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参考人(
三上昭彦君)
明治大学文学部の
三上昭彦と申します。今日は貴重な機会を与えていただきまして感謝いたします。
以下、座ってやらせていただきます。
お手元に「「
教育関連三法案」(
内閣提出)等に関する
意見(要旨)」というのがあります。でも、これは要旨というよりも、私自身の覚書という
ようなものです。
今日、
意見の
陳述を依頼されて、最初から十五分というふうなことは事務局から言われておりました。七本か八本の
法律案を十五分で何するのかなと、最初ちょっと分かりませんでした。私の
ような
大学の
教員というのは、もう三十年余りやっているんですが、大体九十分が一単位といいますか、それが習い性になっていますので、皆さんの
ような政治家の方々は、あるときは三分で、あるときは五分で、あるときは十五分できちっと本質といいますか、要点をとらえてお話しになるという特異な才能を持たれているんじゃないかと
思いますけれども、やっぱり私なぞはそういう
意味ではちょっと不器用かなというふうに
思いました。
それで、ともかくも内閣が提出された三法案だけでも目は通さなきゃいけないというふうに
思いまして、必死に通していって覚書を作っていましたら、やっぱり九十分ぐらいの量のあれができました。したがって、こんなものをやっても仕方ありません。私の前に御
意見を述べられたお三人の方が比較的触れなかった法案であります地教行法の法案を中心にしながら私の
意見を述べさせていただきたいというふうに
思います。
ただ、その前に、第一ページにあります「「
教育関連三法案」を通底する特徴と問題点」というふうに一応書いておきました。これは
委員の皆さんの前で改めて言う
意味もないことでしょうけれども、
内閣提出の三法案を見ますと、いずれも提案理由説明のところで、
教育基本法の改正の趣旨、あるいはその改正を踏まえて、及び
中教審答申等を踏まえてと、こう書かれています。その等というところは、言うまでもなく、今盛んに活動をされている
教育再生会議の強烈なインパクトをやっぱり踏まえているんだろうというふうに
思いますけれども、そういう形で立案され、上程されたと。そういうことですから、当然、三法案はその限りで改正
教育基本法の趣旨を言わばこの下位の
関係教育法に具体化していく最初の第一歩ということで、提案者の政府・与党の方々、当然そういうふうに考えられているという
ように
思います。
これは、まだある
意味では序の口ということになるのかもしれません。つまり、
教育基本法を改正するという、
教育の根本法である
教育基本法を改正するということは、その根本法たる新
教育基本法を利用して、これまで極めて不安定な
状況に置かれていた行政立法あるいは告示などの形式の中で規定されていたものを晴れて
教育基本法、
教育根本法に規定し直すことによってその強制力といいますか、それを使って現行の
教育法体系、
制度を再編するという、そういう戦略といいますか、構想だろうというふうに考えられます。その限りでは、私は
教育基本法の今回の改正には極めて批判的であります。
それをここで言っている余裕はございませんけれども、我々
教育法なり
教育行政の研究者から見ますと、一言言えるのは、今回の改正は近現代の
教育と法との
関係という原理から見ますと、明らかに余りにも法が
教育なり道徳なり、そういうものに踏み込み過ぎていると。言うまでもなく法と
教育の決定的な違いは法が強制力を持つということであります。結局そこの部分、我々は長い長い近代公
教育の中でそういう言わば法なり、そのときには法というよりも勅令及び行政立法、省令でありましたけれども、それが
教育に踏み込んでいくというそういう長い歴史をも十分持ってきたわけで、およそ六十年前になって
ようやく一般の欧米の先進国と言われた近代の
教育と法の
関係という
ようなものに立ったわけですけれども、それがいよいよ六十年たってベクトルは逆方向といいますか、つまり再び法が
教育を強く統制するというそういう
状況をつくったのが今回の
教育基本法改正の
一つの側面であると私はとらえています。
それと同時に言っておきますと、今回の
教育関連三法案を通底している基本的なベクトルということを私は読んでみて感じたんですけれども、あえて
教育再生という言葉を使うならば、
教育再生と
教育を創造していく、それの根本的な本源的な力といいますかエネルギーといいますか、そういうものをこの
教育関連三法案はいずれも、それをこう引き出す、御存じの
ように、ラテン語で
教育の原語、エデュコーというのは、引き出すというのがつまりエデュケーション、エルツィンクになっていく原語と言われていますけれども、それを引き出すのではなくて、むしろその根源的な力を抑圧するといいますか、それも根源的な力というのは
子供自身の中にある力、あるいは
教職員の中にある力、あるいは地域住民の中にある力、あるいは自治体、
教育委員会、つまり
教育にかかわっている諸アクターというか、そういうそれぞれの持っている力を私は引き出すんじゃなくて、やっぱり押し、何といいますか、殺すというとちょっと語弊がありますけれども、そういうベクトルを持っているというふうに思っているわけです。
さて、そういうあれから見まして、三ページに地教行法の
法律の改正案について若干の
意見という
ようなものを述べてあります。
皆さん御存じの
ように、地教行法に基づく今日の
教育委員会制度、一九五六年から既に五十年ですね、もう半世紀がたったということであります。で、その
改革ですね、つまり任命制
教育委員会制度と言われる地教行法の下での地教行法体制の
改革の必要性が政府
関係の審議会で初めて正面から政策
課題に挙がったのは、もうこれも二十年前のことであります。いわゆる臨教審の第二次
