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参考人(
有賀徹君) 昭和大学の
有賀と申します。
本日の
意見を述べるに当たりまして用意しましたものは、このクリップで留めましたパワーポイントのものと二つの
資料であります。元々、パワーポイントを使って画面を見ながら説明するということを想定していましたので、パワーポイントそのものにもページは打っていませんので、その次のページと言いながら話を進めたいと思います。
私のお話は、救急医療と
臓器移植というふうな大きな形で話をさせていただきます。前半は、救急医療における終末期医療と書いてありますが、
臓器移植そのものについて
日本救急医学会が直接的に、このようであれと、あのようであれというふうなことを今まで言ってきたことは少ししかございませんので、この
臓器移植という局面を考えるに当たっては、患者さんがもう既にこれ以上治療をすることはできないだろうというふうないわゆる終末期医療に立ち至った中において
臓器移植をどう考えていくかというふうな観点で前半をお話しさせていただきます。後半は、
臓器移植というようなことが今も少ない数ではありますが、行われていますが、救急医療の
場面から見て何がどのように大変なのかというふうな話についてお話をしようと思います。
一枚めくってください。これは、
日本医師会が二〇〇七年の九月に、終末期医療のガイドライン、いわゆるプロセスガイドラインという形で発表されたときの図でございます。
日本救急医学会の言う終末期というのは、急性期に、急性期にというか、急な病気の発症又はけがに見舞われたときに、その患者さんが救命救急センターなどに運ばれると、そしてその後、
脳死となると、こういうふうな状況を言うわけであります。様々な終末期がありますので、
日本救急医学会が
議論している終末期はこの
部分、早速臨死
状態になるという
部分でありますし、今日のテーマでいけば、この
場面で
脳死となった症例から
移植用の
臓器を
摘出する、そういうふうなテーマになるんだと思います。
次のページを開けてください。これは、
平成十八年、今から三年前に
日本救急医学会の
理事会
見解ということで出したものであります。三つ大きくありまして、
脳死は人の死であり、医学的事象であると述べてございます。その次に、
脳死となればきちっと
診断して御
家族に説明する。その後の方針については
本人の
意思、
家族の考えなどを考慮する。三番目に、
移植医療は妥当な医療である。
脳死下での
臓器摘出はそのことのためには欠かせないというものであります。ただ、ここで、「
脳死は人の死であり、」というこのフレーズについての
考え方は、当時からも様々、救急医学会の会員、ありましたけれども、少なくとも生物学的な死を意味しているという意味においてはどの者も疑問の余地はないというようなことで現在に至っております。
次を開けてください。これは、
脳死を含めた終末期医療のあり方に関するガイドラインということで
平成十九年の十一月に、このガイドラインの
委員会の
委員長は私でございますが、そしてそのガイドラインの詳細についてはホームページからプリントした
資料が付いていますので、御興味のある方は見てください。これは、終末期にはどういうものがあるかという定義と、その後の御
本人の
意思などの確認、そして延命措置をどのような形で中止するのかというその方法について書いてございます。
次のページを開けていただきますと、そのガイドラインのアンケートもした結果がありますので、それは
資料の、クリップの留めた二つ目の
資料であります。
ちょっと一個戻っていただきまして、そのガイドラインの青いページを見ていただきますと、結局、この提言、ガイドラインは
脳死下での
臓器提供に触れてはおりません。ただし、もしあればそれなりには恐らくは可能であろうというふうなことであります。可能であろうというふうなところについて少し説明したいと思います。
先ほどのアンケートがありまして、このアンケートは救急科専門医、つまり試験を通って救急医学会の専門医になった、救急医の専門医になった方
たちを対象にして約二千七百人からの回答を得てございます。
次のページめくっていただきますと、終末期の定義、実は四つあるんですが、そのうちの一つ、不可逆的な全脳
