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参考人(辻
信一君)
ナマケモノ倶楽部の世話人をしております辻
信一です。自らを
環境運動家というふうに呼んでいます。
昔、僕がこの辺に来ていたのは大体デモで来ていたんですけれども、今日も、いまだに運動家なんですが、運動という場合に僕が今考えているのは、自分が暮らしている世の中をそして自分の子供
たちが暮らしていく、またその子供
たちが暮らしていく世の中を少しはいい場所にしたいという
意味での運動ですね。そういう
意味では運動家でない人はいないわけで、ここに座っていらっしゃる皆さんも皆、僕と同じ運動家だと思います。
今日は、僕が提唱していますスローライフということについて、それも特に
政治や
経済にかかわるところ、僕は勝手にスローポリティクスとかスローエコノミーとかいう言葉も作っているんですけれども、その辺のことについてお話しさせていただければなと思います。
スローエコノミーとかスロービジネスという言葉を僕はもう十年ぐらい使っているんですけれども、皆さんはどういうふうに感じられるでしょうか。特に、スローとビジネスというのは非常に一見矛盾していますよね。スローというのはゆっくりという
意味ですし、ビジネスというのは元々忙しさという
意味ですから、スローとビジネスというのをくっつけることがどうして可能なのか、その辺のことを今日はちょっとこれから話していきたいんですが。
まず、
ナマケモノ倶楽部という名前が出たときにちょっとほほ笑みが幾つか浮かんでいたのを僕見たので、ちょっと説明させていただくんですけれども、ナマケモノというのはこれ動物からきているんですね、中南米に暮らしている動物です。僕が
環境活動で出かけていく場所には必ずと言っていいほど登場する動物です。非常にゆっくりなんですね。どうしてそんなにのろいのかよく分からなかったんですけれども、最近の生態学の
研究でだんだん分かってきました。かつては、生物学者というのはナマケモノなんか
研究すると自分の評判にかかわるというので避けていたみたいで、あれほど立派な動物、哺乳類を
研究した人が余りいなかったというのが非常に面白いところなんですけれども。
研究によりますと、筋肉が非常に少ないんですね。どうして筋肉が少ないかというと、筋肉を少なくするようなそういう進化を遂げてきた。筋肉が少ないということはスローになるわけですけど、同時に非常に軽くなるわけです。そして同時に、非常に省エネで生きていくことができるんですね。つまり、省エネによる生存戦略であった。軽くなるというのはどうしていいかというと、高い木の先の方まで、木の枝の先の方まで行ってそこにぶら下がっていることができる、そこが一番安全な場所なわけですね。そういうことが分かってきたわけです。
しかも、スローだということは、例えば消化なんかも非常にスローで、排せつ行動なんかは大体週に一度ですね、せいぜい。木の根元に降りてきて排せつする。これがまた生物学者にとっては非常に不思議だったわけです。これだけのろい動物が木の根元にわざわざ排せつのために降りてくる。猿なんかですとみんな木の上からしてしまうわけですね。人間と一緒で結構いいかげんなんですね、その辺は。ところが、ナマケモノはちゃんと木の根元に降りてくる。これはなぜなのか。
研究の結果、こういうことが分かりました。木の根元にしっぽでこうやって穴を掘ってそこに排せつをして、中にはちゃんと葉っぱを掛けておくのもいるそうです。つまり、熱帯雨林の高温多湿の
環境の中でふんをただほうり出してしまったら、すぐに分解されて土を肥やさないわけです。栄養が木に行かないんですね。ですから、ナマケモノは自分を育ててくれている木をちゃんと育てる、支えるという。こういうのを人間の世界では何と言うかというとお百姓さんというわけですけれども、考えてみればここに、僕
たちが循環型の暮らし、自然と調和した暮らしというようなことを今合い言葉のように言っていますけれども、その姿が見事に表現されているということが分かります。
初めのうちは僕は、森を守ろう、そしてナマケモノを守ろうというようなことを言い始めたんですけれども、こういうことが分かってきまして、これはナマケモノを守るんじゃなくてナマケモノに守ってもらう、つまりナマケモノに我々がなることによって人類の未来というのが開かれるのではないかということを半分まじめに考えています。
さて、怠けるという、ナマケモノというのはそういう
意味なんですけれども、同時に僕は、文字どおり怠け者になると、人間としての怠け者になるということも、これも半分まじめに考えています。