答申の中で政府
関係の審議会としてこれだけ厳しく実態を指摘したのは私は初めてでした。恐らく初めてだったと
思います。つまり、地域の
教育行政に直接責任を持っている合議制の執行機関としての
教育委員会は、その使命感とか自主性とか主体性に欠けていて形骸化している、あるいは本来の
制度、本来の機能を十分発揮しているとは言い難いというかなり厳しい指摘をやって、その再生と
活性化は国民的な
課題だと、こういうふうに述べたわけであります。
それを受けて臨教審は確かに
活性化方策を出し、文科省も、文部省も様々な
活性化政策をやってきましたけれども、結局いろいろ取られてきた、今日まで取られてきた
活性化政策というのは、この任命制
教育委員会制度の根幹部分、つまり
教育委員の任命制とか、それから
教育長の任命承認制はこの間、一九九九年の地方分権一括法によってこの部分は改正されましたけれども、
教育委員会自身の対首長に持っている自主性の問題等々、その根本的な
制度の根幹に触れてないと。いみじくももうOBになられましたけれども、文部省の
教育委員会等にもかかわった、
活性化政策の
推進にかかわったOBのお一人の方が、
活性化、
活性化といっても、文部省全体としては
教育委員会に手かせ足かせをはめていて
活性化せよと言っていたけれども、これはちょっと無理だったんじゃないかというふうに述懐をされているわけでありますけれども。ただ、いずれにしろ
教育委員会制度というのは確かになかなか難しい諸要素、複雑な諸要素を持っているということになります。
今回の改正点について、法案では大きく五つぐらいの分野に分けて展開されています。
一つは、
教育委員会の責任体制の明確化ということで、改めて
地方教育行政の基本理念という
ようなものを規定していますけれども、この規定は、ずっと一貫して
教育委員会制度の戦後の歴史をフォローしてきた私から見ますと、やっぱり
教育の、地方自治の原則とは
教育が基本的に地方の自治事務であるというふうな、そういう根本的な部分ですね、それから
教育委員会の本来の理念、一口で言えば公正な民意によって地方の事情に即した
教育行政を行うという
ようなこと、こういうふうなものにはほとんど触れてないということで、非常に格調のない理念が規定されています。
それから、
教育長へのこの事務の委任を禁ずるという、で、合議制の
教育委員会が自ら管理執行する必要がある事項を規定しているんですけれども、これは見方によっては何か余りにも
教育長に委任し過ぎという現状への批判の
ようにも取れますけれども、よく
状況を合わせてみますと、やっぱりこれは今日の
教育長中心の
教育行政を現状よりも更に促進させていく、つまり逆に合議制の
教育委員会の形骸化が強まる可能性の方が強いというふうに私には読めました。
それから、
教育委員会の活動
状況の点検、
評価、これはこれとして私は意義があると
思いますけれども、しかし、本来、点検、
評価すべき主体というのは正に地域における地域住民、
保護者、あるいは
関係する
関係者の知見がやっぱり織りなされて行われるべきであって、それプラス学識経験者ということになるだろうというふうに
思います。
それから、
教育委員会の共同設置の問題です。これは
教育委員会の共同設置というのはもちろん必要に応じて取られることがありましたし、でもこれは余り広がりませんでした。で、今回はそれを非常に強く推しています。しかし、
教育委員会の結局全部を共同設置するということは、まあこれは分かりやすいことですけれども、住民から
教育委員会、
教育行政が遠ざかっていくということになるわけで、
教員人事の協力連携とか指導主事の共同設置などとはわけが違うわけであって、これはやはり非常に慎重でなきゃいけないし、私は余り強く賛成はできないということであります。
それから、
教育委員の研修の問題を今度は国や府県が乗り出してやろうというのが規定されています。これもまた、やはりさっき冒頭に言った
ように、まあ国や府県はそれこそ
自負があるのかもしれませんけれども、こういうことをやっていては自治は育たないという明確なことであります。どうしてこういう発想がすぐ出てくるんだろうかと、この繰り返しであります、
教育委員会制度について見ますと。
時間がなくなってきました。
教育における地方分権の
推進、私はこの弾力化というのは大変結構で、前から私
たちもそういうふうに主張してきました。六人以上とか三人以上とか、大いにそれぞれの規模、必要に合わせてやることが必要でしょう。
しかし、私は、
教育委員会の歴史を見てきますと、やっぱり今の形骸化しているとか
活性化しなきゃいけないという根源にあるのは、やはりこの
教育委員会の三つの重要な部分、つまり特にその中で
教育委員に住民代表性というふうなものが付与されていない、あるいはそれは権威という人もいますし、その部分が
一つ極めて重要な部分としてあるということです。どこの
教育委員会を回っても、一生懸命やっている
教育委員であり
教育長であっても、やっぱり首長です。首長及び議会の方、特にとりわけ首長の方を気にしてその
意見を上回ることはほとんどできないですね、現実的に、というふうに思っております。
教育における国の責任の果たし方の問題、これも極めて重要で、五十条、四十九条等々にありますけれども、伝家の宝刀的なあれで、規定することだけで
意味があるんだという、こういう規定の積極的な解釈もある
ようでありますけれども、これは相当慎重に、いかなる
状況、いかなる事態、過去の事例も含めてこういうケースがイメージできるのかということを明確にして御議論をされる必要があるというふうに
思います。
ちょっと時間が回りましたので、やや中途半端ですけれども、これで終わらせていただきます。
どうも御清聴ありがとうございました。