○土肥
委員 民主党の土肥隆一です。
三十分しか時間がございませんから、私の最近思う
教育と福祉と医療というようなテーマで最近考えておりますようなことを申し上げて、私の
質問の義務を果たしたいと思っております。
何と申しましても、特別支援
教育というのが始まったということですね。これは、二〇〇七年、
平成十九年でございますけれども、
教育界においては、特に障害児
教育においては画期的な制度変更だというふうに思いまして、その当時、文科
委員会におりませんでしたので直接の
議論にはかかわっておりませんけれども、
資料を取り出して読むにつけ、これは大変な制度変更だと思います。
一九四七年、
昭和二十二年以来、長年、障害児
教育は特殊
教育と言われてきたんです。それが六十年間続いたんです。それが、さまざまな問題が
指摘されて
現行の特別支援
教育に変わった。これは戦後の障害児
教育の大転換だと思います。しかし、大転換したからうまくいっているかというと、これはもう綿密に追っかけていかなければならない、このように思っております。
福祉の現場では、既に障害児、障害者は障害者自立支援法という
法律によって制度変更が大幅に行われて、各民間福祉施設は大騒動です。あと二年しますと移行措置が終わらなきゃいけない。障害者が作業所に通ってくる。これは日額制なんです。一日通ってきたら、その分の支援費がおりてくるということです。
福祉の世界では、長い間、措置施設としての福祉をやってきたわけです。子供の施設ではまだ措置が十分残っておりますけれども、それはやはり、措置と同時に契約の
時代に移って、子供が契約の当事者になかなかなれない場合は措置でやらざるを得ないわけでございまして、それはそれとしましても、措置の
時代が終わって契約の
時代。そして障害者自立支援法というのは、最終的には、障害者も働きなさい、就労をしなさいと。ですから、通常の
社会福祉施設を運営している人たちは、この子たちをどうしたら就労させることができるのかということで頭を悩ませているわけであります。
ようやく
教育が特殊
教育から特別支援
教育に変わったということでございまして、これは
法律や政省令の中身も当然吟味しなきゃいけませんし、刻一刻追っかけていって、理想的な、理想というか、この特別支援
教育が求めているところのゴールに向かってどれだけ達成しているのかということをしっかりと押さえていかなきゃならないと思っております。
この特別支援
教育でございますけれども、あらゆる分野にわたっております。私は
社会福祉関連の仕事をもう三十五年ぐらいやっておりますけれども、障害児は、障害児として生まれてきて、そして就学前のさまざまな福祉
教育、サービスを受けて、学校に入ります。学校を出ると今度は、その卒業生はまずは就労をしなきゃいけない。あるいはどこかの通所施設に預ける。この子供の一生、障害児の一生を見ていくときに、輪切りにされているんですね。
障害を持った赤ちゃんとして生まれて、就学前はさまざまな療育サービスを受けます。後で厚生労働省に、どんなことをやっているか、メニューだけでも挙げてもらいたいと思いますけれども。そして学校に入ります。これは学校が一番問題なんです。何しろ長いんです。六・三制の九年間、高等養護まで入れると十二年間、学校に子供を預けます、障害児を預けます。
それで、学校は一体何をやってきたんだろうというのが、大人の施設を運営している者にとっては率直な意見なんですね。
例えば、全く言語を奪われている子供に対して、最近でこそ言語聴覚士なんというのがあって、訓練をしているわけですけれども、痛いともかゆいとも苦しいとも何事もしゃべれない、一言もしゃべれない障害者がいて、そしてその人にどんな質のサービスができるか。やはり、ここが痛いとか苦しいとか言ってもらわないとわからないわけです。言語聴覚士というのは、子供のときからやらなきゃいけないんですね。
あるいは、今はOTとかPTとか出てまいりますけれども、これは特殊なリハビリテーションの分野でございます。やはり小さいときから追っかけて訓練をしませんと、どうしてこんな硬直した身体になってしまったの、手は曲がっているし、振り向きもできなきゃ何事もできないような状況、もう少しこのOT、PTが入って小さいときからリハビリをやったらどうなのと、こう思うわけです。
今度は、学校を卒業しまして、そして施設に預けられるわけです。十七、八歳で施設に行きます。そのときにはもう症状が固定化されておりますから、ほとんど不可能です。もちろん、全く不可能とは言いません。パソコンを扱ったり、いろいろななかなか特殊な技術を持っている子もいますけれども。