こういう小ばなしがあるのを御存じでしょうか。これ実は世界中にギリシャ、ローマの
時代から広く語られてきた小ばなしなんですけれども、ちょっとやってみますね。何か、いつもは僕は立ってしゃべっているんだけど、こうやって座ると何となく落語でもやりたくなる方なんですけれども。大家さんがこう言うわけですね。おい、クマ公、何だ、昼間からぶらぶら働きもしないで、せっせと働け。大家さん、働くと何か得なんですか。それはお前、働けば銭が稼げるだろう。銭稼ぐと得なんですか。それはそうだ、そうしたら金持ちになってもう働く必要もなくなって、昼間からぶらぶらして遊べるだろう。あ、それならやっていますという。これ実は、ディオゲネス、要するにギリシャの哲学者にも非常に似たような話があって、世界中で語られている言葉なんですね。これ実は非常に深いことを
意味しているのではないだろうか。
さて、それが前置きですけれども、何で忙しいんでしょうか。皆さん、忙しいでしょう。最近、僕も長い間
海外に暮らしていたんですけれども、
日本に帰ってきて、こんなに忙しい人というのは世界中にちょっといないんじゃないかと思いますよね。何でこんなに忙しいんでしょうか。あいさつも、最近はこんにちはというあいさつもうしなくなりましたね。お忙しいところをとか、お忙しいところをありがとうございましたと。それから、お疲れさまって、もううちの学生
たちなんか朝会ったときからお疲れさまと言っていますね。
これはどういうことなんだろうか。これは僕に言わせれば、かつて
経済の世界の中にだけ限られていたファスト、速いペース、ファストなペースが
経済の外まで今やあふれ出して、今では僕
たちの
生活のあらゆる場面にひたひたと押し寄せてきている。子供
たちも忙しいですね。僕が小さいときには忙しいという語彙はなかったと思うんですね、子供の世界には。
では、そこで問題ですね。
経済の世界ではなぜ時間が加速するのかという非常に根本的な問題があります。簡単に言えばこういうことだと思います。
経済の
仕組みがそういうものなんですね。例えば生産ということに関して言えば、より早くより多く作る、そしてそれをより早く売る者が勝つという、そういう競争の世界なわけです。
経済がゲームだとしますと、そのルールというのは早い者勝ちなんですね。だれも後れを取るまいと、ゲームですから。負けるためにゲームに参加する人はいないんですね。後れを取るまいというふうにしてスピードアップします。ですから、
経済の世界では全体として時間が加速します。そして、それがしまいに
経済を優先する、
経済を最も重要だとする
社会の中では
社会全体が加速していくことになるだろう。気が付くと、辺りには、
国際競争力を、効率性を、生産性を、GDP、GNP、消費増大、会社の業績アップ、これが最優先になるわけです。そのためには、こういう最優先事項のためには、生態系、自然
環境、それから平和だとか
家庭の幸せだとかを犠牲にしても構わないというようなビジネスあるいは
経済が
社会にはびこってきたのではないか、非常に単純ですけれども、こういうふうに僕は考えています。さて、こういうゲームに未来はあるのか、それが問題だと思います。
さて、そもそも競争というのは何かという問題がありますね。競争というのは、同じゴール、ある目標に向かって競い合うことですね。一人一人のゴールが違ったら競争になりません。そうですね。まず、ですから、
社会の原理として、同じゴールに向かって
人々が進むというような原理を
社会の原理とするにふさわしいのかという非常に哲学的な問題がここで浮かび上がってくると思います。
それから、もう
一つ、今の
経済の
仕組みというのは、そこには時間が組み込まれているんですね。時間をめぐる競争なんです、この
仕組みは。ということは、時間が加速しますね。そして、早い者勝ちというのがこの競争のルールだ、やはりここに最大の問題があるのではないか。もちろん競争、勝ち負けがありますから、勝つ人がいれば必ず負ける人がいるわけです。勝ち組、負け組なんていう言葉が平然と語られる、これは
社会としては非常にまずい状態、文化としては非常に劣悪な、貧困な文化と言わざるを得ないと思います。
さて、だから、問題は時間なんです。先ほどのお話にもありました。僕は時間こそが最大の問題だと思います。そして、これから幸せという言葉を使ってちょっと話をしたいんですけれども、幸せのかぎもまた多分時間にあると僕は考えています。だからスローという言葉なんです。スローというのは時間の概念です。この時間をもう一回見直そう、我々と時間との現在の不幸な関係を何とかしなければいけないというのがスローであり、スローライフです。