機能不全についてどのようですかと、これはいわゆるスケールバーといいまして、十センチの長さの一等右が一〇〇%、一等左が〇%というようなことでチェックをしてもらうというふうな形で取ったアンケートであります。全く容認できないという者が二名おりましたが、大いに賛成という一〇〇%の者がこれだけたくさんございます。平均でいくと、下に書いてありますが。いずれにしても、
脳死そのものを終末期として、ここから先は積極的な治療の対象ではないと、むしろ死をみとるというそのプロセスをどう考えるのかというふうなことに視座を移すというふうなことについては皆が賛成しているわけであります。
その次のページめくってください。次は、延命措置を中止する方法であります。御
家族の
意思の確認等々はありますが、省略させてください。
ここにありますように、一、
人工呼吸器などを早速中止するというふうなところについては、右肩上がりではなくて、三番のところですね、大いに容認できるという一〇〇%ではなくて、ちょっと逡巡するところに山がございます。その次の、人工透析や血液浄化などを行わない、これは、積極的な治療についてはもうあきらめざるを得ないというようなことがありますので、大いに容認できるというようなところに山がございます。
その次のページをめくっていただきますと、
人工呼吸器の設定や昇圧剤の投与などを少しく低くしていく、そういうようなことについては中止する方法としては容認できると。最後に、水分や栄養の補給などを制限する、中止する、これも少し、何というか、気持ちの上で厳しいというふうな学会の会員、専門医が多いというふうなことがこれでお分かりだと思います。
くだんの、その次のページ見てください。
日本救急医学会の
見解では、その昔に、その後の方針については
本人の
意思、
家族の考えなどを考慮するというふうなことを言っていますし、延命措置を中止する方法、これは先ほどの再掲ですが、大いに容認できるというふうなことに関しては、必ずしもその
部分に一〇〇%のチェックした者が多かったわけではないというようなことがあります。
つまり、現状においても患者さんの
状態を医学的に
脳死状態、
脳死であるというふうなことがあったとしても、私
たち救急医学会の会員は早速、レスピレーターを切るというふうな選択は実はしていないということであります。
このことに関して、次のページを開けてください。これは会田先生、これは人文科学系の先生が東京大学で学位論文をお取りになったときにお書きになった論文の図を拝借しました。これは、末期患者における
人工呼吸器の中止について、救急医のパフォーマンスに関する質的な研究をされたというものでございます。
真ん中にありますカラム、色付きのカラムの
部分が時間の流れであります。この時間の流れの中で、
家族の受容というのがありますが、その上の丸でありますように、病態生理学的に、つまり医学というか理屈というか、理の世界で、患者さんはこれ以上やることはもう意味がないだろうというようなことを理解して、なおかつ情としてのフューティリティーと書いてありますが、会田先生は、つまり理の世界と情の世界で、やはりこれはもうやめようねというふうなことを御
家族も含めて理解したというふうなことがあればレスピレーターを切ろうというふうな話になるんでしょうが、必ずしもそうなっていない。つまるところは、情としての理解をいざなうことを私
たちがしながら、最終的にはレスピレーターを切るなり、
心臓が止まるのを待つなりというようなことをしていますというようなことを会田先生が観察して論文にされているわけですね。
その背景には、その下にありますように、
医師の裁量によって医療チームは全体として
家族の受容をいざなうことを援助するわけではありますけれども、そのまたその背景には、
現行の
臓器移植法の
脳死というのは、早速それそのものが人の死であると。さっき言った生物学的な死プラス法的な意味における死ということでもあるし、実はそうじゃないというふうな
考え方もあって、これらの二つの基準、ダブルスタンダードを、
現場においては、今言った御
家族の受容と、もちろん
自分たちも同じような気持ちを共有するという意味においては
自分たちも含めて、考えながらやっておるというようなことを理解していただければなと思います。
その次のページを開けていただきますと、青いページですが、
日本救急医学会が出しております救急科専門医になるための、何というか、テキストブックの医療倫理の
