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公述人(三輪隆君) 三輪でございます。
私は埼玉大学の教育学部というところで教えている教員です。と同時に、専門は
憲法でありまして、現在
憲法研究者と自称する人間は、具体的に言いますと大学院で修士論文あるいは博士論文を書いて研究職を自認している人間は恐らく全国で何と六百から八百人ぐらいいるんじゃないかと思いますが、そのうち百人ぐらいの仲間とネット、メール等々での
意見交換を常時行っているつながりも持っています。
教育学部といいますと教員養成のところで、いろいろしっかりした教員を養成しているのかということが時々厳しい目が向けられるんですが、日ごろ学生と
議論しておりますと、学生諸君の中には、このような高度にといいますか、重要ではあれ一般的な生活からするとちょっと遠い
国民投票という
問題についても
問題関心を持って考える学生が少なからずいます。
とはいえ、専門学部ではありませんので、その
議論は専門的なところまで立ち入った
議論にならず、逆に大きな視点から、そしてもう少し言いますと、多くの言わば一般の市民の人
たちが持っているような疑問が素朴に出されるという傾向があるように思います。その中で私がいろいろ考えたことを今日は申し述べさせていただきたいと思います。
結論的に申し上げますと、甚だちょっと言いにくいことではありますが、これまで
衆議院、
参議院と多大な時間を割いて審議されてきたことは存じておりますが、おいおい、このまま通していいんですかと。仮にこういう法案で今後
憲法改正が行われるということがあった場合に、それで実現した
憲法改正というのが本当に
正当性、手続の点で正当な手続に基づいたんだと胸を張って言えるのか、こんな辺り疑問に思います。この点をかいつまんで申し上げたいと思います。
まず第一点、前提的に押さえておきたいことでありますが、
国民投票というのは、
国民主権を原則とする
社会の下では言ってみれば取扱い注意というんでしょうか、慎重な取扱いを要する事柄ではないか。この点が十分に踏まえられているかどうかということをまず
問題にしたいと思います。
主権者
国民が直接に
意思表明する。
国民主権の原則の下では、言ってみればこれ以上強い切り札はないわけですね。それで、これを一回切るということは、容易にそれと同じレベルで同じような切り札を使うということはできませんから、一回
国民主権の言わば洗礼といいましょうか、を受けて決められたものがころころ変わるということは政治不信を招くということになるわけで、その主権者
国民の
意思を直接表明する
国民投票をどう行うかということについては慎重な取扱いがまずは必要であろうということがあります。
憲法の歴史ちょっと振り返りましても、近代
憲法の歴史の中で、必ずしも主権者
国民の
意思表明という
国民投票の制度が適切な、適正な、本当に民主主義の制度として適正な使われ方をしていたかどうかということからすると、疑わしい例が少なからずある、これはよく言われることであります。
日本にはまだ経験がないことでありますが、
国民投票の制度を早く取り入れた例えば
フランスでは、ナポレオンが独裁的な政権を獲得する過程で、一世も三世もですね、
国民投票、この手法を使って議会等々の有力な反対派を飛び越して政権を簒奪するということが行われております。また、ナチス・ドイツの政権簒奪についてもこの
国民投票的な手法が使われているということはよく指摘されることであります。
もう少し言葉を言い換えて言いますと、議会内などなどの有力な反対派の対抗を打ち砕くために、それを飛び越えて主権者
国民に直接、とりわけ時々の政権が訴えるという形で支配の正統性を調達する、そういう
手段として濫用されたという不幸な歴史も
国民投票の経験の中にはあるということであります。そのことから、そうした政権担当者による支配の正統性を調達する言わば追認的な
国民投票にならないための工夫というのがいろんな国でなされていると思います。
大きく二つの点がポイントになります。
一つは、追認的な
国民投票にしないために
発議側に対する一定の
規制、つまり、時々の
発議側の利害に基づいて、それに対する
国民的な合意の支持を取り付けるというような操作がなされないように、