さて、僕がスローということを強調する場合、時間というのがこの現代
社会の最大の問題だということが理由だというふうに言いましたけれども、実は僕は、戦争とか紛争とかというのは大きな問題ですね。そして、今、現在最大の問題といったらやっぱり
環境問題ですね、
地球温暖化、気候変動。そういう巨大な問題、
地球規模の問題からこの
日本の
社会の問題、様々な問題、そして身近な問題ですね、地域の、あるいは
家庭の、個々人の問題に至るまで、根っこのところには同じ問題があるのではないか、それが時間の問題なのではないかと僕は思っているわけです。
例えば、
環境問題もこんなふうに考えることができます。人間が作り出した
経済の時間、人工的な時間ですね、がますます加速して、自然時間とのずれが大きくなったというふうに言えないだろうか。例えば、サケという魚は数年大海原を回遊して故郷の川に帰ってくるわけですね。これがサケの時間です。キャベツにはキャベツの、ニンジンにはニンジンの時間があるわけです。しかし、加速する
経済の時間というのは、もはやこういう生き物
たちの固有の時間を待てなくなってしまったわけです。その結果、サケの場合には養殖をするとか、しまいには遺伝子組換えをして、今北米では普通のサケよりも八倍、十倍速く育つサケというのが開発されています。
経済の時間を我々は力付くで無理やり自然の時間に押し付けようとしたわけですね。
地球温暖化というのも
経済時間をこの地球のメカニズムに無理やり押し付けようとした結果だというふうに考えることができます。
それぞれの生き物にはそれぞれの時間がある。僕は、森には森の時間があると思いますし、山には山の、川には川の時間があると思うんですね。それを私
たちは全く無視して人間世界の
経済、つまり人間世界にとっての豊かさを増進することだけに集中してきたわけです。
かつて、伝統
社会ではそれぞれ人間が自然界の世界に何とか折り合いを付けながら自分
たちの暮らしのペースを編み出してきたんだと思います。しかし、
産業革命、二百年ぐらい前から大きな
変化が起こったわけです。人間は科学
技術の進歩をてこにしてその
経済活動を急速に加速させました。これはいろんな
研究があるんですけれども、簡単に言うと大体百倍なんですね。かつての百倍のスピード、百倍の力を得たわけです。その背後には、もちろんそれまでのバイオマスの
エネルギーに対する化石燃料ですね、石炭や
石油の利用ということがあることは皆さん御存じだと思います。
しかし、こういう自然界に
経済の時間を押し付けたというのが
一つの側面ですけれども、そればかりではない。
地球温暖化というのは単に孤立して存在しているわけではないんですね。実は、早い者勝ちの競争
社会は人間同士が一緒に生きていくことを難しくしてしまったわけです。互いに待ったり、待ってもらったりしながら一緒に折り合いを付けて何とか生きていくということがますます困難になってきているわけです。特に遅い人ですね。特別の遅さを持った人、
高齢者とか障害者とか
病気の人とか、身重の女性とか小さな子供とか、特別な遅さを持った
人たちだというふうに考えると、その
人たちにとってはますます生きづらい世の中になってきていると思います。
さて、僕はスローダウンと言うんですけれども、どれぐらいスローダウンすればいいのか、そんなことできるんだろうか。僕が言っているのは実に単純なことです。人と自然とが、また人と人とがもう一度つながって何とか一緒に生きていけるところまでスローダウンしようよ、これがスローライフなんですね。そういう人間らしい暮らしのペースをサポートするのがスローエコノミーでありスローポリティクスというものではないだろうか。
さて、
日本の実業界の父とも言われる渋沢栄一さんですけれども、ビジネスという言葉を
日本語に訳したんですね。何という言葉だか御存じですか。実業です、実業。
江戸
時代の商業は、ともすれば虚業に陥ることがあったというので非常に
社会的に低い評価しか与えられなかったという反省を踏まえて、彼は新しい
時代にふさわしい本物のなりわいとして実業というのを構想したわけです。彼が生きていたら、渋沢栄一さんが生きていたら、今日の現代
社会のビジネスの現状をどういうふうに思うでしょうか。世はまさに虚業全盛ではないでしょうか。大量生産、大量消費、大量廃棄、そして投機がビジネスの主流になって、
国際競争力のためには、まあ、ない方がいいけれども、
環境破壊も戦争も仕方がないかと言わんばかりですね。
