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参考人(
米本昌平君)
米本でございます。
私は三十数
年間、生命倫理の政策の比較をやってまいりました。私はよく生命倫理の
専門家というふうに、一応研究対象は生命倫理なんですけれ
ども、生命倫理というのは本人若しくは関係者が
思い悩んで決断することであって、社会が考えないといけないのは、その技術の使用の
現場若しくは研究の
現場にどの
程度の技術規制を掛けるかという技術使用の合理的な政策立案の問題と読み替えまして、世界中の生命倫理に対応する
法律を横に比較してまいりました。
私は今から十七年前の
脳死臨調の参与だったんですけれ
ども、その場でもこういう決め方はおかしいというので、例外の少数派でございました。それ以来、私の
意見は全然変わっていないんですけれ
ども、特にこの場を、機会を与えていただきましたので、私の考え方が正確にお伝えすることができるようにサマリーを作ってまいりましたので、これに合わせて御説明してみたいと
思います。
先進国の
脳死にかかわる
移植法を比較しておりますと、まず欧米では物事を考える場合に、事実、ファクト、価値という二項対立から入りまして、世界を、だから人が生きているか死んでいるかというふうに価値付けるのは哲学や宗教の役割でありまして、それを扱う科学は自然対象でありますので、これはバリューフリーであります。
死を確定する手順というのは、社会が人の死と信じる状態に対する生理学的な指標を
医療職能集団、メディカルプロフェッション、これは法的に
定義された明確な身分団体でございますけれ
ども、これが選定し、臨床
現場でこれを測定し、専権的に死亡判定を行ってまいりました。三徴候説というのがその典型でございます。
一番
最初のハーバード
脳死基準でございますけれ
ども、一九六八年の
脳死に関する重要論文であるこのハーバード基準のタイトルは不可逆的・深昏睡の一
定義でありまして、著者はハーバード大学医学部
脳死定義検討委員会特別
委員会であります。この原著論文の冒頭を後ろから二枚目に出しておきました。これ、文字どおり、ですから、論文のタイトルとしては科学的事実である深昏睡でありまして、この自然現象のうち脳の機能不全が不可逆的に停止したことが確認できたものに対して人の死という意味付与を試みたのがハーバード大学
脳死委員会でございます。
同時に、
医療の側は、社会の側が
脳死状態を人の死と解釈し得る道筋を示してまいりました。例えば、イギリス王立医学部
会議名誉会長は、
脳死概念を何らかの形で魂が肉体から離れるという諸宗教の概念と同一視することは、困難なことでも非倫理的なことでもないというふうに、
脳死状態と判定されたものを人が死と受け入れられるような解釈を示唆してまいりました。
一般に、社会に向かって
脳死は人の死かと問われますと、大半の
人間は実はイエスと答えるんですけれ
ども、大体どの社会でも二割前後はノーと答える微妙な問題でございまして、この比率は時間や場所を変えても余り変化は見られません。
これは最後の、一九八五年時点の
アメリカの
電話調査でございますけれ
ども、この時点では
アメリカでは実は
脳死問題は法的には決着した後でございますが、今申し上げた
程度、
脳死を法的な死と
定義として使ってよいが、最後でございますけれ
ども、五五%で、使うべきではないというのが大体二六%でございます。そもそも、
脳死は死かということについて
世論調査をするということを諸外国はやってきておりません。
脳死を前提した
移植は、新たな死の判定方法を設け、死亡宣告時点を繰り上げる要素を含むため、欧米社会では、
脳死は死かという問いが過度に社会に流出して制御不能とならないよう、慎重に扱ってまいりました。医師は、
脳死と判定された最末期の身体を限りなく死体同然と扱う既成事実を積み上げ、社会の側はこれに特には異論を差し挟まない光景が実現してまいりました。
脳死移植は、
医療職能集団の権威とこれに対する社会的信頼の下で辛くも行い得る限界
医療という認識がありまして今日の状況が達成されてまいりました。
先ほど、
森岡参考人もおっしゃいましたけれ
ども、その意味で、
脳死は死かということをこの二ポツに書いておきましたけれ
ども、大掛かりな社会的な議論にさせた国は非常にわずかでございます。一般的に、キリスト教教義と
脳死は人の死とする見解をすり合わせることは比較的、論理的には簡単でありまして、他方、キリスト教会は人工妊娠中絶を認めませんので、どこから
人間が始まるか、どこから
人間として認めるかという
人間の発生に関する価値論というのは欧米では激論が続いておりまして、これは大統領選の
アメリカでは必ず論拠になっております。ただし、
脳死問題では
アメリカと
ヨーロッパでは立法プロセスでは別の経緯をたどってきております。
一九六〇年代末に初めて
心臓移植が行われますと、
脳死状態で
臓器を取り出した医師が
殺人罪で告発されるという例が出てまいりました。これに対して、カンザス州大学の医学部の解剖学の教授でありましたハーディン教授がカンザス州の州
議員と共同で
脳死法というのを制定いたしまして、世界で初めてカンザス州
脳死法を制定させました。その後、
アメリカでは
医療関係立法が州の立法権限にありますので、
臓器移植は州をまたがって行われますので、
アメリカ中共通の州法にした方がよろしいということで統一
