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参考人(
徳地昭男君) 私が
意見を述べる
機会を与えていただきまして、御礼申し上げます。
私は、昭和四十三年、当時の厚生省の所管であります、非行児童を扱います
国立武蔵野学院に採用されまして、約三十七年間、千八百名の非行
少年、非行少女と一緒に出会いがありました。その間、十五年間、私たち家族とそれから十二名前後の
少年たちと一緒に
一つの棟、いわゆるコテージの中で起床から就寝まで二十四時間一緒に生活する、そういうふうな仕事をやってきました。七十八名の子供を社会復帰させまして、扱った児童の中にはもう既に四十歳になる退所生もおりまして、今でも手紙とかそれから電話で
自分の悩み、それからまた相談に来たり、また家族のみんなで元気な姿を、私の方に来まして、そういう者もおります。
今回は、私の現場
経験を通しましてちょっと
お話をしてみたいと思っております。
この施設は
少年院と異なりまして、非常に知名度の低い、非行児童若しくは非行
少年を扱う施設なんですが、感化院時代から現在の児童自立支援施設まで約百二十余年間の長い歴史と伝統のある施設であります。一貫して
保護者の監護能力に問題のある子供が
対象でありまして、今で言います虐待児童を受け入れ、それに対する行動化が実際、非行という、そういうふうな問題行動として現れた、そういうふうに考えられております。
その最も有効な
処遇方法といたしまして、先ほど申しましたとおり、夫婦の職員とそういうふうな非行を犯した児童と
一つの疑似的な家庭環境の中で、家族的な
雰囲気、それからまた温かい人間
関係、そういうふうなものを育てる、そういうふうな配慮があります。子供たちが職員と一緒に生活を共にして触れ合いながらつくり出す
雰囲気、こういうふうな
雰囲気を昔から非常に大事にしてきました。家庭的な
雰囲気というものは
少年院にはない特色ということで、この施設の存在意義は非常に大きいものと言われている次第であります。普通の生活と普通の人間
関係のモデルを与える、その中で児童は言わば育て直し、そういうふうなことをする、子供たちが職員との基本的な信頼感、こういうものを構築するのを支援するという、そういうことかと思います。
施設に入所する児童の問題行動の背景には、当然、両親の不仲、それからまた離婚問題、人間
関係の触れ合いの少なさ、それから家庭的な問題等非常に大きな
影響を与えているわけです。先般、五月一日付けの統計ですが、
国立武蔵野学院の家庭的な
状況を見ますと、母のみの家庭が六七%、それからお父さんのみの家庭が八%、いわゆる一人親家庭が七五%を占めております。それでは両親そろっている家庭はどうかといいますと、たったの一三%が両親がそろっている家庭であります。
施設は自然に恵まれた環境の中で存在しまして、その自然との触れ合いの中で子供たちは少しずつ少しずつ
気持ちが素直になります。やがて落ち着きを取り戻しまして、また夫婦職員とかほかの職員とのそういうふうな交流を通じまして、少しずつ少しずつ大人に対する不信感を取り除いて心を開いていくわけです。
平成十年に五十年ぶりに児童福祉法が
改正されまして、私が勤務した当時は、単に不良行為をなし又はなすおそれのある児童、こういうふうな者を入所させる施設でしたが、五十年ぶりに変わった児童福祉法の中では、非常にそういうふうな
目的の
対象児童のほかに、特に家庭環境等その他環境上の
理由により云々というような
対象児童の一項が入りました。その結果、入所児童の
対象の幅が大幅に広がりまして、今までなかなか入所することができなかった精神医学的な若しくは心理学的な診断名の付いた子供が大幅に入所するようになってきました。
特に、重大触法
事件というものにかかわる児童の中には何らかのそういうふうな診断名が付いている児童が多く入ってきておりました。重大
事件に対しては、このような児童はいかに
事件に真剣に向き合うかが必要なんですが、この診断名の付いている子供というのは他人にはなかなか見えにくい、それから理解できない面が多々あるわけです。本人の頭の中は他人には見えませんが、当然、パニックになっていましたり、
事件についても淡々と語りかける、初対面の人に対しては非常になれなれしい、そういうふうな態度を示す者もおります。
ある重大
事件の鑑定人からの話があるんですが、当然、重大
事件の場合は鑑定人が付きます。そのとき、大きな
事件を起こしまして、おまえは一体何を考えているのか、本当に真剣に考えているのか、その鑑定人は、ただ、その
少年に対して、口だけの反省なのか、それからまた、そういうふうな態度かということで厳しい指導があったということを聞いております。本人としましたら、いつもと変わらないまじめな応答態度だと思っていますが。
施設入所後、うちの場合は精神科のドクターとかそれからまた心理職員が定期的なカウンセリング、そういうふうなものを行いまして、矯正施設での贖罪指導、今では
被害者の
視点に立った教育という呼び方で呼んでおりますが、我々の施設では
事件への直面化ということで、そういうふうな重大
事件の子供に対してやっております。
事件そのものを想起させようとしても、なかなか彼らはよく思い出すことができないという、そういうふうなことを語ります。必ずしも意識的に隠しているということはないかと思います。何回かの面接を繰り返すうちに職員の信頼
関係もできる、それからまた詳細に
事件のことを語り始める、そういうふうになっていきます。それからまた、感情を伴って
事件を想起したり、それからまた本当の
意味での
事件に直面化でき、また反省を語ることができます。しかし、この期間は短期間ではできません。非常に長期間を掛けてやらなければそういうことは実現できません。
