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藤田参考人 おはようございます。
藤田です。どうぞよろしくお願いいたします。
本日は、
意見陳述の
機会を与えられましたこと、非常に光栄に思います。ありがとうございます。
時間が限られておりますが、お手元にかなり詳細なレジュメをつくらせていただきましたので、
基本的にはこれに即して
意見を申し上げたいと思いますが、適宜飛ばしていきたいと思います。
学校教育法等の一部を
改正する
法律案の
提案理由と主な変更点でありますけれ
ども、これにつきましては、既に
委員の皆様には周知のところでありますので、省略させていただきます。
二、
法律案の問題点と危険性といたしまして、私は主に三点指摘したいと思います。
私自身、
教育基本法改正の際にも
意見陳述の
機会を与えていただきましたが、一貫して、
教育基本法の拙速な
審議と、その現行法の現在のような
法律への改定には批判的で、反対しておりました。したがいまして、当然、今回のものにつきましても、この
学校教育法等についても批判的にならざるを得ないわけであります。
まず最初に、主な、実質的な、具体的な問題点に入る前に、
法律に何をどこまでどのように書くべきかということを立法府はきちっと考える必要があると思います。今回の
学校教育法がその点で十分なものであるかどうかについては、よく御
審議、御検討いただきたいと思います。
同時にまた、
学校教育法に限らずそうですけれ
ども、
法律は合理的で整合的でなければいけません。その点でも、今回の
学校教育法がどのような特徴を持っているかを御検討いただければと思います。
そこで、次に具体的な問題点に入りたいと思いますが、まず第一に、
教育目標の拡張と文部科学大臣の
教育統制権の拡大という特徴が今回の改定案では明確になってきております。
教育目標につきましては第二十一条に
規定されているわけですが、これはもちろん、
教育基本法の改定に伴いまして、それに準じて
教育基本法の第二条に盛り込まれた一連の態度徳目
項目を組み込んだというところでありますけれ
ども、そこに列挙しましたように、全項十項にわたりましてさまざまなことが書かれております、省略しますが。
そこで、この
目標拡張の問題点でありますが、
目標のイデオロギー性と教化主義、態度
評価の危険性というものを指摘することができると思います。
例えば第三項ですが、これは
教育基本法の際にも問題になったところですが、「
我が国と郷土の現状と歴史について、正しい
理解に導き、」となっております。ところが、その同じ項で終わりの方に、「進んで外国の
文化の
理解を通じて、」となっております。外国の
文化は「
理解」で、
日本の歴史は「正しい
理解」、この「正しい
理解」は何を
意味するのか。ここにある種のイデオロギー性といいますか、
日本の歴史についてはある特定の見方、
考え方を
学校では教えるべきだというニュアンスを含んでおります。
実際にこれは、裁判所等で、あるいはその他のところでどのように解釈するかということは定かではありませんが、こういう文言の中に立法者の意思というものが、あるいは思念というものがあらわれていると言っていいと思います。そういう点でも問題があると思います。ほかの態度
項目についても種々同様のことを指摘することができます。
二点目の特徴として、道具主義的な
教育観、学習観が目立つということであります。
例えば第一項ですが、
社会的活動の促進により、
規範意識、公共の精神、
社会の発展に寄与する態度を養うとなっております。公共の精神、
規範意識、
社会発展等は、何も
社会的活動だけではなくて、教科の活動や他のさまざまな活動を通じてもはぐくまれるものであります。殊さらに
社会的活動と結びつけるところに道具主義的な特徴があらわれていると言えます。それは
自然体験活動についても同様であります。
それから、例えば五項では、読書というものは国語にしか
意味がないものではなくて、数学やあるいはさまざまな教科、そしてさまざまな知的な活動にとっても読書は意義のあるものでありますから、もちろん読書の重要性を否定するものではありません、非常に重要ですが、これを殊さらに国語に結びつけるという書きぶりに私は疑問を抱かざるを得ないわけであります。
それが道具主義的な
教育観、学習観というところであります。
もう一点、文部科学大臣の
教育課程決定権の拡大と統制権強化の危険性であります。
これにつきましては、法案の第三十三条は、「小
学校の
教育課程に関する事項は、」「文部科学大臣が定める。」とされております。現行法は第二十条で、「小
学校の教科に関する事項は、」「文部科学大臣が、これを定める。」となっております。
学習指導要領につきましては法的根拠があるというのが一応公的な解釈になっておりますけれ
ども、その法的規制力につきましては種々
議論の分かれるところであります。しかし今回は、単に教科だけではなくて、