経済成長を遂げて
企業の業績を上げるという至上目標のためには手段を問わない、まさにこれは虚業でなくて何でしょうか。
では、数十年にわたる驚異的な
経済成長の末に、そこに暮らす
日本人が一向に幸せそうに見えないのはなぜなんだろうか。せめて、
環境も破壊した、戦争も起きた、でもその結果こうやって豊かになって幸せなんだから、まあいいかって思いたいですけれども、じゃ何でこんなに
日本人は幸せそうではないのか。
最近、こういう本を出したばっかりなんですけれども、僕の本で、これ「幸せって、なんだっけ」という、ちょっととぼけたようなタイトルを付けてみました。その中で、今
経済学者の中に、そして
政治学者の中にも幸せということをキーワードにして盛んに
研究している
人たちが世界中に増えてきました。幸せの
政治学、幸せの
経済学というのが今ちょっとしたブームなんですね、僕もそれにあやかっているわけですけれども。その
研究の結果、こういうことが分かっているんです。今まで、豊かさの中、豊かさを追い求める
社会の中で常識とされてきた三つの命題があります。一、豊かな国の国民は貧しい国の国民より幸福である。二、同じ国の中では金持ちの方が貧乏人よりも幸福である。三、人は金持ちになるほど幸福である。常識でしたよね。僕もそう思っていました。
僕は仕事柄、僕は文化人類学をやっているんで、いわゆる貧しいと言われている国、GNP、GDPでいえば物すごく低いところにあるような国によく行くんですね。そして、僕の
実感というのが僕の常識を揺るがしました。そして、現在進んでいる、こういう幸せの
経済学、幸せの
政治学の
研究者たちによりますと、今の三つはすべて正しくない、間違っているということがもう立証されつつあるわけです。
さて、ヒマラヤの小さな国、僕は今はまっているんですけれども、そしてこの本を書くことになった大きなきっかけなんですけれども、ヒマラヤにブータンという国があります。行かれた方はありますか。僕、是非行っていただきたいと思いますけれども。今は面白いですね、王制から民主制に国王自らが率いて転換しているところなんですね。そしてつい最近、最初の選挙が行われたという、投票の仕方からみんな勉強して。
さて、その今の大変革を率先したブータンの前国王があるときこう言ったんですね。GNPよりGNHが大事である。GNHとは、GNP、国民総生産のPの代わりにHを入れたんです、GNH。Pというのは何でしょうか。もちろんプロダクツですね。物、商品、そしてそれをやり取りするお金の総額です、一国で一年の間に。それをGNP、GDPというわけですけど、それで世の中の豊かさを測るというのはおかしいんじゃないかと彼は考えたわけです。そして、GNPやGDPの
レベルでいえば、こんなに貧しいはずの我々の国の農民
たちを見てくれ、みんな結構幸せそうだよと。
僕は本当かどうか見に三回行ってきましたけど、いや、やっぱり本当にそうなんですね。非常に
幸福度が高い。これは物やお金の量を物差しとするもうけ主義や
経済成長主義への痛烈な批判であり、本当の豊かさとは何かという僕
たちへの問いかけだったと思います。
今日ちょっと是非皆さんに紹介したいと思って持ってきたのは、ロバート・ケネディの言葉なんです。なぜ僕ロバート・ケネディを最近思い出したかというと、オバマさんなんですね。オバマさんを見ていると、何か僕ロバート・ケネディを思い出すんです。ちょうど四十年前の今ごろ、次期大統領確実と言われていたんですね、ロバート・ケネディは。あのジョン・F・ケネディの弟さんですよ。
そして、これはちょうど今から四十年前、一九六八年三月十八日のスピーチの中の言葉です。
余りにも長い間、私
たちは人格や共同体の重要さよりも物質的な富を蓄積することをはるかに優先させてきた。今や八千億ドルを超えたアメリカのGNPだが、その中には空気汚染やたばこの広告やハイウエーでの多数の事故死者を運ぶ救急車が含まれている。家を守るための特殊なかぎ、それを破って侵入する犯罪者
たちを収容するための牢屋もGNPのうちだ。巨木の立ち並ぶレッドウッド原生林の破壊、美しい自然をのみ込んでいく都市化の波もGNPを上げる。戦争で使われるナパーム弾も核弾頭も、街頭のデモ隊をけ散らす警察の装甲車も。ウイットマン社製のライフルもスペック社製のナイフも、子供
たちにおもちゃを売るために暴力を礼賛するテレビ番組も。しかし、そのGNPの中には、子供
たちの健康も
教育の質も遊びの楽しさも含まれていない。そこには、詩の美しさも夫婦のきずなの強さも
政治における知的な
議論も役
人たちの誠実さも勘定されない。私
