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2006-12-01 第165回国会 参議院 教育基本法に関する特別委員会 第7号 公式Web版

  1. 会議録情報

    平成十八年十二月一日(金曜日)    午後一時一分開会     ─────────────    委員異動  十一月三十日     辞任         補欠選任      鰐淵 洋子君     山下 栄一君  十二月一日     辞任         補欠選任      福島みずほ君     渕上 貞雄君     ─────────────   出席者は左のとおり。     委員長         中曽根弘文君     理 事                 岸  信夫君                 北岡 秀二君                 保坂 三蔵君                 佐藤 泰介君                 櫻井  充君                 蓮   舫君                 風間  昶君     委 員                 岩城 光英君                 小野 清子君                 岡田 直樹君                 小泉 昭男君                 小泉 顕雄君                 坂本由紀子君                 中島 啓雄君                 南野知惠子君                 舛添 要一君                 松村 祥史君                 神本美恵子君                 下田 敦子君                 鈴木  寛君                 西岡 武夫君                 林 久美子君                 広中和歌子君                 藤本 祐司君                 水岡 俊一君                 浮島とも子君                 谷合 正明君                 山下 栄一君                 井上 哲士君                 渕上 貞雄君                 亀井 郁夫君    事務局側        常任委員会専門        員        山口 俊史君    参考人        八洲学園大学生        涯学習学部教授        筑波大学名誉教        授        山本 恒夫君        全日本仏教会宗        教教育推進特別        委員会委員長   杉谷 義純君        静岡大学教育学        部教授      馬居 政幸君        新潟大学大学院        実務法学研究科        教授       成嶋  隆君        新潟大学教育人        間科学部助教授        ディフェンス・        フォー・チルド        レン・インター        ナショナル日本        支部事務局長   世取山洋介君        狭山ヶ丘高等学        校校長      小川 義男君     ─────────────   本日の会議に付した案件 ○教育基本法案(第百六十四回国会内閣提出、第  百六十五回国会衆議院送付) ○日本国教育基本法案輿石東君外六名発議) ○地方教育行政の適正な運営確保に関する法律  案(輿石東君外六名発議) ○学校教育環境整備推進による教育振興  に関する法律案輿石東君外六名発議)     ─────────────
  2. 中曽根弘文

    委員長中曽根弘文君) ただいまから教育基本法に関する特別委員会を開会いたします。  委員異動について御報告いたします。  昨十一月三十日、鰐淵洋子君が委員辞任され、その補欠として山下栄一君が選任されました。  また、本日、福島みずほ君が委員辞任され、その補欠として渕上貞雄君が選任されました。     ─────────────
  3. 中曽根弘文

    委員長中曽根弘文君) 教育基本法案日本国教育基本法案地方教育行政の適正な運営確保に関する法律案及び学校教育環境整備推進による教育振興に関する法律案、以上四案を一括して議題といたします。  本日は、八洲学園大学生涯学習学部教授筑波大学名誉教授山本恒夫君、全日本仏教会宗教教育推進特別委員会委員長杉谷義純君、静岡大学教育学部教授馬居政幸君、新潟大学大学院実務法学研究科教授成嶋隆君、新潟大学教育人間科学部助教授・ディフェンス・フォー・チルドレン・インターナショナル日本支部事務局長世取山洋介君及び狭山ヶ丘高等学校校長小川義男君、以上六名の参考人の御出席をいただき、御意見を聴取し、質疑を行います。  この際、参考人皆様に対し、本委員会を代表して一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、御多忙のところ本委員会に御出席をくださいまして、誠にありがとうございます。  皆様から忌憚のない御意見をいただき、今後の審査の参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願いいたします。  それでは、議事の進め方について申し上げます。  まず、山本参考人杉谷参考人馬居参考人成嶋参考人、世取山参考人及び小川参考人の順序でお一人十五分以内で御意見をお述べいただき、その後、各委員質疑にお答えいただきたいと存じます。  なお、御発言は着席のままで結構でございます。  それでは、まず山本参考人からお願いいたします。山本参考人
  4. 山本恒夫

    参考人山本恒夫君) 山本でございます。今日はこういう機会をお与えくださいまして、ありがとうございました。  私は、生涯学習関係研究をしております。今回のこの法案につきましては、教育基本法案につきましてですが、時代の変化の激しい中で大事なことを盛り込んでくださっておりますので、私は賛成でございます。  生涯学習のところを中心お話しさせていただきますが、お手元資料をお届けしてあるかと思います。その一、「生涯学習について」の頭では法案条文を少し引いておりますけれども、「国民一人一人が、」「その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会実現が図られなければならない。」と。これは生涯学習社会のことを言っているわけでございまして、私どもは、やはり教育はこのような生涯学習社会基盤の上に築かれる必要があるというふうに思っております。  この生涯学習社会につきましては、昭和五十六年の中教審答申「生涯教育について」の中で、学歴社会から学習社会へ転換を図るということが言われております。その後、臨教審で生涯学習社会ということが言われまして、以後ずっと生涯学習社会の建設、実現ということが言われているわけですが、国におかれましても、また地方でも、少しずつ進めるという漸進的アプローチでこの生涯学習を支援する仕組みをつくってきていると思います。しかし、これからますます流動化が進みますから、更にこの整備を加速化する必要があるかと思います。この場合に、例えば各地の自治体なんかですと、せっかくそれを進めようとしても教育基本法にないと、そういうところに法的根拠がないと言われることが多いわけでございまして、この際、是非その法的根拠を与えていただきたいというふうに思っているわけでございます。  お手元資料のその下ですが、それではどんな仕組みにしていったらいいのかということになるわけですけれども、三点ほどございます。  一つ、この生涯学習社会実現していくための仕組みとしては、一つ学習機会選択援助仕組みと。学習機会がたくさんございます。ですから、それについての生涯学習支援情報提供する、学習相談を充実させていく。情報提供の方は大分進んできましたけれども、学習相談の方はまだまだ整備が進んでおりません。こういう仕組み整備していく。  二番目が、学習機会等提供仕組みでございます。学校教育社会教育などとしてございますが、それの学習機会学習コンテンツ提供システム整備していく必要がありますが、この中の学習コンテンツはちょっと説明をさせていただきたいと思います。  どういうことかといいますと、例えば放送大学で今衛星系授業をやっていますけれども、それは録画されて取っておきますと後で使えます。そういうものが学習コンテンツですし、来年の四月からインターネットだけでオンディマンド授業を行うという大学が開設されるようでございますが、実は八洲学園大学はそれよりも早く、平成十六年にオンディマンドではなくてライブインターネット授業をする大学として開設しました。ただし、ここはテキスト履修というのがございます。ですから、テキスト履修とそれからライブ配信というのを併用しているわけでございますが、ライブ配信はトラブルが多くて非常に難しいんですけれども、一年半掛けまして大体安定化に成功しました。ですから、これからいろんな大学でやりやすくなっていくかなと思いますが、その中で一日大体三十こまぐらいの授業があります。それを蓄積しているわけです。経営者の方は、これを何十年と蓄積すれば大変な財産になると言っております。そういうものが学習コンテンツの中にはあるということを一言申し上げておきたいと思います。  それから、その次の学習成果の認定、それから認証サービス仕組みですが、これは評価にかかわってきますので希望する場合のみのサービスということになりますが、修了証とか単位とか免状とか資格等の付与でございます。これはその条文にございます学習成果を適切に生かすための資料、何か資料がないと社会では認めてもらえません。一生懸命地域で勉強していても、勉強しましたというだけでは認めてもらえませんので、そういう勉強したことを認証する何かの資料が必要という意味でございます。  これについては、その下にございますけれども、一九九九年のケルン・サミットのケルン憲章とか、その後のG8の教育大臣会議議長サマリーでも、生涯学習教育というのは社会における流動性へのパスポートになると言っているわけでございまして、そういうパスポートにしていくためにもこういう資料が必要と。これは整備が遅れてきましたけれども、今中教審の生涯学習分科会の方でいろいろ検討してくださっております。これらの三つ仕組み整備していく、それを促進する必要があると思います。  そういう点で賛成でございますが、二番目、家庭教育について。新たに入りました条文でございますけれども、家庭教育につきましては二つありまして、時間がありませんので一項目めは省略して、二項目めに「家庭教育自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習機会及び情報提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずる」とございます。この中の情報提供するというところはやはり非常に大事だろうと思います。家庭教育機能が低下している今日では非常に重要だと思いますが、一つの例を挙げたいと思います。  私のところに結婚して二年目ぐらいのある夫婦がやってまいりまして、子供ができたので喜んで来たわけでございます。そして話しているうちに、しばらくしたら赤ちゃんがしゃっくりを始めたわけですね。そうしたら、若いお母さん、もう子供ができて喜んでいるんですけれども、そのお母さんが何を言ったかというと、先生、お水を下さいと言ったんです。ところが、私は共働きで親と一緒に住んでいまして、親からいろんなことを教わりながら子供を育てていますから、ちょっと待ってと、おしめを見てくださいと言ったわけです。もう皆さんお笑いになっていますけれども、若い人は分かりません。開けてみて、ぬれていたんですよ。それを取り替えたらしゃっくりは止まったんです。  これは、今までだったらば次々と世代を伝わっていきますから当たり前の話なんです。それが分からない。ですから、そういうことをもういろいろ情報として伝えていく必要があります。今、地域でもそういうことを盛んにやるようになってきているので、ますますその点を進めていただきたいというようなことがございます。  それから、その次の現行法の「社会教育」、第七条ですが、その中に「家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によつて奨励されなければならない。」とあります。なぜ家庭教育社会教育のここに入っているのかというのは、やはりその時代要請があったわけでございます。  その下にございますが、戦後の日本では六三制の義務教育について保護者理解を得ることが問題であったと。大問題だったようでございます。我々はまだ新制中学の四回生で入ったばっかりですから受ける側としてしか分かりませんけれども、大変な問題でした。で、これをどうするか。結局、PTAにお願いしたりとか、それから社会教育でこの理解保護者の方に図るということをやったわけでございます。そのために、この現行教育基本法では、社会教育の一番大事なところは家庭教育というようなことでここに入っているという話を当時のこういう関係法律を作っていた方々からお聞きしております。  しかし、時代が変わりまして学校をめぐる教育問題というのは変化してまいりまして、もうそれは言わずもがなと思いますが、今や学校家庭地域住民等連携が必要ということで、第十三条にそういう条項を入れていただいておりますけれども、これは非常に大事なことだと思います。  したがって、社会教育から家庭教育を切り離すと同時に、こういうことで連携協力を図るという考えは大変良いと思っておりますので、これについても法的にしっかりした根拠を与えていただきたいというところでございます。  私の方で用意してまいりました第一回目の意見陳述は以上でございます。
  5. 中曽根弘文

    委員長中曽根弘文君) ありがとうございました。  次に、杉谷参考人、お願いいたします。杉谷参考人
  6. 杉谷義純

    参考人杉谷義純君) ただいま御紹介いただきました全日本仏教会杉谷でございます。このような大切な場を与えられましたことを心から感謝を申し上げます。  全日本仏教会といいますと、お聞き及びでない先生方もいらっしゃると思いますが、全国にある五十八教宗派、ほとんどの伝統仏教を網羅した組織でございまして、そこで特に宗教教育についてまとめさせていただいたことを今日はお話をさせていただきます。  実は、中教審中間報告がなされた折に、日本宗教連盟という組織がございまして、そこには全日本仏教会神社本庁教派神道連合会日本キリスト教連合会、新日本宗教団体連合会という日本にあるほとんどの宗教組織関係しているんでございますが、そちらから意見書をまず中教審に出させていただきました。  その背景と申しますのは、もう先生方御高承のとおり、戦後の日本において、科学技術の目覚ましい発展、さらには経済成長、そういうところに主眼が置かれ時代が流れてきたために、精神文化に対する洞察が非常に粗末になってきたといいますか、力点が置かれてこなかった。そういうようなことから、物質中心主義、さらには命の尊厳軽視等々、教育の荒廃、また最近に至るいろいろなゆゆしい状況が起きていると。  一方では、政教分離、信教の自由という輝かしい我が国憲法の原則がございますけれども、それを、その精神を十分理解されずに、非宗教性、無宗教、そういうようなことがむしろ社会が進化した状態ではなかろうかというような考え方が進んでまいりました。教育現場における宗教教育軽視、また教育者宗教に関する無知というような傾向が表れてきたと。  そういうような中において、日本宗教連盟としては、文化としての宗教について生きた学びをする教育が必要ではなかろうかというような意見書提出をさせていただいたわけでございます。  それらを土台にしまして更に深めて、具体的に今日資料先生方にお配りいたしました。全日本仏教会における教育基本法第九条、現行法第九条の改正試案というものを作成して、各方面に御説明、また要請をしてきたわけでございます。  その点について御説明をさせていただきますが、総論的なことは時間もございませんので、今日お渡ししたプリントの最後の方に、総論が「適切なる宗教教育実現のための教育基本法第九条改正に関するお願い」ということに書いてございますので、ひとつ後ほどごらんいただければ大変有り難いと、このように思っております。  そこで、まず具体的に教育基本法九条、これを三つ項目に分けまして、宗教的な伝統文化に関する基本的知識及び意義、これをやはり教育上重視しなければならないだろうと。さらに第二項として、宗教的感性涵養、これが心の問題を扱う上で非常に重要であるというようなこと。それから第三項、この禁止規定が、今まで特定宗教のための宗教教育禁止されている、これを拡大解釈といいますか、印象的に幅広く、宗教教育は全般的に余りしてはならないというようなことがといいますか、そういう意識が広がりまして、公教育の場では宗教教育というのはちょっと何となくはばかれるというような状況で来ました。ですから、この禁止を、物事を禁止をするということを明確に定めておきませんと、いろいろと法律の運用上、また現場での教育活動が阻害されるんじゃないか、このように思うわけでございます。  そこで、その次に、この改正についての解説を書かせていただいておりますが、その要点をお話をさせていただきたいと。  特に、宗教的な伝統文化に関する基本的知識及び意義、これを教育上重視しなければならない。これは、どのような社会にも固有伝統文化があり、教育目的がこの社会を形成するより良き人間育成にあるとするならば、自らが暮らす社会伝統文化に関しての知識を持つことが必要不可欠であるというようなことでございますし、日本文化を学ぶ際に、内外の様々な文化、それらと不可分の関係にある宗教とともに理解することが重要であると。宗教的な伝統文化を学ぶことによって、私たちはそれらの宗教に包含する多様な世界観生命観、あるいは人としてのあるべき姿などを学ぶことができるというような立場から、さらには、科学技術等が幾ら便利になり、社会が豊かになっても、やはり人生に意味を与えてくれるものでも人の生き方を指し示すものでもない。そういう意味で、それらを文化の中で主として担っているのは宗教であり、宗教的な伝統文化を学ぶ意義というもの、これを重視をしなければならないというふうに考えているわけでございます。  さらに第二項としまして、「宗教的感性涵養及び宗教に関する寛容の態度の育成は、これを尊重する。」。宗教人類固有文化であり、有史以前の様々な遺跡にもその痕跡は残されています。自然の驚異に対する畏怖の念や自然の恵みへの感謝の祈り、新たな生命の誕生を目の当たりにしての深い感動や命の尊厳を感ずる心、そして、だれもが避け得ぬ死への恐怖など、こうした人知を超えた力や超越的存在に対する畏敬の念は、人類の発生以来、宗教的感性として私たちの心の根源的な部分を構成しているものです。そして、社会に存在する様々な宗教は、このような宗教的感性の上に、あるものは習俗となり、あるものは高度な教理として体系化され、様々な形態で表れていると言える。  今日、命の尊さや他人の痛みを感ずることのできる豊かな心をはぐくむ教育が求められています。しかし、それが単に社会規範としての道徳を教えるにとどまるものであらば十分な成果は望めないでありましょう。  こうして宗教的感性の素地は人々の心のうちに共通に備わっていると考えられることから、教育の場で個々の宗教的感性に気付かせ、これを育てるに当たっては、特定宗教教義や儀礼の介在は必要ないものと考えます。あくまでも、慈悲や愛や祈りや誓願など、諸宗教に共通する宗教的感性に裏付けられた徳性の涵養が図られるべきである、こう考えるわけでございます。  また、宗教に対する寛容という点においては、多様な考え方のある現代社会においては、異なった考え生き方に関して寛容でなければいけないし、また国際社会を迎え、異文化、異宗教を持った人々と接する機会が多くなった中で、やはりそういう異宗教、異文化に対しての寛容性が求められるのは当然なことでございます。  さらに第三項、国及び地方公共団体が設置する学校は、特定宗教教義に基づく宗教教育、これは禁止すべきでありますけれども、ただこれをあいまいに特定宗教教育といたしますと、釈尊のお話やキリストのお話、そういうことまでもはばかれるようなことになってはいけません。禁止規定というのはあくまでも限定的に行わなければいけないと思います。自己の信念体系として宗教を選び取る、これは全く個人の自由でございますけれども、やはり知識及び意義ということを学ぶ必要があるんではないか。  以上でございますが、一、二問題点を申し上げますと、現在、政府案では、宗教に関する一般教養教育上尊重するとございます。小坂前文科相は、社会科において宗教に関する知識宗教意義について指導が適切に行われるようにすると。これは衆議院委員会で答弁されておりますが、そのようであるならば、なぜ明確に宗教知識意義について教えることを尊重すると条文にお書きいただけないのか。あいまいな形でしますと、一般的な教養、まあ大事だけれども、まあ社会科でもちょっと触れているかというようなことで、現状の打開ができない、今まで以上のいい結果が得られないというようなことは過去のいろいろと経緯が示しているんではないか。  さらに、政府案の第二条に、「教育の目標」の中で豊かな情操と道徳心を養うと。この中に、この豊かな情操の中に宗教情操は入っているのかというような御質問が衆議院委員会であったように聞いておりますが、伊吹文科相は、それは入っていないというような御答弁をされているようでございます。  知識意義だけを教えるのであれば、これは宗教に関する関心や、また逆に批判精神は生まれますけれども、心の教育、命の尊厳さや他者に対する痛み、また自分の至らなさ、宗教的にはさんげとかざんげとか申し上げますけれども、そういうこと、おかげさまでというような謙虚な気持ち、畏敬の念、そういうものはこの感性を育てなければ生まれていかないのではないかというようなことで、この宗教的感性を大変重要に思うわけでございます。  中教審で長らく御検討をいただきまして、答申がされました。その中にも、宗教意義を客観的に学ぶことの重要性宗教教育禁止規定拡大解釈禁止人格形成上の宗教的情操をはぐくむことの重要性、これが述べてあるにもかかわらず、このことが十分法案に盛られていない。そうなると、せっかくこの戦後の大改正、こういう厳しい時代にすばらしい国民を育てていく、そういうような視点の下に改正を行うというようなことが、なかなか本来の目的が結実してないんではないかというように考えるわけでございます。  そして、あわせて、この大事な教育基本法というものが、党派性を超えて、広く国民的な基盤に立った、今までいろいろな議論が積み重ねられた上でのことであろうかと思いますが、更に慎重に、本来どうあるべきことか、もう一度振り返って、でき得るならば何とかより良い宗教教育実現できるように先生方のお力添えを賜れば大変有り難いと、このように存じまして、意見陳述を終わらせていただきます。  ありがとうございました。
  7. 中曽根弘文

