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小野(晋)
委員 大臣、深い
見識からの御答弁ありがとうございます。
ただ、私は、
仏教徒ということも述べられた、
科学技術者ということも述べられて、そこの
根底に
二元論があるということも述べられたけれども、これは
人間がつくった観念でありまして、あくまで天地自然は
一つなんです。天地自然というものに立ち向かうときに、
キリスト教徒であろうと
仏教徒であろうと
イスラム教徒であろうと、その他さまざまな宗教、またいろいろな
思想、信条を持たれる方々も、すべて天地自然は同じものなんですね。
つまり、そこに原点を置いて考えれば、一
党一派がどうだとか宗派がどうだとか、こういうことを超えた全
人類共通の
足場をつくることができる。そこにこそ
地球時代の、この
地球全体が
一つになって動こうとする
時代の
基本思想が生まれるはずでありますし、その
基本思想、もう一
党一派に偏するような
議論ばかりやるから常にそこに対立が生まれ、みずからの利害がどうだこうだというようなせせこましい
議論をしてしまうのでありますが、もっとおおらかに、我々が生きている
世界は
一つである、この
認識に立ってそこに生きていく
人類の
未来の絵を描くということが必要なんだろう、こんな
文明観をこれから樹立することにまた
お互い努力をしていかねばならない問題ではなかろうかという気がしているわけであります。
次に、
ビジョンの問題についてお話をさせていただきたいと思うのでありますが、そこでちょっと
一つ御紹介申し上げたいのは、先日の
永田町人間学講座で
フランクルを取り上げて
議論させていただきました。
ビクトール・
フランクルというのは、ウィーンに生まれられた
精神科医であり
心理学者であって、その人は
ユダヤ人だったものですからナチスの
強制収容所に収容される。そこでみずから被
収容者としての
体験の中で、
人間は何によって生きるのかということを探求された方でございます。その
収容所の厳しい
環境の中で、倒れいく人は倒れていった、生き残る人は生き残っていった。それが世俗、通俗の
考え方とは全然違っていたというんですね。
普通でいえばリーダーシップを振るい、大きな声でしゃべり、肉体的な体力もありそうな
人間は生き残るだろうと思うのでありますが、
収容所の中では全然違う。むしろ逆だったというんですよ。なよなよとして弱々しそうに見えた人の方が逆にその
収容所で生き残った。それは何だ。みずから深い心の中に信ずるものを持つか持たないかだと。
希望を
未来に持てる
人間は生き残った、
希望を失った
人間は
たちまちにその厳しい
環境の中で崩れていったということが書かれるわけであります。
その
議論を経て、
人間には生きる
意味こそがその
人生の
本質であるということを結論づけるわけでありますが、そこにこんな
文章があります。
ここで必要なのは、生きる
意味についての
問いを百八十度方向転換することだ。わたし
たちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたし
たちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している
人間に伝えねばならない。
哲学用語を使えば、
コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの
意味を問うことをやめ、わたし
たち自身が
問いの前に立っていることを
思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして
時々刻々、
問いかけてくる。わたし
たちはその
問いに
答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに
行動によって、適切な態度によって、正しい
答えは出される。生きるとはつまり、生きることの
問いに正しく
答える
義務、生きることが各人に課す
課題を果たす
義務、
時々刻々の要請を充たす
義務を引き受けることにほかならない。
こういう
言葉なんですね。
これは少し解説が必要な
文章なのかもしれませんが、私
たちは、
人生を生きるときに、
自分の意思に基づいて
周りが動いてくれなければその
状況は異常であると判断する。それでこたえてくれない
世の中であれば
自分はもう生きている
価値がないというふうに決めつける人がいて、その結果が、十一年続いた三万人を超える自殺の問題につながってきているんでしょう。
しかし、
フランクルは言うんですよ。そうじゃないんだ、
人間が生きている
意味というのは、
周りのこの
環境があなたに与えてくるものなんだ、
周りの
環境があなたに
問いかけを常にしているんだと。
いろいろな問題の姿をとることもあるんでしょう。いろいろな
体験を通してそういう場面がつくられることもあるのでありましょうが、それに対してあなたがいかに
答えるかということが問われている、その問題が生きるということなんだ、こういうふうに切りかえて考えていくべきなんだと。そうすると、
この世に生まれてきたどんな人であれ、すべて
周りの
環境の中からあなたに求めるものがあるはずなんだ、どんな人であっても生きている
意味のない
人生などはないんだ、
周りがあなたに
意味を与えているのを気づかないだけじゃないか、どんな人であっても生きる
価値のない
人生などはないのだ、どんな人であっても生きる場所のない
人生もないのだと。これが
フランクルの
思想の結論なんですね。
だから、その
問いかけ方を改めるべきなんだ。我々
人類も、先ほど申し上げた
文明の
議論と相通ずるものが出てくるわけでありますけれども、
人間がこういうふうに生きたいんだ、
環境がこれではまずい、こういう
議論ばかりやってきましたが、そうじゃない、
地球という全体の中から
人間がどうあるべきかということが逆に今
問いかけられているんだ。この
地球という、
ガイア理論によれば
一つの生き物だというふうに言われるわけでありますけれども、この
地球というものが一人一人の
人間に、
一つ一つの
国家に
問いかけているんだ、あなたはこの
地球の上でどういう責任を果たすつもりですかと。
こういう
観点に立ってこれからの
ビジョンを描き出していくということが必要でありますし、そこに
人類がこれから新たな
知恵を開いて、さらなる
精神面を含めた大いなる成長に進んでいく
基本的な
考え方がある、こういうふうな
気持ちがするのであります。これに対して
大臣はどうお考えか。
そして、この
観点は、
人間に対する非常に深い
理解がなければ本当に生まれてこないんですね。
人間はいかなるものであるのか、
人間を取り巻く
環境でいかに
人間は生きていくべきものなのか。それはもう、数値でCO2濃度が
幾らだとか亜硫酸ガス濃度が
幾らだとか、こんな問題じゃないんですよ。もっと総合的で根本的な
観点から
人間いかに生きるべきかということに
足場を置いて
環境政策を考えないと、国民の魂に、
人類の心に響く政策などはつくることができない。
そんな
観点からすると、これから
環境省の中でも、ぜひ
斉藤大臣を
中心に、
人間を学び合い、それをみずからのものにするというような動きをしていく必要があるのではないか。これは決して一
党一派にかかわることじゃありません。もっと根本的な問題だと私は
理解するのでありますが、御
見解をお聞かせいただきたいと
思います。