たちの機知も勇気も知識も学びも。私
たち一人一人の慈悲深さも国への献身的な態度も。これが四十年前のロバート・ケネディの言葉です。
要するに、こういうことだと思うんですね。国の富を測るはずのGNPからは私
たちの生きがいのすべてがすっぽり抜け落ちている、これもロバート・ケネディの言葉です。もう一度言いますよ。国の富を測るはずのGNPからは私
たちの生きがいのすべてがすっぽり抜け落ちている。つまり、幸せが抜け落ちているんです。豊かさでは幸せは測れないということなんです。そういう
意味で僕はあのオバマ
現象を見たいと思いますね。オバマ
現象の背後にはこれがあるんだと思うんです。
さて、実業という言葉に戻りましょう。すべての
人々の暮らしの質を高めるのが実業なのではないか。満足度や
幸福度を向上させるもの、それが本来の実業であり、
経済というものなのではないか。それが渋沢さんを始め多くの創業者
たち、多くのビジネスの創業者
たちが考えていたことなのではないか。つまり、GNPではなくてGNHを高める、ハピネスを高める、それがスロービジネス、スローエコノミー。僕、ロハスという言葉皆さん御存じだと思いますけれども、スローハスと言っています。ロハスにスローをくっつけてスローハス。
さて、この「幸せって、なんだっけ」という本なんですけれども、僕は、幸せって何だっけと、幸せとは何ぞやじゃないんです。幸せとは何ぞやと言うとみんな引きますよね。そうじゃなくて、一人一人が、あれ、これまで突っ走って忙しくやってきたけど、幸せって何だっけというふうに立ち止まって、一見ナイーブな、ちょっととぼけたようなこの問いを発することこそが今重要なのではないか。この本の中で僕は、まず、豊かさにもかかわらず不幸せな、いや、むしろこうですね、豊かさだからこそ不幸せな現代世界の有様を描こうとしました。そして、こう問うたわけですね、でも本当に豊かなんだろうか、そもそも何のための豊かさだったんだろうか、そして本当に私
たちにとって大切なものというのは何なのかという、そういう問いかけです。
環境危機と言われます。
地球温暖化、もう壮大な、人類の存続が危うくなるような危機です。でも、どうしてここまで来ちゃったんでしょう。なぜでしょう。自分で自分の、あるいは自分の子供の首を絞めるようなことをどうしてやってしまったんでしょうか。どうしてそんなことにまで私
たちを駆り立て、私
たちは駆り立てられてきたんでしょうか。あるいは、何かそういう、私
たちを駆り立てるような何かそんなに魅力的なこと、自分の生存よりも大事なことというのはあったんでしょうか。それが僕は豊かさだと思うんです。そして、豊かさというのが幻想だと僕が言うのはそういう
意味なんです。競争による豊かさの追求、それがこれまでの
経済活動でありビジネスであった。
そろそろ時間ですから、まとめたいと思います。
しかし、それこそが世界中に多くの不幸せをつくり出してしまった。そればかりではない。僕
たちの豊かさが実は未来に生きるはずの無数の
人たち、人間
たちやほかの生き物
たちが享受すべき分を奪い取ったんです。今、僕
たちが豊かだ豊かだと、六本木辺りで誇りにしているものというのは、
基本的にはあれは未来から盗んできたものだと考えた方がいいんじゃないだろうか。盗品の山です。
地球温暖化は、その豊かさ幻想がとうとう命の星地球をがけっ縁まで連れてきてしまったことをあかし立てていると思います。これまでの豊かさの
経済に代わるべきは幸せの
経済、これまでの豊かさの
政治学に代わるものは幸せの
政治学だと思います。そして、競争のビジネスに代わるものは共生のビジネスだと思います。
共生、つまり家族が、友
人たちが、共同体が、地域が、
国々が共に生きていく力を養うのがビジネスであり
経済の本来の役割なのではないか。そして、生態系との
つながりを回復して、それを維持していく力、それが共生力。
競争力ではないです、共生力だと思うんです。
それでも競争、どうしても競争したいんだという
人たちは、これからは、この世界にどれだけ共生力をもたらしたかというこの一点でみんなで競争したらいいんじゃないでしょうか。そして、
政治家たちはどれだけこれからこの
社会に幸せを増進させたかというこの一点で競争、切磋琢磨されたらいいんではないでしょうか。
つながるのには時間が必要なんです。
つながりをはぐくむためには時間が必要です、相手がいますから。スローライフというのは、そういう僕
たちが切り捨ててきてしまった
つながりをはぐくむことだというふうに理解していただきたいと思います。
どうもありがとうございました。