    委員長中曽根弘文君) ありがとうございました。  次に、馬居参考人、お願いいたします。馬居参考人
  8. 馬居政幸

    参考人馬居政幸君) 静岡大学馬居政幸と申します。  私は、教育学部社会科になる人たちを育てていますが、社会学社会科教育を担当しております。それから、地域社会における生涯学習、あるいは男女共同参画推進、あるいは子育て支援介護支援等支援活動行政が行うことにお手伝いをさせていただく仕事を幾つかやってまいりました。研究者としては、そういう中から、いわゆる少子化、高齢化、それから人口減少という段階に入った日本社会が、その基盤となる教育システムをどのように変えていかなきゃならないのかということを、自分の現在の一番関心を持つ課題として向かっております。その立場から、今回の基本法の改正について意見を述べさせていただきますけれども。  その前に、まず私の基本的な立場というものを申し上げておきますと、個人的には、現行教育基本法も含めて、国家が国民に対して教育の理念を説くということ自体は余り好きではありません。したがって、現在の教育基本法は、その前の教育勅語と同様に私はない方がいいと思っていますが、しかし、実際にはそういうことを欲している国民があり、あるいはそれがそれなりの機能を持つということを前提としたときに、実証的に社会学の目から見るという意味も含めてですけれども、戦後の日本を平和国家として再建する上で、また現在の自由で豊かな日本社会を構築する上で現行教育基本法が非常に大きな役割を果たしてきたことは評価したいと思います。  そして、この基本法とほぼ同じ時期に私は生まれた団塊の世代の一人として、また基本法に支えられた日本教育の世界を対象とする研究者として、基本法の存在を誇りとも思ってきました。しかし、このことは、それゆえにこそ、制定時より六十年近い時間を経て、団塊の世代と全く異なる条件の下で生まれ育った人たちにとって必要な教育の基本法という面では不適切と言わざるを得ないというのもまた私の立場であります。  そういう意味で、問題は変えるか変えないかではなくて、変える方向であり、その理由であります。で、私なりに変える方向として三点、賛成する立場から述べていきたいと思います。  まずその一点は、急激に進行するグローバル化に対応した国家と国民の位置付けの再定義を、個人の自由意思に基づく選択を基盤とする政治システムとの関係において行う必要性であります。  すなわち、国家と国民関係が変化しているその中において、教育は国家をどのように教えなきゃならないのかということを改めて問い直さなきゃならないと。教えなくていいという時代から教えなきゃならない時代になったときに、何を教えるかという問題になると思います。あるいは、そのときに、どういう論理、システムを前提として考えなきゃならないのかという。  このように考えるようになったのは、私は、九〇年代半ばから韓国で広がる日本の漫画やアニメの子供たちへの影響について調査を続けてまいりました。そのときに、いつも学生を連れていっておりました。そして、向こうの学生と、子供たちと交流をしてきました。  そのときにいつも出てくることは、韓国の子供たちがウリナラという言葉、すなわち我が国ですね、という言葉とともに質問をあるいは詰問を学生たちに浴びせてきます。そのときに、学生たちはみんな戸惑います。その姿からあるいは学生たちの言葉から私が学んだことは、グローバル化という、だれもが日常的に国境を越える状況が進めば進むほど、国の境の自分にとっての意味を語る言葉が必要になるということでした。学生が求めたのは、よく言われる国の近代史を教わっていなかったということではなくて、国家の歴史を何で自分が答えなきゃならないのかという問いでありました。  そういう意味で、今回のいわゆる教育基本法改正に関する論議で最も問題にされる教育の目標を示した第二条の五、「伝統文化を尊重し」というところと言わばかかわることであります。私はこの、多分紆余曲折したんだと思いますけれども、最後に表れてきた文章を読んだときに、本来異なる理念の下にある与党の二つの党が、対立しながらも粘り強く同意点を積み上げてきた努力に敬意を表したいと思います。多分、お互いに不満を持ちながらこういう案を作ったんだと思います。それに対して、言わばある種の神学論争に近い批判あるいは肯定、あるいは日本語として不自然という批判もありますけれども、私はその不自然さほど、本改正の評価すべき点だと考えます。  すなわち、いろいろと悩みながら論議を尽くしたという過程の中で、特にこの教育の目標として示される国という概念に統治機構が含まれないことを明確にし、ナショナリズムではなくてパトリオティズムとしたこと、さらには、「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」という条文で結んでいること、この二重の作業によって、国と郷土を愛する対象と目的に対して、自国中心主義に陥る危険性に歯止めを掛け、他国と世界に開くという方向付けを明確に規定したことを評価したいと思っています。  さらに、この愛する対象の国という概念から統治機構を除いたことによって、これは私自身の考えで、あるいは論議された方がどこまで意図したかは分かりませんけれども、私自身は、このことによってこの基本法が国家と国民関係を再定義する新たな方向を開示することになったと考えます。その理由は、国を愛することを民に強制することではなく、民が愛することができる国土、自然、文化社会にすることへの責任をこの基本法を提示した統治機構が負うことを意味するというふうに私は考えました。  他方、統治機構というのは、実際、具体的には政府と政党です。その担い手は国民の中から試験と選挙で選ばれた人たちであります。このことは、一方で、統治機構を担う人を教え育て、選び送り出す役割を国民が担わなければならないことを意味し、他方で、統治機構、すなわち政府と政党は、国民に対して、統治に従うことだけではなくて、統治に誤りがあれば批判し、その担い手を排除することもいとわない態度を教え育てる義務を負うという循環構造によってのみ実現され得るということを意味していると私は考えました。これが統治機構が外された積極的な意味と。  そういう意味で、誤解を恐れずに言えば、このような国と民と統治機構、すなわち政府と政党の循環構造が組み込まれていることにより、現行教育基本法にも潜在する国家の統治機構を介して特別な知識層が特定の理念の下に国民を教え導くという教育勅語の呪縛からようやく解放されたと思います。言わば、特別な基本法ではなくて、通常の基本法に教育基本法が変化したと。具体的な実定法を規定する政府の理念を提示するという意味での他の基本法と同様の基本法に言わば肩を並べるようになったということであります。  そこで、このような民が愛することができる国づくりのために必要な教育課題という観点から、基本法改正の論議を通じて確認していきたいことを指摘したいと思います。それは、人口減少社会という現実であります。すなわち、人口減少社会に適合した教育システムへのソフトランディング、これが基本法改正を必要と私が考える二つ目の条件であります。  そのために必要な条文として評価するのが、新たに加えられた第二章第五条の二のいわゆる義務教育を規定した部分と、第十条の父母その他の保護者のことを規定した部分であります。この二つは、私は、今後の日本という国と社会を担う人の教育という点で、さきの第二条にも増して重要と考えております。  その理由は、この二つの条文を重ねて読むと、義務教育目的が第五条の二にある国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うということであるならば、第十条の子の教育について第一義的責任を有することが可能な父母その他の保護者となる基本的な資質を養うことが義務教育に課せられることになるからです。  なぜこのような強引とも思える解釈を強調するのか、その理由をお手元に配付していただいた資料により説明します。  人口減少の状況を示した図でありますけれども、図一は、出生数と出生率のグラフに死亡者のグラフが入り、出生数よりも死亡者が多いことを示す図であります。こういう図は今年初めて出ました。自分で厚生労働白書から取ったものなんですが、ちょっとショッキングだったんですけれども、現行教育基本法成立時には多分想像も付かなかった子供の現実を象徴する図と考えられます。  そして、この六十年間の社会子供学校教育の変化を示したのが図二から四です。時間の制約上詳しい説明は省きますけれども、現行教育基本法が誕生した時代教育、すなわち「国破れて山河あり」から出発し、ベビーブーマーの後、少なく産んで良く育てることを求めた時代教育と、国豊かになって子供生まれずという社会に変わり、少しでも子供が増えることを願う時代教育が同じということはないでしょう。  そういう意味で、変えるべき課題は何かということを、私は、ヒントは子供が減る理由から取りたいと思います。  図五から八を見てください。いずれも昨年の国勢調査の集計結果から作成したものなんですけれども、まず図五と六から未婚率が男女ともにバブル景気が始まる一九八〇年代半ばから上昇していることが分かります。最近、未婚率の上昇と社会の格差の拡大を因果関係で結び、出生率低下を格差拡大の証明とみなす論議がありますが、それが一面的な主張であることを示す図であります。  さらに、図七と八は、問題が女性ではなく男性の方にあることを示しています。東京の大田区の場合、三十代後半の男性の三人に一人、四十代前半の四人に一人が独身であります。女性との差が約一〇%あります。  日本は、図二に示すように、現在四十歳代半ばになった一九六〇年を前後して生まれた男女から子供は二人の社会に変わります。この多数派が二人っ子になった男女の高校入学時に進学率は九〇%を超え、大学進学時に専修専門学校制度ができ、合わせれば七割近い男女が高卒後も学校にいる社会になります。その男女が実社会に出た八〇年代の日本経済は、女性の労働力を必要とするポスト工業社会、すなわち情報化の段階に入りました。その八〇年代に女性の大学進学率は男性を超え、短大を含むですけれども、性差ではなく個性と能力によって人を選別配置することが求められる社会に変わりました。  それにもかかわらず、子供を産み育てるのは母親の責任という意識と制度を変えられなかった結果が現在の未婚率の上昇です。ただし、それでも多くの女性は結婚して子供を二人を産み育ててくれています。問題は、仕事を理由に子育てから逃げる男性と、それを強制する働き方であります。  ここまではよく指摘されることですが、より重要なのは、そのような男性像や働き方、より広く人間像や会社、社会像の再生産の役割を学校教育が担ってきたということです。言い換えれば、女性が選ぶ側に、男性が選ばれる側に変わってしまったにもかかわらず、選ばれるために努力する関心、意欲、態度に支えられた知識、技能、表現を男性に教育することを怠った結果が、本当は男女ということになると思いますけれども、男性未婚率上昇の背景にあると考えます。  その結果、子供たちの世界はどうなったか。図九を見てください。団塊の世代は人口千人当たり三十四・三人、団塊ジュニアはその半分の十八・八人、昨年生まれた少子世代はそのまた半分以下の八・五人。さらに、図十を見てください。十八歳以下の子供のいる家庭が、団塊ジュニアの場合、全世帯の半分以上ありましたが、現在は四世帯に一つであります。この二つの変化と合計特殊出生率の変化を重ねたモデル図が図十一で、これは私が作ったものですけれども。どこの家にも四人から五人の子供がいて鍛えられた団塊の世代、同学年の友達だけになった団塊ジュニア、それから、それすらも失った現在の子供たち、その親の孤立した状況理解できると思います。  家庭教育力を問題にする前に、家庭をつくる関心、意欲、態度、知識、技能、表現の方法を教えていくことから始めなければ、正に国栄えて人なしとなることを危惧します。これは現行教育基本法が全く想定していない条件だと思います。  もちろん、このことは女性に子供を産み育てることを勧奨する教育が必要ということではありません。仕事は男女ともにできます。しかし、子供を産むことができるのは女性のみで、それも一定の年齢の範囲です。ならば、せめて育てることの責任は、産むことができない男性と社会仕組みの方で取ること。言い換えれば、子供を産んでくれさえすれば後は社会全体で支えますという制度と意識に急速に転換しない限り、図十二と十三にあるように、現在の六割台にまで再び子供が減少することが推計されています。  これが五条の二の「国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養う」という表現が向かわなければならない現実です。学校教育目的の重みが理解できると思います。そういう意味で、具体的に規定された今回の教育基本法の積極的な意味があると思います。  さらに、それが具体化する意味でもう一つ、時間が来たんで簡単に終わりたいと思いますけれども、この基本法が国民教育に対する基本法である以上、日本政府全体の基準にならなければならないということであります。  この基本法が求める教育の在り方を実現するためには、省庁の壁を越えた取組が要求されます。これもまた、現行基本法が成立したときと異なる条件です。このことを象徴するのが第十一条の「幼児期の教育」です。この十一条の対象が、幼稚園だけではなくて、保育園あるいは認可外の保育施設をも含むものでなければならないと考えます。児童福祉法にある保育に欠けるという保育園と幼稚園を分ける基準は、正に現行基本法が施行された時代の条件でした。その基本法の改正が必要ということは、保育園と幼稚園を区別する法と、その前提にある福祉と教育の施設を評価する基準もまた改正すべきであると思います。  あと、少子化への対応と高齢化の持つ問題等がありますが、これはまた改めて質問がありましたら答えたいと思います。あるいは、今のいじめの問題とのかかわりでのレジュメも入れてあります。必要であればまた後で答えたいと思います。  以上であります。
  9. 中曽根弘文

    委員長中曽根弘文君) ありがとうございました。  次に、成嶋参考人、お願いいたします。成嶋参考人
  10. 成嶋隆

    参考人成嶋隆君) 新潟大学成嶋でございます。  私は、憲法学及び教育法学を専攻する者としまして、これらの学問的な観点から、主として政府提出教育基本法案について所見を述べたいと思います。論点は大きく二つありまして、一つ法律主義の限界という問題、もう一点は法と道徳の関係という、原理原則にかかわる問題であります。  第一の法律主義の限界についてであります。  法律主義といいますのは、戦後日本教育法制の改革の中で確立されました教育法制上の原則の一つであります。これは、戦前日本学校教育が天皇の発する勅令により規律されるという、いわゆる勅令主義を取っていたのを改めまして、教育に関する事項を国会の制定する法律により規定すべきこと、そして教育行政はその法律に基づいて行うべきことを要請する原則であります。この法律主義の原則は、国会が国民代表機関であり、その定める法律が民主的な正当性を担っていると、そういったことの確認に基づいております。したがいまして、それ自体は極めて積極的な意義を持つ民主主義的なルールであります。  しかしながら、この法律につきましては留意すべき点があると思います。それは、この原則の内に、言わば内在的な限界があるということであります。言うまでもなく、法律を含む法という規範は、違反に対して何らかの制裁が加えられる、つまり強制力を伴うという非常に強力な社会規範であります。これに対しまして、教育という営みはすぐれて精神的、文化的な営みでありまして、そこには強い自律性ないし自主性確保されなければなりません。とりわけ、教育の内容や方法など、教育の内的事項と呼ばれる領域につきましては、法による画一的な規制に本来なじまない。基本的には、日々の教育実践を踏まえて、教育界において自主的、自律的な討議、あるいは研究を通じて確定されていく、そういったものであると考えられます。  言い換えますと、法律によって規律することが許されるのは、基本的には教育の外的事項、つまり条件整備の面に限られるということであります。そして、仮に教育の内容に関する立法、つまり教育課程立法が許容される場合でありましても、それは教育課程のごく大綱的な、あるいは大枠的な部分に限定されなければならないということであります。  このように、教育に対する立法の関与にはおのずと限界があると考えられますが、このことを教育という営みの持ちますもう一つの本質に照らして考えてみたいと思います。  教育は、現在の世代を超えて次の時代を担う主体の形成、次の時代の新しい文化を創造する人間の形成を任務としております。このことを、近現代の教育思想界に大きな影響を及ぼしましたフランスの教育思想家であるコンドルセという人物は、次のような言葉で語っております。  教育目的は、既成の意見、既にある意見ですね、既成の意見を神聖化するのではなく、既成の意見を次々の世代の自由な検証にゆだねることにあると、このようにコンドルセは申しております。  つまり、教育が現在の価値を次の世代による自由な検証にゆだねる営みであるということであります。そうであるとしますと、その教育の在り方を現在の世代が法律によって拘束するということは、創造的な、クリエーティブな教育の余地、あるいはそれが将来において開花する可能性の芽を摘み取ってしまう、そういう危険性があります。このことも、教育に対する法による規律が抑制的、謙抑的でなければならないということのもう一つの理由であります。  以上のような原則的な観点から政府の改正案の条項を見てみますと、看過できない問題点が幾つかございます。  まず、教育の目標を定めた法案の第二条であります。既に指摘されておりますように、ここには極めて数多くの道徳規範、つまり徳目が教育の目標として掲げられております。法律の中に道徳を盛り込むということの問題につきましては後ほど申し上げますが、ここでは先ほど申しました教育の在り方についての立法の謙抑性という、これは教育条理上の要請考えられますけれども、そういった条理上の要請に照らして、この法案二条の規定が自主的、自律的に展開されるべき教育実践を法的に拘束することになるということの問題性を指摘しておきたいと思います。  次に政府案で問題になりますのは教育行政に関する法案の十六条、特にその第一項であります。この規定は、現行法教育行政条項であります十条一項の規定のうち、その前段にあります「教育は、不当な支配に服することなく、」、この文言は残しておりますが、一項後段の、教育は「国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。」と、この部分を、教育は「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」という文言に変えております。  政府案において削除されました現行法十条一項後段の部分、私はこれを直接責任の原理と呼んでおりますが、それは、子供教育につき、親からの信託を受けた学校における教師集団が、免許制度によって公証された専門的な職能を発揮することを通して文字通り直接的に教育責任を果たしていく、このような教育の在り方を定めているというふうに解されます。国家は、そのような自主的、自律的な教育の場あるいは教育空間に権力的な干渉を及ぼしてはならないと、それが一項前段の不当な支配の禁止規定の趣旨であると考えられます。  現行法の十条二項は、教育行政につきまして、「教育行政は、この自覚のもとに、」、つまり一項の自覚の下に、「教育目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。」と、このように定めております。現行法十条は、このように、教育教育行政関係につきまして極めて重要な原則を定めております。  ところで、この現行教基法十条に関しまして、従来から政府は、法令に基づく教育行政機関の行為は、たとえそれが教育内容にわたるものであっても不当な支配には当たらないという解釈を取ってまいりました。  一方、国家の教育への関与につきまして指導的な判断を示しました学力テスト事件に関する一九七六年の最高裁判決は、教育行政機関が教育関係法律を運用する場合には、教基法十条一項の不当な支配とならないように配慮しなければならない拘束を受けており、その意味で、教育基本法十条一項は、法令に基づく教育行政機関の行為にも適用があると、このように判示しております。  元々、この現行教基法十条が、戦前における教育行政というものが、法令に基づく場合も含めて教育内容に対する立ち入った干渉をなしていたということに対する反省に基づいているということを踏まえるならば、この最高裁の解釈の方が私は妥当であるというふうに考えております。  条件整備を基本的な任務とする教育行政機関は、教育自主性、自律性を損ねるような介入を行うことは、たとえそれが法律に基づいている場合であっても不当な支配となるということであります。  更に申し上げますと、教育行政機関の依拠する法律自体が教育内容への不合理な、あるいは不当な介入、干渉を可能とするようなものであった場合、これも私は不当な支配に該当することになるというふうに考えます。つまり、法律自体が不当であるならば、その法律による行政も当然不当なものになるということであります。言わば、法律による不当な支配と言うことができると思います。  このような見地から、改正法案を再度見てみますと、先ほど指摘しましたように、法案の十六条一項の後段部分が「この法律及び他の法律の定めるところにより」と、このように規定していることが問題となります。「この法律」というのは、言うまでもなく改正教育基本法のことでありますけれども、この改正教育基本法は、二条におきまして道徳規範を教育の目標として掲げ、それを学校教育のみならず、教育のすべての分野に及ぼすような法律であります。このように、私はその改正教基法自体が不当性を帯びているというふうに考えるわけです。そうしますと、それに基づく行政も当然に不当性を帯びるということになるはずであります。  ところで、この法案の十六条一項の規定ですが、私の見たところ、この規定は大日本帝国憲法の権利規定にありました、いわゆる法律の留保という仕組みをほうふつさせるというふうに見ております。法律の留保と申しますのは、例えば旧憲法の二十九条、これは言論、著作等の自由を保障した規定ですが、その二十九条では、日本臣民は法律の範囲内において言論、著作等の自由を有すと、このように規定されています。ここに見られる法律の範囲内においてという文言の示すのがこの法律の留保であります。  その意味するところは、憲法に規定された権利や自由の具体的な保障内容であるとか、あるいはその保障の範囲、これは憲法ではなく法律で定めるというものであります。つまり、すべてはその法律任せ、法律次第ということになります。旧憲法の下では、この法律の留保の仕組みの下で、多数の言論規制立法などが行われ、憲法の言論の自由の保障が実質的には骨抜きになってしまったと、このような経緯がございます。  改正法案の十六条の規定というのは、この法律の留保が果たしたあしき役割を教育の場面で演じる危険性がある。教育自主性、自律性を保障する現在の教基法を国家による法律を通した、法律の力によるその教育統制立法、このようなものに変質させてしまうということになると思います。  第二の論点は、法案の第二条における徳目の法定の問題であります。このことも非常に重要な問題点をはらんでいるというふうに思われます。  先ほど、教育立法における謙抑、抑制の要請とかかわって、法律教育の内的事項を規律する際の限界を指摘いたしましたが、とりわけ道徳規範につきましては、これを法律に規定すること自体に大きな問題点があるように考えられます。  実は、この点は教育基本法の立法者たちも十分に自覚していたように思われます。例えば、立法時に文部大臣を務めました田中耕太郎氏は、道徳の徳目などを公権的に、公にですね、公権的に決定することは国家の任務の逸脱であると、このように述べております。  また、教育基本法の立法事務に主導的にかかわった行政法学者の田中二郎氏、この人は後に最高裁の判事を務めました。その判事在任中、いわゆる尊属殺人重罰規定に関する一九七三年の最高裁判決におきまして重要なことを意見として述べております。尊属殺人重罰規定といいますのは、後に一九九五年に削除されました刑法の旧二百条が定めていたものでありまして、尊属殺人、つまり親殺しですね、これを普通殺人よりも重く罰するという規定でありました。この規定に関しまして、田中二郎判事はこのように言っています。  親を尊敬し、尊重するという道徳は、個人の尊厳と人格価値の平等の原理の上に立って、個人の自覚に基づき自発的に遵守されるべき道徳であって、次が大事です、法律をもって強制されたり、刑罰を科すことによって遵守させようとすべきものではない、こういう発言です。  この田中意見のとおり、人間の良心の命令である道徳規範はまさしく諸個人の自覚に基づいて自発的に守られるべきものでありまして、決して法によって強制すべきものではないというふうに考えられます。としますと、正にその道徳規範を法定した法案の第二条はこの点で重大な問題点があると、このように言わなければなりません。  法案二条は、道徳規範を法定するのみならず、更に「態度を養う」という文言にも見られますように、法定された道徳規範に見合うような態度まで求めているということがあります。このことは、憲法との関係でいいますと、思想及び良心の自由を保障した憲法十九条に違反すると、このように考えられます。道徳というのは良心の命令でありますけれども、諸個人の内心における良心の判断、つまり倫理的な価値判断、これが道徳ということであります。その内心における良心の判断の自由を保障したのが憲法十九条であるということになります。  それから、道徳規範を法定することは国家が特定の道徳規範を公定することを意味するわけで、公に定める、このことは憲法十九条の規範内容の一つであります国家の価値中立性という原則に反することになります。耳慣れない表現かもしれませんけれども、この価値中立性といいますのは、例えば憲法学者の西原博史氏によりますと、倫理的、道徳的な領域における国家の中立性ということです。  で、国家が特定……
  11. 中曽根弘文

