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参考人(ファビオ・ランベッリ君) よろしくお願いいたします。
こんにちは。ファビオ・ランベッリでございます。まず、今日、お呼びいただき、誠にありがとうございます。
さて、今日は、私の
お話なんですけれども、西
ヨーロッパ、特にイタリアを中心に
休暇、
休み、それから間接的にですけれども、
労働に関する感覚や態度について少し述べさせていただきたいと思っております。少しでも御
参考になっていただければ大変うれしく
思います。
始まる前に個人的な一言なんですけれども、この
休みの
文化について関心を初めて持ったきっかけというのは、私の専門はかなり違う分野なんですけれども、
休みの
文化に引かれたきっかけとしては、やっぱり
日本でよく聞かれるからなんですね、率直に申し上げますと。つまり、イタリアは
休みが長いですねとか、あるいは、なぜイタリアでお店がお昼、それから日曜日休むのかというような
質問なんですけれども、これ、常にそういう
質問が来るんですけれども、最初は私はよく答えられなかったんですね。何が悪いんですかとか、何が変ですかと、向こうは普通のことなので。だけれども、お互いに変だなというようなことで終わらせるとやっぱり物事進まないし、逆に、やっぱり
休みに、あるいは
仕事しない、とらえ方の中で、何か
文化の深い要素、特徴が見えるのではないかと考え始めたんですね。
それから、もう一つなんですけれども、
日本の場合は、
労働に多くの
日本人がその自己アイデンティティーを定義するきっかけにしているのではないかなと思うんですけれども、つまり、よく働く人イコール良き人、よく働かない人は、さあ、どうでしょうというようなことなんですけれども、このような感覚は、特に外国の人々に対して起動されるような感じがします。
私にとって面白いことには、このような感覚なんですね。つまり、
日本でよく
仕事するけれども、例えば
ドイツは余りよく
仕事しないとか、そのような感覚が、それこそ
ヨーロッパで
仕事している、あるいは例えば
会社から派遣されている
日本人の幹部の中でよく見られるというふうに何か分かったんですね。つまり、せっかく
ドイツで
仕事しているのに、ああ、土日
休みだし、
休みが長い、いいなと思わないんですよね、
日本の
企業の幹部の方が。逆に、いや、土日なぜ
仕事しないのかとか、本社と連絡取るときに、じゃ、だれもいないのかとか、そのようなことで困っていることで、やっぱり
日本人でいることにプライドを持つようになるというようなことなんですね。
したがって、つまり
文化的にこのようなことについて考えるときに、じゃ、なぜ
仕事することによってプライドを持たなければならないのかというような問題が出てくるんですけれども。
これから私は、用意していただいたレジュメに沿って
お話を進めさせていただきたいと思うんですけれども、まず、
休みあるいは休むこと、
休暇を考えるときには、まずそれは、
文化システムとして理解した方がいろんな広がりが見えるのではないかと思っております。
というのは、一般的な理解の仕方で申し上げますと、休むことは、つまり
仕事しない、つまり否定的な、何かをしないという否定的にとらえられることが多いし、それから
休みには何かが欠けているような、つまり
仕事という重要な部分が欠けているようなという否定的な状態になっている。つまり、欠如の時間としての
休み。それから、あともう一つのパターンがあるんですけれども、休むことは
労働するために生理的には必要な時間、だから
労働がメーンでその付随的な時間として、あるいは二次的な時間としては
休暇があるということなんですけれども。いずれにしても、
休みは欠如の時間だったり付随の時間だったりということで、主要なものとしてとらえることができないということなんですけれども。
しかし、そうではなくて、やっぱり休むことには
休みの
文化のいろんな特徴が見えてくるのではないかなと思うんですけれども、例えば時間論、
文化における時間論、
労働観、人間
関係、
社会ネットワークの活用の仕方、あるいは聖なるものとの
関係などが見えるという、
休みの中にこのようないろんな
文化の側面が見えるということで、
