○
参考人(
川瀬充弘君)
学校法人HIRO学園の
学園長及び理事長の
川瀬でございます。
私は、皆さんのようにこういうスライドはありません。
自分の経験、感じたこと、それから、これからやらなければならないなと思っていることを淡々と
お話しさせていただきます。
それでは、まず順番に、なぜ私のような
日本人が
ブラジル人学校をつくるようになって、またなぜそれを続けなければならなくなったのかということを
お話ししたいと思います。
〔
会長退席、理事
岡崎トミ子君着席〕
学校法人HIRO学園は、二〇〇六年の十一月二十八日付けで岐阜県の方より
認可をいただきました。その前身でありますHIRO学園、これは法的に私塾という扱いであったんですけれども、その
学校をつくったのが二〇〇〇年の四月、開校いたしました。なぜそのときに私が
学校を開校しなければならないかということをちょっと
お話しさせていただきますと、半年前に話はさかのぼりまして、九九年の九月に私の知人が、
ブラジルの託児所が
先生の御懐妊で廃園になるから、あなたやらないかという一言で、それを見に行ったときから始まりました。
朝六時にワゴンで、
子供たちが四DK、私、不動産屋もやっておりますので、土地でいう三十坪の土地と建物のところに
子供たちが朝六時にワゴンで運ばれてきて、朝御飯を食べるんですね。順次運ばれてきますので、順次食事をし、食べ終わった
子供たちからNHKの
教育テレビを見ると。全員食べ終わると、外がお天気であれば公園に行って少し遊んで、また帰ってくるとお昼御飯を食べて、当時、九九年の
子供は十六人から始まりまして、皆、
就学前のお子さんでしたのでお昼寝をさせていました。その子
たちが昼寝をして、また起きると少し遊んで、夕飯を食べて、またワゴンに乗って順番に帰っていくという一日を繰り返してみえました。
私は、ああ、すごくもったいないなと思いました。何がもったいないかと思ったのは、三十時間も離れて親と一緒に来て、来たい国でもないのにこういうところにいて、
日本の文化に触れていない
子供たち、もったいないなと思いました。
私がなぜそこに友達から声を掛けられたかといいますと、三十年ほど前、幼稚園の
先生をやっておりまして、五年六か月経験があったということを知っていたものですから、おまえやらないかという声を掛けていただいたわけでございます。
その子
たちを見て、そうだ、昔やっていたことがふつふつと思い出されまして、まずはハーモニカから教えようと。音楽だったら
言葉分からなくてもできるんだろうという単純な発想でした。ドレミを教え、ハーモニカをみんなに買い与えて、吹いたり吸ったりということも、
言葉は分からないですけれども、一生懸命手まねで教え、並行しながらですけれども、
日本文化で紙芝居、これも
言葉が全然通じなかったんですけれども、笑うかな笑わないかなという心配は乗り越えて始めました。
ハーモニカについては、ドレミも覚え、最初の曲は「さくらさくら」をやりまして、皆さん上手に吹くことができました。紙芝居の方は、手ぶり身ぶり、面白おかしく
お話をさせてもらったこともそうかなと思うんですけれども、面白いところでは笑う、悲しいところでは泣く、喜怒哀楽が分かってもらえる。
子供はやっぱり純粋なんだな、
先生が何を与えて何を教えようかというところを
子供は素直に受け取ってくれるなというのを実感しました。
そういうことがしばらく続きまして、
ブラジルの方は
コミュニケーションを取るのに携帯電話で連絡を取るみたいです。いいことも悪いことも流れていくみたいですけれども、九九年の九月に私が受け取ってから、十一月の終わりには八十余名のお子さんを預かることになりました。当然、八十余名ですので、今の三十坪の建物には入りませんので、ヤドカリのように大垣市内で違うところ、六十五坪の土地、建物のところに移りまして、
先生ももちろん増やしまして、三歳、四歳、五歳、学年別に
先生を入れて、ワゴンから中古のバスですけれども、今にも壊れそうなバスですけれども、そのバスを買いまして、大型免許を取りまして、やっておったんです。
そうこうするうちに、変わったところぐらいだと思います。十二月の初めぐらいに、しきりに親御さんが毎日交代でやってくるようになりました。話す
内容は大体同じようなんです。こういう
お話でした。
先生、
先生のところに預かってもらっている
子供にお兄ちゃん、お姉ちゃんがいるんだけれども、今、大垣市内の
小学校、中
学校に行っているんです。私
たちはいずれ
ブラジルへ帰るんです。
ブラジルへ帰って、
日本の
教育はとってもいいんだけれども、帰ったときに大変困るんです。まず
言葉、学歴、もろもろ。学歴がない、就職できない、そういう問題が起きているんです。だから、
