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参考人(
川勝平太君)
田中会長、御列席の先生方、本日はお招きにあずかりまして誠に光栄でございます。
ただいま
北沢参考人、
手嶋参考人の御立派な見識をお聞きいたしまして、愚論を述べるのは恥ずかしゅうございますけれども、
多極化時代における新たな
日本外交につきまして、文化文明論的な観点から思うところを開陳いたしたく存じます。
まず、
日本の
世界史的位置が劇的に変化したということを踏まえるべきである。
日本の
国際社会に占める位置が変わりました。幕末開港以降、明治維新、近代化の
政府が立脚したのは富国強兵の
時代でございましたが、これは欧米へのキャッチアップという目的がございました。しかし、平成期には、今や
アジア地域間競争をリードするリーダー格の地位に転身したわけであります。戦前期におきましては大英帝国を言わばモデルとして大
日本帝国をつくり、戦後は
経済大国
アメリカを
一つの理想として
経済大国化を図ってきたと存じますけれども、今やイギリスはGDP
日本の三分の一の大きさの国でしかありません。
アメリカへのキャッチアップ、これはいろいろ議論があるかと存じますけれども、六〇年代の繊維摩擦、七〇年代における造船業あるいは鉄鋼業における
アメリカを凌駕する
日本の躍進、あるいは一九八〇年における国内における
日本の自動車生産、これが一千万台を超えまして、
アメリカのその年の生産台数を超えて、その後は様々な家電製品、半導体と、いわゆる旧産業におきまして
日本が
アメリカにかなわないものがなくなっていったのが一九八〇年代であったと。すなわち、
日本の地位はジャパン・アズ・ナンバーワンと
アメリカ人自身が呼ばれるような地位に転身し、その帰結が一九八五年のプラザ合意ではなかったかと思います。これは、先進五か国によるドル高是正を取り決めたものでありますが、ここで、その数年後には
日本の製品が二倍あるいはそれ以上になるという中で、
アメリカがその
日本の製品に対しましては価格においても品質においても太刀打ちできないということを認めたと。言い換えれば、
日本は近代化の分水嶺をこの一九八五年に越えたというふうに存じます。したがって、その後は言わばマネーゲームと軍事を除きますと、新しい、新産業というところでの競争が始まっているというふうに思います。
プラザ合意以後の
日本は円高不況に陥りました。しかし、安い労働力を求めまして近隣の
アジア諸国に資本を投下し、技術を移転し、また人材を
派遣いたしまして、東
アジア地域の
経済の高度化を図りました。これは、東
アジア地域の
日本化、ジャパナイゼーションであるというふうに言うことができると思います。
日本は、京都に
中国を
中心にした東洋の文明の成果を入れ込みました。そして、場所を変えまして東京に西洋の文明の成果を入れ込んだわけであります。
日本人が西洋の文物において欲しいと思ったもの、必要としたものにおいて、
日本、特に東京にないものはございません。いよいよ
世界に発信するという
日本史上未曾有の好機が到来していると。
アジアの目、
世界の目が
日本に注いでおり、モデルとしての自覚が必要であります。私が属しております
国際日本文化研究センターも、
日本の文化を総合的、国際的また学際的に研究することによって
世界に発信するための国立の研究
機関として、今から二十年前に設立されたものであります。
さて、
世界は多様な文化から成りますけれども、魅力ある文化というのはそれ自体が
人々によって取り込まれて
世界に広まってまいります。
世界に広まる文化、すなわちそれなりの普遍性を持つ文化というのは文明というふうに言うことができるかと存じます。文明をキーワードとして国際政治を考える火付け役になったのは、ハンチントンの文明の衝突論でした。ハンチントンは、現代の
世界には七つないし八つの文明があると論じておりますが、七つのうち、
アジアには中華文明、ヒンドゥー文明、イスラム文明、そして
日本文明のこの四つを挙げているわけであります。見失われがちなのは、ほかならぬ文明としての
日本の存在であります。ハンチントンは
日本を文明の
一つに挙げておりますが、これはハンチントンに限ったことではありません。
世界の知識人の常識であり、ハンチントンはその常識に倣ったにすぎません。
日本の
世界に占めるプレゼンスは、我々が考えている以上に大きいように思います。ちなみに、ハンチントン自身は「文明の衝突」の