教育課程全般について、さまざまな道徳活動や、あるいはまた
社会体験活動や、その他のさまざまな活動についても文部科学大臣がこれを
規定する権限を持つという構造になっているということであります。
この点は、非常に重大な変更点として確認しておく必要がありますし、そしてまた、そのことの妥当性、是非につきましてよく御検討いただければと思います。
二ページへ行きまして、
法律は、制定時の
状況や立法
趣旨、あるいはその
関係者の国会答弁、弁明などにかかわりなくひとり歩きしていきます。
例えば愛国心につきましては、既に種々指摘されておりますように、
福岡市を初めといたしまして、小
学校の通信表に
評価欄、評定欄が記載されております。このような態度
評価の活動とあるいは
評価というものが、今後、この
学校教育法が成立するということになれば、ますますもって
学校教育において広まっていくことになりかねません。態度が悪いといって
評価が悪くなる、あるいはまた、
子供が嫌な思いをし、自尊心やあるいは意欲をそがれるということも起こりかねません。
時間が限られておりますので急ぎますが、以上の諸点を勘案するなら、法案は、それ自体としても、また、
教育行政、
教育実践への波及効果という点でも、憲法が保障する思想、良心の自由、表現の自由、
学問の自由、一定範囲での
教育の自由ですが、
教育を受ける権利、
世界人権宣言が
規定している思想、良心の自由、表現の自由、
教育への権利、そして、人権実現の秩序の享受という一連の法令や法規、憲法の条項や国際法規に抵触する事態を招く可能性があると危惧されますので、どうぞよろしく御検討いただきたいと思います。
二点目の大きな特徴といたしまして、教職員の職制、
学校組織の再編とその問題点であります。
副
校長、
主幹教諭、
指導教諭等の中間管理職的な職位を新設したということでありますが、それは、ライン
組織というものを、
学校教育において、特に
運営管理上のライン
組織と
教育指導上のライン
組織を拡充し、そして
明確化するということであります。
具体的な
規定として、例えば、「副
校長は、
校長を助け、命を受けて校務をつかさどる。」
主幹教諭は、同様に「命を受けて」というふうになっています。これは明らかにライン
組織でありますが、もちろん、そういう指示等があってこれは当然ではありますけれ
ども、このように
法律に
規定することで、非常に官僚制的な
制度というものを
学校教育の中に持ち込む危険性があるということであります。
これは法的な根拠でありますから、個々の
校長がどのように
学校を
運営するかということはその
校長の判断によりますけれ
ども、さまざまな形で制約が加わる、あるいはまた、そういう強制やあるいは官僚制的なあり方というものの根拠になりかねないということであります。そういった
意味で問題のあるところであろうと思います。
それから、ライン
組織の拡大によってどのような問題が生じるかということでありますが、
学校は、ライン
組織よりもスタッフ
組織の充実によって歴史的に発展してきましたし、
世界的にも、
基本構造はスタッフ
組織になっていると言っていいと思います。同時に、
学校の成功は、ミッションの共有、教職員の専門性、献身性、協働性が重要だとされてきました。さまざまな理論やあるいは実証
研究がこれを示してきております。また、
日本の
学校の卓越性は、教職員のすぐれた協働性と創意工夫にあるというのも国際的な
評価であります。
こういったことすべてが、このようなライン
組織、しかも、ハイエラーキカルな、官僚制的なライン
組織を
学校教育の中に持ち込むことによって阻害されることがないだろうか、その危険性はないだろうかということであります。もちろん、もう既に東京都におきましては主幹という職位を設けておりますし、そういったことについて
必要性があることは、私もそういうマネジメントの
仕事が必要なことは認めております。
しかし、各
学校において
校長の裁量でどのような形でそれを
運営するかということが自由にできるような、そういうシステムを
制度設計しておくことが私は
法律においては重要なことであろうというふうに考えております。
三点目の問題は、
学校の
評価及び
情報提供の義務化、画一化がはらむ問題であります。
学校評価については、例えば法案第四十二条は、小
学校は文部科学大臣の定めるところにより
評価を行うということになっております。
情報提供につきましては、下の方にゴシックにしてありますが、「
教育活動その他の
学校運営の
状況に関する情報を積極的に提供するものとする。」ということで、義務化されることになっております。
もちろん、現行法では、既に小
学校、中
学校等の設置基準において
学校評価というものは行われることになっておりますし、後にも書いてありますが、全国の公立
学校の九八%で既に
自己評価が行われ、公表率も五八%です。
外部評価も八七%で実施されており、公表率は七〇%に達しております。
