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渡辺秀央君
議長の
お許しをいただき、
同僚議員の
皆様方の御賛同の下に
発言の
機会を賜り、ここに
一言御礼のごあいさつを申し上げたいと思います。
まずもって、ただいまは
院議をもって
在職二十五年の
表彰を賜り、身に余る光栄であり、厚く
御礼を申し上げます。さらに、
参議院議員御
一同を代表されて、ただいまは
青木幹雄先生より御丁重な過分なる御祝辞を賜り、心より深く
感謝申し上げる次第であります。誠にありがとうございました。
私は、
昭和五十一年、すなわち一九七六年十二月の五日、第三十四回
衆議院総
選挙に当時の
新潟県第三区より初出馬、初
当選させていただきました。以来連続六回、さらに、
平成十年、十八回
参議院通常選挙では、当時
自由党全国比例で出馬し
当選させていただき、重ねて、第二十回
通常選挙で厳しい
全国比例に民主党から再度出馬させていただきました。文字どおり難しい挑戦と言われた二つの
全国選挙を
全力で戦い抜いて、党員の
皆様はもちろんのこと、多くの
皆様方の御
協力、御
支援の下に
参議院二回の
当選をさせていただきましたが、この間二十五年、馬齢を重ねておるのみの感であり、誠に恥じ入る限りであります。
本日の
栄誉に比べて、今日まで
政治家として自分が
日本国家と
国民に対し、また、
ふるさと新潟県に対し何がなせたのか、
世界平和と人類の幸福のためにどれだけのお役に立てたのか考えるに、実に反省の限りで、先ほど申し述べましたとおり、恐縮の
一言に尽きるのであります。
されど、今日の
栄誉は、これまで雨の日も風の日も雪の日も
全力でふがいない私を支えてくださり、今もなお支え続けていただいておる私の
後援会秀央会同志の
皆様お一人お一人の熱い、深い御
支援の
おかげと同時に、
全国の多くの親友並びに
母校拓殖大学の
全国学友の方々と、さらには私の家族の理解と
協力のたまものであり、この壇上より筆舌に尽くせぬ
感謝の誠を表したいと存じます。
私が、今日までの
政治活動を続けてくることができました最大の支柱は、
政治の師であり、
政治の父でもある、私が最も尊敬する元
内閣総理大臣中曽根康弘先生の御存在であります。不肖の門弟の典型であります私に、四十年の長きにわたり御
指導と御愛情を賜り、今日の掛け替えのない二十五年の
栄誉にたどり着くことができましたのも、ひとえに
中曽根康弘元
総理の
おかげそのものでありました。私にとっては、
言葉に言い表すことのできない有り難い御因縁をいただくことができた幸せに、これまた、ただただ
感謝申し上げておるところであります。
またさらに、前後いたしましたが、この
機会にどうしても
一言御礼を申し上げなければなりません。どうぞ
お許しをいただきたいのでありますが、それは、一昨年の
ふるさと新潟県を襲った大水害、大地震の災害に対し、
与野党派を超えて温かい御
支援とお見舞いを賜り、
復興に対する御
協力、そのことが、今なお更に続けていただいておりますことに、
新潟県民の一人として心から
感謝の意を表したいと思います。誠にありがとうございます。
さて、今日、二十一
世紀の幕開け間もないこの時局は、憲法、教育、福祉、環境問題等々に早急に解決していかなければならない国内問題が山積しており、
政治家としての
責任から逃れることのできない重大な使命を果たしていかなければならないときと考えます。
また、申すまでもなく、
我が国を取り巻く今日の
国際情勢は、北朝鮮の
核実験により、近年最も厳しい
緊張感の真っただ中にあると言っても過言ではないと感じます。今、私
たち政治家がロマンを求めて、一方では現実的な対応をも確実に実行しなければ、
国民の生命と財産を守ることができないという選択の決断を迫られているときでもあり、正に
歴史的役割を担わされている現実をお互いが自覚し、子供や
孫たちに
責任を果たしていかなければならない大切なときだと確信をいたすのであります。
そして、当然のことながら、
政治家としての私
たちが
日本のあるべき
国家像を明確に示しつつ、
アジア諸国はもちろんのこと、
世界各国の信頼を得て、
世界に輝く平和な文化の薫り高い二十一
世紀の
日本国を堂々と目指して努力していかなければならないときであると思います。私自身、本日の
栄誉を今後のエネルギーとして、ただいちずに、
国家国民のため、更なる
精進努力をし、
愛郷無限を胸に抱いて命ある限り尽くしてまいることをお誓い申し上げる次第であります。
終わりに、党派を超えた多くの先輩、
同僚の
皆様から今日まで賜った御交誼、御
指導に対しまして心より
感謝申し上げますとともに、今後ますますの御友情と御
支援を
お願いを申し上げながら、
感謝の
言葉にさせていただきます。
誠にありがとうございました。(
拍手)
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