○
広中和歌子君
日本人が単一民族というのは、いろんなところから来た
人たちが、島国であったために、そして徳川時代、鎖国をしていたために独自の
文化が育ったということは、それはすばらしいことだと思います。
ただ、今は国際
社会に向けて物を言わなければならない時代になってきているわけですよね。そういう時代の人材
教育というのは、もうちょっと自由度があってもいいんじゃないか、才能を好きに伸ばせるようなシステムじゃなければいけないんじゃないかと。落ちこぼれて、自分は勝手にやりますということですばらしいスケーターができたり、それから、野球選手のすごい人がいますし映画監督もいるし、そういうような
人たちが本当に
学校を楽しんで才能を伸ばせるような、そういう形が望ましいんじゃないかなと、そういうふうに思っている次第でございます。
ひところは平等主義というのが非常に
日本の
学校ではやったと、それが大切だということ、分かるんですけれども、やはり生徒の立場に立ってみれば、いつまでも同じところにとどめ置かれるのは嫌ですし、できる子は先へ行きたいし、それから、分からない、数学が分からない子にこうだろう、こうだろう、こうだろうと言われても、もう苦痛以外の何物でもないわけですよね。だから、もうちょっと親切な教え方というのがあってもいいんじゃないか。
そうなってくると、やはり習熟度別の
クラス編成ができるぐらいの
ゆとりのある、そうした
先生の配置というのが必要なんではないか。必ずしも私は少
人数じゃなくてもいいけれども、同じようなレベルの子だったら五十人いても大丈夫だろうと思いますけれども、しかし本当に落ちこぼれている子には個別に対応するといったような。そういたしますと、今度の
改革で
予算も
先生の数も増えないで、ただ、しかも経験のない
先生、十年後に研修するといった制度の中で、どのような効果的な教え方ができるのかなと大変疑問に思うんですね。
また
アメリカの例を挙げて恐縮です。必ずしもすべての
アメリカがいいと言っているんじゃございませんから、お断りしておきますけれども。
アメリカの
先生は、この前、水岡
先生おっしゃいましたように、掃除の監督から給食から、それから放課後のスポーツから、
授業以外にもうありとあらゆることをしなくちゃならないといった
先生ではございません。教授に、教えることに専心できるんですね。しかも、雇われている期間というのは九か月です。年俸制ですからぼんともらうわけですけれども、それは九か月教えている間に渡されて、それから後の三か月というのは自分で研修、自己研修してもいいし、それからほかの
仕事に就いてもいいと。つまり、
社会性を、
お金を稼ぐと同時に
社会性も身に付けるといったようなこともあるわけですよね。
ですから、
予算が非常に限定されている中で、何というんでしょう、
日本の
先生にこれ以上の過酷なノルマを課しても、それはもうちょっとお気の毒としか言いようがない。もうちょっと
先生にも
ゆとりを持っていただく。
別の
委員会でワーク・ライフ・バランスということを私
たちやっているわけでございますけれども、働き過ぎであった
日本人が家族一緒に夕食が食べられて、夕食の団らんの中で親から、親との会話の中で
子供が学んでいくというような、そうした世の中というんでしょうか、
社会を取り戻すためにも、
先生を土曜日出勤さすとか、あるいはもう夜十時まで
学校のために献身的に働かせるとか、そういうようなことは
是非是非是正していただきたいなと思う次第ですけど、いかがでございましょう。