう
交流人口をし、出会いの場をつくっていき、様々な
経済というものを小さいながらも結び付けていくことによって、IターンやUターンの方も含めてなんですが、多くの若い
人たちが戻ってきてくれています。私より一回り若い
人たちが
地域の
中心になり、観光協会を支え、
地域の中に今動いていっています。その
人たちが、やはりどう動いていくかということが今後大事ではないかと思っております。
最後になりましたが、私どもにとりまして、この町がやはり風景を取り戻していくことが何よりも大事なことだと思っています。なぜ
由布院かと。それは、私たちの町の風景がちゃんとつながっていかないと、
子供たちやまた訪れる
人たちも
由布院ではないと思っておりますので、先ほど、簡素の美しさと
鈴木先生おっしゃっていただきましたが、本当に、引き算をしていくことによって、日本のいろんな地方の小さな村々、もっともっと本来の美しさを取り戻していくことだと思っておりますし、そのことをしていくことが、何よりも次
世代につなげていけることではないかと思っております。
以上でございます。