    委員長中曽根弘文君) 成嶋参考人、そろそろ意見をおまとめください。
  12. 成嶋隆

    参考人成嶋隆君) はい。  国家が特定内容の倫理的な、道徳的な規範にくみすること、あるいは国家が道徳に関する監督の任務を引き受けることは許されないと、そういう原則であります。で、法案二条はまさしくこのように国家が特定世界観を正当なものとして公認したということを意味するわけですので、この点でも憲法十九条に違反いたします。  まとめます。総じて教育基本法案は、教育や道徳に対する法の関与の在り方という点で極めて重大な問題点を含んでいると思われます。参議院は良識の府、理性の府と言われています。法改正を含むその立法の本来の在り方について、良識ある判断を切に望むものであります。  ありがとうございました。
  13. 中曽根弘文

    委員長中曽根弘文君) ありがとうございました。  次に、世取山参考人、お願いいたします。世取山参考人
  14. 世取山洋介

    参考人(世取山洋介君) 世取山です。今日はこういう機会を与えていただきまして、ありがとうございました。  私は、職業研究者として新潟大学に勤めており、教育行政教育法、そして子供の権利を専門としております。また、ボランティアベースでありますけれども、国連子どもの権利条約と深い関係を持つディフェンス・フォー・チルドレン・インターナショナルというところの日本支部の事務局長を九四年以来務めてきました。  今日私がお話ししたいのは、子供の権利という観点から見た国会審議の問題点現行教育基本法の先駆性及び政府法案問題点ないしは欠陥についてです。二つの国会にまたがって百三十時間ぐらいの審議が行われてきたことは承知しておりますし、可能な限りそれをフォローし、精査するように努めてまいりました。  で、その成果に基づいてはっきり申し上げなければならないのは、実はこの国会の中で子供の権利という観点からの法案審議がさほど充実してなされていないということです。例えば政府法案の最大のポイントになっている第十六条ですけれども、ここでは現行法十条の一項の規定の趣旨、すなわち、たとえ国会の定めた法律に基づくものであったとしても行政の行為が不当な支配に該当する場合があり得るのだという現行教育基本法の十条の趣旨が十六条においてもなお継承されているのかどうかということがこの議場で大きな問題とされてきました。  その際、委員の多くの方が引用するのは、七六年の最高裁学テ判決ということになるわけですけれども、引用されている部分は、まあかぎ括弧ですけれども、教育内容に対する国家的介入についてはできるだけ抑制的であることが要請されると、この部分です。  しかしながら、その直後について、一体なぜ国家的干渉が抑制的であることが望まれるのかということの理由を子供の権利という観点から指摘した次の文章はさほど引用されているわけではありません。読みます。「殊に個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、」、中略しますが、「は、憲法二十六条、十三条の規定上からも許されない」と。  憲法十三条は個人の尊重原理を定めたものであります。しかし、もし仮に国家が、人間が自立した大人になる前の子供時代に自由に干渉することができるとすれば、実は将来における自立した大人というのは子供時代において根絶やしにされることになるわけです。したがって、憲法十三条の個人の尊重原理から見れば、子供時代を国家干渉からどのように守るのかということは当然重大な関心事とならざるを得ないわけです。  現行教育基本法の先駆的な性格として指摘しなければならないのは、この関心を既に持ちながらこの教育基本法がもう作られたという事実です。例えば、前文では個人の尊厳を重んじる教育が行われなければならないとはっきり言い、そしてそのような教育目的が、教育の第一目的が人格の完成、すなわち人格の全面的発達に求められることを第一条で明らかにし、その結果としてのみ良き国民形成が行われるということを明らかにしている。さらに、第二条においては、そういった人格の完成を満たす教育が行われなければならない方法について規定しているわけですけれども、そこで書いてあることは、学問の自由の尊重と自他の敬愛と協力なわけです。今風に言いますと、相互尊重と協働に基づいて教育が行われなければならないんだということを二条は実は言っているわけなんですね。  教育基本法の立法者意思を最もよく示すと言われている一九四七年の「教育基本法の解説」を読みますと、十条のところを読みますと、実は十条は民主主義国家における国家と国民との関係についての規定なので、本来であれば二条に規定されていてしかるべきだったんだけれども、しかし特に教育行政関係するので独立した条項に起こしたと言っているわけです。つまり、二条と十条は表裏一体の関係にあり、自他の敬愛と協力、学問の自由の尊重という言葉は十条一項において、引用しますが、教育国民全体に対して直接責任を負って行わなければならないと言い換えられているわけです。  先ほど直接責任については成嶋先生から説明がありまして、そのとおりだと思いますので、それについては説明は加えませんが、皆さんに対しては釈迦に説法であるということを重々承知した上で、直接責任と対になる概念、すなわち間接責任とは一体何なのかということの定義だけはここで言っておきたいと思います。それは、国会に定められた法律に従って教育を実行し、国民代表を通してそれを選出した親や国民に対して責任を果たすという考え方です。教育基本法十条は、個人の尊重原理から出発し、直接責任性を採用したということになっているわけです。つまり、個人の尊重原則に基づけば、教育における責任の果たし方というのは直接責任以外あり得ないというのが一九四七年に日本人が示した見解だということになるわけです。  教育基本法の骨格というのは、前文、一条、二条、十条ということになっているわけですけれども、政府法案の最も大きな特徴は、この背骨に対して実に精密で緻密なアタックを掛けているということです。  政府法案は、前文で「個人の尊厳を重んじ、」とは言っているんですけれども、それは個人の尊厳を重んじる人間というふうに係っておりまして、結局国家との関係における個人の尊厳の尊重原理は骨抜きにされているわけです。したがって、そのような骨抜きにされた下において第一条に規定されている人格の完成というものも骨抜きにされていくわけで、むしろ第一条の後段に規定されている、必要とされる資質を身に付けた国民育成こそが実は政府法案においては教育の第一目的となっているというふうに言って構わないというふうに思います。しかも、第二条では二十以上にわたる徳目が規定され、そして第十六条では直接責任が明示的に排除されて、間接責任が採用されているということになっているわけですね。  現行教育基本法が個人の尊厳原理に基づく教育自主性擁護法であったというふうに言うのであれば、政府法案は端的に教育の国家統制法だと言うべきであると思いますし、最高裁学テが示した子供時代に対する配慮は喪失させられているというふうに言っておきたいと思います。  これが政府法案の最大の問題点なわけですけれども、あえて二つだけ突き付けられている問題点を指摘したいと思います。  一つは二条です。  二条に掲げられている一号から五号の徳目の構造というのは現行学習指導要領の道徳編とほぼ同じです。これは何を意味しているかというと、学習指導要領を基本法に格上げするということを意味しています。しかも、道徳だけを基本法に格上げしているわけですから、道徳が筆頭科目化されることになるわけです。そうすれば、英、数、国、理、社などの教科教育が道徳教育化させられるということが法的にオーソライズされるという極めて大きな問題点を持っており、これはもちろん修身が筆頭教科であった戦前の教育制度を想起させるものとなっているわけですが、しかし残念ながらこの問題はまだこの国会において取り上げられているわけではないということです。  第二番目に指摘しなければならないのは十六条と十七条の問題です。  経済財政諮問会議や規制改革・民間開放推進会議が提案している学テ、学校ごとの成績公表、学校選択、バウチャー制度などが結局内閣が自由に決めることができるようになって、トップダウンで降ってきたそのような指令を無限定の権限を持つ文科省が実行できる体制ができ上がるわけですけれども、しかしあえて言いますけれども、新しい学力テスト体制が最高裁学テ判決で示した合憲性審査の基準をクリアできるかどうかは私には疑問です。  ここでもう一度最高裁学テ判決に戻りますが、最高裁学テ判決の十条解釈の最大のポイントは、それを教育人権と結び付けたというところにあるわけです。つまり、二十六条の背後には子供学習する権利があると言い、さらに、一定範囲の下において、初等中等教育の教師にも教育の自由があるというふうにはっきり述べています。  その際に根拠としたのは、引用しますが、子供教育が教師と子供との間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的要請があるからこそ自由が必要とされると言っているわけです。ただ、これは三十年前の判決でして、この三十年間、子供の権利は飛躍的に進展していて、それは国連子どもの権利条約に規定されているわけです。  六条二項では、生存と発達が子供の権利であることを確認した上で、さらに十二条では、意見表明権を規定しています。  これは、子供に自由に意見を表明させ、これは感情も含めてですけれども、その表明した感情や意見に対して大人が適切に応答しなければならないということを規定したものですけれども、実はこれは、こういう大人と子供との間の応答的な関係、決して大人に対して服従するという権威的関係ではなくて、そういう応答的な関係こそが子供人間としての成長、発達をもたらすというふうに考えている条項であるわけです。これを、先ほど言った最高裁学テの本質的要請と共鳴していることは比較的分かりやすいことだというふうに私は思います。  もし政府が、教基法、最高裁学テ判決、そして国連子どもの権利条約というものを真剣に考えるとなるとすれば、最低限四つのことが必要とされると思います。  一つ子供の要求への柔軟な応答を不可能にするような国家介入を差し控えること。二つ、自らの要求や欲求を表明できなくするような子供へのプレッシャーを減じること。具体的には、競争主義的な教育制度を改めるということ。第三に、大人が子供の要求に応答できるような条件を整備すること。端的に言えば少人数学級の実現です。そして第四に、学校において子供の自由な意見表明を奨励し、子供の要求に応じる自由と責任を教師に移譲していくこと。  以上の四つの観点から見た場合に、政府法案が数多くの問題点を持っているということは確かだと思いますが、時間がありませんので、一つだけ指摘させていただきたいというふうに思います。  国連子どもの権利条約の実施監視機関である国連子どもの権利委員会は、既に九八年と〇四年に日本政府報告の審査を行っております。そこで、次のような懸念を九八年に示しました。これ外務省訳ですけれども、児童が、高度に競争的な教育制度のストレス及びその結果としての余暇、運動、休息の時間が欠如していることにより、発達障害にさらされていることについて、条約の原則及び規定、特に第三条、第六条、第十二条、第二十九条及び第三十一条に照らし懸念する。  つまり、ここでは既に日本教育制度全体が子供の成長、発達権と相当に緊張関係を持っているということが国際的には承認されているわけです。にもかかわらず、どういうわけかこの競争主義的な教育制度を更に競争主義的にする新学力テスト体制の導入が政府によって提唱されているということになるわけです。  その際、伊吹文科大臣は、今の日本教育の実態は余りにもひどいので、そのマイナス面を引き受けてもなおそれを実行する必要があるのだというふうに言っているわけですけれども、しかしこの国会に、日本の学力をめぐる、何がどういうふうに悪くて、それが何に由来するのかということについての量的、質的なデータが出たということは私は知っておりません。したがって、立法事実はここでもやみの中ということになります。  これに対して、国連子どもの権利委員会は、競争主義的教育制度の是正のためには、今の質の高い教育を維持しながら、高校を卒業すればだれでも高等教育に進学することが可能なカリキュラムをNGOと一緒に開発すべきだということも言っています。さらに、競争主義的教育制度から受けるプレッシャーを他の子供に転嫁することを意味しているいじめについては、子供の参加の下にその解決を図れと言っているわけです。ここに教育基本法に示された個人の尊重原理、直接責任、さらには最高裁学テ判決が示した子供自体の尊重の発展形を見ることは実に簡単なことであるというのが私の意見です。  教育自主性擁護法、個人の尊厳原則に基づく教育自主性擁護法を皆さんは発展させていくのか、それとも全く逆の教育の国家統制法の道を選ぶのか、相当に重大な選択を皆様はこれからされようとしているのだろうというふうに思います。  ただ、研究者としてあるいはボランティアのアクティビストとして言いますが、選択をするのに果たして国会内で十分な議論がされたと言えるのでしょうか。立法者意思は明確にされたのでしょうか。立法事実はどうでしょうか。さらに、この国会の外に目を転じてみれば、果たして国民的議論は十分展開したと言えるのでしょうか。あるいは、国民的合意は成立したと言えるのでしょうか。教育は国家百年の計だというふうに言いますけれども、相互信頼に基づかない基本法制定は将来に必ず禍根を残すということを申し上げて、意見陳述を終わりとします。  どうもありがとうございました。
  15. 中曽根弘文