したがって、そういった
意味で、
学校評価は
自己評価、
外部評価は広まりつつありますが、今のこの法案四十二条のように、文部科学大臣の定めるところによるということになりますと、これは、全国一斉の例えば
第三者評価機関というものをつくるということが
教育再生
会議で検討されているということでありますが、そのような
第三者評価を全国一律に実施するということを前提にした、視野に入れた法案だというふうにも読むことができるわけであります。
そうなってきますと、もし全国的な
評価の画一化あるいは標準化ということが起こることになりますと、
評価の
意味合い、そしてまたその機能、働きというものが大きく変わってしまうことになります。
下の方に書いておきましたが、これら現在行われている
評価の多くは、その
学校をよくすることに責任を担う当事者による
評価、私はこれを当事者
評価と呼んでおりますが、であるが、
評価枠組みや基準の標準化や全国的な画一化が進むならば、
学校、
地域の特色、自主性や当事者性を軽視、抑圧することになりかねない。また、学力テストの成績を初め、数値化可能な側面の重視、短絡的、表層的な成果の重視、
学校間、
地域間のゆがんだ競い合いや序列化などを招くことになりかねない。
法律がそういう可能性に道を開くような
規定になっているとしたら、私は非常に危険なことだと思います。
それから、上にも書きましたけれ
ども、情報の提供につきましても、現在、いわゆる全国一斉学力テストが四月に実施されたわけでありますが、文部科学省は、この
学校別、
地域別の結果は公表しないとしております。しかし、これは公表を迫られる可能性が極めて強いものでありますし、情報公開法に基づけば、請求が出れば、既に大阪高裁でも判決が出ておりますが、公開せざるを得なくなるような性質のものであります。この
学校教育法の改定案の文言は、こういったものを文部科学省は公開せざるを得なくなるような条文になっていると読むこともできます。
その他、
学校体系上の問題、
理念上の問題でありますとか、あるいはいわゆる
大学教育の問題がありますが、
大学教育については、先ほどの
参考人の方も述べられていましたように、証明書の発行権を与えるということは私は
賛成であります。
最後に、
教育の再生というのが、
教育基本法もそうでありましたが、今回の
学校教育法を改定する
目的、理由として挙げられております。しかし、本当にこのような
改革、
改正で
教育の再生は実現するのでしょうか。
教育は
時代とともに変わっていくものであります。しかし、同時に、持続的な未完のプロジェクトでもあります。絶えずだれかが支え続け、そしてそこに安定性と適切性があってこそ、そこに豊かな
教育の可能性が開けていくものであります。
そして、
時代の
変化に伴う主な改善課題というのは、
教育の
内容と方法面であります。コンピューターがなかった
時代とある
時代とでは、方法面での改善の余地というのは拡大することになります。当然のことであります。しかし、それ以外のところで何を改善する必要があるのかということであります。
二番目に改善の必要がある
部分として、
教育行政、
学校運営のあり方については改善すべき点が多々あったと私も考えております。そして、その点につきましては、この十年ほどの間に、そして現在も、種々
改革、改善の努力が重ねられておりますし、私はそれなりに成果を上げているとは思っておりますが、問題点も多々あります。
いずれにしましても、現在行われている
改革は、一九八〇年代から四半世紀続いてきたものであります。そういう四半世紀も続けてきた
改革の中で、
教育の安定性、
学校の日常性が揺るがされ、教職員の多忙化や
教育のゆがみがそこを促進することになっていないか。これは、政策を担当する方々が十分に考える必要のあるところだと思います。
それから、臨時
教育審議会以降の
教育の新自由主義的、市場原理主義的な
改革、特にこれは
教育の
機会構造の再編であります、それは一部の利益を不当に優先し、
教育の私事化とモラルハザードを促進していないか。これもよく考える必要のあるところであります。
そして、
教育の管理主義的、成果主義的、市場原理主義的な
評価、統制の拡大と強化は、
教育の総合性とバランスをゆがめ、短期的成果を優先し、
教育現場とその日常的実践を息苦しいものにし、ゆとりとおおらかさを奪うことにならないか。
これらの弊害が大きいものになったとき、取り返しのつかないようなものになったとき、一体だれが責任をとるのか。私は為政者がとるべきであると思いますが、そのときには、もしかしたらここにいらっしゃる多くの方は既に
議員でなくなっているかもしれない。しかし、それでも皆さんがとらなければいけないんです。
ですから、本当に、この法案についてもそうでありますが、他の法案についてもそうでありますが、賢明かつ責任ある判断、立法行為、政策決定を
期待したいと思います。よろしくお願いいたします。
どうもありがとうございました。(拍手)