入所児童の多くの中では、学童の児童も非常におります。こういうような児童に関しては、情操の安定上、家庭的な
保護を必要とする
年齢であります。しかし、施設では虐待
経験を有する子供が非常に多いです。全国の児童自立施設では六〇%、私が勤務しました
国立武蔵野学院では八三%が何らかの虐待を被っている児童という。こういうふうな児童は、特にやはりまた特異な行動を示します。非常にやっぱり衝動性が高い、それから行動化の際に非常に解離現象という、例えば喪失感とかそれから感情的に受容できないとか、施設の中では無断外出、いわゆる逃走事故を繰り返すとか、あとはパニック状態に陥るとか、そういうふうな解離現象を起こします。
審判のとき、そういうふうな状態を見たり、またぼおっとしてみたりあくびをしてみたり、そういうふうな態度を、加害
少年を前にした場合、
被害者若しくは
被害者の遺族の方は、その診断名若しくはそういうふうな根底に虐待があるとか、そういうふうなことが存じてない方が多いかと思います。そうした場合、そういうふうな具体的な面を目にした場合、非常にやはり精神的なショック若しくは感情的な見方になりましたり、それからまた不信感、最悪な場合はまた増悪を募らせる。そういうふうなことがありまして、今後のやはり対応には大きな大きなやっぱり支障が想定されるかと思います。
少年審判というのは、重大
事件であっても
事件発生からやっぱり比較的短期間のうちに行われております。これらの
少年たちは、冷静に自己の行為を見詰める若しくは
被害者の苦しみ、そういうものにはなかなかやっぱり共感できません。そのような
少年を目の当たりにするに当たり、更に
被害者に対しては心の傷を深めることにはなりかねないかと思っております。
年少加害
少年、体型的には非常にやはりそれなりの体型していますが、彼なんかの内面を見ますと大体が精神的に非常にやっぱり未成熟、それからまた基礎学力が非常にやっぱり著しく劣っております。大体今、平均児の学力は小学校三年生ぐらいしかありません。入所時の
年齢は中学二年生、三年生、こういう
少年が大部分なんですが、学力は非常にやはり劣るということです。
また当然、言語表現能力、それから理解力には非常に劣る児童が多いです。それからまた、先ほど来出ておりますそういうふうな
審判の場に
被害者の若しくは
被害者の遺族が同席した場合、彼らが更にやっぱり萎縮し、それからまた
自分の
意見を十分に述べるということに関してはなかなか不得手な面がありますので、十分に
内容的には伝わらないかと私は思います。
また、重大
事件の場合、必ず
少年審判の中で
処遇勧告というものが付きます。何回かの、
裁判官、それから
調査官が動向視察ということで施設の方に何回か出向きます。それからまた、
裁判官、
調査官、それから
関係書記官を含めまして、何回かの
対象児童につきましてケースカンファレンスということを実施するわけです。しかし、その中で、施設の
処遇内容とかそれからまた家族の
状況、それから施設内での生活、それからまた
事件に対して彼はどういうふうな罪の意識を持っているのか、それからまた
被害者に対する慰謝、それからまた最終的には退所先をどうするか、そういうようなものを種々検討するわけですが、こうした
状況の下で、加害者の情報というものは
裁判所が非常にやはり把握しているわけです。ですから、こういうふうな情報を是非ともやはり
被害者の方に支障のない
範囲で情報提供してほしいと私
自身は思っております。
今回、やはり
改正の大きな大きな問題点は、重大非行の
被害者若しくは遺族に対する
少年審判の
傍聴制度ということに対する新設にあるわけです。成人の
事件に関しては当然自由な
傍聴ができるのに、なぜ
少年審判はできないのか。ましてや、重大な非行、殺人若しくは傷害致死等、こういうふうな
被害を受けた
被害者といいますのは、
少年審判を
傍聴することが何が問題になるのか、これは当然そういうふうな
意見はあります。また、そういうふうな
意見を私は尊重しなければいけないのかなという感じはあります。
従来の
少年司法機関が
被害者への配慮若しくはそういう十分な
説明責任、これがやはり十分でなく、また経済的、心理的なそういうふうな支援が不十分であった、これが
一つの原因ではないかと思っております。特に、
被害者がこの目で加害
少年を見たい、それから
事件に
関係するいわゆる事実
関係、こういうふうなものを是非知りたい、これは当然かと思います。こういうふうな主張は私
自身はよく理解できます。二〇〇〇年で
改正されて新設されました
被害者等の
意見聴取
制度が周知されたとは言えておりません。
被害者の
心情とか主張、こういうふうなものを正確に受け止めまして、
裁判所としましてやはり
説明責任を果たすことが必要かと考えております。
前述しましたとおり、加害
少年若しくは加害児童、特に年少の
少年は、体型は
年齢相応でも非常にやはり表現能力に劣る、それからまた理解力も非常に同じように劣る、そういうふうな児童が非常に多い。特に、やはり先ほど来申しましたとおり、
被害者と
審判廷で顔を合わせる、それだけでもパニックになる、そういうふうな性格特性を持っている
少年もいるということ。それからまた、そういうふうな
被害者の方に対して特異な性格特性をやはり知ってもらう必要もあるのではないかと私には思えます。
今では、必要に応じまして
被害者に、
少年審判に参加し、若しくは
意見聴取が試行的にされていると聞いております。実際、加害
少年に対しまして、
被害者若しくは遺族の方から加害
少年に対して非難をしたり、それからまた場合によったら
プライバシーが一般社会に流出したり、そういうふうなケースがあると聞いております。こうしたような防止策も検討しながら、
被害者の主張に立った、若しくは沿った
少年審判の改善を望みたいと私
自身は考えております。
以上です。