国民投票はあくまでも
国民が、これが重要な論点である、この点について
意思表明するという論点設定ができるようにする、そのための
規制です。
発議が時々の政権担当者の恣意、それから正統性調達の
手段にならないようにするための工夫であります。
もう一点は、
国民投票が単なるイエスかノーかの言わばゲームにならない、討論に基づく、熟慮された主権者
国民の
意思表明になるための工夫であります。正に、先ほどもどなたかおっしゃっていましたが、南部
公述人でしょうか、技術的には、現在、一人一人の有権者がある
意思表明のための端末を有して、持って、イエスかノーかボタンを一斉にスイッチオンということもできる
状況になっております。しかし、まさか、何月何日何時から何時までの間に有権者はスイッチオンしてください、それだけで終わり、これが
国民投票か。こういうことはだれも考えないわけです。やはり、主権者が、
国民が
意思表明するというときにはそれなりの熟慮があり、討論に基づく判断が必要だ、これは自明のことになっていると思います。この点であります。
第一点から申し上げます。
憲法九十六条の改憲手続の構造は二段階になっておりますが、
発議は三分の二の特別多数で
国会が行うわけです。ただ、この
国会による三分の二の特別多数による
発議が偏ったものになるということであるとすると、これまた第一点、追認的な
国民投票にしないための第一
要件で
問題が出てくると思います。
三分の二の特別多数の同意があるからといっても、その特別多数を支えている議席は選挙に基づいているわけで、相対得票率では多数であったとしても絶対得票率ではどうなのか、場合によっては二分の一を大きく下回るということもあるわけです。
国民的な基盤でいえば、少数者による
発議となる可能性は、三分の二の特別多数という制度を
憲法で定めていたとしても、その基になる
国会の選挙制度のありようによっては
国民的基盤が少数者による
発議になる可能性はあるわけです。
例えば、二〇〇五年春の
フランスにおける
EUいわゆる
憲法条約の否決がありました。
フランスは、御存じのように小選挙区二回
投票制を取っております。その結果、第二回
投票で左派と右派のそれぞれの支持層のうちの左派の言わば極左と言われる層の候補者は落ちます。右派の極右と言われる候補者も落ちてしまうわけです。議会構成としては、
EU憲法条約にもう与
野党を超えて
賛成という議席配置が出ているわけです。ただ、そこで
発議されたものが
国民投票にかけられた場合、この小選挙区二回
投票制のところで言わばはじき飛ばされていた極左と極右の票が、言わば反乱を起こすということも主要な要因の
一つになって
国民投票では否決されるということがありました。このようなリスクが制度的にあるんだということを十分踏まえる必要がある。この点踏まえているんだろうかと思います。
まず第一には、改憲の原案
提出権
要件を百と五十、少数会派からの様々な論点提起の機会を大幅に
規制しているわけです。最終的に三分の二の特別多数で決めるんであるから、改憲原案の提案も少し厳しく
要件した方がいいと、こういう主張がありますけれども、むしろ逆さまではないでしょうか。最終的には三分の二の同意がなければ発案できないんですから、少なくとも
審査段階では少数会派からの論点提起、その結果、多角的な論点についての検討、多様な論点の審議ということがあって、その上で三分の二の多数。これが十分練られた、そしてある特定党派の利害だけでの
発議にならないためには、せめてそのくらいのことをする必要があるであろうかと思います。
合同
審査の
問題については、ちょっと時間がありませんので省きます。
飛びまして、公的な
広報を
国会が設ける
広報協議会にゆだねるということです。
公職選挙の場合の選挙公報と違いまして、それは言わば単純に候補者の政見をそのまま集めればいいわけですけれども、
国民が判断する場合のイエスかノーかの判断材料を公正に提供するということでありますと、やはり発案者以外の第三者が行う、これが筋ではなかろうかと思います。つまり、
国会以外の第三者が行うのが筋であろうと。しかも、今出ている案によると、その
国会に設けた
広報協議会も会派比例をベースとしていると。これは提案者が説明するということになって、ちょっとルール違反も甚だしいと思います。