    委員長中曽根弘文君) ありがとうございました。  次に、小川参考人、お願いいたします。小川参考人
  16. 小川義男

    参考人小川義男君) 今度の戦争が始まった当時、アジア、アフリカに独立国は日本とタイぐらい、世界のほとんどが白人列強に支配されておりました。我が国はこれに対して、それに対する様々な問題点を内包しながらも強烈な抵抗を試みて、白人列強の心胆を寒からしめたと。その是非を私はここで問題にするのではなく、こういう状況の中で戦争に勝った後のアメリカを中心とする勢力が、日本という国民を軍事的に武装解除するだけではなく精神的にも武装解除したいと、そのような衝動を持ったであろうことについては、政党政派のいかんを問わず異論のないところであろうと思います。  私は、そのアメリカの押し付けによって教育基本法が制定されたからなどというけちなことを言うつもりはありません。現実に六十年間実効支配してきたという意味で、憲法にしても教育基本法にしても、その制定の沿革よりは、現在に何らかの問題点を残しているかどうか、この点で見詰めるべきであろうと思います。  しかしながら、教育基本法は、やはりその当時の政治情勢をいささか反映して、日本の国というものを、国家というものを、国民主権の原理になっているにもかかわらず、我が国においては国家と国民はシノニムであります。にもかかわらず、国家は悪であるというような考えが今日なおかなり有力に我が国に存在していることは、私は一つの保守的傾向として遺憾なことであると思います。  それからもう一つは、我が国を精神的にも武装解除したいという当時の時代風潮、そのことが我が国の伝統文化、これに対する否定的傾向を相当示すに至ったと。この点で教育基本法が、我が国のナショナリティーを示すというよりは、全世界のどこへ持っていってもそう文句は言われないような、まあ辞書でいえばコンサイスのような、だれにでも役に立つが本当にはだれにも役に立たないという、そういう側面を持っていることはやっぱり否定できないのでないか。  この辺りを振り返って、やっぱり六十年たったから、あの終戦当時に形成されたものはいかなるものも一点一画変えることなくこれを守っていかねばならないというのを、漢文の言葉で言えば旧慣墨守と言うのであります。やっぱり、その中でいささかここは問題かもしれないと思うところは、謙虚に見直してみるべき時期に今来ているのでないか。また、時代の変化もあって、環境その他、やはり教育基本法を見直せばならないところへ来ているというふうに思います。  愛国心の問題は、例えば自分の父親や母親の悪口言われたら、たとえ悪いおやじであっても、一緒になって隣のおかみさんとおやじの悪口言うような息子は、これは本当に人間らしい息子と言えないでしょう。国家の場合は、悪いところもいいところだと言い張ったんでは、これは話にならぬけれども、我が国の悪口を言われたら、ちょっと暗い気持ちになる。よその国の人と一緒になってうれしくなるというようなことでは、そういう国民ではやっぱり一国を保全していくことが難しいのでないかと、私は思います。  私の弟子で難関大学に受かったのを校長室に呼んで、おまえはこれからどういうふうに生きたいんだと私が聞いたら、私は一つの国にこだわるような生き方をしたくないんです。私のひざ元でこういうことが起こっておる。私は、地球市民、地球国家というのは美しいけれども、お隣の中国、お隣の韓国、まあ北朝鮮はちょっと今おきますが、こういう国では非常に高度の愛国心教育をやっておる。その一方、我が国では、地球市民、地球国家というような美名で、無国籍主義的な、コスモポリタンとも言えるような若者が育ちつつあるという辺りは、やっぱりこれはこのままに看過してよいのではないと思うんです。  そういう点で、例えば北方領土は、歯舞、色丹、国後、択捉、ロシアに不法占領されておりますが、この面積は沖縄本島の四・二倍です。竹島の問題もある。こういう問題に国民的怒りというのが、外国だったら大変なことになるだろうけれども、日本だけはこれを怒ってこないと。寸土を奪われて怒ることを知らぬ民族は、やがて本土を失います。  そういうことを考えても、やはり愛国心、すぐ軍国主義なんて、そういうことを言うのではなくて、我が国の歴史、国家、同胞に対して一体感を持つ。日本の悪口言われたらちょっと悲しくなる、バレーで勝ったら涙が流れると、こういうナショナリティーを育成するためには、やっぱり愛国心という文言が教育基本法に入っていた方がよいと。ただ、政府案はこれを態度というふうにつなげて言っておりますが、民主党の原案では、「同時に、日本を愛する心を涵養し、祖先を敬い、子孫に想いをいたし、伝統文化、芸術を尊び、」云々というふうにすっきり述べている。これは美しい。これは何とか政府原案に修正して入れていただけないものかと思います。  教育基本法十条の問題が参考人先生方からもいろいろ出ておりますけれども、ここで問題になっているのは、最高裁の判例、私もここへ持ってきて熟読してきておりますが、あそこで問題になっているのは、教育の中身に対して国家、自治体が関与することは、それ自体が不当な支配になると、こういう要求が出されているのです。  ところが、子供たち教育を受ける権利を保障するためには、ある程度全国的均質な教育、それからある程度の水準の維持ということが日本全体で担保されなければならない。それが学校における教師の、まあ自治と言ったら言い過ぎかもしれないが、自主性の名の下にすべて任されてしまったら、教育の内的事項に地方自治体、国家は介入してならないと、法律は介入してならないという見解であれば、それは学校でどのような決定を下すか分からなくなるのです。  例えば、一時はローマ字で国字を変えようと言う人もいたし、漢字をもっともっと減らすべきだと言う人もいる。札幌の子供が大阪へ転校してみたら、掛け算の九九が終わってしまっていたと。これは大変な問題になる。いじめにだって発展するかもしれない。そういう点で、教育における一定の水準の維持とある程度の均質性の保全というためには、大まかな学習指導要領というような枠がなければならない。  これは、よく読んでみれば分かるが、大変弾力的なもので、大綱的なもので、まあ言ってみれば、イワシやサンマやブリぐらいは自由に通り抜けてよろしい、ただし鯨やマグロは通さないと、この程度の大綱的基準において、国家、自治体、つまり国民法律の名の下に教育に関与をしていくということを拒否するならば、これはやっぱり実質的に子供たち教育を受ける権利が侵されるということになる。  現実に最高裁の判決も、これは同じものでも見方によって随分違うなと思って私もびっくりしておったんだけれども、右教育における云々と言って、右の大綱的基準の範囲に関する原判決の見解は狭きに失し、これを前記学習指導要領についていえば、文部大臣は、学校教育法三十八条、百六条による学校の教科に関する事項を定める権限に基づき、普通教育における中学校における教育の内容及び方法につき、上述のような教育機会均等の確保等の目的のために合理的な基準を設定することができると。そうして後の方で、この教育の内的事項に対する大綱的関与は駄目ではないということを、むしろこの最高裁学テ判決は、教育の内的事項に対する国家、すなわち国民の名における関与は正しいものであるということを最終有権判断として示したものだと私は理解しております。  その意味で、これまでの教育基本法十条のあの文言というのは、元々は国家を悪としてとらえて、国家を教育の内的事項から排除していこうという意図の下に運ばれたんだけれども、その後何十年かの経過の中で、やっぱりその内的事項に関して大綱的基準、大まかな基準は国家が触れてよろしい、つまり国民が触れてよろしいと。一つ学校における教師の意見の多数か少数かと、そういうことに揺さぶられるのではなくて、国民全体で教育の内的事項に触れていくことができるのだと、このように述べていると私は理解しております。  その意味で、この教育基本法十条の現行法の「不当な支配」という文言は取った方がいいと思うけれども、政府原案はこれについてはかなりきちっと修正していると思います。その点で、私はこれは支持したいと。  最後に、宗教的情操についてでありますけれども、最近学校では、例えば七夕祭りに短冊を下げて、そしてお父さんの病気が治りますようにという、年に一度の牽牛織女の祭りに祈りを込めることも何かためらわれるような、あるいはごちそうさまでしたと言うのも芳しくないというような、そういう動きがある。しかし、人間というものは元々小さい存在で、遺伝学者なんかも、宗教とは別に、サムシンググレートというような偉大な存在があって遺伝子情報を書いているとしか思えないと言う人もおります。やっぱり子供たちの心に、特定宗教に、宗教宗派に属するかどうかは別として、やっぱり人間を超える何物かがあるという謙虚な心を育成しておくということは人間として非常に重要な問題ではないかと私は思います。  その意味で、やっぱり宗教的情操育成ということは決して好ましくないというものではない。その意味では、民主党案の「宗教的感性涵養及び宗教に関する寛容の態度を養うことは、教育上尊重されなければならない。」と、この原案の趣旨は誠に美しく適切だと。これは是非盛り込んでもらいたい。  最後に、まだ二分ほどありますから申し上げますが、キリスト教的一神教の下で、キリスト教で一番の犯罪は何か。これは偶像崇拝ですね。私はねたみ深い神である、私以外のものを拝んではならない、こういうふうに言っている。だから、一神教、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の中では、信教の自由がなかったら生命、身体を維持することはできないんですね。そういう中で、一神教的背景の下に、宗教に対する非常にアレルギーと言われるぐらいの警戒心が生まれている。  我が国やギリシャは多神教の国家であります。我が国の神様もギリシャの神様も、よく調べてみると誠にだらしのない神様だ、伸びやかな神様。だから、宗教的情操育成といったから、それが一党一派に偏し、一宗派を奨励するというようなことにならないと。その点では、宗教的情操感性育成ということは是非修正案の中に入れて通していただきたいものだと思います。
  17. 中曽根弘文

    委員長中曽根弘文君) ありがとうございました。  以上で参考人からの意見の聴取は終わりました。  暫時休憩いたします。    午後二時二十六分休憩      ─────・─────    午後二時三十三分開会
  18. 中曽根弘文

    委員長中曽根弘文君) ただいまから教育基本法に関する特別委員会を再開いたします。  休憩前に引き続き、教育基本法案日本国教育基本法案地方教育行政の適正な運営確保に関する法律案及び学校教育環境整備推進による教育振興に関する法律案、以上四案を一括して議題といたします。  これより参考人に対する質疑を行います。  質疑のある方は順次御発言願います。
  19. 岸信夫

    ○岸信夫君 自民党の岸信夫でございます。  本日は、参考人皆様におかれましては、大変御多用中のところお集まりいただきまして、また、大変貴重な御意見を賜りまして、心より御礼申し上げる次第です。  これから質問をさせていただきますけれども、大変限られた時間でございます。多くの方に御意見をちょうだいしたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。  まず、山本参考人にお伺いしたいと思います。  今日の先ほどの陳述の中では、生涯学習についてとそれから家庭教育について、こういう二点でございましたけれども、家庭教育についてまずちょっと御質問させていただきたいと思います。  教育というのは、家庭地域とそして学校というこの三つ連携をしながらやっていかなければいけないわけですけれども、その中でも私はやはり家庭教育の大切さというものを、特に幼児期のしつけの大切さというものを常々感じておる次第であります。人は生まれましてまず家庭の中ではぐくまれて、そして社会あるいは学校へと徐々にその行動範囲を広げていくわけです。  今回、教育基本法案改正案の中で、第十条ですね、家庭教育の規定が新設されました。そして、父母や保護者の責任というものが明記されたわけであります。このことを、家庭教育に国家が介入するおそれがあるとか、あるいは家庭教育には政治が入っていくべきではないと、こういった批判をする向きも一方であるわけですけれども、従来から家庭教育の大切さというものを指摘されておられます山本参考人、先ほどもお触れになったわけですけれども、もう少し掘り下げた御意見として、このことが国家が家庭に入っていくのかどうかという点を含めて、この家庭教育重要性、大切さ、この法案に盛り込まれたということの大切さについて御意見をいただきたいと思います。
  20. 山本恒夫

    参考人山本恒夫君) ありがとうございます。  今の点ですが、まず家庭教育の中で特にしつけの問題というのはもう本当に今先生のおっしゃるとおりで、人間の場合には大脳が発達して本能が衰えておりますから、なるべく早い段階、三歳ぐらいまでの段階でしっかりしつけをしないと、極端なことを言いますと、人間というのは極端、自分が生き残るだけで、あと殺し合うそうですね。ですから、そういうことを防ぐためにも、早い段階でしつけとか物の考え方は入れた方がいいと、教えた方がいいというふうに言われています。ですから、その点については問題ありませんで。  ただ、それについても簡単に触れておきますが、やっぱり親から子供へというふうに伝えていくところですね。それは社会的な役割というものを、あるいは社会的な考え方というものを伝えていくわけで、父親、母親と、これについていろいろ問題を言う方もいますけれども、やはり父親から男的な役割が伝わるとか母親から女的な役割が伝わるというのはあるんですよね。ですから、そこはしっかりやはり小さい段階で伝えていくべきだと思います。  国家統制云々と言いますけれども、これはほかの問題にも絡むんですが、教育というのを皆さんどう考えるかということなんですけれども、お話を伺っていると、教育と教化、教化って教え化すですね、インドクトリネーションと、それがごっちゃになっていて、ほとんど教え化す、教育といえば教化なのかというふうに受け取られるような議論がある。今日もあったと私は思います。  つまり、どういうことかといえば、家庭教育の場合でも、国とかあるいは地方公共団体等が学習機会提供いたします。それで、親が勉強しますですね。それを選択するかしないかは学習者の自由なんですよ。学習者が選択するかしないかということまで縛ったらば、これは国家統制です。でも、それはやってないんですよ。ちょっと済みません、時間取って申し訳ありません、その点を是非御理解いただきたいと。これは私が何も言っているわけではありません。戦後の日本の新しい教育ということを言って、その当時、まあ進歩派と言われていた教育学者が言っていることです。それで私たちは勉強してきました。  そうしますと、戦前まであった、あるいはナチス・ドイツがやったようなのは教化で、これは、教えます、教えたことをそのまま取りなさい、それを取らなければ罰則が科せられるか殺されます。これは教え化す教化なんですよ。宣伝なんです。  それに対して教育というのは、いろんなことを教えます。だけれども、最後、あなたがそれを取るかどうかは自由ですよと。その代わり、発達段階がありますから、小学校一年生に分かんないことを言ってこのとおりやりなさいというのは、これはさっきの教化と同じになっちゃう。ですから、発達段階ごとにそれは考えていかなくちゃいけない。それについては指導要領と専門家は見てくれているというふうに思います。  ですから、その点は国家統制にならないと私は思います。
  21. 岸信夫

    ○岸信夫君 ありがとうございました。  続いて、杉谷参考人。  杉谷参考人は慶応義塾の御卒業で、私の大先輩にもなるわけですけれども、福沢諭吉先生が晩年、子供教育についてこのようなことを記しております。今日、子供たる身の独立自尊法は、ただ父母の教訓に従いて進退すべきのみと。すなわち、子供のうちはお父さん、お母さんの言い付けをしっかり守って勉強に励みなさいと、こういうことだと思いますけれども、それだけ家庭での教育、しつけというものが重要だと。こういうことと同時に、それを信頼していたということもあると思うんですね。  参考人は幼稚園もお持ちでいらっしゃると思いますけれども、この幼稚園の段階というのは、親御さんの元に置かれた子供たちが外に出て行って、そして新しい社会に飛び込んでいく、また同い年の子供たちと新しいサークルといいますか、子供たち社会生活を築いていくという意味で、その後の小学校という段階へのステップの境目でもあるわけですけれども、その現場におられると、こういう立場から、その子たちがその家庭でどういうふうに育てられてきたか、しつけられてきたかというものもいろいろ御推察されることも多いと思います。  その家庭教育というものは、その長い戦後だけで見ても六十年ぐらいの期間、変わってきているというふうに思うわけですけれども、そのことが子供社会性に対してどのように影響しているとお考えでしょうか。幼児教育現場の立場からちょっと御意見をいただきたいと思います。
  22. 杉谷義純

    参考人杉谷義純君) 特に幼児教育の場合、二面から見られると思うんですが、今、現今のほとんどの家庭では自由勝手放題、そんな子供が入ってきまして、お互いの仲間の中で一つ初めて出会う社会、そういう中で、やはり規律、お互いのルール、相手を存在を認めないとそこで一緒に過ごせていけない、そういうようなことを学んで、逆にもう百八十度変わるというか、一番の激変の時期であろうというようなことで、かつてはある程度当初からお互いに遊べたものを、それは近所そのほか子供が多くて、遊んで社会性を学んで入ってくる。昨今ではそういうことは全くございませんので、それぞれ殿様が集まって、もうそれは戦場と化すと。それがやがて、しつけそのほか団体生活の中ではぐくんでいかれる。  しかしながら、そういうお子様の中で、やはり親のしつけが行き届いている家庭とそうでない家庭という中で、幾分こうやっぱり差が見られるというようなこともございます。そういう意味で、家庭教育、大変重要に思います。  特に、ちょっと飛躍するかもしれませんけれども、青少年犯罪等の背景を見ますと、私は仏教徒でちょっと手前みそで恐縮ですが、両親あるいは祖父母がいて、仏壇があって、拝んでいるような家庭からは比較的統計的には少ないと、そういうような現象、これはそれだけがすべての原因ではありませんけれども、バックグラウンドとしてそういうこともあるということで、立場上申し上げますと、家庭のしつけ、さらには親、祖父母、先祖に対する意識、そういうバックボーンに支えられているということ、これが非常に清水がわき出るような意味での家庭教育の源泉になっていくというように感じております。
  23. 岸信夫

    ○岸信夫君 ありがとうございました。  同様に、小川参考人にもお尋ねしたいと思うんですけれども、参考人は高校の校長先生でもいらっしゃるわけですね。高校というのはある意味子供から大人へのステップになるわけですけれども、この高校という場において、現場でお感じになられているところ、その家庭教育の最近の変化というものがどのように影響、子供たちの生活に影響しているか。
  24. 小川義男

    参考人小川義男君) 高等学校によりましてそれぞれのカラーがあって、私の学校の場合は、時代的な変化を世間で騒がれるほど受けていないと。変わった変わったというふうに騒ぐ向きがありますけど、深く見詰めて、親が本当にそんなに変わっているのかどうか。離婚ぐらいは増えているでしょうけれども、その辺りはそれほど変わっていないと。もうとにかく我が子がかわいくて、我が子のためならどんなことでもしようと、この思いは大正、昭和、今日を通じて変わらないのでないか。我々、今変わったところに騒ぐことも大事だが、変わっていないものをしっかり見詰めることが大事ではないかと思っております。  それから、私はいじめ問題その他ありますけれども、存在感のある教師がいれば、これは家庭がどのような状態でもいじめは起きないと。  私は、五十七年間教壇に立ち続けておりますね。これは我が国で一人でしょう、恐らく。戦後教育のシーラカンスと言われているぐらいですから。  それで、私のクラスでいじめが起きたことはあるが、それを解決できなかったことはないですね。存在感のある教師とは何か。それは、子供を愛して、子供から好かれていることです。好かれていない先生に怒られてもおっかなくない。好かれている先生でがっと怒ったら、そのときが本当におっかない。好かれて恐れられている、必要なときにはですよ、その先生が存在感のある先生です。友達先生では務まらない。  教育とは、導き導かれる関係で、両者の間には親密さはあっても常に一定の緊張関係はかすかに残されていなければならない。そのような存在感のある教師だからこそいじめられているという情報が伝わってくる。存在感のない先生のところに伝えていったって、おまえチクったなと言っていじめられるのが落ちだと。この辺りで、私たちは存在感のある教師として子供を愛し、それからしからねばならないときには毅然としてしかると。そのときに両者の間に起きる緊張を恐れないと。この姿勢で臨めば、たとえ家庭に荒廃状況があっても良い子供を育てられる。  私は職員に言っている、家庭教育が良くならなきゃ学校が良い人間を育てられないなら学校は要らない、どんな家庭でもおれのところへよこせと、いい子供にしてみせる。やれるかどうかそれは、今まではやれたと思うが、この先もやれるかどうかそれは分からないけれども、そのぐらいの自負を持って生きることが家庭をも変えると思います。
  25. 岸信夫

    ○岸信夫君 私も今中学生の子供が二人いるんですけれども、小川先生のような学校に入れたらいいんだろうな、このように思うわけです。ありがとうございました。  続いて、成嶋参考人にお伺いしたいと思いますけれども、不当な支配のくだりでございますけれども、本日もお話ございました。また、委員会でも熱い議論がなされているところであります。先ほど、政府案のこのくだりについては先生の御批判がございましたけれども、民主党案について、日本国教育基本法案においては、現行法第十条にあります不当な支配という規定がこれは削除されておるわけです。この民主党案についてはどういう御意見をお持ちでしょうか。もし御意見があれば御指摘いただきたいと思います。
  26. 成嶋隆

    参考人成嶋隆君) ありがとうございます。  現行教育基本法の十条一項の不当な支配のくだり、私は自主性原理と呼んでおりまして、後段の直接責任の原理とともに非常に重要な原理であります。政府案につきましては、自主性原理の部分は残しましたけれども、先ほど申し上げましたようなその後段の部分によって言わば不当な支配禁止規定が骨抜きになってしまうという、そういう危険性を先ほど申し上げました。  民主党案につきましては、不当な支配という文言そのものを削除しているわけでありまして、私は政府案以上にこれは現行法のより悪い形での改変だというふうに考えております。  以上です。
  27. 岸信夫