日本語版への序文で、
日本文明は基本的に
中国文明と異なる、
日本文明は西洋文明と異なったままである、
日本は近代化したが、西欧にはならなかったというふうに記しています。
一衣帯水、同種同文などの表現で
日本と
中国あるいは
韓国が安易に一体化できると思うのは幻想であると存じます。
日本は
中国文明とは構造が異なりますから、日中友好は同質性を強調することによってよりも異質性を踏まえて進める方が建設的だと存じます。
日本は、基本的に
中国文明はもとより、他の諸文明とも異なる独自の文明であるということであります。
しからば、いかなる国の形、
日本文明を発信していくかということであります。
今日、安倍内閣は美しい国づくりを標榜されております。国というのは、高坂正尭さんの若き
時代の名著である「国際政治」をひもときますれば、力の体系、利益の体系、価値の体系、この
三つの体系から成ると、この
三つの体系、いずれもゆるがせにはできないというふうに論じられております。力の体系というのはこれは
軍事力、利益の体系というのは
経済力、価値の体系というのは文化力というふうに言い換えることができましょう。防衛をする力がなければ国として成り立ちません。
貧困が横溢するようであれば国としての体裁はあり得ません。また、国の価値が分裂して内部抗争が多いようでは国としての体裁も成り立ちません。
その意味におきまして、
軍事力、
経済力、文化力というのはいずれも重要でありますけれども、しかし
日本の国の形を明治維新以降大きく分けて見ますれば、その
三つの価値のうち力点が移ってきたというふうに言うことができます。
戦前期は富国強兵のうち強兵に力点があり、すなわち
軍事力に力点があり、戦後は
経済力に、利益の体系に力点が置かれたと思います。それなりの力のある
経済力、また防衛力を持つ国になりまして、我々に今必要とされているのはもう
一つの体系である価値の体系、言い換えれば文化力ではないかというふうに思います。
それは、形容詞で言うならば強い国づくりというところから美しい国づくりへという、一歩前進であるというふうに言えるのではないかと思います。なぜ美しいというような形容詞が文化力に対応しているかと言いますれば、
軍事力というのも
経済力というのも、これは外に向かう力であります。破壊する力あるいは安くて品質のいいもので外の
市場に進出していく力と、これは外に向かう力であります。しかし、美しいというのは、これは言わば感動する力であります。感動するものであります。言わば引き付ける力ということで、典型的なのは芸術であり、あるいは学問であり、広く文化というふうに言うことができましょう。その意味におきまして、強い国から美しい国へというのは、力の文明から美の文明への転換というふうに言うことができるかと存じます。
我が国がそれなりの達成をしました後、バブルになりまして、清貧論というのがはやりました。しかし、清貧論というのをこれを英語に訳すれば、ピュアでプアだということでございますが、こうしたピュアでプアで生きていくというようなことをバングラデシュとかフィリピンのごみの山のところで言えば、これは、余りにも
日本のその身ぎれいさあるいは清潔さ、すなわち富というものと、言っていることとが違います。私は、富国であることは恥じるべきものではない、その富をどう使うかという、そこが問われていると。したがって、その使い方、すなわちそこに品格といいますか、が問われる、言い換えますと、富国有徳というのがこれからの国の形のあるべき標語ではないかと。徳は孤、すなわち孤立してはいない、徳は孤ならずと言います。引き付ける力を持つのが徳であります。富国強兵から富国有徳へという、そういう今我々は転換期にいるのではないかと思うのであります。
ところで、
日本は今、東
アジア地域におけるリーダー格の立場におるわけでありますが、そこにおける
日本の地政学的な姿というものをもう一度見ますれば、東
アジア地域はEUあるいは北米と比べますと、EUが、先ほど
北沢参考人の話にありましたように、ドイツとフランスの石炭、鉄、
戦争の材料となるそういう素材を共同して管理するというところからEC、EUに発展していったわけでありますが、正にヨーロッパ大陸内における関係、これが軸になっております。北米は言うまでもなく大陸の関係であります。しかしながら、
日本というのは言うまでもなくこれは島国であります。
そうした観点からお隣の
