○林(潤)
委員 自由民主党の林潤です。
本日は、質問の機会をいただき、ありがとうございます。
臓器移植の
改正案をめぐりましては、与野党ともに今
国会の成立を目指しておりますが、その論点について、私は今
D案の方が最も自分に近いなというふうな
思いを持っておりますので、こうした支持の立場から質問をさせていただきます。
まず、十五歳以下の子供にも国内での
臓器移植の道を開いていきたい、そして
臓器移植の提供によって一人でも多くの命を救っていきたい、この二点は重要でありまして、私もこうした方向に前進をさせるべきだと考えております。その
意味で
A案は、
臓器提供の機会を拡大いたしまして、
移植の
医療を待つ患者を一人でも多く救おうという観点から
提出されるということなので、
D案ができる前は私も
A案を支持しておりましたが、これを評価するものであります。
昨年は、国際
移植学会によりまして
海外渡航
移植の禁止が宣言をされ、WHOも同じ趣旨で決議をされる見通しであります。そして、今後ますます国内での
臓器移植の道を開いていかなくてはいけません。また、アメリカを初めとするG7の先進各国もほとんどが
脳死を人の死とするということを受け入れております。
ただ、一方で、
日本人特有の問題となってきますのが、
脳死を人の死とすべきかということであります。結論から言いますと、私は、
脳死が人の死であるという考え方が広く
日本社会に浸透しているとは思えません。
A案では、
脳死を人の死と考えない人や、家族が
脳死を人の死と考えない場合、
脳死判定を拒否できるということですが、一般論として
脳死は人の死であるということを法的にも社会的にも認めてしまうことにつながります。
脳死と
判定されましても、通常一週間程度は心臓が動いております。あと数日ですべてが物言わぬ体になったとしましても、血は流れております。そして、人肌のぬくもりもありますし、家族など愛する人が体に耳を当てればまだ鼓動や脈を感じることができます。その心臓が停止するまでの数日間は、
脳死になった人の家族にとってはかけがえのないお別れの時間にもなり得るわけであります。
こんな状態にもかかわらず、医学的にも社会的にも人の死とされてしまうことに私は不条理を感じます。たとえ当人たちは拒否できるといたしましても、心臓がまだ動いている
脳死の状態を即人の死としてしまう考え方が
日本人の死生観に合うのかというと、私は合わないのじゃないかと
思います。
ただ、一方で、報道機関の調査によりますと、これは読売新聞ですけれども、
世論調査、平成十七年では六割近い方が
脳死を人の死と
判定してもよいと回答をしています。ただ、このデータは、
脳死について本当にどれだけ本質的に、
国民的に
理解が進んでいるのか、詳しく知っているのか、あるいは、いざ自分の家族がこうした
脳死に直面した場合、条件や制約はいろいろあるけれども、資源として
臓器を摘出される対象になってしまうということをどれだけ自覚しているのか、本当にこういう
前提でやった
世論調査なのかなということを思うと、そういう観点を抜きにして回答しているのではないかなと
思いまして、そこで比較的高い数字が出たのだと私は個人的に推定をしております。
そこで、
A案の
提案者にお聞きをしたいのですが、
脳死を人の死であると断定こそしないものの、こうした踏み込んだ考え方がどのぐらい
日本人の社会的合意が得られているのか、それが
日本人の死生観に沿ったものなのか、お考えをお聞かせください。