文化としては非常に重要な時間だというふうに言えるのではないかなと思うんですけれども。
したがって、
休暇という概念の中には少なくとも二つの次元があると思うんですけれども、一つは個人的な
休暇、個人的に休む側面と、やっぱり共同体的に
文化としてのそういう貴重な、象徴に満ちた時間という両方の側面があるということで、特に制度としての
休暇、国民としての、国民の一つの営みとしての
休暇ということを考えるときにこの両方の側面をよく把握しなければならないのではないかなと思っております。したがって、
休みというのは
文化の中で直接的生産性から離れた別の営みである、別の時間、別の次元であるというふうな感覚が
ヨーロッパにあると思うんですけれども。
それから、レジュメの二点目なんですけれども、
休みとは何かということなんですけれども、伝統的には、
休みの中には聖なるものとの
関係又は共同体的ないろんな在り方が目立つのではないかと思うんですけどね。つまり、伝統的な
社会の中では、
休みの時間の中で祭りが行われたりとか共同的な行事が行われたりするということで、この中には恐らく
休みという特別な時間の起源があるのではないかなと思うんですけれども。
これは、添付
資料にも入れさせていただいたんですけれども、
参考のため、もちろんあくまでも
参考のためなんですけれども、八十八ページ以降なんですけれども、これはイタリアという国家が容認する国家の休日、国家の祭日なんですけれども、十一日だけなんですけれども、その中でほとんど、ほとんどというか半分以上なんですね、宗教
関係の祭日なんですよ。このような話を私がするときに反論として、いや、でも
日本では何か政教分離があるからこのような宗教的な祭りを国家として認められないということなんですけれども、もちろん西
ヨーロッパでもはっきりとした政教分離がずっと昔から成立しているんですけれども、この場合は、国家が宗教的な祭日を認めるよりも、国民若しくは
文化にとって、ずっと大昔からある国民にとって重要な行事であるというふうなことを認めるということなんですね。だから、その宗教的な価値よりも、国民あるいは
文化的な価値が国家によって認められているということになると思うんですけれども。
このような祭りの中なんですけれども、多くの場合は、もちろんイタリアの場合はキリスト教
関係の行事が多いけれども、それぞれの行事の歴史をたどってみると、これほとんどはキリスト教以前のいわゆる異教の時代の重要な行事であったんですよ。ですから、キリスト教の伝来以前からある重要な
文化的な要素、そういう要素の中にはキリスト教が、そういうキリスト教的な価値を与えて、それを再解釈して新しい価値を与えたものだけなんですけれども。しかし、一般の人にとっては、これらはキリスト教的な
意味合いよりも、何か伝統的な行事であるというふうな感覚というふうな理解で今でも行われているということなんですけれども。したがって、このような行事の行い方には、そういう
文化の伝統あるいはその
文化伝統の連続性がある程度認められているというふうに言えるのではないかなと思うんですけれども。
もちろん、これはイタリア、たまたまイタリアの事例なんですけれども、西
ヨーロッパのほとんどの国は同じような祭りを、あるいは祭日を持っているんですね。つまり、クリスマスはどこの国でも国家の休日として認められているし、だから、体系としてはほとんど同じなんですけれどもね。
もちろん、このような祭りのやり方は、意外と最近論じられているような休日の合理化とはほど遠い考え方に基づいているものなんですけれどもね。つまり、祭日の合理化というのは、
日本で行われているような、
休みのない例えば二、三か月があったら、じゃ、勝手に国家が休日を決めるというようなやり方がずっと今まで行われてきたんですけれども、あるいは
休暇取れないのでそういう国家の休日を増やすというような制度なんですけれども。確かに、イタリアでも最近このような
休みの合理化が必要なのではないかという議論が出てくるんですけれども、休日を、あるいはこのような
意味での
休暇を合理化すれば、その休日の伝統的な、あるいは
文化的な
意味が完全になくなってしまうというところになるんですけれどもね。
