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田端分科員 公明党の
田端正広でございます。
大臣には、大変に御苦労さまでございます。
私は、きょうは
文化財の保護についてお尋ね申し上げたいと思います。
昨年の、ちょうど一年ほど前の衆議院の決算
委員会の
分科会で、実は私の
地元、大阪大東市の平野屋新田会所、この
文化財を保存すべきだということをここで申し上げたわけでありまして、当時の伊吹
大臣、そして当時の
文化庁の次長からも、これは非常に歴史的に価値のある
文化財だから保存すべきだという大変力強いお言葉をいただきました。
これは、実は大阪の場合、大和川というのがありますが、もともと大和川は、本当は淀川に流れていたものを、堺市を通って大阪湾にそのまま直接行くということで、三百年前、一七〇四年につけかえ工事をされた。つまり、大和川のはんらんがずっと続いていて、それで河内平野というのが本当にいつも水浸しになっているという
状況であった。それを、大和川のつけかえによって、河内平野が米どころに変わるわけですね。新田開発がこれで一気に進んで、今日の大阪発展の土台になったという大変歴史的な
意味のある新田開発。
ここにはたくさんの新田ができまして、隣の東大阪市には鴻池新田会所がありまして、これは指定も受けて、
文化財として今日きれいに、見事に保存され、私も先般視察をさせていただきました。この鴻池新田と平野屋新田がわずか二キロ足らずのところにあるんですが、この
二つが相まって河内平野の新田開発の大きな原点になったと言われているわけで、学問的にも大変大事な
文化財であった。
昨年来、これが競売にかかりまして、開発業者がそれを落として、そして開発業者と大東市の間で折衝を一年間やってきたんですが、ついに折り合いがつかなくなって、一月中ごろから二十日ごろにかけて取り壊し
作業が行われました。我々も驚いて、何とかと思っていろいろやってみたんですが、しかし、これは交渉事でうまくいかなかったということで、開発業者がこの平野屋新田会所、会所というのは事務所、建物ですけれども、その建物の長屋から母屋から全部壊し
作業が始まりまして、全部ぶっ壊してしまった。本当に残念なことで、もう二度と、この
文化財が消えてしまったわけであります。
しかし、市の方が一生懸命折衝して、何とかそこにある資料とかそれらのものは全部いただいて、そしていつでも保管できる
状況にはなっているようであります。しかし、建物そのものは、もうなくなってしまった。
これは大変広大な敷地ですが、その周りに堀跡がありまして、一方には銭屋川という川が側面に流れていまして、そこに船着き場の跡地があります。こういうものは今でも歴史的にきちっと保存ができるわけで、お堀跡あるいは船着き場の跡というものは、仮に建物がなくなったとしても、
文化財としての平野屋新田会所がここにあったんだということでは、これは大変今でもまだ重みはあるということであります。
そういうことで、先般、
文化庁の方々にも来ていただいて、大東市、大阪府、そして
地元の町会の方々、あるいはこの守る会の方々、大学の先生等々、我々も入らせていただいて、市
会議員団等々、いろいろな場で協議を行い、
現地視察もし、やりました。そこで、何とかここにあったんだというそのものを残せないかという最終的な結論になったわけでありますが、そういう
意味では、建物そのものはなくなったわけでありますけれども、何としても私は、これはぜひ
お願い申し上げたいと思います。
昨年、伊吹
大臣は、大東市が史跡として申請されれば、
文科省としては、
文化財保護法の規定に従って
文化審議会に
お願いして、重要なものであるという認定をいただければ指定する、こういうふうにもおっしゃっておりますし、
文化庁次長は、この遺跡は、江戸時代の新田開発、新田経営の歴史を知る上で歴史的価値があるというふうに
考えている、こういう答弁もいただき、そんなことで、何としてもという思いであったのですが、ここに至ってしまったという
意味では非常に残念でございます。
現地を私も見てまいり、もう見る影もなく何もなくなって、すごく木がいっぱいあったんですが、それも伐採されまして、本当に残念なことでございます。
そういう
意味で、なかなか大変なことになっているわけでありますが、まず、この問題について今後どういうふうにされていくのか。特に、こういう
文化財が全国ほかにもたくさんあるんじゃないか。開発業者に渡ってしまったら、もう打つ手がないわけでありますから、未然にそういったことの、これを教訓にしてまずひとつ
考えるべきじゃないかと思いますが、御答弁を
お願いしたいと思います。