部分です。そこには、日常的に患者さんを診療する上での責務として幾つか書いてありますが、黄色で示すように、患者との協働というようなことが書いてあります。これが何を言っているかというと、患者又は御
家族と我々医療者とは同じ目的に向かって協働しているんだと。つまり、患者は治ろうとしているし、私
たちは治そうとしているんだというふうな、単純な言い方ですが、そういうふうな意味での価値を共有しているよというようなことがここに書いてあるわけであります。ですから、そういう意味で、患者又は御
家族の
意思を考慮しながら終末期医療を展開するというふうなことは、ここに書いてあることと同じことなのであります。
実は、世界
医師会、その次のページですが、二〇〇八年の十月のソウル宣言には、
医師のプロフェッショナルオートノミーのことが書いてございます。これは、しばしば世界
医師会はこのような宣言を出していますが、矢印で示しておりますように、職業的
判断をきちっとやれと。それから、二番目の矢印にありますように、患者さん
たちはかなりの範囲において
自分が受ける医学的処置を
決定する権利を有しているけれども、同時に
医師が適切な医学的助言をきちっとすることも、自由に行うことも求めているということで、左側にありますように、つまりプロとしての自律、
判断が大事であって、そこには患者との協働ということできちっと説明をして信頼を得ていくという、そういうプロセスが大事だというふうなことになります。
その次のページ、下のところに救急隊の漫画が付いておりますが、ここから少し本音というか、何がどう難しいのかを
現場のセンスで少し御説明申し上げます。
これは、
平成十八年度厚生労働科学研究ということで、
脳死者の発生等に関する研究班からのアンケートであります。それを見ますと、これは
日本救急医学会と日本脳神経外科学会が初めて合同して同じテーマでいろいろ仕事をしたという、そういう意味では業界内では比較的画期的な仕事でありますが、そこにありますように、3)に
臓器提供につながらない
理由として、主なものとして、御
家族の申出がないとか、
判定そのものをしないとか、院内体制が整備されていないとかあります。時間が掛かる、面倒な仕事になるだろうなどが正直に答えられてございます。人的・物的資源の不足、マニュアルの不足などがありますし、そもそも
脳死下
臓器提供は非日常的な業務で
現場への負荷が少なくないというようなことがあります。ただし、一等最後にありますように、今現在、
脳死下
臓器提供の対象の施設になっていないような四類型以外の脳神経外科、救急科の施設は、条件が整えば七割の施設が協力できると言っております。人的、物的な資源が必要なんだというふうなこともありました。
年に大体二千ほどの
臓器提供に供される
可能性のある
脳死患者が出るだろう。しかし、日本全国ではそれが情報としては百ぐらいであります。結局、今までのデータからすると年に五ないし六件ということになりますから、十分の一掛ける十分の一という幾何級数的な減り方であります。これは一体何なんだろうというようなことになります。
次のページを開けてください。
先ほど、大変時間が掛かるという話が出ましたが、ちょっと古いデータで申し訳ないんですが、第一例から四十一例の平均所要時間は、いわゆる臨床的
脳死とした①から、最後にやれやれすべてが終わった、といっても
摘出手術が終了の時点ですが、実質的に二日間掛かってございます。
脳死の
判定と
判定の間に六時間とかといろいろ言われていますが、その他もろもろのことがございますので、左にありますように、
家族も医療者も皆くたくたになってしまいます。
ちなみに、昭和大学で行われたときにもくたくたになりました。御
家族は病理解剖を
承諾されていたので、すべてが終わった後、病理解剖しようと思ったんですが、御
家族はもう疲れたのですぐ帰りたいとおっしゃって、病理解剖はできませんでした。
次のページ、丸がいっぱいありますが、これはお金の問題であります。
そもそも、丸のまた上のように、救急医療をこの丸の質と量でやっていたと仮定しますと、そこに
移植医療が入り込みます。そうすると、白抜きの真ん中で示すような形で救急医療を展開いたします。しかし、現実の救急医療は地域の救急医療を目いっぱいやっておるというのが実態でございますので、そういう意味ではこの白抜きが起こるということは論理的にはないと。もし白抜きが許されるとすれば僕
たちは年に何回かみんなでまとめて一緒に職業旅行に行けると、こういう話になりますので、やっていませんので、そうは問屋が卸さないわけです。