脳死法が提案されまして、これが全州で可決、採択されております。これが
アメリカでは
脳死が法的に死と認められているという事実なんですけれ
ども、逆に言いますと、
世論調査をして大議論をやって
アメリカ中が立法が終えているということではございません。
具体的に言いますと、この統一
脳死法の
法律の構造でございますけれ
ども、この
法律は、血液循環か呼吸機能の不可逆的な停止若しくは脳の全機能の不可逆的停止のどちらかが確認されれば死んだものとする非常に単純な立法、
法律でございます。
アメリカでは、各州でできた
法律が合衆国憲法の人権条項に違反しているんではないかというので、いったんもう既に州議会を通った
法律を阻止することができますけれ
ども、その後、統一
脳死法が全州で可決、採択されて以降は一件もこの違憲申立てがありません。これは、
脳死問題については
アメリカ社会ではそれ以上の関心を引かなかった。そういう意味では、一九八〇年代の初頭に、主として大統領
委員会が死の
定義というものをまとめまして、これで
アメリカ国内はほとんど決着したということであります。この時点で在米のキリスト教各派は
脳死を死と認めましたけれ
ども、それ以外では正統ユダヤ、オーソドックス・ユダヤはいまだに心停止を人の死としておりまして、そういう意味で、この
アメリカの統一
脳死法は両方の死の
定義を選択できるという意味で宗教的価値の多様性を担保されている、そのために
アメリカでは
異議申立てがないということだと推測されます。
ヨーロッパでございますけれ
ども、八〇年にサイクロスポリンAが商品化されまして、欧州では八〇年代を通して
臓器移植法が成立いたしました。その形態は死体からの
臓器の取り出しを定めたものでありまして、
ヨーロッパは強制参加の身分組織としての医師集団がその自律性が強く、実際にはここが定める
脳死判定基準を
法律が後追い的に認めるということで現状が達成されてきております。近年、
臓器の不足や
臓器売買が明らかになりました。それから、それ以外の、ソリッドな
臓器以外の医学的利用が
可能性が出てまいりましたので、人体組織全体の
法律に作り替えるという立法の作り替えがありまして、
臓器移植法の見直しや包括的な人体組織法が制定されまして、その中で既に八〇年代を通して定番化した
脳死判定を
法律が後追い的になぞるということで法は
脳死を死としている国がございます。
次のページがそのサマリーでございまして、この三ページを見ていただきますと、
ヨーロッパ主要国、左側の細かいカラムがすべてこれは
脳死判定基準でございますが、この国は全部一応外からは法的に
脳死が死と認められていると表記されている国でございますけれ
ども、実際には
脳死判定はメディカルプロフェッション、
医療職能集団の判定基準の採用とそれの臨床的適用であります。
右側を見ていただきますと、
臓器移植法に死の表現がどうなっているかという表が書いてありますが、一応、八〇年代を通して成立した
ヨーロッパの
移植法は死者の
臓器、死者からの
臓器摘出という表現になっておりまして、最近になって、脳機能がすべて停止した者、若しくはそういう表現を後追い的に追認している。
例えば、ドイツですと、
脳死という概念は明確に法では
定義しておりませんが、
脳死前の摘出は禁止という、そういうネガティブな、間接的な表現で
脳死を採用しているということでございます。
例えば、一番下を見ていただきますと、イギリスは全
脳死ではなくて脳幹が完全に停止したらこれは
脳死ということで、イギリスのメディカルプロフェッション及び実際の
医療現場の運用はそれでほとんど定着しておりますので、ほかの国、特に
日本の
脳死判定の
現場でよく言われる確定
診断、脳波とか血流検査については、イギリスの場合は積極的に考慮外ということで、ですからこれは、
医療職能集団が決めた
脳死が、死に対する
脳死判定の基準と
ヨーロッパにおける
脳死の
法律の方の表現の仕方というのはこれほど違うということでございます。
ですから、それで最後に申し上げておきますけれ
ども、ちょっと二ページ目のポツ三に戻りますが、
日本もこれを見ると八〇年代中期に
脳死問題に手を付けるべきであったけれ
ども、
日本は強制参加の身分組織としての医師制度、
日本医師会とは独立の強制参加の身分組織としての医師制度がありません。間接的にいろんなことがあって、
脳死は死かという問いを過度に社会の中に流出させたままにあります。八〇年代の末に学術
会議、医師会生命倫理懇談会、
脳死臨調が
脳死を死とする報告をまとめましたけれ
ども、これらには、
脳死は人の死かという問い立てを迂回するような制度設計とすることが
脳死移植を社会的に包み込む道であるとする政策論的な視点が欠けております。
脳死は医学的に死であるというふうにお医者さんはおっしゃる方いますけれ
ども、臨床的には死かも分かりませんけれ
ども、いやしくも医学というのは科学であれば科学的な価値判断を込めてはいけないんだろうと
思います。そういう意味では、あの
衆議院採択の改正案を前提にするとすれば、法的に
脳死を認めるのは
移植の場合に限るという現行法の表現に戻すべき。要するに、国が、社会がすべて
脳死を認めないと
脳死移植ができないというアジェンダセッティング、そういう認識そのものが諸外国のプロセスと違っていると。ですから、
日本が
文化的、宗教的理由で
脳死が行われているのではないというのが比較政策論の研究者の見解でございます。
どうもありがとうございました。