韓国を見れば、三十八度線で人工的に大陸と遮断されているという意味におきましては、これも半分島、あるいは島と言っていいでしょう。香港あるいは台湾、フィリピン、インドネシア、広く東南
アジア諸地域というのは海に面している地域が発展しております。
中国においても同じであります。そのような意味におきまして、東
アジアというのは、これは海洋東
アジアであると。
日本は
アジアの国ではありますが、仮に
アジアを大陸
アジアと海洋
アジアというふうに分けますれば、
日本は海洋
アジアに属しているというふうに言うことができます。そして、海洋東
アジア共同体というものがあるとすれば、これは海の共同体というふうに言うことができると存じます。
ちなみに、その海洋
アジアというのは、これは今日不安定の弧と言われているものに相応するものであります。インド洋、東南
アジア、そして東
アジアの幾つかの海というところ、これは不安定の海というふうに言われておりますけれども、これを海洋
アジアという観点で大きく分けますれば、海洋南
アジア、すなわちインド洋、それから海洋東
アジア、これは、北は
日本海、東シナ海、南シナ海、これが海洋東
アジアであります。そして、その中間に位置する東南
アジア、多島海
世界と、この
三つに分けられるわけでありますが、我々はどちらかというと大国の
中国やインドに引き付けられて東南
アジアの歴史的な役割を見落としがちでありますけれども、歴史的に見ますれば、この東南
アジアの多島海
世界、これはある意味で近代文明の母体であったとさえ言うことができます。そこにイスラム教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒、道教や儒学を奉ずる
人々、様々な宗教の
人たちがいるのは、そこに
人々が来たからでありまして、正に文明のるつぼと化す
時代が十六世紀、十七世紀にございました。
そうしたところにヨーロッパや
日本が後からやってまいりまして、そこから物産を買うという流れの中から、やがて二世紀後に近代文明がユーラシア大陸の両端に出てきますけれども、それは物を買う、そういう
貿易の赤字からいかに自立するかという、それをイギリスの場合には、産業革命を通して大西洋
経済圏というところで海洋東
アジア、海洋南
アジア地域から自立をすると。
日本の場合には、鎖国という、そういうシステムを取ることによって海洋
アジアから自立するという、そのような経緯を見て取ることができるわけでありまして、それぞれ近代文明をつくり上げた西ヨーロッパと
日本というのは、かつてこの東南
アジア海洋地域に深くコミットし、そこから自立をしてその近代文明の母体を築いたという、そういうことがございまして、我々は東南
アジア諸地域、今日ASEAN十か国を形成しておりますけれども、そこに
日本が援助するというよりも、むしろそこから謙虚に学ぶという、そういう姿勢があってもいいかと存じます。
さて、これから
日本がどのような文明をつくり上げていくかということでございますけれども、私は、先ほどの
北沢報告にもございましたけれども、一九九二年の
地球サミットというのは、これは人類史上最大の国際
会議であり、そして、それまでのイデオロギー的な対立を超えて、お互いにしていたことは共通していたと。すなわち大量生産、大量消費、大量廃棄であったということから、
環境問題の発見あるいは地球の発見と言っていいものであったと存じます。
すなわち、近代文明というのは自然をコントロールする科学技術を持ちましたが、これはまた、これを通して自然を復元をする技術にもなり得るものであります。そうしたところから、私は、
日本が対外的に展示する国の形を変えながら対外的な新しい展開をしていくべきだというふうに思うわけであります。したがって、
外交と内政というものは平仄を合わせているものでなければならないというふうに思うわけであります。そうした中で、私は、
日本の国の形もおのずと変わるべき、そういう今段階に来ていると。
ちょうど一九八九年、昭和天皇がおかくれになりました後、喪が明けました九〇年に、先生方、衆議院、参議院、両院の先生方が全会一致で首都機能の移転をお決めになりました。そして、翌年、議員立法で国会等移転審議会、これを設ける法律が定められまして、九九年十二月に那須野ケ原を筆頭候補にした
報告書がまとめられております。
日本の国というのは、国の形を変えるときに権力の所在地を変えてきております。奈良、平安、鎌倉、室町、江戸というふうに場所で
時代を区分する国は