第三番目に、
最低投票率の
問題について言います。
低い
投票率あるいは得票率自体、改憲された結果の
正当性を損なうということは言うまでもありませんが、ここであえて申し上げたいのは、そもそも
国民投票にかけられる選択肢というのは
国会が定めた選択肢であって、主権者
国民の側は、例えば、昼飯何にする、洋食にするか和食にするか中華にするかという形で問われるんではなくて、牛どん食うか食わないかという形で問われるわけです。そのときに、私は中華にしたいとか、そういう選択肢はないわけですね。
ですから、例えば、自衛軍保持は
賛成、しかし派兵は反対という人に対して、自衛軍は保持する、また国際平和協力活動も積極的に行うという趣旨の改憲
草案が出た場合に、さてどうするか。
賛成もしたいし反対もしたいし、その選択肢がないとしたらば、これは棄権しかないかどうかはともかくとして、棄権するという選択肢もあり得るわけです。主権者
国民が棄権するという選択肢は、
国会が設定した改憲案の
内容によってはどんな場合でも論理的にあり得る。
したがって、改憲案に対する
賛成票が
正当性を持つためには、単に反対票を上回るだけではなくて、棄権票もそれが上回っているということ。したがって、
最低投票率は三分の二以上という
考え方も出てくると思います。それは事実上非常に難しいとしても、せめて二分の一以上というのは多くの国の実例等々から見ても妥当な線ではなかろうかと思います。そうでないとしたらば、先ほど別の
公述人がおっしゃっていたように、端的に義務
投票制にするしかないということになろうかと思います。
時間がちょっと迫ってきましたが、討論の点につきましては、
国民的な討論という点では、これは先ほど
最初に言いましたように、これは単に一人一人の有権者がスイッチオンでイエスかノーか言う、つまり私的な利害に基づいてやるということではないと思います。
憲法のように、これ全
国民にかかわる共通
問題です。これを一人一人の有権者、市民が全
国民にとってこれがどうなのかということに自分の判断を持てるところまで熟したところで判断するということであると思います。
例えば、国際平和協力活動を可能とするというような改憲提案が葬られたりした場合、将来の世代から、おじいちゃん、どうしてあのときはおじいちゃんは反対
投票したのと、これが問われるでしょう。あるいは、分権にかかわる地方自治制度についての何らかの改憲提案に対して、そんな東京のあるいは都会の人
たちはいいかもしれないけど、おれ
たちのことはどうするんだと、地方の人
たちの声に都会でそういう提案に
賛成した人
たちはこたえなくちゃいけない。単に自分
たちにとって良かったからだということじゃないと思います。
そうした
国民、全
国民に共通の
問題について、自分はこうこうこういう理由でこたえるんだ、その理由付けを持てるところまでいく、それが必要で、そのためには、単なるイエスかノーかスイッチオンではない、やはり自由で濶達な
意見交換の機会が保障されるということが必要であると思います。
そこで、少しメモったことについては切ります。一番
最後に申し上げます。
で、こういう点でいって、現在の法案はそれぞれかなりいろいろな点をもまれてはいると思いますが、まだまだ不十分な点があり、こういうルールで本当に改憲に着手していいのかという点でいうと疑わしいと言わざるを得ない。
最後に、九十六条に基づく法案についてです。
四十一条に基づいて
国会は絶えず立法活動を行っています。ただ、九十六条に基づく法案というのは、言わば
憲法上の機関である
国会が
憲法そのものの
改正手続をいじるということですから、極端な場合はその時々の
国会の政治的多数派の利害によって言わば不公正なルールを作るということも論理的には可能であるわけです。しかし、わざわざ九十六条にこのような条文を設けてそれにかかわる
法律を
国会で作るということは、そうした四十一条の場合でもそうですけれども、それ以上の、本当に
国民的な合意があるかという点でのより高度の慎重な判断が必要であると思います。与
野党間で主要な大きな対立がある、ましてや全会一致からほど遠いというときに急いで決定していいのかどうか、これは慎重であっていただきたいと思います。
長くなって申し訳ありませんでした。終わります。