○福井
委員 おはようございます。自民党の福井照でございます。
歴史的な
道路事業の
一般財源化の
質疑に、この現場にいさせてもらえますことを大変光栄に存じている次第でございます。
私の方からも、
一般財源化の定義をもう一回、この
委員会の場で確認をさせていただきたいと存じます。
ガソリン税その他の税収が自動的に全額そのまま歳出に向かうということをやめる、それが
一般財源化という定義であるということでございます。何も
道路事業の歳出を減らす、あるいはゼロにするということではないということを、もう一度この席で確認をさせていただきたいというふうに思っている次第でございます。
まず最初に、
道路事業の今までのレビューをさせていただきたいんですけれども、昭和二十七年に
道路法ができました。二十九年に
道路特定財源諸税の創設が行われました。三十五年には二百三十万台だった自動車保有台数は、
平成十三年には七千二百七十三万台、三十二倍になりました。高度
経済成長、そしてモータリゼーションへ必死で対応してきたということでございます。
私自身も、昭和五十一年に
建設省に入りまして、
道路交通量の予測なんかをしていましたけれども、どれだけ頑張って予測しても、現実の方が予測交通量を上回るというぐらい日本が強かった時代でございました。そういう時代、どんどんどんどん日本の成長に追いつくべく、一生懸命
道路をつくらせていただいたわけですけれども、その幅も広げてきました。
昭和四十六年には交通安全の五カ年計画を開始し、そして昭和四十九年に暫定税率導入をして、もともと
道路ユーザーの自動車
関係の諸税ですから、車道にしか使わないぞということで、厳しく歳出のターゲットを絞ってきたわけですけれども、そうはいっても、歩道がなきゃ今風の
道路にはならないということで、車道プラス歩道にして、そして駐車場も
道路事業でできるようにしたということで、どんどんその時代に合わせてターゲットを広げてきたというのが昭和四十年代、五十年代でございました。
そして、昭和六十二年、一万四千キロのネットワーク計画をつくったわけですけれども、これはまだ道半ば、まだ半分ぐらいしかできていないという
状況。そしてさらに、
平成七年、阪神・淡路大震災がありまして、
道路橋の設計
基準を改定いたしました。当時、ロサンゼルス、サンフランシスコ、その映像を見ても、日本の橋だけは大丈夫ということで、私自身も信じておりましたけれども、物の見事にいわば自信が打ち砕かれたというのが、この
平成七年一月の地震直後の現場の
状況でございました。
それから、
平成十二年にはバリアフリーそしてETCということで、さらにまた、インテリジェントにも、そして人にも優しくということで幅も広げてきたわけですけれども、そういう
意味で、まだまだ耐震力も不足しているし、人にも優しくないし、これは道半ばでございます。東京都内、大阪市内、名古屋市内にもまだまだ密集市街地があって、地震が起こったらもう何千人、何万人、何十万人と亡くなってしまうという危険な市街地もまだまだ存在しているということでございます。
そういう
意味で、成熟化していない、まだ道半ばの時期での
一般財源化ということでございまして、なおかつ、
公共事業すべてが無駄である、悪である、そして
道路事業すべてが無駄である、悪であるという世論に、テレポリティクスになかなか抵抗できない
状況にあるということで、大変せつない
状況なんです。
実はちょっときょう御
紹介したいのは、ムダどり学会というのができまして、東京大学の西成
先生という「渋滞学」という本を書かれた人が、渋滞とは、マイナス四度の水のように、過冷却状態の水が、ある一瞬の擾乱によって一瞬にして氷になるという、相転移だと。渋滞という現象は、線形代数で解けるんじゃなくて、複雑系の数学で、非線形数学で一瞬にして変わるという相転移の状態だということで
説明していただいた。
そういう数学、航空宇宙工学の専門家、この方がいっぱいいろいろな工場を見回って、リストラして無駄を取るという実践をしてきた年配の、無駄取りの資本主義の、いわば新自由主義の実践者とコラボレーションしまして、無駄取りとは何か、無駄とは何かということを研究しようとして、ムダどり学会というのができました。そこで行われたいろいろな成果というのが、非常にアナロジカルでメタフォリカルで、ちょっときょうは御
紹介したいと思いますけれども、この無駄の定義というもの、無駄とは何か、
公共事業は無駄だ、
道路は無駄と言われておりますが、無駄とは何かというその定義をここでさせていただきたい。学会の定義をそのまま援用させていただくとこういうことなんですね。