日本をおいてほかにどこにもありません。そういうお国柄を見ますと、明治、大正、昭和、平成と、平成に入ったその直後に場所を移そうという、そういう決議をなさったのは、あたかも
日本の地霊が国の代表の方々をして語らしめた、東京の
時代が終わったと、欧米の文物を受容する
時代が終わったということをそれは言わしめたとさえ思うほどでございます。
ちなみに、その那須野ケ原というところは、ちょうど関東平野の野が尽きて北海道、東北という森の
世界に入るところであります。そういう意味でいえば平野と森との間にあるところ、そういうところについての
日本の伝統的なイメージというのは、
日本は元々平野が多くの地域は狭くございますので、その狭い平野に命の水と田畑の水を使わねばならないということで、その水を供給する山に対してそれを大事にするということから、そこに鳥居を建て、社を建てて鎮守の森としてそれを大事にしてきたという、そういう歴史、伝統にかんがみますれば、那須野ケ原の位置というのは野から森に入るところ、森から野に出るところでありまして、正に鎮守の森の都と言うにふさわしいところでありましょう。
京都というのが
中国の形を写したものであり、東京というのが西洋の形を写したものであるとすれば、鎮守の森の都というのはこれは正に
日本のものであり、そして地球
環境問題が国際的な共通
認識になっている流れの中にいたしますれば、森の都というのは地球社会のモデルになる都という、そういう意味合いを持つかと存じます。
ちなみに、これは対外的なところを論ずるのに国内的なことを論ずるのはおかしなことと思われるかも存じませんけれども、今の話をちょっと続けさせていただきますと、北海道、東北を仮に森ととらえれば関東は野と取られます。そして、その野の州から西に行けば箱根、富士山、南アルプス、中央アルプス、北アルプスとありまして正に山の州に入ります。そして、それが滋賀県に入りますと、琵琶湖は京都の町を洗い淀川を経て瀬戸内海に注ぐ、正に瀬戸内海を取り囲む津々浦々の海の州に出るわけであります。
海の州、山の州、野の州、森の州というような、そのような地域をそれぞれ
経済的に見ますれば、森の州だけでカナダに匹敵し、野の州はフランスに匹敵する。山の州はカナダを凌駕するGDPを持ち、海の州はイギリスを凌駕するGDPを持ちます。したがって、そういうところに中央の権限、財源そして人材を三位一体として移転することができる、それぐらいの地域力を持っているわけであります。そうしたときに、その中央
政府、これは鎮守の森の都に
外交、防衛、安全保障、
通貨そして国全体の調整というものだけを残し、他の権限、財源、人材というのはそういう
先進国に匹敵するような地域に移譲することができるでありましょう。
そうしたときに、州都をどこにするかというときに、森の州の州都は仮に北海道、野の州の州都は大宮なり東京なり、山の州の州都は第二候補地になりました東美濃と。西の州の州都、海の州の州都をどこにするかということにつきまして、私はこれは長い歴史を持っておりますから大変その決定が難しいというふうに存じますが、これは大阪にしろ神戸にしろ、あるいは岡山にしろ広島にしろ、既にそういう新しい州都争いの萌芽が出てきておりますけれども、これは海に浮かべればよいと、海に浮かべる州都にすればよろしいと。そうすると州都争いができなくて済むであろうと。
そのことは、実はやがて東
アジア共同体が数十年後あるいは一世紀後に本当に構想せられるとき、これは
アジアの海の共同体ということでありますから、その
本部をどこにするかということが必ず出てまいりましょう。北京にするか、東京にするか、シンガポールにするか、あるいはジャカルタにするか、そういう争いが出てくるかと存じますけれども、海の州の州都は海に浮かべるという、そういう前例を
日本が示すことができますならば、
本部を海に浮かべるということは、海が平和でかつ共有されていなければできることではありません。しかし、そうしたことが可能であるという、そういう先例を示すことはできるでありましょう。
ちなみに、これは一見荒唐無稽のようでありますけれども、ヨーロッパの
人たちにとっては比較的分かりやすいことかもしれません。ヨーロッパの起源にはアテネ、ギリシャの文明がございますが、これがペルシャ
戦争から自立する、ペルシャ
戦争で勝つときに、あのアクロポリスがペルシャ軍によってじゅうりんせられて、アテネの
