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篠原分科員 民主党の
篠原孝でございます。
きょうは、地元の千曲川の水害問題について
質問させていただきたいと思います。
皆様方のお
手元に資料をお配りしてあります。七つほどつくってありまして、資料5までは水害
関係でございまして、6、7はちょっと軽い
質問というか、提案型の
質問に使わせていただくものでございます。
具体的な
質問に入る前に、資料の1の飯山盆地、これは長野の一番北の端にあります。千曲川、信濃川に続きまして日本で一番長い川、水害の歴史も相当古いわけでございます。ですから、それとの葛藤の歴史があるわけでございます。
いろいろな書物を読みあさりまして、いろいろ町の研究者もおりまして、これは今私が持ってきているんですけれども、市川久芳さんという一人の土木技術者が水害の問題に突き
当たりまして、本人の家が流されそうになったりしているんですね。二度、三度水害が起きておりまして、これを何とかしなくちゃいけないというので、こんな立派な「闘災の序曲」という、これは前編ですけれども、後編もまだあるんですけれども、災害と闘うという、いろいろな資料を集めまして、こういう冊子をつくって、写真、文章をつくっているわけです。これを何とかしてほしいということを私常々いろいろなところで言われておりまして、ですから、そのことを踏まえまして
質問させていただきたいと思います。
「飯山盆地の千曲川の
工事と水害の歴史」、これをちょっと見ていただきたいんです。ちょっと読みにくいかと思いまして、左側が
工事、いっぱい水害と闘ってきているんです。右側が水害です。
見ていただきたいことは、新田開発をしたりするから水害が起きるわけです。もともと人間はそんな水害が起こるところに住んでいなかったわけですけれども、江戸時代、土木
工事もできるようになって、新田開発が行われて、百二十五万ヘクタールぐらいだったのが、江戸時代中期には倍の二百五十万ヘクタールになるわけです。そうすると、どうなったかというと、水害に遭いやすくなる。それと闘い始めたのが一六〇〇年代、一七〇〇年代です。
上の方の
工事のところを見ていただきたいんですが、非常に基本的なことをしているんです。一六一五年とか一六三九年のところを見ていただきたいんですが、下流のしゅんせつ、川よけ普請、川普請で二、三万人の人足を使って、湯滝というのは飯山のちょっと南の方なんです、飯山というのは長野県の一番北の端です。それで、しゅんせつが途中で行われなくなった、財政事情が悪化した。今と同じような
状況なんですが、一七〇七年を見ていただきたいんです。そうすると、田畑にすぐ冠水し始める。余りひどいので、右側の水害のところを見ていただきたいんですが、これはだらしのない藩主でございますけれども、もうこんなところはやっていられぬと
土地を幕府に返上する。違う
土地をくれと言って、これは実っています。
それから左側、その下の一七二〇年ですが、おもしろいんですけれども、あちこちに大名がいる、その大名たちにお金を出させているわけですね、還元するからというので。それで普請をさせているということです。一七〇〇年代が非常に水害が多発しております。しゅんせつをやめたからです。
明治時代になりました。飯山市の南側に中野市というところがあります。南の方に須坂、長野と続いていくわけですけれども、農民たちは、この水害をなくすにはしゅんせつ以外にないんだと、泥がたまっているということ。
これは、長野、飯山の地理に詳しくない方でもすぐおわかりいただけると思います。善光寺平があるわけですね。群馬県の方に降った雨、松本の近くに降った雨もみんな千曲川に来るわけです。そして、長野・新潟県境地方、ここが問題なんですね。狭くなってくるんです。そして新潟へ出て広くなっていく、そういう特殊な川なんです。
構造的に長野から新潟へ行くときに水がとまっちゃうんです。これは問題ですから、だれが
考えたって、学者が
考えなくたってわかることなんです。それがわかっていたんです。
それで、一九一〇年のところを見ていただきたいんですが、大洪水が起きたりしたので、湯滝という、これは見ていただくとおりお湯がちょっと出ていたんです、滝のように千曲川が流れているというので、そこから地名があるわけですけれども、そこのところをしゅんせつしたりすると速く流れるというので、こういうことをやったんです。そうしたら、水がちゃんと流れるので洪水が起きませんでした。それで堤防
工事が始まりました。内務省の大堤防というのができました。
ところが、一九二〇年代になると、水害の問題からしますと、ちょっといかがわしい動きが出てくるわけですね。せっかくしゅんせつしてきたのに、逆の方向です。ダムを建設しよう、水力発電ですね。当然住民は反対します。
済みません。これは「県知事が許可」と書いてありますけれども、違います。不許可です、許可せずです。一九二五年にも許可はしない。
ところが、二度、三度あったんです。許可しなかったのに、一九三九年、西大滝ダムというのが完成するんです。一番狭くなったところにダムをつくるわけです。これは昭和三十年ごろまで日本最大の出力を誇る水力発電所でした。そして現在まで続いていて、どういう水害が起きているかというと、水害の方ばかり、
工事の方が少なくなるわけですけれども、皆さんも覚えておられると思います、伊勢湾台風の年なんかがそうなんですけれども、昭和というふうに書いてありませんけれども、水害がぼこぼこ起こるわけです。ダムができて、水が流れなくなったんです。これは詳しく
説明するのはやめますけれども。
今度、一九八七年のところをちょっと見てください。右側ですけれども、中野の大俣地区で堤防完成と
一つだけ書いてあるんですが、ここのところも狭くなっている
部分。上の方で堤防をつくってはという、イタチごっこなんです。ところが、下流になってくると、長野・新潟県境地方では必ず詰まってしまうというのがあるんですね。
これは大問題でして、皆さん、
全国的には基本高水といったって何のことかわからないんですけれども、長野県民、長野
市民というか、長野の北の方の人たちは日常会話で出てくるんです。あの田中知事の大問題、浅川問題というのがありまして、基本高水が何トンだ、毎秒どのぐらい、計画高水流量というのがあるんですね、そういったことが日常会話に出てくるわけです。それだけ水害問題というのは大問題になっているわけです。
これを見ていきますと、最近違った傾向、私がつくった年表ですけれども、見ていただくとわかるんですが、途中から、下手に土木技術が発達したので、堤防ばかりに頼って、堤防さえつくればいいと。膨大な土砂を持ってきて、そしてその集落、ちょっとずつ救われていくわけです。しかし、水の流れは同じです。流れていかないんですからだめなので、私は、こんなやり方、イタチごっこをしていちゃだめなので、そもそも堤防は要らないというわけじゃないんですけれども、流れていくようにする。
田中康夫知事を巻き込んで大問題になって、そして不信任案が出たりした浅川治水問題というのがあるんです。それは、ダムを上の方につくって水害を防ごうとしたのに対して、エコロジストなのかどうか知りませんけれども、田中知事はダムは要らないといって反対したわけです。住民は怒って、水害を起こされたらたまらぬと言ったんですけれども、それは千曲川に入る浅川という支流の問題なんです。
しかし、根本問題は、千曲川がだんだんだんだん土砂がたまって、河床が上になって、そして長野から新潟へ流れていくときに詰まって、そして徐々に徐々に水害が起こりやすくなっているということなんです。これは住民ならだれでも知っていることですし、江戸時代の人も明治の初期の人たちもわかってそういうことをしていたんですが、戦後、しゅんせつに頼らず堤防ばかりになっちゃっているのは問題だと私は思うんですが、河川
局長、その点いかがでしょうか。