だから、非常に抽象的な休日になってしまって、余り、共同体的な感覚とか
社会的な
意味合いが全く分かっていないようなことになるんですね。今の若い
人たちに、例えば海の日というのは何なのかと聞くと、分からないですね。
ですから、そういうような自
文化を
意識するきっかけとしての休日というきっかけが合理化の中でだんだんなくなってしまうということなんですけれども、合理化というのは、恐らく伝統的な
休みの
意味合いに反するような試み、営みなのではないかなと考えられると
思います。
例えば、このようなイタリアの国家の祝日と比較すると、
日本の国家の祝日は意外とどんなに抽象的な祝日になっているのかということが多分お分かりになると思うんですけれども。一般的にかなり重要な行事、例えば花祭り、お盆、七夕、あるいはいろんな秋の祭りだとかあるいは地域の祭りとか、つまり、まだ
日本の
文化の中にかなり根付いているものなんですけれども、このような祭りが国家によって容認されていないですね。逆に言うと、もちろんお盆は行われるけれども、その一番近い日曜日に行われるということで、お盆という本来の
意味合いが少しずつなくなりつつあるというふうなことになっているんですけれどもね。
ですから、余り深みのない、農耕
文化的なそういう深みのない祭りが、あるいは休日がだんだん増えてしまっているというような
状況になっているような印象を外国人として受けているんですけれども。
三点目ですけれども、「「
休み」の倫理」というタイトルにしてみたんですけれども、
労働至上主義というのは私が勝手につくった言葉で、
参考資料の中にそういう短い文章が入っているんですけれども、先ほど
労働が美徳であることに問題ないというふうな
小倉参考人からの御
意見があったんですけれども、それはもちろんそうなんですけれども、ただ、やっぱり
労働だけに価値観を求めるということは多少問題があるのではないかなと思うんですけれども、しかし、じゃ、
労働しないと何をするのかという問題が出てきます。ここで
労働至上主義から人生充実の時間を中心に生きるという生き方の変換が必要なのではないかなとは思うんですけれども。
ヨーロッパでも、
仕事をしないあるいは休むことに対してはいろんな価値観が重なっている、あるいは対立していると思うんですけれども、一つは古代ローマあるいは古代ギリシャの時代からある考え方で、これは今でも残っているんですけれども、ラテン語ではこれはオティウムという言葉が使われているんですけれども、
日本語では閑居、安逸、怠惰というような言葉で訳されているんですけれども、古代ローマ人にとってはオティウム、つまり怠惰、安逸ということは非常に望ましい、理想的な状態だったんですね。これはもちろん貴族、上流階級に限られたような余裕なんですけれども、これは今でもイタリア、
ヨーロッパに生きている伝統なんですね。だから、
仕事をする目的はオティウムを獲得するということなんですね。その安逸の貴重な時間を手に入れることなんですね。逆じゃないですね。つまり、
仕事をするために休むのではなくて、安逸、怠惰を獲得するために
労働するという考え方ですね。
もちろん、このような異教あるいは古代の考え方には、今度、キリスト教的な感覚が入ってきたんですね。キリスト教の中では、作業、
活動、
労働というのが神様に対する、神様への感謝とはなっていると思うんですけれども、しかし、キリスト教の中でもう一つの重要な考え方があるんですけれども、これは安息日ということなんですね。安息日というのは神様がなさったことで、人間ももちろん神様にちなんで同じような
生活をしなければならないというふうなことなんですね。したがって、キリスト教の中では怠惰あるいは怠けることはもちろん罪になっているけれども、安息日を守らないということももっと重要な罪になっているというふうな、ある程度中道的な立場に立っていると思われるわけですね。
中世になると、都市、それぞれの町の生産階級、例えば商人だとか職人だとかの独特な時間論がだんだん展開されてきて、それはある
意味で恐らく産業革命の時間論に結び付いてくるとは思うんですけれども、その産業革命の中で初めて
労働至上主義という考え方が恐らく重要になってくると
思います。
例えば、マルクスの思想の中でさえ