人たちは船に逃げるわけですね。数百そうの船に浮かぶわけでありますが、最後の海戦を前にしてアテネの海軍大将テミストクレスが作戦を述べようとしたときに、君のポリスはもうつぶれているので
発言の資格がないと言われたときに、いや、アテネはこの海に浮かんでいる限りにアテネであるという名演説をぶちまして、あのサラミスの海戦でペルシャの大軍を破りまして、そして後のアテネの繁栄を築いたという、そういう故事もございます。そうしたことで、本当の地中海に例えられる東
アジア地中海というもののその首都がそういうふうに海に浮かべられるという日を構想するのは無駄じゃないというふうに存ずる次第でございます。
それから、本気で
日本が東
アジアに共同体の海というものを構想しようといたしますれば、当然、海の名称それ自体についても必ず問題になってくるでしょう。既に問題になっておりますのが
日本海であります。
日本海を
韓国が東海、東の海と言うと。しかし、
日本から見るとそれは西ですから、これは非常におかしいと。しからば、青い海、青海と言えるか。海は皆青いわけであります。黄海と比べて青いから、青海と言われているわけですが、これも必ずしも適切な
言葉ではありません。
先ほど申しましたごとく、海洋
アジアというのは東
アジア、東南
アジア、そして南
アジアのこの
三つに分けられるわけですが、この東
アジアの海というそういう観点から見ますれば、
日本海は北に位置しておりまして、これは
ノース・イーストエーシャン・シーというふうに言うことができるでしょう。東シナ海というのはちょうど真ん中にございます。したがって、これはミドル・イーストエーシャン・シーと言うことができるでしょう。そして、南シナ海というのはもう東南
アジアにまで掛かっております。したがって、これはサウス・イーストエーシャン・シーというふうに言うことができるでありましょう。そういうふうに言いますれば、これはその国名というものを克服して、しかも
日本が東
アジア地域というものを大事にするということが見えてくるのではないかというふうに存ずる次第であります。
さて、その中で恐らく一番重要な場所は、北の東
アジア海、中の東
アジア海、南の東
アジア海の、その中の東
アジア海のど真ん中にあるのが沖縄であります。沖縄は今軍事基地でありますけれども、やがて将来それが平和の拠点になるというような、そういう位置関係もありますので、海に浮かべる前に、場合によってはその沖縄が海の共同体、東
アジア海の共同体の平和の拠点に華麗に転身するということも夢ではないかもしれません。
ちなみに、我々は、海洋東
アジアとかあるいは海洋
アジアということで、
アジアと言うことによって我々の海の仲間たちを見失う、そういう危険性があります。それはどこかといいますと、
日本の真南、
日本の標準時は百三十五度、明石でありますが、その真南にパラオというのがあります。これはかつてドイツの植民地だったわけですが、それを国際連盟から委任統治されて、
日本が南洋庁を置いたところであります。そのすぐ東にはミクロネシア連邦共和国があります。さらにその東にはマーシャル諸島共和国があります。そうしたところ、これは皆実はすぐ近くございまして、しかも
日本との関係というのは戦前来非常に深いところがございます。沖縄の
人たちがたくさんそこに移民をいたしまして、あるいは技術、農業、サトウキビを作る技術とか漁業の技術を教え、また
日本がそこで教育をしましたので、親日的な、今独立しておりますが、独立国が多いわけであります。パラオ共和国なぞはナカムラさんという大統領まで戦後になって生んでおります。
ちなみに、そういうことを入れますと、今度は東南
アジアを見れば、パプアニューギニアからインドネシアのすぐ南にはオセアニアがあります。その東側にはメラネシアとかポリネシアとかいう地域が広がっておりまして、これは地図をごらんになりますれば、西太平洋の島々の全部一帯を構成しているということでございます。
日本は、かつて小渕内閣のときに、南太平洋フォーラムという十六の国と地域から成るそのフォーラムに対して、太平洋・島
サミットというふうに名前を変えてほしいというふうに申し出られて、それが受け入れられて、今日それは太平洋・島
サミットというふうに言われておりますけれども、これは、南太平洋フォーラムというのは、例えばパラオにしてもミクロネシア連邦共和国にしても、あるいはマーシャル諸島共和国にしても、これは赤道より北にありますから、確かに南太平洋と言うのにはちょっと無理があると。これは恐らく太平洋・島
サミットに