    ○岸信夫君 ありがとうございました。  それでは、馬居参考人にお伺いします。  人は教育を通じて人から人間へと、こう変わっていくとよく言われていますね。我が国における教育というものを考えた場合は、一つはこういう人間育成していく、人間を育てていく、もう一つの面はやはり日本人を育てる、この二面があるんだというふうに思います。  まず、なぜ今教育基本法改正しなければならないかと、こういう議論については、私は特にこの日本人の育成という面が十分なされてこなかったんじゃないかと、こういうふうに思うわけであります。これは法律自体が悪いのか、あるいは、それを現場といいますか、教育現場において実践できてこなかったのか、こういう両方あるんだとは思いますけれども、政府案では教育の目標の一つとして、「伝統文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、」、こういうくだりがございます。心ではなく態度という形でその国を愛するということをうたっておるわけでございますけれども、これは非常に今、知恵が、もう随分与党間での協議、激論が交わされた後の知恵を絞った上での結論と、こういうことだと思うんですけれども、参考人はこの条文についてどのような御意見をお持ちでしょうか。  さらに、特に現行法が成立した六十年くらい前の社会構造、それから今六十年たって大きく、先ほどもございましたけれども変化をしているわけです。この基本法ということを考えました際は、さらに、これから社会がどんどんスピードアップして変わっていくわけですけれども、その中で、ある意味では普遍性を持たしたような形での基本法というものがどうしても必要になるわけですけれども、この改正案の第二条第五項の文言についてどのように評価をされておられるでしょうか。
  28. 馬居政幸

    参考人馬居政幸君) 先ほども述べさしていただきましたけれども、その経緯も含めてよくここまで来られたんだなという。先ほど言いましたけれども、多分、よって立つ基盤の違う人たちがお互いに何とかしたいという思いですり合わせていったということがこういう形になったんであろうという意味で、そのことについては評価したいと思います。  と同時に、どんな表現しようとこの部分の問題というのは、日本の歴史あるいは置かれた状況から考えて、反対の人もいれば、より積極的な人も出てくるという、それがいろんな形でこうバランスを取りながら一つの形を取っていくんだろうなという、社会学者のオプティミズムみたいな部分がありますけれども。  ただ、教育の問題になってくると、現場的にはそうはいかないと思いますので、そうなったときに、先ほど言われた日本人の教育をといった場合に、日本人をどう教育上育てていくかということですが、私は、これまでは日本人ということを意識しなくても日本人であり得たという。言い換えると、多くの人たちが外に行くことがなかったために、国の中だけでいれば日本人であることを余り自覚する必要がなかったわけであって、私のように、四国で生まれて、東京で勉強して、埼玉で結婚して、なおかつ静岡で仕事をし、東京に出てきてこういう出稼ぎやっているみたいな状況になれば、それぞれのところで自分の表現はできるわけですが、ただし、韓国に行くと、もう明らかに日本人になっちゃうわけですね。  そういう意味で、先ほど言いましたように、日本人という在り方を身に付けておかないと、自分自身の選択肢が非常に狭まっていくであろうと。先ほど山本先生が言われた選択するということを考えたときに、自分の選択肢を広げていくためには、日本人という選択肢を持っていかないとこれからは生きていけない社会だろう。もう現にそういうふうになってきている。とするならば、それなりのことをちゃんと教えていかなきゃならないのが一点。  もう一点は、教えないことによって日本人の形をこれまでは描けたと思います。戦前とのかかわりにおいてという、先ほどの法学者からの立場というのは正にそれを描いていると思いますが、しかし、具体的に、これから生きていく子たちにとってみると、日常的に日本人であることを問われる場面がたくさん出てくると思います。内なる世界において外国人との関係、ただし国の中において。国の外へ行くともう日常的になっていくと思います。  そのときに何を日本人として教えていくかという。ただ、その際に、先ほど山本先生言われたように、何が日本人として誇るべきかということは、最終的には、国家が決めるのではなく文科省が決めるのでもなくて、個々人が決めていくという意味において、心ではなく態度としたことに私は評価したいと思います。  すなわち、心はその人自身が最後まで守らなきゃならないものであって、あえて言いますと、態度はごまかすことができます。あるいは拒否することもできます。しかし、心は、その人の心が本当である限りにおいては、拒否することもごまかすことも本当はしてはならないですね。したがって、態度で止めたということが、公権力を基にした教育がなすべきこととしては限界だろうと。逆に、心は、これは私は中間集団の役割だと思っております。  以上です。
  29. 岸信夫

    ○岸信夫君 どうもありがとうございました。  確かにそのとおりで、そういう子供たちが愛せるような国をつくっていく、これはある意味では政治家の重い責任だろうと、こういうふうに思います。  同様のことを山本参考人にもお伺いしたいんですね。日本人の育成という観点から、このたびのこの基本法の改正をどのように考えておられるか、お願いします。
  30. 山本恒夫

    参考人山本恒夫君) ありがとうございます。  私どもは実は、私は中教審委員をやっていまして、この問題も大分議論しました。今、馬居参考人が言ったことですが、これから先はやはりいろんなところで日本人が問われるという時代だと思います。  ですから、日本人の育成というのは非常に大事ですが、ただ、中教審で議論したのは、それは私どもが言ったんですけれども、あれかこれかではないと、もう二項対立の時代ではないんじゃないかと。東欧を見ても中近東を見ても、争っていますよね。そうすると、二項対立ではなくて、そういう体質では、二つの項があればその中で何をどうしていくのか、その関係をどういうふうに解明して、その関係をつくっていくのか、そこが問われるだろう。  したがって、日本人という、まあ育成という場合でも、日本人だけを見ているんじゃなくて、今回の答申にもあります、先ほどいろいろ意見も出ました、国際的な社会の中での一員であるとか、他人のところをよく理解してとか、他国をですね、中教審答申にも入っているんですけれども、それとのかかわりで日本人の育成というのを考えていくべきだと思っております。
  31. 岸信夫

    ○岸信夫君 ありがとうございました。  世取山参考人にもお伺いしたいと思うんですけれども、改正に反対される方は、教育の荒廃というものは、乱れるという意味の荒廃ですけれども、荒廃は、基本法の理念を守らなかった教育行政自体がおかしいんではないか、あるいは教育行政の責任があるんではないか、こういうことをおっしゃるわけですけど、一般の世論調査なんかを見ますと、それでも基本法の改正には賛成という方の意見もまあかなり多いようであります。  現実にいろいろな問題が起こっている中で、我々はその問題点を指摘するだけじゃなくて、解決策を見いだしていかなきゃいけない立場ではあるわけですけれども、今のその反対される方の意見としての教育行政の責任というものと、世論の格差といいますか、温度差といいますか、この点をどういうふうにごらんになっているか、簡潔にお答えいただければと思います。
  32. 世取山洋介

    参考人(世取山洋介君) おっしゃっている温度差がどのぐらいあるのかということ自体について、ややいぶかしく思っていましたし、その温度差なるものが変化しないものなのかどうかということについてもいぶかしく思いました。  というのも、この間、未履修問題やいじめ自殺問題等々、問題が出てきたわけですけれども、その中で、ある種、文科省の持っている無責任体質というか、自分の好きなことは統制するけど自分が見たくないものはほおかぶりするという、そういうものがだんだんあらわになってきて、その後の世論調査というのを私は見ておりませんけれども、現在、国民の中で、一割が今国会で採択していいと言い、残りの九割は、半々ぐらいで賛成、反対あるんだけれども、慎重審議だというふうに言っているわけで、半年間にわたってもう審議がなされているんですけれども、この数字というのが余り変わっていないんですね、僕が知る限りでは。むしろみんなじっと見ていると。本当のところはどこにあるのかというところを見ているんじゃないかというのが私の意見なんですよね。  今日もいろんな意見がありましたけれども、むしろ僕は、参考人の間で、ここで自由濶達な議論をして、皆さんに聞いていただいて、本当に対立があるのか、あるいは一致できる点はどこにあるのかということを丁寧に議論をしていけば、問題は意外と決着、要するに到着点は簡単に見えるんじゃないかというふうに思います。その意味で、もう少し議論をして、国民情報提供して、世論の変化を是非とも見ていただくぐらいの度量はあってもいいんじゃないかというふうに私は思います。
  33. 岸信夫

    ○岸信夫君 時間となってしまいましたので、大変貴重な御意見をありがとうございました。今お述べのように、今回の審議の御意見を今後の審議に役立ててまいりたいと思います。  ありがとうございました。
  34. 鈴木寛

    ○鈴木寛君 参考人先生方、本当に貴重な御意見、ありがとうございました。心から御礼を申し上げたいと思います。  まず杉谷参考人にお伺いをさせていただきたいと思いますが、先ほど時間が十分でなかったということもあって、少しはしょられたところもあろうかと思いますけれども、私どもは今、いじめ、まあいじめというのは昔からあったと思いますが、度を越したいじめ、そしてそのことを原因とする自殺という、本当にこれ戦後の教育の中でも極めて危機的な状況に今日ある。その中でこの教育基本法に関する特別委員会の審議を毎日させていただいているわけでありますが、そうした状況を改めて見ますに、やはりこの宗教教育といいますか、命を大切にする、これはもちろん他者の命もそうでありますし、そして自らの命も大切にすると、本当に大切にしなきゃいけないんだと、こういう思いを醸成していく上で、私ども、宗教教育日本国教育基本法案の中で丁寧に勉強させていただいて、盛り込まさせていただいたんですが、その意義というものを改めて痛感をいたしているわけでありますが、その点につきまして杉谷参考人の御意見をいただきたいと思います。よろしくお願い申し上げます。
  35. 杉谷義純

    参考人杉谷義純君) ただいま宗教教育意義と申しますか、いじめ問題等に象徴される命の問題、これ辺りも、命を大切にという道徳にちょっと毛が生えたような意識で、どうして命は大切なんだということに関しての導きがなかなかない。一方では、個を大切にするということは大変重要なところに据えられておりますけれども、個という、個人を大切にすれば、その自己決定権、自分の命の生殺与奪も自己決定権に属するのかどうかというようなことを一足飛びに行ってしまうと非常に危険な問題があろうかと。  そういうことで、宗教では、もちろんいろんな宗教の命のとらえ方がありますけれども、こういうとらえ方がありますと、仏教ではこのようにとらえている、キリスト教ではこうである、イスラム教ではこうだ、だからこそどれを選択するかは自由だけれども、実はどの宗教も命をこのように大切にしているというような導きの場、そこから一歩を踏み込むのは心の問題になりますけれども、そういう考える場を与える、そういう教育の場が今ないと。  そういうことで、悩んでいても壁にぶつかる、又は個の自由だということの、そういう言葉に誘導されて衝動的に命を粗末にしてしまう、そういうようなことがあろうかと思いますし、またこれは単に社会的な風潮の中で、非常に残虐な映画やいろんなことがあって、それに刺激されてということもあるかもしれませんけれども、それから残虐な犯罪ですね、それはいささか自分らと違う世界の人間であるというようなことは子供たち分かると思うんです。それよりも、例えば代理母の出産であるとか臓器の移植であるとか、いろんな科学技術の進歩の中で、命というものが十分議論されないままテクニックで新しい命が創造されたり、また転化されていったり、そういうような中で、命というのは一つの交換可能なものであろうかという、善意な中に命の軽さをいつの間にか受け取っていってしまう。  そういうことを考えますと、やはりこの宗教における命の問題、宗教教育の問題って非常に重要ではないかというように考えるわけでございます。
  36. 鈴木寛

    ○鈴木寛君 ありがとうございます。  私どもも前文の中に、「祖先を敬い、子孫に想いをいたし、」というようなことを盛り込んでおります。正に若い命が失われるという現場、私たちもそこに直面をし、本当にその周りの家族はもとよりでありますが、友人そして教員、御縁のあった皆様方が本当に痛ましい思いにも駆られておられることを見てまいりました。  私どものころまでは、家に仏壇があり、神棚があり、あるいは盆踊りがあり、村祭りがありということで、日々の生活の中に宗教というものがある程度、何といいますか、普通に接することができたわけでありますが、やはり核家族化あるいは都市化という中で、地域社会もそうした子供たちの学びあるいははぐくみ、育ちの中でそうした機会が減ってきていると。そこをどうやって埋めていくかという中で、学校教育現場の中にもそうした入口といいますか、きっかけといいますか、御縁といいますか、といったことが必要になってくるのかなという思いをしておりますが。  具体的には、逆に今、私立学校では既に宗教教育というものが行われていると思います。もちろん、私立学校で行われている宗教教育をそのまま公立学校に持ち込むということでは今後もないわけでありますけれども、私学における宗教教育実践というものがこういうふうに子供たちの成長に好影響を与えていると、そのことを参考にしながら、具体的に、例えば公教育の中で宗教教育をやっていくとすると、恐らく国民皆様方は宗教教育を入れるということについてそんなに大きな反対は、まあ少なくとも私たちがお付き合いをしている方々はないわけであります。  また、諸外国を見ましても、イギリスではブレア首相なんかは四大宗教について全部教えると、こういうことになっておりますが、じゃ、この条項が入ると、例えばどういうようなことが今後行われていくと望ましいのかなということについての、少しイメージが共有をできたらなと思います。その点につきまして杉谷参考人お話をいただければというふうに思います。  それから、山本参考人家庭教育、生涯教育ということを言っておられますが、そういう観点から、今のようなことについて御意見があればいただければと思います。
  37. 杉谷義純

    参考人杉谷義純君) まず、その前提として、公教育の場で宗教教育というと信教の自由、そのほか憲法の問題にも触れるんではないか。先ほど申し上げましたけれども、この精神がどういうところから出てきたかということを十分に踏まえませんと、その先誤りを犯す。  先ほど一神教のお話も出ました。信教の自由というのは、その国の国教以外、ほとんど国教に準ずるような宗教以外の宗教を信じている人も、その国教のような宗教を信じている人と同様な立場に置かれる。いわゆる不利益を被ってはならない、そういうようなことから出ているわけですね。  ところが、これが日本に入ってきますと、日本は非常に同一的な、民族の同一性が強い国ですから、しゃべる言葉も食べるものもほとんど同じ文化を共有しているわけで、宗教が違ってもそう違わない。そこで、いつの間にかこれ、宗教は特に触らない方がいいという意味じゃないかというようなふうに誤解をされてきた。そういう意味で、せっかく現行法にも多少宗教に触れておりますけれども、禁止規定もあることから公教育の場から締め出された。  さらに、最近は、いただきますとどこでも当たり前にしていることが、これはもう習俗に近いんですね。元をたどっていくと、まあこれは本当は元はインドの土着の宗教から、決して仏教のこれは専門ではありません。今は私も諸宗教で世界のいろんな宗教の方と付き合っておりますけれども、カトリックの牧師さんでも何でも合掌して迎えてくださいます。別にある特定宗教の風習でないんですけれども、手を合わせて、いただきますと言うことですら、それは特定宗教の形じゃないかと。だから、やっぱり給食の前にいただきますはやめましょうと。また、ある父兄からそれは特定宗教の姿だからやめたらどうだと。それに対して校長先生がきちんと反論されないで、厄介なことは起きない方がいいから、まあこれはちょっと横へ置いとこうというようなことで、当然当たり前なことまで教育現場から締め出されている、これはやはり子供の心を荒らしていくんですね。  おかげさまで、これ、おかげさまって何となく言っていますけれども、目に見えない、いろいろな有縁無縁のお世話になりながら今日私たちがいる、人間存在そのものを確認をしている意味でもあるわけでございますが、そういうようなごくごく簡単な、日常かつて美風として行われていた習慣であることを、まず公教育の場で否定はしないで取り入れていただきたいというようなことから始まって、更に一歩。  単に、ちょっと時間長くなってしようがないんですが、歴史上、例えば奈良から、奈良仏教が堕落したから平安仏教、私、天台宗ですからすぐそんなことを言いますけど、そんなこととんでもない話なんですね、実は。これは政治的な見解なんです。例えば、江戸時代は後れていて駄目だというのが、最近の研究になって、江戸時代のあの寺子屋の学問水準があったから明治維新になってからもどんどん西洋文化を消化できて、一躍日本の文明が進んでいったということが分かってきたんです。奈良仏教もそうなんです。奈良の立派な仏教あるけど、更に今の時代には平安の天台宗、比叡山とか高野山、こういう仏教が大事だということで申請をして加わったんですね。ところが、歴史上は一つを悪くしないと面白くないものですから、それがだんだん普通の常識にこう敷衍して。  ですから、やはり歴史を教える上でも正しい宗教的な歴史、社会のついでにちょこっと教えるんでは、やはりそれでは足りないんですね。そういうことで、今までついでに国語の中でちょこっと教える何とかじゃなくて、宗教的な視点を持って、文化がなぜこういう立派な文化が華開いてきたか、そういう意味合いで取り入れれば、必ずしもだからそれを信仰しなさいというんでなくて、日本文化を幅広く理解できる。そうすれば、世界に行っても、例えばイスラム教のこと知らなくてもばかにされないんです。イスラム教の人にも怒られない。だけど、あなたは仏教徒ですかとか、はいそうですと言ったら、仏教何ですかと、答えられなきゃばかにされる。宗教を持ってないといってばかにされる。  そういうことで、公教育の場ではもう少し宗教教育を改めていただければ有り難いと、このように思うわけです。
  38. 山本恒夫

    参考人山本恒夫君) 家庭教育とか生涯学習の方でどうかというお話でございましたけれども、私は、家庭教育の方に関してまず申し上げますと、やはり宗教ということをその知識として持ち込んでいっても、ほとんど受け止めてもらえないんだろうと。やっぱり人間の生き死にに関する根本的な問題だということで、やはり親の方がこれを受け止める。  例えば、今お話がありましたキリスト教は一神教と、子供のときから神との対峙というので、最初は何も分からないけれどもやってきた。その代わり、ある程度人間としての自覚ができるときになると本当に悩むわけですね、小説にもいろいろありますけれども。そういう中で無信教になる人もいれば、それからそれを更に信仰していく人もいる。そういうような人間の内面との対決みたいな、対峙みたいなものがあって初めて人間らしくなっていくんだと思いますから、そういう点でも家庭教育の中で宗教に関する中身のことを取り上げていく、親が自然にそういうことを取り上げていくという雰囲気は大事だと思います。  特に最近は、例えば小さい子供なんかですと、動物とかそういうものの死んだりするところって見たことがない。ですから、小学校なんかでもそうなんですけれども、ヤギを飼います。ヤギを飼って、農家の方は、子供が生まれるとヤギは子供をある程度独立させようとして突き殺すように突きますよと、だから離しなさいと言うけれども、先生も知らない、子供も知らない。ある朝行ってみたらヤギが死んでいた。死とは何だ、それで小学校二年生ぐらいが深刻なショックを受けてということがあるわけですね。そういうことも含めて宗教ということをしっかり考えていただきたい。  それから、政府の方の案では宗教に関する一般的な教養、一般的な教養というのが入っていますが、一般的な教養というのは一体何だということも真剣に検討してもらいたい。教養というのは生きる方法論ですよ。ですから、生きる方法論を身に付けるということ、ただ単に知識を身に付けるということではないと思うんですね。ですから、その辺のところをやはりこれからの教育では考え直していく必要があるんだろうと思っております。それは生涯学習ですね。
  39. 鈴木寛