ブラジルへ帰っても困らない
学校をつくってもらえませんかという
お話でした。
だけど、僕のイメージでは、
学校というのは独り、個人がつくるものじゃないので、大垣市も岐阜県にも
教育委員会がありますので、
教育委員会に皆さんに代わって聞いてきますという
お話をしました。実際、行ってきました。
九九年の十一月ごろですので、当然、
予算も計画もありませんと、けんもほろろに言われました。十二月の半ば、父兄を集めました。八十名の親御さんが、両親が来たんですから、三、八、二百四十名、百五十名ぐらいの会場を借りたんですけれども、とても入り切れなくて、もう皆さん立ち席で聞いていただきました。
当然、県、大垣市の
教育委員会の
お話をしました。皆さんを集めるまでに十日間余り私に時間がありましたので、いろんな角度、いろんな立場で考えました。まず、父親として考えました。二番目に、
地域の
住民として考えました。
日本人として考えました。そこで出た結論が、私ができるだけのことをやらせていただきますと答えました。
父親としてというところで考えたのは、私にもそのとき中学三年の息子がおりまして、その前の話になるんですけれども、お父さん、
外国人の子がね、僕のクラスに入ってきたんだよという
お話をしていました。ああ、良かったねという、まあそれだけのことだったんですけれども。次、あのね、お父さん、最近、復習やるようになったんだわ。それは、あなたが
勉強できないから
先生やってくださるんだわ。うん、それもあるけど、今回のはちょっと違うみたい、
言葉から始まっているから。ああ、そうか、前の話のことを思い出しまして、困ったな、頭悪い息子が
高校受験、
大学受験で、
全国そうであればいいんですけれども、
自分のクラスだけ
外国の子と同じクラスになってという親心で心配したこともあります。
〔理事
岡崎トミ子君退席、
会長着席〕
地域の
住民としてというのは、その子
たちが未
就学、不
就学になっていって
学校へ行かなくなった。
学校へ行かなくなると、いったん
自分のアパートで過ごしますが、それはもう何日も何年も過ごしません、町へ出ていきます。町へ出ていくと、やっぱり
ブラジルの子も悪いかもしれませんけれども、
日本の子はもっと悪い子はたくさんいます。その子
たちに手足にされて何か悪い事件、問題がこの町で起きないだろうか、それも心配しました。
だったら、おまえ、どうするんだということで自問自答を繰り返しました。布団の中でも繰り返しました。どうしよう、どうしよう、どうしよう。こういう日にちが十日間過ぎて、先ほども申し上げたように、私ができるだけのことをといって結論を付けました。じゃ、おまえは
ブラジルのことを知っているのかというと、全く無知でございました。何年の義務
教育があって、何を教えて、何のことをやっているのかということは分かりませんでした。後になってドレミは教えないということは分かりましたけれども、びっくりしたんですけれども。
そういうことで、何せ
学校をつくるということは当時考えていなかったので、どこを
参考にしようか、あちこち尋ねますと、やっぱり群馬県の太田市と
愛知県の豊田市に
ブラジル人学校というのが一校ずつあって、問い合わせますと、見せてくれないという返事がありましたので、残念だな、じゃ、そっと見に行きまして、豊田の方ですけれども、見に行ってきまして、それで分かるわけがありませんので、どこかないかなというところで、名古屋の
ブラジル領事館訪ねますと、東京大使館に行ってくれと、東京大使館に行きますと、
ブラジルにも
教育省というのがあるので
ブラジルへ行ってくださいということで、
ブラジルまで行ってきました。
ブラジルの
教育省参事官の方にお会いして、いろいろ
お話を聞いて、
ブラジルでも本当に
社会問題になっている、
日本から来る子は、
日本語は読めて話せて書けるんだけれども、
ポルトガル語が書けない、読めない、話せないと三拍子そろって、優秀な子でも就職できないという
お話を聞かされました。
それで、また
日本へ戻ってきて、ここではやることがたくさんありますので、まず箱、教科書、
先生に伴うこと、もう山ほど。開校が翌年の四月一日ですので、三か月余りしかありません。その中で全部動き回ってやっと開校に至りました。
当初は、
先生十三名、生徒百二十名で開校いたしました。開校はしたものの、四月の給与を払うときにふと見ると、赤字が四百万円、五月が四百五十万円。じゃ、六月はどうなるんだろうと真剣に考えました。やめたい気分もありました。どうして続けるんだろうかなという、
自分でまた自問自答し始めておりました。お金だけではなくて、
ブラジル人の
子供のためにやっているんだけれども、