日本もその仲間に入るという、そういう意味合いがあったからこそ、戦後三十年以上続いていたこの南太平洋フォーラムというそのメンバーの諸国が太平洋・島
サミットという名前に変えた理由であろうと存じます。
したがって、私はこうした地域に
日本がコミットをいたしますれば、これは文字どおり西太平洋の津々浦々連合というような、そういう意味合いが出てくるのではないかというふうに思うわけであります。そこはたくさんの小さな諸国があります。中小国がアリのようにこう蟻集しているわけですね。こういう地域は親日的であります。オーストラリアも
日本が最大の輸出先であり、輸入元としては
アメリカに次いで二位でありまして、非常に親日的であると。こういう友好国を我々は大事にするべきであろうと。すなわち、少数の大国との関係、
アメリカとか
中国とか
ロシアあるいはヨーロッパ地域というものだけでなくて、多数の中小国というものに我々は目を向ける必要があるのではないかと存じます。その場合に、西太平洋の津々浦々連合というのは南北の合従という、そういう発想の中でここに
日本との友好関係を築いていくと。
それからもう
一つ、南北の合従といえば東西の連衡というのが対になった
言葉でありますが、東西の連衡を言う場合に、
ロシアにとってチェチェンが煙たい存在、あるいは
中国にとってモンゴルが煙たい存在でありますが、しかしながら、モンゴルからずっとウズベキスタン、キルギスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、そしてトルコに至るまで、すべてこの地域は親日的であります。いわゆるシルクロードの地域でありまして、シルクロードというのは、これは文明の
交流の道であります。こういう地域はトルコを通してNATO、すなわちヨーロッパとつながっております、実際上。小
アジアとヨーロッパとを結んでいるボスポラス海峡に架かっている橋の
一つは
日本製であります。
そのような意味におきまして、東西の連衡においてはシルクロード
外交を、そして南北の合従においては西太平洋津々浦々連合をというような、そういう構想をしてもどうかと。これは案外目に入らないのはなぜかというと、そういうところには大使館がなし、あるいは領事館もないわけであります。大体、臨
時代理大使とかいった程度のものが置かれているか、あるいはもうJICAの事務が統括しているところであります。
しかしながら、そこには、
北沢報告にもありましたけれども、多数のNGOの
人たちが活躍しておりまして、友好関係を結んでおります。こういう地域との関係を重視していくということは、シルクロード
外交においては
ロシアあるいは
中国に対する牽制にもなりましょう。西太平洋津々浦々連合におきましては、これは
アメリカへの若干の牽制という、牽制力というものを持ちます。
そしてまた、
日本がその
国際社会の中で生きていくために日米同盟に合わせて
国連外交というものを軸にする場合、
国連というのは多数決主義でありますから、多くの友邦を持つという、そういうメリットもあると存じます。こういう地域には青年海外
協力隊あるいはシニアボランティアなどが行っておりまして、これは外務省の管轄ではありますけれども、そこで
日本とそういう地域との関係が非常に深うございますので、私は例えばそのJICA、グローバルユニバーシティーというようなものを
日本につくりまして、そこでMBAならぬMEA、MBAというのは
アメリカがお金もうけをするためにつくり上げた学位ではありますけれども、マスター・オブ・ビジネス・アドミニストレーションと、いかにも
アメリカらしい学位ですけれども、そうではなくて、マスター・オブ・エンバイロンメンタル・アドミニストレーションと、すなわち
環境経営学修士というような、そうした学位を
日本がつくって外務省と文科省が一体になって、これまで
日本が近代国家としての体を成すために
日本人が
日本語によって
日本の青年に教育するというところから、
日本人が内外の青年のために教育する、国際的なそういう知的な場になるような、そういう
人たちがそこにたくさん潜在力としているわけであります。
そうしたところから、
日本は、美しい地球、水の惑星に対して海に浮かぶ島国として、ガーデンアイランズ、その魅力をこれから発揮するべき、そういう好機にあるというふうにも、この厳しい
環境の中でありますけれども、そこに一縷の希望のようなものを託せるように存ずる次第であります。
ありがとうございました。