そして、やがて親が先に死にますね。そうしたら、その障害者は親亡き後どうするのかということは全くプログラム化されていないんです。厚生労働省あたりは特養に入れたらいいと言うんですけれども、大体四十五歳から五十歳ぐらいで急速に年をとってまいりますから、特養に入る年齢に入りませんし、一〇〇%身体介護が必要なお年寄りをそう簡単に特養は預かってくれません。
つまり、何が私は言いたいかというと、障害者の一生が分断されて、分断された範疇でのサービスを受けているんですね。そして、一生、自分は一体何なんだろう、自分の生涯は何だったんだろうということを顧みるいとまもなく高齢化していく。これでいいのかということです。
私はちょっと極端なことを言いますけれども、
教育の現場で病気の治療という領域に入ってきたんじゃないか。発達障害を今度の特別支援の
教育の中に入れますけれども、そのほか、小児てんかんを持っていたり、あるいは、極端に言えば小児
精神病であったり、普通に見える障害のみならず、あらゆる心的な治療を必要とする子供がいっぱいいるわけです。
今度の特別支援
教育は、なるべく現場に障害者あるいは発達障害児も入れて、そして教室の中で
適切な指導や
教育が行われる、そのことによってその教室の学力が向上するとか心の安らぎが与えられるとか書いてあるんですけれども、そこまでいっているのということは、始まったばかりですから言いませんけれども、いずれにしても、この特殊
教育六十年という物すごいハンディキャップを抱えて、これから学校が何をしていくのかということであります。
そういうことから考えて、私はやはり
学校教育に非常に問題を感じております。とにかく長い。そして、さまざまな子供がいるわけですから、理想的なというようなものは追い求めませんけれども、もう少し学校の現場が、先ほど言ったように、治療的な側面も含めるような子供
理解、人間
理解がないと、
教育は始まらないというふうに思うわけであります。
この前、神戸で、阪神・淡路震災後十五年がたちまして、まだ震災
教育というのをやっております。その日は学校を開放しまして、父兄のみならず、私どもものぞきに行くわけです。震災
教育をやっているんですけれども、型どおりの震災
教育をやっているわけです。テキストがあるわけです。ところが、ちょっと見たらその教室に、普通の車いすじゃなくて、もたれかからなきゃならないバギータイプの車いすの女の子がいまして、その子もその教室にいるわけです。それで震災がどうだこうだというような話をしているんですけれども、私が教師だったら、もしここでどおんと地震が起きたときに、この障害者の女の子をどう助けるということを訴えたいくらいですね。大体みんな、机の下に逃れましょうとか急いで運動場に出ましょうとかいうような話なんですけれども、では、その子はだれが運ぶんですか。格好の震災
教育であるし、
教育の現場としては、まさに特別支援
教育じゃないかと思いながら見てきたわけでございます。
それで、少し論旨を進めます。これは二〇〇七年がスタートになりましたから急いで結論を求めるわけじゃございませんけれども、このレポートとかあるいはさまざまな
資料を読んでおりますと、これはもう特別支援教師というのは、プロでないとならないということですね。プロフェッショナルな人間でないとこの障害児
教育に当たることはできない。教師に期待される、あるいは特別支援学校にしても普通の学級にしても、求められているさまざまな仕事を見てみましても、プロしかできない。逆に、本当にプロを育ててほしい。しかも、相当の数でプロを育ててほしい。
そういうことからいうと、カリキュラムなんかを見せてもらいましたけれども、随分たくさんあるんですけれども、ずっと削って削って、このうちから三単位とか、これだけは基礎的にやりなさいというようなことでこの特別支援
教育の免許を取ることになるわけでありますけれども、そこまではきょうは入りませんが、いずれにしても、まずお尋ねしますけれども、この非常に難しい
時代、複雑化、重複化などが言われている中で発達障害児も迎え入れる。そうすると、この統計を見てみますと、いわゆる障害児とは言いませんでも、そういう特別なケアが必要な人が子供の二〇%に及ぶというような数字も出ておりましたが、今、この特別支援
教育教員の養成及び現場でどうなっているか、簡潔に説明してください。