○土肥
委員 なぜそんなにおくれるのかという話でございますが、
平成四年から始まった、私も
平成二年に
質問しているんですけれども。
子供はどんどん育つんですよね。
調査研究、
調査研究でやっている間に十五年もたっちゃって、その当時、私はまだそのころ政治をやっておりませんでしたけれども、福祉の世界でどうもそういう
子供がいるということに気がついておりまして、親御さんたちともよく話をしておりました。そのころ十歳か十一歳ぐらいの子、男の子でしたけれども、今やもう立派なというか、成人、二十六歳、七歳になっているわけですよ。
子供はあっという間に育つわけですね。それで、
文科省は後ろから追っかけて追っかけて追っかけている間に
子供はどんどんどんどん逃げていくような形になるわけです。逃げるというよりは、その親御さんたちの苦労は並大抵じゃないんです。
やっと中
学校を卒業した、まだLDだとわかっていませんから、学級では迷惑な
子供になっているわけですね。そして、辛うじて高校に入りまして、どうやっているかというと、試験があります、必ずおっこちるわけです、追試があります。だから、試験の前から追試に向かってずっと勉強を続けて、追試がやっと通ったと思ったら次の試験が待っているわけですね。だから、もう一年じゅう、
子供を何とかしてその追試に通るように、試験に通るようにということを親御さんは苦労しているわけでございまして、しかも、
学習障害児だという意識を親も子も持っていませんから、何でこんなにできないのといって
教育をするわけですね。だから、
子供はどんどん育っているわけです。
私はせんだって三十五、六歳の女性の方にお会いしまして、この方は三十五歳にして初めて医者から、あなたはLDだと言われたんですね。三十五歳になって初めてLDだとわかった奥さんのその体験と告白は、我々障害福祉をやっている者にとっても、あるいは
教育者にとっても、実に貴重な体験を話してくれるんです。LDだからといって言語機能がないわけじゃない。これまでどうもおかしいと自分で悩んできたその悩みを告白してくれるわけです。
ちょっとだけ紹介すると、まず、三十五歳のときに、あなたはLDだと言われたときに、お医者さんが、あなたつらかったね、こう言ってくれたというんです。つまり、自分の症状が何かわからないでいるということは非常に苦しいことなんですね。私は、それを聞いて、自分のやっている福祉の仕事が何か原点に戻ったような気がします。つまり、対象者の体験や告白を聞かないで本当の
教育はできないということなんです。
勉強の苦労、例えば、この奥さんは国語は抜群の能力を持っているわけです。今でも私は一次試験を通りますというぐらいの国語力を持っているんですね。ところが、数字がさっぱりだめなんです。十分後に集まりなさいと言われたときに、その十分がわからないわけですね。もうそれで振り回されているんです、その奥さんは。
三十五歳にしてわかったんですけれども、既にお子さんが二人いる、もちろんだんなさんもいるわけですね。その診断結果を受けたときに、徐々に、だんなさんもその奥さんがちょっと変わっているねと気づき始めるわけですね。何が何なのかわからない。例えば、ぬれたものをさわるのが嫌なんですね。だから、ぞうきんとかふきんだとかというぬれたものはさわれない。だから、いつもからぶきをしていらっしゃるわけですね。何でそういうふうにするのと言われても、それができないというわけですよ。
それから、この御主人が「ゴルゴ13」という雑誌を持ってきた。それで、あなたも読みなさいと言って、読みながら、字は読めるんですが、なぜこの人がこの人を殺さなきゃならないかという脈絡が全然わからないというわけです。何がおもしろいかというと、ピストルのデザインとか着ている服の絵柄だとかいうのは克明に覚えて、それは非常に興味があるわけですけれども、筋書きが全然わからないわけです。
そういう話を聞いておりますと、いろいろなことがあるわけです。例えば対人
関係で、我々は距離感をはかって、