ある目的をある期間で達成しようとするとき、計画上のベネフィットの差、計画上のインプットとアウトプットの差益、ベネフィットの差が、実際のベネフィットの差と比べた場合、その計画より実際が下回ったらそれは無駄だということなんですね。つまり何を言っているかというと、目的があって、デュレーション、期間があって、そして、コスト・ベネフィットのベネフィットを比べて、実際と計画とを比べて、もし計画より下回っていたら、それは無駄だということなんですね。なおかつ、ベネフィットとは何かということで、ここでもいろいろな御
意見がございました。
今
国交省で計算しているのは、もう単なる
道路の切片にとって、実は消費者余剰を計算しているだけなんです。時間便益とか走行便益とか、交通事故減少便益という、もう本当にミクロ
経済学の消費者余剰を計算しているだけなんです。諸
外国では、環境の要因も、そして総合的な産業連関の
経済的な要因も全部足して総合評価して、マネータームも全部足して、政治が、行政が、高度な判断としてそのベネフィットを評価しているということで、この無駄の定義からいっても、日本のコスト・ベネフィット分析のベネフィットはいかにも視野が狭い、ミクロに過ぎる、マクロの視野が足らないということがわかるわけですし、最も本質的な
指摘は、デュレーションなんですね。
目的をある期間で達成するときにベネフィットを比べるという。ここが残念ながら日本の行政、特にこの戦後の行政、期間を示してこれなかったんです。五カ年計画で全体的には何兆円という産業連関があるとかいうことは示してきたわけですけれども、少なくともこの
道路がいつできるとか、少なくともこの県の中の、あるいは九州の、四国のネットワークがいつできるかというその目標を示さなければ、どれだけいいことをやってもそれこそ無駄だったということがこのムダどり学会の無駄という定義に示されているわけです。
ですから、ホワット・ツー・ドゥー、正しかった、ハウ・ツー・ドゥーも正しかった、しかし、アップ・ツー・ホエン、アンティル・ホエンというその指標が、行政行為がなかったがために、今まで、ひょっとしたら私たちの
努力、
国交省の
努力が、そして各県、各市の
道路づくりの
努力が水泡に帰していたのかもしれない。これを少しきょうは御
紹介させていただきたかったわけでございます。
そしてもっと大切なことは、この資本主義の体現者が、各工場、工場で無駄取りをして、そして無駄取りの極意、この極意中の極意中の極意、これを発見したというんです。無駄取りの極意というのは、人を愛し、人を生かし切ることだと。ここはすごいでしょう。資本主義、新自由主義の体現者、究極の究極が、私たち村落共同体、農耕民族としてのやはり平等な生き方の価値観に行き着いたわけですね。
無駄取りの極意とは、人を愛し、人を生かし切ることだ、役に立たない人間なんて一人もいない、役に立たない中山間地帯なんてどこにもない、役に立たない
地域なんかどこにもない、そういう覚悟で
公共事業をやっていけば無駄とは言われないのではないかということで、ぜひその覚悟で、これからも
道路局長、前を向いて行っていただきたいわけです。
たまたま明治二十二年か三年だったでしょうか、帝国議会の議事録を読んでみますと、インフラはゼロでした、そして憲法ができました、今から日本の国の形をつくっていくというときに、インフラ
整備に当たって、まちづくり、国の形をつくるに当たって、
道路、河川はもとなり、
道路、河川は本質的根幹である、そして、プライオリティーが高い、
道路、河川はもとなり、だけれども、公園、下水道、住宅は末なり、枝葉末節である、プライオリティーは低いよということで、帝国議会で御答弁がありました。
これが、だからベーシックポリシーになって、ずっと百年間、私たちのこの国の形を
規定した。だから、ウサギ小屋と言われる住宅しかない。だから、まだ木造密集市街地が存在する。まだ、公園も下水道も道半ばである。
だけれども、河川も
道路ももとと言いながら、先ほど言いましたように、まだ道半ばであるということですけれども、そういう
意味で、百年後、この国会の議事録を読んで、ああ、こういうことで今まで国をつくってきて、そして今からどこに行こうとしているのかということで、議事録を読めばわかるという答弁を、今から
道路局長に歴史に残る名答弁をしていただきたいというふうに思います。いわば
一般財源化するわけですから、峠を越えて、一息入れて、お茶を飲みながら来し方を見詰めて、レビューをして、そして今から行く末をパースペクティブする、そういう御答弁をしていただきたいなということでございますので、ぜひよろしくお願いいたします。