ですから、したがって、その
部分については何らかの支援が必要だろうと。支援とは、人の支援でありますし、そういう意味では人を雇う金というふうなことになるかもしれません。いずれにしても、お金の原理原則についてはこういうふうなからくりです。
現実どうなっているかといいますと、次のページを開けてください。
これは厚生労働省からの説明の紙をそのままパワーポイントにしたものであります。
平成十八年九月に下記のアからエに該当する、先ほど言いました四類型ですが、その施設は四百七十五なんだそうです。ただし、厚生労働省の照会に対して必要な体制を整えていますと回答した施設は実は三百十であります。実に三五%が脱落しております。既にこういう
状態なんですね。右の下にありますように、最後までとにかく頑張ると、でも、その後は点々々というのが私
たちの実態です。
その次のページは、これは昭和大学の例でありますが、すぐに対策本部を設置します、あたかもクライシスマネジメントのようではありますが。
いずれにしても、このような形で組織的な体制を組みます。
脳死判定医については、私が主治医の場合には②の脳外科と神経内科。もし脳外科の症例ならば神経内科と麻酔科の専門医が
脳死判定医になると。
判定後の患者さんについては、そこにありますように、麻酔科の先生にバトンタッチをいたします。ただ、二日間、丸々二日間に近い、
脳死の
判定までですとその半分だとしても、麻酔科の先生にお願いできても、御
家族への対応は私
たちがやっているというふうなことになります。
最後のスライドですが、終末期医療における救急医の業務と組織的な
病院医療の展開についてどう考えるかという話になります。
①にありますように、治療の断念と説明、これは私
たちの仕事です。そして、終末期医療に入るわけになりますが、
脳死になったときの
家族への
移植の説明は一体どういうふうなことでするのか。これは、私
たちはあくまでも
脳死となった患者さんそのものに対して治療しているわけですので、その患者さんの身になったときにどのような理屈かというようなことになります。
これは慶応大学の井田教授のお話を聞いたときにそうだと思ったんですが、
脳死となれば、患者さん御
自身は
自分の体について知っていなくちゃいけないということがありますから、
移植医療について知らねばならないと、これは患者さん御
自身がということです。そうなったときに、患者さんにお話ししても分からないので御
家族に代わりにお話しするというのが患者さんの、何というか、
自己決定等を含めた、患者さんの身になったときの
考え方であろうと。
ただし、そうはいっても、③にありますように、死をみとるというふうなことがございます。これは
家族の心の安寧を、つまり、先ほどの
言葉でいくと患者、
家族との協働というようなことになるでしょうので、したがって
移植の
可能性についてはそういうふうな観点で行うべきなんでしょうか。①は当たり前です。①に加えて②も救急医としては全くそのとおりだと思います。したがって、こういうことがあるというようなことは説明するのは必要だと思います。ただ、そこから先やるべきだという話になるような話は多分難しいんじゃないかと思います。それは、心の安寧のために
移植の
可能性があって、その方がいいよと言うことはどうかというようなことであります。
結局、②と③を行うことは主治医の私
たちからすると結構難しいと。同じ目的だとはいっても、同じ線路の上にいるとはいっても、隣の線路、南の方に行く線路が二つあったとすると隣の線路に乗り換えにゃいかぬだろうと。そういうような意味で、組織的な
病院医療の一環として、主治医の私
たちではなくて、そういうような形でオプション提示をするというようなことが多分必要なんでしょう。
それは、下にありますように、経済的な側面や
病院の危機管理と言いましたが、組織論としてそのような形を取るべきですし、それはやはり国の全体としての方針を決めて、そしてその最後の方から二枚目ですが、理屈の世界で正しいこと、それから
社会科学的な観点から見てやはり妥当なことをきちっとやって患者、
家族の満足を、そしてそれは私
たち医療者の職務満足でもあります。そういうような形でのきちっとした資源の投入をしていただければ、下にありますように、質の良い救急医療、
移植医療、それをやるチーム医療がきちっと展開できるであろうというようなことになります。
以上であります。終わります。