大臣ともこの距離感は微妙な距離感ですね。すぐ殴りかかるにはちょっと距離があり過ぎるんですね。そういう距離感がわからないから、下手するとべたっとくっついていくんですね。
学校の
先生にいろいろ教えてもらうときに、べたっとくっつくから、おい君、ちょっと離れろと何度も言われたくらいでございますけれども、そういう物理的な距離感もわからないし、したがって、人間的な距離感というのはほとんどわからないとおっしゃるわけです。はあ、そうかと。そのときに、
学校で勉強をするとか成績だとか試験だとかというのは一体何だったんだと。これは本当に申しわけないというか、気の毒に思った次第でございます。
そういう
報告がどんどん出てきておりますから、LD
教育に関しては、人口がどれくらい、
子供の数が三十万とも言われておりますけれども、かなりの数がいるわけでございまして、そういう
子供の対応というのを早くマスターしていただく。
学校の教師の皆さんも早く
理解をしていただく。のけものにしない、できの悪い子にしないでどうやって育てていくかということですね。
ADHDにしましても、大変難しいんです。
学校を卒業して私どもの施設に参りまして、それはもうどう指導していいか、わけわからぬくらいです。結局、個別支援になりますので、例えば五十人の知的障害者の施設に入っていらっしゃるんですけれども、一人、二人ぐらいに分離して、そして昼の
生活は別のところでそういう施設を用意しなきゃいけないんです。例えばカラオケボックスがつぶれた、では、それを借りようといったことで、その中に入って一日じゅう職員が一人でついて世話をしなきゃいけない。これを
学校教育に持ち込んだら大変だろうなと思いますけれども、我々障害福祉をやっている者たちも、人件費の問題から何から計算すれば、とても負えるものじゃありませんけれども、できるだけやってみようということでやっているわけでございます。
その上に、今度は、三障害一緒に障害施設で面倒を見るようにというのが今回できました自立支援法でございまして、そういう
意味で、
学校教育でこうした障害を持つ
子供たちをどう見ていくかということは、極めて緊急的な、ぐずぐずしていられない。やれることはどんどんやって、失敗してもいいじゃないですか。やはり経験しか役に立たないというふうに思うわけでございます。
それでも、親御さんに会いますと、ああ、国がここまで認めてくれたのかと喜んでいらっしゃるんですよ。本当に申しわけないと思いながらも、よかった、うれしい、自分たちの後輩たちに、こういう国の取り組みについて、特に
学校の
先生方の
理解が深まったことはありがたい、こうおっしゃっているわけです。
そうした一種の精神障害でございますけれども、実は、
学習指導要領をずっとさかのぼってみますと、特に精神障害にかかわる
指導要領の
中身は恐るべきものがあって、保健体育というのはマイナーな科目かもしれませんけれども、私は、やはり学級運営にしましても、
子供の
教育にいたしましても、こうした障害を担っている
子供たちをよく教えて、こういう子もいるんだ、私どももこういうふうになる可能性があるんだというようなことも含めて、障害者を普通学級でも、今度は特別支援
学校でもやっていただきたいと思うのであります。
精神障害の歴史を見ますと、さかのぼること昭和三十三年、四十四年の中
学校の
指導要領、それから、昭和三十五年、四十五年の高校における
指導要領を見ますと、精神障害についての
理解をするという項目の
もとに、それはもう、これは遺伝病である、だから優生保護法的な対処をしなきゃならないということが書いてあるんですね。ですから、
教育の中に、いわば精神衛生とかあるいは優生保護というような、今では
考えられないことがうたわれておりまして、それに基づいて教科書もできているんですね。私はその教科書を読みました。
ところが、その後、ぱたっととまるわけです。ずっと時がたちまして、昭和五十二年以降、精神障害という
言葉が削除されます。完全に削除されるわけです。そして、今日まで保健体育の
指導要領には書かれていないんです。なぜ精神障害を切り離したんですか、お答えいただきたいと思います。