ブラジル人の人が僕を裏切っていくという、本当に転がるように、もうやめようかなという思いが強く感じた時期でした。
上手にやめられるチャンスはないかなという思いで一年をやっていたんですけれども、転機が来まして、一年にちょうどなる前ですね、二〇〇一年の三月に、
日本の
小学校を四年生まで行きまして、HIRO学園ができたということを聞いて、一年様子を見て訪ねてきた女の子です。
HIRO学園はペーパーテストはありません。ですけれども、親を両親そろえて、そして入ってくる
子供お一人来ていただいて、書類を書いていただいて面接をするということをやっております。まず、いつも開口一番に聞くのは、あなたは
日本に残りますか、
ブラジルへ帰りますかという
質問から始めます。最近は、もう
日本に残りますという方はお見えになりませんけれども、以前は
日本に残りますというお答えをいただいた親御さんもあります。そしたら、HIRO学園へ来ないで、
日本の
小学校、中
学校へ行ってください、そして
高校、
大学へ進んで、いい
日本人になってください、その方が
子供のためになりますから。まだ分からないという親御さん、時々見えます。分かってから
学校へ面接に来てください、
子供のためですから、よろしくお願いしますと返します。
ブラジルへいつか分かりませんが帰りますというお子さんを持った御両親に面接をさせていただきました。先ほど申し上げたように、女の子が面接に来ました。書類を書いている間は私の担当ではありません。今度、面接になったときに私の担当になりますので、その部屋へ入っていきました。大柄の子でした。髪は金髪、目はブルー、肌は真っ白、体格は、
小学校五年生になる子なんですけれども、もう中学の子かなと思ったぐらい立派な体格をした女の子でした。
いつものようにお父さん、お母さんに聞きました。
ブラジルへ帰るという
お話だったので、今度は女の子に聞きました。
日本の
学校は楽しかった。黙っていました。もう一度聞きます。
日本の
学校は楽しかった。下向いて、横に首を振りました。
日本語が分かると言ったら、縦に振りました。じゃ、
先生に
お話ししてって聞きました。まだ黙っていました。もう一回、これ
最後ね、
日本の
学校は楽しかった。横に振りながら、いいえ、楽しくなかったです。どうして。あのね、
先生、私ね、幼稚園のときから来て、
小学校一年生から
日本の
学校に入りました。一年生から四年生まで毎日いじめられていました。えっ、そしたら
先生に言わなきゃ、
担任に言わなきゃ。どうして、どうして言わなかったの。
先生、あのね、お父さん、お母さんは
日本へ来る前に、私が小さくても相談しました。家族で相談して
日本で働くということを決めました。そして、
日本へ働きに来ました。お父さん、お母さんは
ブラジルでは会計士をやっていました。そのお父さん、お母さんは今、
日本で夜勤で働いています。それは将来のため、私のため、一生懸命働いています。我慢しています。だから、私も我慢しています、我慢しましたと流暢な
言葉で
お話しされました。その中に丁寧語も含まれておりました。
それだけぺらぺらにしゃべれるの、どうして
勉強覚えたの。あのね、
先生、最初はね、クラスのみんな、私のことを何か思っていると思ったからね、
日本語が分からないから早く
日本語を覚えて、早く友達になりたかった。だけれども、
日本語を覚えていくうちにがっかりしたという。
先生、さっき見たでしょう、髪は金髪、目はブルー、肌は白色、体型は大きい、全部これでいじめられました、はっきり言われました。
思わず、ごめんなさい、でもね、そんな子ばっかりじゃないからね、
日本というのは。これから
ポルトガル語を
勉強して頑張りましょうねと言ったものの、今までちょっと恥ずかしい思いがしました。いつやめよう、どうやってやめようという
自分の心がすごく恥ずかしかったです。今度、その子の面接を終えてから私は、その子のためにどう続けよう、どうやったら続けられるだろうかということの頭の切替えをしました。その後も金銭的には大変だったんですが、何とか乗り切って
学校法人にまでなりました。
続きまして、HIRO学園の
教育について少し
お話しをさせていただきます。
HIRO学園は、先ほど申し上げたように、面接で
子供たちを受けております。
ポルトガル語の
授業で、
ブラジルのカリキュラムに沿って
勉強をしております。朝九時から三時二十分まで
授業が入っております。五十分間
授業です。昼間に一時間の休みがあって、お昼弁当を食べるという形になります。
外国語として、先ほどの
先生もおっしゃったように、
英語と
日本語を入れております。
二〇〇六年のときには、新聞の資料にもありますように、三人の一級、