    ○鈴木寛君 ありがとうございます。  私どもも、生の意義と死の意味を考察し、命あるすべてのものを尊ぶ態度を養うということ、この生命に関する教育ということを重要だと思っておりますので、今の山本参考人お話、非常に感銘をいたしました。  それから、杉谷参考人にもう一点確認なんですが、私どもの前文で、宗教宗教の共生の精神といいますか、宗教協力といいますか、いろいろな多様な宗教をやっぱり認める姿勢というのは非常に重要だと思っておりますが、先ほどからそうしたことをおっしゃっておられますが、改めまして宗教の共生について、杉谷参考人全日本仏教会であられると同時に、冒頭お話がございましたように、日本宗教連盟の方のこの宗教教育の御議論の中にも大変中心的な人物として加わっておられましたが、そのお考えを確認をさせていただきたいと思います。
  40. 杉谷義純

    参考人杉谷義純君) 今、大変、宗教戦争と言われているようなことは世界で起こっておりますが、一方では、歴史上も、先生方宗教戦争という言葉をお習いになったと思うんですが、宗教戦争というふうな名前で呼ぶと非常に便利なんですね。日本は別にして海外におきまして、何教、何教、何派というと、あなたの宗教は何ですかというと、ああ、この人はこの国においてはどういう民族である、何語をしゃべって、どういうことだという、いわゆる戸籍調べみたいなことになるわけです。ですから、無宗教というと、どこに属しているか分からない、これはどうも怪しい人だということになるわけで、宗教というのは非常に大事な要素なんです。  しかしながら、なぜ宗教戦争が起こるかというと、その戦争が起きた原因を調べてみますと全部もう利害の対立なんですね。これは宗教がもとで起こったんではないと。起こった後に、仲間を糾合して相手を倒すために、意識統一をするために宗教が利用される。これは利用される宗教者も悪いですし、また利用する方も便利だから利用するわけです。そういうことでございまして、本来、宗教はお互いに話し合う余地がある。  そういうようなことで、一九六〇年代から宗教対話ということが非常に世界の流れになりまして、バチカンにおいてもキリスト教以外の宗教が神が認めたと、これが気に入らないんですね。仏教は神様に認められなくてもあるかもしれませんが、まあ一応それぞれ自分の理解で相手を理解するのは当然でございますから、そういうことで、またイスラムも、ムスリムといいますが、穏健な方々は理解をします。  ただ、イスラムにおいて結局ああいうテロとかジハードとか、ジハードもこれは本来は向上するという意味でございますけれども、万やむを得ず自分がおとしめられるときには仕方がないと、非常にそういうところまで追い込まれるというような悲惨な状況があるわけです。そういう意味で、やはり他宗教に対する寛容の姿勢というもの、また、理解をする姿勢、これは最も私は重要だと思うんです。  それで、またちょっと手前みそになるんですが、分かりやすい例として、例えば比叡山を開いた伝教大師最澄という方は、一目の羅、鳥を得るにあたわずと。一つの網の目、かすみ網を想像してください、一つの網の目では鳥は捕れない、だからかすみ網のように網はつながっていなきゃならない。それと同じように、一つ宗教だけでは御縁ものですからすべての人を救えない、だから奈良仏教のほかに天台の仏教も必要だということで願い出たんですね。ところが、その最澄上人が学んだ天台大師という方の本に、一目、一つの網で鳥は捕れないけれども、捕ってみれば一つの網だというんです。だから、宗教は協力するけれども、シュンクレティズムって、全部教義をごちゃごちゃにするんでなくて協力をしながら人をそれぞれすくい取るのは、やっぱり見てみると鳥が一つの網に引っ掛かっているように、それぞれの宗教であるという言葉があるんですね。  これは、正にこの宗教教育においても、その網の目にとらえるまで教育するんじゃないですね。網を張る宗教がありますよ、皆さんの人生を全うするためにいろいろな道がありますよということを選択する知識を与える、またその意義を教えると。これが非常に重要でありますけれども、自分の宗教でなければ駄目だというようなことでは、これはあってはならない。  例えば、ブッシュさんがキリストに勝利を願い、フセインさんがアラーの神に祈って戦争をしましたけれども、そういうような短絡的な選び方ですと、今のような非常な混乱が招くという一つの教訓ではないかと、このように思います。
  41. 鈴木寛

    ○鈴木寛君 小川参考人にお尋ねをいたします。  私も正に参考人同士で教育基本問題調査会のようなところでどんどんけんけんがくがくやっていただきたいというふうに従来から提案をいたしておりますが、先ほど成嶋参考人から不当な支配をめぐって民主党案は与党案よりなお悪いというお話がございました。それについてどう思われるかということと、それから馬居参考人から、心ではなくて態度にとどめたことがより望ましいというお話がございましたが、それについての御意見を承りたいと思います。
  42. 小川義男

    参考人小川義男君) 後の方からお答えしますと、心と態度というものは、私は騒ぐほど大きな違いでないと。教育はすべて心に及ぶものです。例えば、老人を大切にしましょうとか、友達をいたわりましょうというのは、態度の育成の問題ではなくて心の問題です。心なきところに態度の育成など出てきません。その意味では、民主党案と自民党案で、その間に万里の長城できるぐらいどうにもならぬ違いではないと私は理解しております。  ただ、あえて心をそれほど恐れるという辺りに、我が国のいろいろな悲しい歴史も、この六十年以前にあった歴史に対する政治家の一部の方の憂慮があるので、これに対しては敬意を持たねばならないと私は思うんですね。国民主権の原理での国家というのは実は国民なんですね。その辺りを考えて、そんなに心配しないでずばり心で大丈夫ですと。その点が両案にそれほどの違いがないと思いますのと、何より民主党案の方が政府原案より文章が美しい。私は学校先生なものですから、その点で美しい法文にしてもらった方がいいと、こういうことですね。  それから、不当な支配の問題は、民主的教育とは何かと。一つ学校における教師の多数意思による学校運営ではなくて、国民全体が求めるような内容の教育推進すること、これが民主的教育であると。あるブランチ、ブランチにおける自治、これが直ちにデモクラシーだというのではなくて、民主的教育というのは、ある町、ある地域における、ある学校におけるそのときの影響力を持つ人たちの多数意思ではなくて、そうではなくて、国民全体の意思で大まかなところは決めておくと。  大綱的基準というのは、今日、私の見解と反対の参考人先生も大綱的基準ということをおっしゃる。ただ、そこで言う大綱的基準というのは、恐らく教育の内的事項にかかわることは含めてはならないと、こういうふうに言っているのだろうと思いますね。その点で、この大綱的基準の何たるかをめぐって争いが起こると。この辺りは民主党さんの案がどのようにお考えか、私は見解を述べておりませんけれども、要するに国民全体で教育自主性、創造性を圧迫しない、そういう辺りに配慮した規範というものを設けるということは民主的教育推進という上では必要だと。現行学習指導要領はその域を脱しているものではない。この辺りを教育基本法改正案の中でも残しておいた方がいいだろうと思っております。
  43. 鈴木寛

    ○鈴木寛君 世取山参考人にお伺いをいたします。  子どもの権利条約のお話、非常に私も感銘をいたしました。民主党案では、実は、子どもの権利条約の二条、十七条、十八条、二十三条、二十八条、二十九条を参照、大いにした条文をそれぞれ盛り込まさせていただいております。子どもの権利条約は九四年に日本は批准をしておりますので、そういう意味でいえば、この際、今教育基本法が議論になっているときに、そうしたことも参考にしながら、あるいは私どもが従来から申し上げております国連の人権規約の十三条の二項の(C)、高等教育の漸進的無償化条項、こういう国際、あるいはユネスコ条約とかいろいろありますけれども、こうしたことをやはりきちっと国内の憲法に準ずる教育基本法で盛り込んでおく意義というのはあるんじゃないかというふうに思っているんですが、その点いかがでございましょうか。
  44. 世取山洋介

    参考人(世取山洋介君) まず、教育基本法が基本法たり得る理由はどこにあるのかというお話をしたいんですけれども、それは、憲法に順接して、なおかつ憲法と同じぐらい重要な権利を書き込んであるから基本法は基本法であるわけですね。  したがって、新しい基本法を作るというのであれば、憲法より下位にありますけれども、下位法を無効にする力を持つ国際人権法の原則を書き込むというのが筋だというふうに私は思っていますし、正直言って政府案の方はそういう配慮がなくて、憲法の原則とは無関係な、あるいはそれと逆接する原則を書き込んでおりますので、でき上がった後、本当に基本法としての力を持たしていいのかどうかというのは今から悩んでいるところです。  民主党案は、確かに国際人権条約を反映させている点において評価できます。それは民主党案のいいところだというふうに私は率直に思っていますが、ただ、書き込みが弱いのは、やはり条約の十二条の意見表明権です。意見表明権について、子供意見自由に言わせて何させるつもりだというふうにおっしゃられる方も多いんですけれども、これはそういう問題ではなくて、むしろ子供が、うんと俗な言い方をしますけれども、親に対して必ずねえねえと言ってくるわけですよね。あるいは、先生に対してねえねえ、話聞いて。多分、それが先ほど小川参考人が言った好かれるということの本質だと思うんですけれども。  そういう、ねえねえというふうに子供が自由に言えて、先生がなあにというふうにして聞けると、そういう関係学校教育の中にきちんとつくるんだということを、民主党案がどこまで考えているのか、あるいは気付かなかったのかもしれませんし、あえて排除しているのかもしれませんし、それは分かりません。ただ、どうせやるので、どうも済みません、変な言い方で、国際人権条約の原則を反映させるのであれば、まだまだ反映させるところはあるし、民主党案を発展させて、また次なる国会でまた二つの案が対決する構図が生まれれば本当にいいなと思います。
  45. 鈴木寛

    ○鈴木寛君 ありがとうございました。
  46. 谷合正明

    ○谷合正明君 公明党の谷合正明です。  参考人先生皆様、本当に本日はありがとうございます。  私の方から、まず山本参考人に質問をさせていただきます。  まず、政府案でございますが、私たち公明党は、現行教育基本法というのは、その理念をまず高く評価していると。しかしながら、六十年近く変わってこなかった、その間、進む時代の変化というものは大きいと、特に学ぶ側の立場を尊重するような生涯学習、こういった新しい項目というものを追加すべきだと、つまり足らざるものを加えるべきだというスタンスに立ってまいりました。  そこで、今回、政府案では、生涯学習を始めとしまして、幼児学習等、八項目が新たに追加されます。そのことにつきましての評価と、それを具体化させていく上での課題をまず参考人、お聞かせください。よろしくお願いします。
  47. 山本恒夫

    参考人山本恒夫君) 今の点ですが、今お話があったように、本当に六十年、その間に新たな課題、問題が出てまいりました。六十年前に教育基本法を検討した方々のお話を伺っていますと、やはりその時代の制約があっていかんともし難かったというのがたくさんあったと、入れられなかったということがありました。それは占領下だからということでございました。その話は本当に、我々聞いていても大変だったんだなと思うわけです。  しかし、それはそれといたしまして、その後、時代の変化で今のようなことがいろいろ出てきていると。それについても、やはり機が熟さないとこういうものに入れることはできないだろうということは重々承知しております。  しかし、今やそういう時期に来ているのではないかと。学校教育のいろいろな問題、それから幼児教育の問題、さらに生涯学習云々ということは繰り返しませんけれども、社会の変化の激しい中で、もう生涯にわたって学習していかないとどうにもならないところまで来ているわけですね。それをやらないと、日本社会これからどうなるんだという危惧がいろいろあるものですから、我々としては、今回新たに入れるということで出されているこの案につきましては全面的に賛成をいたしております。  それをあとどうしたらいいのかということになるんですけども、教育基本法に入っても、それは理念ですから具体的にはなりません。それについては必要に応じてそれぞれの教育領域の法律改正していただくということが必要だろうと思いますし、それはすぐ検討されるだろうと思います。  しかし、それはそれで結構なんですけども、ちょっと申し上げますと、やっぱりいろいろなところで言われることは、最後は、教育基本法に入っているのかと、教育基本法にちゃんとそれが入れられているのかと。入れられていなければそんな重要なんじゃないじゃないかと言われてしまうということがあるものですから、今回このような形にしていただけるというのは日本の国にとってもいいことではないかと思います。
  48. 谷合正明

    ○谷合正明君 時代の変化もまああったわけでありますけれども、私は大きく二つあるんじゃないかなと。一つが人口減少、そしてグローバル化だと思っております。  まず、先ほどの質問と関連するのかもしれませんが、世取山参考人に質問させていただきます。  私、グローバル化の中で、具体的に現実問題としてある一部の自治体で起きているのが定住外国人に対する教育の問題でございます。もう説明するまでもございません。日系ブラジル人等の増加があるわけであります。しかしながら、この政府案の中には明確には書いておりません。  私は、その条約と法律のはざまの中、こういう問題がこれから先、日本の将来、更に顕著な問題になっていくんではないかと思っているわけでございますが、今後この外国人の教育問題についてどう取り組んでいくべきなのか、あるいは、その基本法という、どういうふうに位置付けていくべきなのかについてお伺いさせていただきます。
  49. 世取山洋介

    参考人(世取山洋介君) これは、端的に言いますと基本法で対応すべき問題だというふうに思います。  なぜならば、差別の禁止原則及び差別的状態を是正する国家の義務と直接かかわっているからです。その点、民主党案は外国人の教育に対しても配慮が払われているんですけれども、政府案では残念ながらそのような配慮が見えないというのは正直に指摘すべきことだと思いますし、そのことが書かれてないということについて、やはり政府はより深刻に考えるべきだというふうに思います。  国際人権条約でいえば、ポイントになるのは、やはり母語による教育を選べば母語による教育提供するというところが最大のポイントでして、一体、その母語で教育を受ける権利を認めると。で、その上で、漸進的にどういう制度を整備していくのかということについてやはり国家に対して義務付けを明確にすべきだし、そうであれば教育振興基本計画なるものは多少たりとも意味があるというふうに思っています。  そういう意味では、政府案も基本法に書き込むべきことを書き込んでないという意味ではまだまだ見直す余地があるわけですので、そういう見直しをしていただければ本当にうれしいと思います。
  50. 谷合正明

    ○谷合正明君 続きまして、杉谷参考人馬居参考人に伺います。  それは愛国心ということでございます。我が党は、そもそも教育というのは国家のためという手段ではなくて、そもそも人格を形成する目的であるという観点から、戦前の軍国主義、国家主義を想起させるような法案であってはならないと、そのように強く訴えてまいりました。その結果として、伝統文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに云々という表現になった、愛する態度を養うという表現になったわけでございます。  その中に、国という意味で、国には三要素あると。国土、国民、そして統治機構だと。で、統治機構は省くんだと、ここは共通理解になった。さらには、政府答弁におきましても、総理大臣の方から、統治機構というのは含まないということに明確になったわけでございますが、そのことの意義意味合いといったものはどういうものなのか。ここを杉谷参考人馬居参考人に聞かせていただきたいと思います。
  51. 杉谷義純

    参考人杉谷義純君) 先ほど来御意見も出たと思うんですが、国民主権という今の時代から考えると、国というものが国民と別の存在、離れた存在でなくて、国民そのものがまた国であるということかと思いますので、もちろん、統治機構とかそういう機構的なものは、これは非常に無機的なものでございまして、愛する愛さないより、そこから出てくる国民全体の文化、そういうものを含めてを愛するということで、まあ戦前、一時大変な不幸な時期があったことにすべて重点を置いて、だからいけないという判断でなくて、国民主権がきちんと行われるような国であり社会である、そういう点を踏まえての基本法でなければ、幾らこの法律を良くしましてもそれは運用できないということでございますから、そういう観点に立って国を愛する。  ただ、私、態度と心ということで、宗教者でございますから、やはり行、行動と心は一致をしていないとそれは人格形成と言えません。先ほど、態度はちょっとごまかすことはできる、それはごまかすという心が態度をつくっているんで、やはりこれは心なんですね。ですから、これはまあいろんな御事情があってたくさん議論がされたということも承知しておりますので、私はそれをいい悪いというようなことは申し上げませんが、ただ、やはりこれは自然に心という方がより広く国民に納得がいくのではないかというふうに率直に考えます。
  52. 馬居政幸

    参考人馬居政幸君) 今のところから、私の話を出していただいたんで。  私は、杉谷参考人さんとかあるいは小川参考人さんのように、自分で教育を演出している方が心をはぐくむと言うことを否定しているわけではありません。国家が法によって心を記すということに対して私は賛成できないというんです。  態度は形が見えます。それから、この態度をじゃプラスに評価するかマイナスに評価は議論することができますが、確かに今言われたように心がそれを表すわけですが、心は現実には評価できないですよね。評価しないことが大事だとよく言うけれども、じゃ評価しないものを何で法で決めるのだという。実際にその効果が見えないわけですから。  心は最後のとりでであって、学校先生子供たちを教える上で心に働き掛ける、これはあってしかるべきです。しかし、法がその心を、愛国心を教えなきゃならないというふうに書くことについては、私は、その心が何なのかということを具体的に示さない限りは賛否を出すことができないという意味で、同時に、たとえその心がこれこれしかじかの心ですよと言ったとしても、態度は目に見えますから、その態度を取るか取らないかによって判断できますが、取らないことをマイナスの場合も、取ることをプラスと見る場合、逆の場合も考えられますが、心の場合は実際にそうなのかどうかというのはだれも判断できないわけです。だれも判断できないものを何で法に書くんだという部分が。最後の国を愛するということも、私は愛したくないということを許容することを前提にして、その部分で態度で止めたというふうに私は理解したいと思っています。  その上で、だから、あくまでこれは教育基本法という法による論議であって、教育の原理を言っているわけではないと、言わば。  それから、統治機構の問題を取り出すことによって今言った論議が明確になると。  言い換えれば統治機構という、先ほど言われた、非常に、見える具体的なものが何をするかということを、それに対して愛するか愛さないかではないんだということを引き出すことによって、と同時に、その統治機構がこの案を提案しているわけですから、提案した以上は民が国を愛せるようにしなければならない、そうしますよというふうに言っていると同じことだなと。民の方には拒否する権利があると、しかし統治機構の方には民に対してそう思ってもらえるような政治を、あるいは統治をしていかなきゃならない。  そこで反対する方たちと一番違うところは、戦前と今は全く違うわけで、何が一番違うか。一番見やすいのは、それでデータを用意したんですが、戦前の場合、大学に行っている人は一%という時代がありました。今は七〇%を超えるわけです。日々、毎日、首相は多分世論調査の結果を気にしていると思います。来年の参議院で倒れるかどうかについて、この論議があるみたいにも聞きます。  言い換えると、今、国民の意思から離れて政治は絶対に動かないはずです。そういう状況の中において何が課題なのかというのを出してきているわけであって、その中において統治機構が引き出されることによって、統治機構を言わば判断できる対象として、一回先ほど言った、私の言う循環構造ですね。民が何を責任を取るか。統治機構を選ぶのは民の責任なわけですから、その統治機構が何を出してくるか、出してくることによって民はそれを判断できるんではないかということが今回の改正案によって可能になったというふうに思います。  最後に、私は、教育基本法はそんなに立派なものではないと思っています。いや、そんなに立派なものにしちゃいかぬと思っています。  足らなかったらまた増やせばいいわけで、時代はどんどん変わっていくわけですので、五十年間もたすようなことを考えたら何もできないと思います。そんなことより、今すぐやらなきゃいかぬことが一杯あるわけです。ですから、そのために必要なものを取りあえずはまずやるというところから出発していいんじゃないかと思っております。
  53. 谷合正明