労働時間と生存時間という区別を設定するんですけれども、生存時間というのは、やっぱり
労働するために生理的に、身体的に必要な時間だけなんですけれども、しかし、
ドイツ語ではこれは生存時間というのはレーベンスツァイトですね。つまり生きるための時間だということで、最近イタリアの哲学者がそれを、それこそ私があえて訳してみたら、人生充実の時間というふうに理解できるのではないかなというふうな解釈も出てきたんですけれども。
したがって、このような人生充実の時間を一般の人に必要性を浸透させるということは恐らくこれからの課題なのではないかなと思うんですけれどもね。
四点目なんですけれども、時間がほとんどなくなってしまったので、
休みを増やす政策についてなんですけれども、私はもちろんこういう政策の専門家ではないので、話は幾らでもできるけれども、実際に政策を導入するといろんな問題が出てくると思うんですけれども、確かに例えば
法律を変えて休日を増やすという新しい制度をつくって導入することはもちろんできるけれども、しかし、それだけでは国民の
幸福度が高まるかどうかというのには私はちょっと疑問を思っているんですね。
というのは、学生に例えばイタリアのそういう
休みの
文化について
お話しするときに、必ず驚きの反応があるんですね。いいですねと言う学生もいれば、ほとんど、いや、こんなに休んでいいのか、やっぱりちょっとふまじめじゃないかなという
意見が多いんですよ。私も、学生だから、いや、よく言うよと
思いつつ、でもこんなに一般的に浸透している考え方なので、ある何人かの個人の反発的な考え方だけではない、つまり
文化につながる
発想なのではないかなと思うんですけれどもね。確かにこちらでもいろんな
資料が出ているんですけれども、
世界で最も生産性の高い、あるいは何か豊かな国は
世界の中で最も休む国なので、ふまじめだと思えないし、
社会的には問題があると思えないけれども、しかし、多くの
日本人の一般的な感覚の中にはこのような考え方があります。
ですから、政策としては、やっぱりこれはある
意味では教育からスタートしないと余り大きな進展がないのではないかなと思うんですけれどもね。教育では具体的にじゃ何ができるかと申し上げますと、まず、
日本の
休みの
文化を教えることなんですね。つまり、
労働の美徳ではなくて、
日本の
文化の中にも立派に休んできたよというような話を、例えば旧暦の話だとか、お祭りの話だとか、お祭りの中で何をやっていたのか、何のためにとかですね、そのような
文化の再検討、再評価が大切じゃないかなと思うんですけれどもね。
もう一つは、
労働の美徳なんですけれども、私はいつも何か不思議に思うことなんですけれども、
仕事が終わったらお互いのあいさつとして、楽しかったねとかお楽しみさまでしたということではなくて、御苦労さまでした、お疲れさまでしたという言葉を使うんですね。これはほとんど外国語の言葉には訳せない表現ですね。なぜ御苦労でなきゃいけないですか。まあ疲れたことは分かるけれども、苦労ですかね。逆に言うと、イタリア語には
仕事する、
仕事始める前に、ボン・ラボーロという、つまり良い
仕事をというあいさつがあるんですよ。
ですから、私の疑問なんですけれども、
日本の一般的な、これは一般化し過ぎるとまたいろんな変な話になってしまう、それこそ偏見になってしまうおそれがあるけれども、一般的に申し上げますと、
労働の美徳の中には、やっぱり
労働が苦労でなきゃいけない、苦労しているから一応美徳にしているというふうな感覚が残っているんじゃないかなと思うんですけれどもね、いろんなところに。
ですから、苦労しているというところを、つまり、別に
労働イコール苦労であるという図式をなくすことによって、
仕事する、もちろん苦労もしますし、疲れるし、しかし楽しみもあるし、いろんな
経験ができる、あるいは例えば
仕事することによって、
休暇を得ることによってまた人生が充実できるような、先ほどの
坂本参考人の
お話につながると思うんですけれども。そのような違った見方を教育、つまり小
学校あるいは幼稚園のところから教える必要があるのではないかなとは思うんですけれどもね。
というところで、まず時間になりましたので、私の話をここで終了させていただきます。
どうもありがとうございました。