日本語検定一級という合格者を出したと。二〇〇七年、昨年夏ですけれども、六名の受験者がおりまして、これは一級、二級、三級と分かれたんですけれども、前回は四名の一級を努力して、そのうち三名受かったんですが、より人数が増えまして
勉強意欲が出てきたという判断をしておりますが、一級が一人、二級が二人、三級が三名という合格者を出した結果が出ております。
では、
学校は
ブラジル人で囲ってしまうのか、文化交流しないのかということですけれども、きちっと年十二回を定めて、
日本の大垣市を中心にした、あと、養老とか垂井とかいろんな周りに
地域があるんですけれども、そういうところと、小中高
大学と交流をしております。
文化交流といえばいろんな文化交流があります。食、音楽、音楽も踊り、楽器、民謡、それから体育でもスポーツ、いろいろあります。いろんな文化、もう本当にどれを取っても文化なんですけれども、
言葉も文化ですけれども、もう全部それを交流の
課題として続けております。
私どもの
学校の
教育方針というのは、書いてあるとおりなんですが、もちろん
ブラジルに帰っても困らない
教育をしてあげたいと思う中、精神面でおじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さんの国は本当に良かったなと、町がきれいとか道路が整備されているとかいうことではなくて、
教育をきちっとやってくれていい国だなということの、心の中でいつまでもいつまでも残ってもらいたいなと、そういう
教育テーマを持っております。
高校の卒業生は二〇〇三年から出まして、おかげさまで
ブラジルの国公立に二〇〇三年度に三名のうち一人受かりまして、それがまた
ブラジルの方で話題になりまして、何で
ブラジルで話題になったかというと、
ブラジルの国立の
大学の方は無料で、教科書も提供ということで、倍率がすごいんですね。当然、母国で倍率がすごいということは、こんな地球の反対側の、岐阜県の大垣と聞いても分からないような町の
学校からそこへ合格者が出たということは、
ブラジルでは有名になったそうです。そういうすばらしい生徒がいたのと、それを指導する
先生たちの努力があったからだと思っております。
私どものHIRO学園は全校で今三百名の生徒を抱えておりますが、大垣市内からは二百名の生徒、通学しております。大垣市内に
小学校、中
学校がありますが、二百十五名の
ブラジル人の
子供たちが通っているそうです。これは永住する
子供かと申し上げますと、そうではないです、はっきり申し上げて。私どもの
授業料よりうんと安い
給食費だけ払う公立の
小学校、中
学校へ、親は預けているという
教育観を持った親が預けているということです。
やっぱり
教育観の違いでいろんな親御さんもお見えになります。先ほどのような事例の会計士、弁護士の親御さんもお見えになれば、義務
教育を途中で終えた親御さんも来るというのが現実でありまして、それをどう対応していくかがまたこれ
学校としても大きな
課題になります。
今後進むべき道と望むことについて
お話をさせていただきます。まず、
学校だけの話をさせていただきます。後で、
問題点とかいろんなまた御
質問のときに答えられるものは答えたいと思いますが。
まず、本校のHIRO学園についてのハードの方ですけれども、市内に上面校という
小学校四年生以上
高校三年生までの
学校と校舎と、東前校と申しまして、幼稚園の年長組さんから
小学校三年生までの校舎があります。大変、分けていますと、分散していますと、人も物も経費も掛かってきますので、今後、分散ではなくて上面校に統合し、人、物、経費の削減を図って、今分散しながら、百五十坪ぐらいの建物で、トータル三百坪で三百人がキャパとしていっぱいいっぱいですので、より多く
子供たちを受け入れられる体制にしようかということを考えておりますし、ソフト面では、先ほども
日本語の
お話をされていましたが、本校も
日本語の
授業を強化したいなと思っております。
二年連続でやっぱり
日本語検定一級の合格者が出まして、二級、三級の資格を取るという意識が、やっとその成果が出てきた。七年目、八年目という長い年月だったんですけれども、やっと今芽生えてきたなということを生かさないわけにはいきませんので、頑張っていきたいなと思っています。二か国語を話す
ブラジルと
日本の懸け橋になる人間がより多く出れば、これも両国のためではないかなと思っております。
最後ですけれども、この場をお借りして本当にこういう発表ができたことは、いろいろテレビで、
日本の政治の方も行ったり来たりしておりますけれども、なかなか捨てたものじゃないなという思いがいたします。申し訳ございません。
最後ですけれども、弱者の
子供のために良い行動を御協力お願い申し上げます。御清聴ありがとうございました。