    ○谷合正明君 ありがとうございました。  次に、家庭教育、そして幼児教育ですね、十条、十一条に書かれております、政府案のものでございますが。小川参考人成嶋参考人にお伺いいたします。  現実の社会問題として児童虐待というものが、これは非常に大きな問題としてクローズアップされております。児童相談所への相談件数だけでも平成十六年から三万件を超えるような時代に入っております。第十条の家庭教育の一項の方に父母の第一義的責任がうたわれているわけでございます。  そこで、この家庭教育、これが加わったことが現実すぐに結び付くものではございませんが、この加わったことの評価、そしてまた課題ということをお聞かせいただければと思います。
  54. 小川義男

    参考人小川義男君) これが加わったことは、とにかくすばらしいと思います。  それで、家庭教育に問題があるのは、私は、実は家庭の問題というよりは、私のように長く教壇に立ってきた者にとっては、我々の育てた弟子が全部親になっているわけですから、その点では、家庭が悪いというのはおれたちが悪かったということだというふうに思っているんですね。その中で本当に愛情を持てる人間を育てられたか。  それから、やっぱり人間にとって非常に大事なものとして自己抑制力の育成ですね。これを、児童の自主性ということは非常に大事で、デューイ先生が言っておられるように、子供教育の主体であって客体ではないと。これが重要なんだけれども、発達段階ということを我々忘れなかったか、乳飲み子はいかにして教育の主体たり得るのか。  小学校一年生、二年生、三年生は、もう先生にくっ付いて離れない存在ですね。この時期に教育の主体であれと言っても無理だと、やっぱりその発達段階に応じて教えるべきは教え込んでいくと、そして自我が芽生えるに従って過不足ないスピードで後退していくということが教育において非常に重要だと。そのことによって適度の自己抑制力というものを我が国の教育は行ってきたんだけれども、この六十年、いささかその辺に落ち度があったのでないか。だから、家庭を責められたら、五十七年も前に教壇に立った私としては自分が責められたように思うと。だから、学校教育をいかに立て直すかということを真剣に考えにゃならぬ。と同時に、さはさりながら、本当は我々の責任かもしらぬけど、家庭教育の第一義的責任があるんですよというふうに教育基本法で明言していただくと、やっぱりこのことの、各親たちに与える自覚というのはやっぱり強まるのでないかと。  もう一つは、やっぱりマスメディアなんかが学校教育の我々の落ち度と別に、マスメディアそのものが家庭教育を荒廃させるようなドラマとかそういうものも描いてきたと。国民全体で家庭教育の荒廃、学校教育の荒廃というものについて深く考えてみるその大きな契機になるのでないかと思います。
  55. 成嶋隆

    参考人成嶋隆君) まず、教育における親と子の関係についての、私がどのように考えているかということを申し上げます。  教育の最大の目的は、子供人間的に成長、発達する、それを権利として保障するということですね。法学的な言葉で言いますと、学習権という考え方があるわけですけれども、子供が未来においてその人間性を開花できるような、そういった教育を施すということが教育の最大の目的であるというふうに考えています。その子供学習権を保障する第一次的な責務を担うのは、これはもう自然的な関係によって親であることは間違いありません。  したがいまして、親は我が子に対してその学習権を保障する責務を担うわけでありますけれども、それをほかの市民との関係についていいますと、そのような親としての義務を言わば優先的に履行するといったような、そういう立場にあると思います。私は、親義務の優先的履行というのは一つの権利であるというふうに考えているわけですね。その親義務を優先的に履行する権利が、親の教育権、あるいはその親の教育の自由の基本になるというふうに考えております。したがいまして、親は子供学習権を保障するためにこそ、教育に対する発言権とか要求権を持つことになります。例えば、いじめが起きている場合に学校に対してそのいじめの事情について報告を求めるとか、そういったことがその親の権利として認められる必要があります。  そういった観点から政府案の十条を見ますと、ここには、親が子の教育について第一義的な責任を有するというふうに規定されているわけですけれども、それに見合った権利がここにはないんですね、親の権利が。親が子供に対して、子供教育について第一義的な責任を負う、その反面として当然親の権利というものがあるはずであります。そのことがこの条文には落ちているというところが、この十条の問題点であるように思います。
  56. 谷合正明

    ○谷合正明君 馬居参考人にお尋ねします。  今の質問と同じなんですが、家庭教育の十条一項、二項と、第一義的な責任は父母にあると、「努めるものとする。」、第二項の方で、国、地方公共団体云々で「努めなければならない。」というふうに動詞は変わっているわけでありますけれども、今、小川参考人、そして成嶋参考人の方からも意見がございましたが、それらを踏まえて、この家庭教育という、入ったことがどういう意味を持つのか、そしてまた、幼児学習というのも新たに加わっております。この幼児学習も非常に重要な意味があると思っております。  先ほど、馬居参考人は、今は本当に人口減少時代なんだと、それに合った対応をしていかなければならないと言われておりますが、この人口減少時代に対して、政府案というのはどういう役割を果たしていくんだろうかと、その辺お尋ねしたいと思います。
  57. 馬居政幸

    参考人馬居政幸君) まず、私が研究者となったスタートの時点では、多分、成嶋参考人とほとんど変わらない考え方を持っていたと思います。  ただ、実際の家庭地域学校現場というところで何が起こっているかという問題を考えていくときに、児童虐待ということが今大きな話題になっておりますが、それだけではなく、育児不安もあれば、すなわち親が子を育てること自体が非常に大きな負担の世界に入ってきているという、言い換えると、子が親になるプロセスがほとんど準備されないままに親にならざるを得ず、同時に親が親として生きるだけの支えがない中で親は子を育てなければならないという状況に陥る人たちがたくさんいるということですね。  言い換えると、少子化ということは、これは子供が少ないんじゃなくて親が少ないということであり、親が更に支え、昔、親はどうだったという話をよくします。しかし、昔の親が置かれた状況と今の親が置かれている状況は時間的にも空間的にも全く違うわけですね。したがって、その人たちをどうやって支えるかということを考えたときに、しかし一方で、入ってはならない部分と入っていい部分をやはりつくっておかなきゃならない。  そういう意味で、私は、第一義的責任を親に置くというふうに記したことは、権利義務関係の問題は確かにあるとは思いますけれども、非常に大事なことだとは思っています。基本的には子供は親が育てるんだということを原則にすることを前提にすべてが入る。言い換えれば、逆に言うと、親として子に対して積極的な働き掛けができない者に対しては積極的に公権力がかかわりますよということを宣言する、逆に親としてやられている人に対しては公権力は支えるだけに回りますよという部分の歯止めにもなるという部分で、現在の世界においては書かなきゃならないだろうと。  もう一つ、その二の方において、ただし、「努めるものとする。」ということは、してほしいという意味と私は取りました、しなさいではなくて。逆に、自治体の方は「努めなければならない。」と、これが実質的な権利を保障するものとして機能することは可能だと思っています。  その上で、幼児期の教育ということになりますけれども、私はこの部分をあえて言えば拡大解釈したいんですが、今人口減少の話をしていただきましたけれども、この基本法を作る上でどれだけ人口減少のことが深刻に考えられたのかという、子供のことが今どういう状況になっているのかということを本当にどれだけ考えられたのかということは正直疑問に思います。  その意味で、確かに家庭をつくれる親を育てていかなきゃならないという部分もあるんですが、そのことにこれはありますけれども、その立派な親をつくろうとする行為が親になりたくない人間をつくることに跳ね返っているという事実もあるわけです。言い換えれば、若い男女が親になることを妨げる高いハードルになりがちであるということも今の現実だと思います。すなわち、親はかくあるべきだということを積極的に出すことによって、そんな親ならば自分はできないという選択肢を取らざるを得ないような、それがあの三人に一人が未婚だという世界をつくり出す、すなわち、男がちゃんと子育てできなければ女はやらないという、結婚しないという選択をしてしまうという。  そういう世の中において、ここは、「幼児期の教育は、生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なものである」云々で、「その振興に努めなければならない。」、この文章をそのまますっきり読めば、子供は親がたとえ放棄しても私たちが育てますよ、社会が育てますよというふうに、言い換えると、「幼児の健やかな成長に資する良好な環境整備その他適当な方法によって、その振興に努めなければならない。」ですから、ここを広げていけば、親は産んでくれさえすればいい、あとは何とか社会の方でバックアップしていきますということまで考える段階までの道をここは開いているんではないかというふうに、あえて言えば私は思っております。
  58. 谷合正明

    ○谷合正明君 ありがとうございました。  終わります。
  59. 井上哲士

    ○井上哲士君 日本共産党の井上哲士です。  今日は、参考人の皆さん、本当に貴重な御意見をありがとうございます。  最初に、昨日もここで集中審議を行ったわけですが、今いじめや未履修の問題など様々な問題があります。私は、参議院の質疑の最初のときに総理に、こうした問題が基本法を変えたら解決するのかと、こう問いました。総理は、直ちに解決するものではないが、解決のための理念を付け加えるんだと、こういう答弁でありました。  そこで、山本参考人と世取山参考人にお伺いをするんですが、山本参考人が出られた教育改革フォーラムで中教審答申の報告が政府からされておりますが、この改正の視点として、個人の尊厳、人格の完成、平和的な国家及び社会の形成者というような現行法の基本理念は引き続き継承すべきだと。そしてこれに、二十一世紀を切り開く心豊かでたくましい日本人の育成を目指す観点から理念を加えようとしている、こういう説明がありました。  私は、この二十一世紀を開く心豊かでたくましい日本人の育成の理念がないから今の問題が起きているとは思えないわけで、引き継ぐべき先ほど述べた三つの理念というのがあれば十分に今の問題に対応できると思っておりまして、改正の必要はないんではないかと思うんですが、それぞれ御意見をお伺いしたいと思います。
  60. 山本恒夫

    参考人山本恒夫君) 今の問題でありますが、今回の教育基本法改正というのは、戦後六十年の教育そのものを、必要なところを残しながら、問題のあるところは変えていくということだと思います。  先ほどのお話の点ですが、具体的に、確かに今これで変えたからすぐにあしたから変わるというものではないと思います、教育というのはそういうものでないと思います。  しかし、今、例としてお出しくださった、心豊かでたくましい日本人というのがありました。これについて言いますと、議論がございまして、最初はたくましい日本人という話でした。しかし、そういうものではないだろうと。先ほどちょっと申し上げたことの延長線上ですけれども、やはり日本人ということを考えたときには、そのたくましいという、どっちかというと経済的なイメージがあるだけじゃなくて、心豊かということを入れるべきだと、これは強硬に中教審でも主張して、フォローがありまして、入ったわけですね。  というと、その心豊かというのと、それから、たくましいというだけと、心豊かでたくましいということの違いというのは、この基本法からだんだんだんだん下りていって広がっていったときに、非常に大きく影響してくると思います。それをきちっと調和をさせていかなくちゃいけないということで、影響があると思いますので、そういう点でいけば大きな影響力を持つ、ただし、あしたからではない。  いじめその他の問題というのは、やはり戦後六十年の教育のある意味では総決算、先ほどお話がございましたように、我々の責任というところがあると思います。ですから、その辺りで今みたいな考え方もしっかり入れていくということをやっぱりやっていかなければいけないと思っております。
  61. 世取山洋介

    参考人(世取山洋介君) 現在の日本教育の問題が、競争主義的な教育制度に由来することは国際的にもほとんど当たり前のこととして言われていて、先ほど紹介しましたように、これだけ豊かで、九九%の子供義務教育を終了している豊かな国における公教育制度が発達障害を生み出している、こういう批判を、批判というか指摘を受けているわけで、恐らく一国の教育制度についての指摘としては一番きつい指摘なんだろうというふうに思うわけですね。  問題は、今度の改正が、じゃ競争的教育制度を改めるのか、あるいは他にプレッシャーを転嫁しなきゃいけないようなそういうプレッシャーを減じることになるのかということなんですけれども、私は答えはノーだというふうに思っております。  既に教育再生会議等々で学力テストの問題も論じられ、ますます教育の競争が激化する方向に向かっておることは、もう公言しているわけですよね。したがって、今度の改正ではますます状況がひどくなるだろうというふうに思いますし、だれも子供は幸福にはならない可能性が高いというふうに思っています。  現行理念に基づいた方がよろしいのではないかというのはそのとおりで、それは〇四年に示された国連の子どもの権利委員会の勧告も教育基本法に共鳴していますし、学テ最高裁判決に共鳴しているし、正にそのとおりだというのが私の理解です。
  62. 井上哲士

    ○井上哲士君 ありがとうございました。  次に、第二条にかかわって、成嶋参考人馬居参考人にお聞きをいたします。  先ほど来、国を愛する心、それから態度ということの関係が議論になっておりました。私たちは、言わば内心の自由にかかわる徳目を法律に定めるということ自体が問題だと思っておりまして、それは憲法十九条が保障した内心の自由を侵害をすることになると、こういうことを思っております。政府は、これは内心の自由は侵さないんだということを答弁をするんですが、一方、そして態度を評価をするんだ、心は評価しないと、こう言います。しかし、最近特に強調される答弁は、態度と心は一体なんだと、こう言うわけですね。ですから、そうしますと、結局やはり内心に踏み込むんじゃないかという懸念が出るのは当然だと思うんですが、ここの点をそれぞれどうお考えか、お願いをしたいと思います。
  63. 成嶋隆

    参考人成嶋隆君) 法と道徳の関係につきましては先ほど申し上げたとおりでございます。道徳規範を法定すべきではないというのが私の基本的な考えでございます。  そのように考える理由としまして、法というものの性質を改めて考えてみたいと思います。  国会議員というのはローメーカーと言われまして、立法についての専門家でいらっしゃいますから、正に釈迦に説法ということでありますけれども、法というのは社会において最低限守られなければならないルールを規範化したものであると。ですから、その違反に対しては、先ほども言いましたように、制裁といいましょうか、法的な制裁が用意されているわけですね。ですから、法によって規律すべきことは、正にその社会にとって最低限守らなければならない、そのようなコンセンサスを得たルールでなければならないと。例えば納税義務でありますとか、社会を維持していく上で最低限の事柄を法定するわけですよね。  それは、言い換えますと、各個人の良心的な判断に任されるべき事柄については法はノータッチであるべきであると、法はそこには干渉してはいけないということであります。言い換えますと、法というのは心のルールではないということですよね。心のルールではなくて行動のルールであるというふうなことが一般的に言えると思います。道徳というのはまさしく心の問題ですよね。心の持ちようにつきまして法定することの問題性ということを先ほど指摘したわけであります。  態度と心の問題について言及がございましたけれども、政府案における態度を養うという文言につきましては、明らかにこれは特定の態度、しかも、恐らくは政府が公定した、政府が求める態度を表明することが子供たちに求められるという筋道に向かっていくということが大いに予想されます。その前例といいますのは既にあるわけでありまして、例えば福岡市で始まった通知表で愛国心をA、B、Cの三段階で評価するという、あのようなやり方であります。そういった教育実践はこの法案二条によってますます広がっていくということが懸念されるわけです。  以上です。
  64. 馬居政幸

    参考人馬居政幸君) 先ほど言いましたように、基本的な法に対する考え方のスタートは成嶋参考人とそんなに変わりませんし、多分御質問されている方とそんなに変わらないんですが、それをより徹底させますと、現行教育基本法も内心の自由に入り込んでいるわけですよね。基本的にはどの法も理念法はみんな入っていますよね。したがって、私はだから基本法は嫌いだと言ったのはそういう意味であります。原理的に現行教育基本法こそ教育勅語と同じような様相を私はしていると思っております。  ただ、法が機能するかどうかとはまた別の問題で、実際にここでお話しされている方たちも、全く違った考え方を持ちながら、しかしお互い仲良くやっています。日本人たちがどういう法によって一番良い生活を理解できるかということを考えたときに、現在の教育基本法というのはかなり有効に機能したんではないかということも先ほど言いました。  逆に、もしそれが、この書かれていることが実現していないから日本教育が今悪いんだと言うんでしたら、六十年も掛けてできない法なんか捨ててしまえというふうに正直思います。そのこと自体がもう変える理由になるでしょうと。そのことを踏まえて態度と心のことを考えますと、私は、だから法が規定できるのは目に見える世界だけであって、目に見えない世界は規定してはならないと。  ただ、心豊かに云々という理念的なものをうたうことは別に問題ないと思うんですけれども、その心豊かながどうなのかといったら、みんなそれぞれ解釈が違いますので、しかし、ここに言うような国を愛する心というように非常に明確に出てくるものに対しては、やはりそれを拒否する権利も置いておかなきゃならないし、何が国を愛するかというのは立場によって全部変わってくる。その部分を一々規定するのはまた別としてと。  そんなことはできやせぬ以上は判断できる範囲にとどめるべきであり、しかし、他方でこういう部分が必要になっている現実もまたある、それを求める人たちもいるということの関係でぎりぎりのところであるというふうに私は思いました。
  65. 井上哲士

    ○井上哲士君 参考人の間でこの旭川学テ判決をどう見るのかが議論になっているわけでありますが、そこで小川参考人、世取山参考人成嶋参考人、それぞれにお聞きをします。  まず小川参考人でありますけれども、あの学テ判決の趣旨が、学習指導要領の大綱的指針といいますか、これを認めているんだと、その枠であるべきだと、こういう御意見だったと思います。  そこで、最近九月に東京の地裁が、東京の教育委員会が発した通達に関する裁判で判決を出しました。あの地裁の判決も、学習指導要領の大綱的基準というものを認め、そして当然、だからこそ教育委員会が発する通達や職務命令も大綱的な基準に留めるべきであったという判断をした上で、現実に卒業式のやり方などを事細かに決めて、例えば障害者の方が、今までフロアで自分で卒業証書をもらっていたのに、一律的に舞台まで上がらなくちゃいけないとか、こういう事細かなことについてはこれは外れているじゃないかという判決だったと思うんです。  そういう点でいいますと、正に大綱的基準をはみ出したという点でこの判決と同じお考えかということがまず小川参考人です。  それから、世取山参考人成嶋参考人にお聞きいたしますのは、この旭川学テ判決については、全体をどう見るかとか様々な議論はあろうかと思うんですが、今回の法改正との関係でいいますと、例えば政府は、この判決を引いた上で、今回の法律によって教育委員会等の命令や指導などが不当な支配でないことが明確になったと、こういう答弁をしておりまして、言わば法律に基づいたとすれば教育委員会がどんな指導命令をやってもこれはもう不当な支配じゃないんだということを言っているわけですね。こういう読み方が正しいのかということをそれぞれのお立場からお願いをしたいと思います。
  66. 小川義男

    参考人小川義男君) まず、教育委員会であろうと教育委員会外のものであろうと、不当な支配は不当な支配だと。だから、今先生がおっしゃった、教育委員会はどんなことでも命ずることができると、そのような主張がどこかにあるとすれば、それは私は断固としてぶつかる点ですね。そんなはずはない、またそんなばかなことをしている行政機関はないのでないかと思いますが、先生の方が情報詳しいでしょうから、私もよく調べてみないと分かりませんけれども、不当な支配というのはあくまでそれは不当であると思いますね。  それから、東京地裁の判決については、これは公務員の、公務員というのは対価をもらって働く義務を負っているものですから、上司の指揮命令に服する必要があります。そのような状況の中で儀式の統一性という問題、この辺りは限界事例ですよね。相当微妙な問題で、それをどう扱うべきかは、これは下級審判例ですから、高裁、最高裁と行って最終有権判断が下るまでは相当の揺れがあるだろうと。その点で、地裁段階の判決について、ここで私は詳細知ってもいないので、言及することは避けたいと思います。  ただ、問題は、この不当な支配と言われるものについて、学習指導要領の大綱的基準性に関して、教育の内的事項に国家あるいは公共団体が関与をすること自体が不当な支配になると、こういう主張があるわけですね。この点は、それは違うだろうと。最高裁の判例でも、それはその内容にもよりますよね、内容にもよる。教育のどこまで行政機関が介入したか、例えば教え方一つにまで徹底的に介入したことになれば、それは不当な支配になるし。  ただし、ここで私が申し上げたいのは、教育の内的事項に対する国家、自治体の関与それ自体が不当な支配になると、こういう主張がなされていることの無意味性。  それからもう一つは、このような見解を主張する人たちが、大学におけるアカデミックフリーダムですね、教授の自由が下級教育機関、小中高等学校です、の教師の教授の自由、教育の自由にも及ぶと主張をしている点は、小中高等学校の生徒の発達段階を無視している点で無理があると。  この点で、なぜこれほどまでに国民の名における大綱的基準性での教育への国家機関、自治体の関与を拒否するのか、この辺りは理解し難いところであるし、最高裁判所は、その内容に適正性を失わない限りにおいては、これは内的事項にも関与し得るというふうに言ったのが学力テスト旭川判決であり、これが最終有権判断で、この辺りをしっかり尊重していただく必要があるではないかと思っております。
  67. 世取山洋介

    参考人(世取山洋介君) まず、最高裁判例の引用される箇所について読み上げますと、憲法に適合する有効な他の法律の命ずるところをそのまま執行する教育行政機関の行為がここに言う不当な支配となり得ないことは明らかであるが、つまり、法律の命ずるところをそのまま執行するような法律であれば、そのまま憲法に適合していれば不当な支配に当たらないんだけれども、しかし、この後こう述べているんですね、他の教育関係法律は教基法の規定及び同法の趣旨、目的に反しないように解釈されなければならないのであるから、教育行政機関がこれらの法律を運用する場合においても、当該法律規定が特定的に命じることを執行する場合を除き、教基法十条一項に言う不当な支配とならないように配慮しなければならない拘束を受けているものと解されると。  つまり、法律の中で一義的な命令、命令内容が一義的に分かるものとそうでないものとを区別しているわけですけれども、しかし、皆さんお分かりのように、ある法律が一義的に明確に何かを定めているということはむしろ法律の世界では例外でして、必ず行政機関が解釈して適用するわけです。したがって、最高裁学テの正確な読み方は、ほとんどの法律の場合はきちんと教育基本法十条の趣旨に沿って解釈し適用しなきゃいけないんだということを言ったものだというふうに理解すべきだというふうに思っております。  もう一つ、一応指摘しておかなければならないのは、いわゆる大綱的基準説と言われているもののあいまいさで、最高裁は学習指導要領でさえこの判決では法規だとは言いませんでした。つまり、大綱的基準の範囲をどこに定めるのかについてはまだまだ見極めが必要なわけで、しかも非常に細かい見極めをしないと、薬を何グラム配合すると人が死ぬのか死なないのかというぐらい非常に丁寧な仕分をしなきゃいけないということになると思います。  東京地裁判決が出たんですけれども、あれは最高裁学テ判決を適用すれば当然出てくる判断であったと思うわけです。ただ、あそこで示されているのは、非常に東京都が細かいことをやっていったということをとらえて、もうさすがにそれは不当な支配が当たるのだということを言っているわけですけれども。  大綱的基準説の持っている問題点というか、そもそも教育活動を法的に統制しようとする場合持っている問題点というのは、教育活動というのはそもそも有機的ですので、一体どの部分をとらえて違反というのかという判断それ自体が実は結構難しいんですね。それを徹底しようとすると教育の隅々にまで統制を及ぼすという志向性を生み出すというところが最大の問題点なわけです。  先ほど、我々が何か非常識なことを言っているかのように言われていたんですけれども、教育法学の通説の主張は、教育内容については助言、指導で大丈夫だと、文科省が優れた教育実践を全国から集めて優れた著書を作れば、それはおのずと教師は従うだろうと。しかも、教師というのは日常的に教師と子供の目にさらされているわけだから、そんなにめちゃめちゃなことをできる職業でもないし、すれば必ずその目によって是正されるような職業であるわけですね。その方向性をなぜ考えないのかということについて、私はやっぱり疑問だということを述べて終わりにします。
  68. 成嶋隆

    参考人成嶋隆君) 政府案の十六条一項によって法律に基づく教育行政機関の行為は正当化されるというふうに説明されることの真意が分かりかねるわけでありますけれども、先ほど申し上げましたとおり、政府案によりますと法律によるあしき不当な支配という筋道が出てくるということが問題点だと思います。  法律に基づく行政とかあるいは一般に法の支配あるいは法治主義という言葉ですけれども、これはただ単に法律に基づきさえすればよいという、そういう原理ではありません。その法自体が適正、正当なものでなければならぬという、そういう要請を含んでいるわけでありまして、法律であればそれに従っていれば何ら不当性はないんだということにはならないと。  したがいまして、この法律というのもまさしく先ほど指摘しましたような様々な問題点を含んでいるわけでありまして、そのような法律に基づく支配はまさしく不当な支配に該当するというふうに考えられます。
  69. 井上哲士

    ○井上哲士君 じゃ、もう一点、成嶋参考人にお伺いしますが、第一条の問題です。  最初に申し上げましたように、人格の完成などという理念は引き継いでいるんだと。現実に言葉としては第一条に「人格の完成」が残っているわけでありますが、「必要な資質を備えた」という文言に置き換えられているという問題がありまして、随分意味合いが違っているんじゃないかと私は思うんですが、その点、成嶋参考人の御意見をお伺いしたいと思います。
  70. 成嶋隆

    参考人成嶋隆君) 私もその「必要な資質を備えた」という部分が気になるところでありまして、だれがこの必要な資質を認定するのか、だれが定めるかということです。  恐らくは、後の十七条に出てくる教育振興基本計画というものによって、法案の二条を踏まえる上でそのような必要な資質というものが政府によって決められてくるようなことになるんだろうと。それが法案全体にかぶってくるわけでありますから、この政府による恣意的な必要な資質の定め方によっては、この文言が非常に統制的な役割を果たすということになると思います。
  71. 井上哲士

    ○井上哲士君 もう一点、じゃ、成嶋参考人にお聞きしますが、五条で義務教育の九年を、この年限をなくしております。これがどういうことをもたらすか、御意見をお伺いしたいと思います。
  72. 成嶋隆

    参考人成嶋隆君) この点につきましてもいろいろ問題点が指摘されているところでありますけれども、現行法で「九年の普通教育を受けさせる義務を負う。」という形でいわゆる年限主義の義務教育を定めているわけでありますけれども、義務教育というのは教育の言わば最低限の保障ということになるわけでありますけれども、その今最低限の教育が無償で実施されているわけです。  これを九年間としてその年限を定めたという、この現行法にはそれなりの意味があると思います。これを外すということは、例えば飛び級、飛び入学といったような変則的な義務教育の形態をもたらすということでありまして、そうした形で教育を受ける機会の格差、不均等が生ずるということが懸念されます。
  73. 井上哲士

    ○井上哲士君 最後、山本参考人にお聞きをします。  参考人は、山口での教育改革フォーラムに参加をされております。今、教育改革タウンミーティングでのいわゆるやらせ質問が大変問題になっているわけでありますが、フォーラムに参加をされたわけですが、同様のところでこういうことが起きていたということに対して、参加された一人としての御感想をお聞きしたいと思います。
  74. 山本恒夫

    参考人山本恒夫君) 私どものは一日中教審というので、今のタウンミーティングじゃなかったわけですね。私どもの聞いている限りでは、その時代、聞いている限りではでごめんなさい、だけれども、賛成、反対とかいろんなのを出していただいて、その意見を出していただくと。ですから、対決したりいろいろあったわけですね。  ところが、それが今度の場合には何かお話だと違うというので、それはやっぱりまずいんじゃないかと、率直にいろんな意見を聞いた方がいいんじゃないかと、私は本当にそう思っています。
  75. 井上哲士

    ○井上哲士君 ありがとうございました。終わります。
  76. 渕上貞雄

    渕上貞雄君 社会民主党の渕上貞雄でございます。  長い時間、参考人の方、大変御苦労さまでございます。貴重な御意見をいただきまして感謝を申し上げる次第ですが、各現場で又は研究でいろいろ教育問題について発言をされたり実践をされていることに、まず敬意を表します。  今、私はこういうふうに思っているわけですね。今の教育というものが、偏差値教育中心にしながら塾教育に重点を置いて、エリートコースをどのようにつくり上げていくのかと、ここに余りにも力が入れ過ぎているのではないか、こういうふうな認識を実はした上で、最近、学校を取り巻く状況でいろんな問題が起きている。とりわけ、教育現場でとか、教育問題を語る現場で起きてはならないやらせだとかサクラだとかというような言葉が語られた上でこの教育基本法問題を議論をしなきゃならないなんというのは、私は残念で仕方がない。したがって、今日、先生方の、参考人の方々のお話を聞いて思ったのは、六人の方で様々意見が違うわけですね。賛成の方もあり、条件付きの方もあり、慎重論もあり、やや問題ある、もう少し議論を深めていくべきではないかなど、意見があるところでございます。  そこで、私は、基本的に今の教育基本法というものが、国家を統治をしていく場合の国家統治機構としての重要な役割を果たす教育という問題、とりわけ教育が国家百年の計の基礎だというふうに言われているし、例えば、来年のことを考えるときには隣の人を見なさい、十年後のことを考えれば木を植えなさい、百年後のことを考えるときには人を育てよという中国の言葉がございます。このように、やはり百年の計、国家統治機構を考えていくには、多少私は拙速過ぎるのではないかという立場なんです。ですから、もう少し慎重に議論をしていくべきではないかというふうに思っているところです。  したがって、先生方がそれぞれの立場でいろんなところで発言をされている。で、発言をされていることが、これから先の百年に対して、今ここで教育基本法改正をしなければならないのかどうなのか。私はもう少しじっくり議論をしていくことが大事なことではないか。今ほど教育問題について国民が関心を持ち、これほど教育問題について広く語られている時代はなかったのではないかと。だから、これは非常にいいチャンスだと思うんですね。チャンスであるだけにしっかりした基本法を作っていくべきだろうと、このように考えているんですが、私の立場は立場として、それぞれ六名の参考人の方々、今拙速に教育基本法改正をしなければならないのか、どういうふうにお考えなのかが一つ。  これまでも教育基本法に従って、憲法を中心にして、憲法を具体的に実現をしていく教育基本法、その教育基本法を具体的にまた実現をしていくためには、まあ生涯学習法とか文化法とか、いろいろ法律が十一項目以上にわたってあります。そこのところをより充実させることを通して、私は今の教育問題点のあるところを柔軟に対応できるのではないかというふうに考えているんですが、各参考人の方々、いかがでございましょうか。
  77. 山本恒夫

    参考人山本恒夫君) 今の説でございますが、私どもは教育学を専攻しまして五十年近く教育についていろんな立場の人と議論してきておりますが、そこからだけではなくて、いろいろな歴史上のことを見ても、教育論議はエンドレスであると思っております。永遠に続く論議であって、問題だと。したがって、ある時期ある時期でそのときの課題というものを、それを解決できるものは何らかの形で具体的に何らかの措置をとる、それ以外は積み残して議論をしていくと。これはだれであれ、専門家であれ個人であれ、教育についての議論をしたら恐らくエンドレスだろうというふうに思います。  そういうことからしますと、今緊急の課題といっても一年や二年でということじゃなくて、ここ十年、十五年、あるいは日本社会を変えていくということにとって必要な問題があれば、それを取り込んで基本法を解決すべきではないかと。お話のように、基本法に入れなくても十分解決できるという問題はあります。しかし、基本法にないということで、先ほど申し上げたように一向に有効性を発揮できない。具体的に言いますと、生涯学習関係法律はありますけれども、地方へ行けばみんな跳ね返されてしまうわけでございます。ですから、そういうところはきちんと入れていく必要があるだろう。  緊急の課題、今例が出ましたエリート教育にウエートを掛け過ぎているのではないかということでございますけれども、問題は大学の入試にございます。大学の入試を変えたいと、これは高等学校長会の会長さんがいつも言うことです。替わるたびに言うことです。しかし、変わりません。どうして変わらないのかということがありますが、社会を変えなきゃ変わらないと思うんですね。  社会を変えるのにどうすると。いろいろありますけど、生涯学習社会というのは若いときの学歴だけで物が決まるんではないと。今いろいろ話も出ているようでございますけれども、生涯にわたる学習というものをやはり積み上げていって人間をつくっていく、あるいは社会で活躍するんだということでございます。ですから、先ほどのように、学習成果の認証ということをやっていきます。そうしますと、その人の履歴書は生涯パスポートと呼んでいますけれども、学歴の次にいろいろ出てきます。それが出てきたら、二十二歳のときか二十三歳のときの学歴というのはそんなに重きを置かなくなってくるわけですね。というようなことがあります。  ですから、生涯学習社会の、先ほどの仕組みを是非つくっていきたいんです。我々この案を出して四半世紀、それを努力しています。私なんかは学者ですからたかが知れていますけれども、努力していますが一向にそれが進まないんですね。ですから、この際、是非そういうことを基本法に入れていっていただきたい。  おっしゃるように、議論はいろいろやっています。それは、また議論をしてこれから先変えていけばいいのではないかと思います。  以上でございます。
  78. 杉谷義純

    参考人杉谷義純君) 主に私は宗教教育のことを述べてまいりましたけれども、やはり日本の歴史をちょっと考えてみますと、文化の断絶が二度ほどあった。明治維新とこの第二次大戦、戦後ですね。これは、それまでの文化伝統を全否定して新しい出発を図った。  明治維新においては、神仏習合そのほかいろんな宗教概念も政治の力で神仏分離等々行われたりいろいろしました。また、この終戦によって、それまでの国家主義的な方向を改めて、新しい民主社会に生まれようと。明治の近代化それから新しい民主社会とプラスの面を見れば非常に美化されますけれども、実際上、日本文化というものは断絶されてきてしまった。そういう中でのマイナス点を検証いたしますと、現在、正に日本文化が断絶されそうな、再び三たび目の危機を迎えていると。  例えば、核家族化、そのほかいろんなことで日本の美風として定着していた道徳、倫理の観念、そのほか家庭教育、自然に親から教わって何となく子供が上手に育てられた、そういうことも非常に難しい。こういうふうな時代背景を抱えている時期に、やはりこの教育基本法というものは時代即応のものにしていく必要があるんではないか。そういう意味では、改正すべき時期であろうというふうに考えます。  ただ、その手続上ですね、改正する以上は幅広い多くの意見を集約をしていかなければならないと。これは確かに、教育は百年の議論がずっと続くと思うんです。自分の意見が取り入れられないと、ともすると幅広い意見を聞いていないんじゃないかというようなことにはなりがちですけれども、そうでなくても、やはり先ほど来いろいろ参考人の方々の意見等々問題点を列記いたしますと、もう少し深く配慮が必要な点があるんではないかと。そういう意味で、今運用によって可能な部分もあるけど、やはり改正をするタイミングであろうというふうに考えるわけです。  そのほかの、非常にエリート教育云々と。私も大学運営に関与していますけれども、外から一宗教者として大学は何やっているんだと思う反面、大学、少子化で生き残るためには、より優秀な学生を選ぶにはどうか。未履修の問題、あれ大学が悪いんだと、試験科目に出さない大学が悪いと非難される方の大学は強者のように映るんですが、逆に大学は非常に社会要請によって何とかしなきゃならないと。  先ほど山本先生のおっしゃるとおり、社会全体のこの価値観、そういうものに対してやはり幅広い考えを持っていかなきゃいけないんではないか。そういう意味で大きく戦後欠落してきたのは宗教教育ではないか。特に、全国の私立幼稚園、特に仏教保育連盟等、また宗教保育連盟等では、幼稚園の就学は私立が約九割ぐらいだった時代があるんですね。そこ、ほとんど宗教関係の幼稚園でした。幼稚園できちんと宗教教育、手を合わせていただきますというようなことを自然に抵抗なく受け入れた子供が、小学校に上がるといただきますも言わないでもう我勝ちに給食を食べてしまうと。この教育は何だったんだろうかと。やはり、公教育において最低限の宗教教育というものが必要ではないかと。これは戦後ずっとやはりお願いをし、運動してきた問題でございます。  そういう意味においては、やはり教育基本法改正する時期である。しかし、その改正手段において、やたらに急いで、一部切捨て、早く成立させなくてはいけない、そういうことではあってはならないと、このように考えます。
  79. 中曽根弘文

    委員長中曽根弘文君) 時間が余りありませんので、是非御配慮ください。
  80. 馬居政幸

    参考人馬居政幸君) まず、時間が短いかどうかというのは、これは多分主観的なものであって、短いと言う人もいれば長い人もいる。  私の考えは、もし先ほど言われたように、変えなくてもやれるんだったらやればいいということを前提にするならば、じゃ今の基本法は要らないんですねというふうに言いたいと思います。私は元々基本法は嫌いですので、なくした方がいいと思っています。だけど、今の基本法があることによってできないことが一杯あるというふうに山本参考人は言われました。実際にそういうことは起こります、行政は常に。やらない理由として使う場合もあれば、やる理由として使う場合もある。  したがって、現行の基本法は確かに法理論上いろいろあるんでしょうけれども、私のような俗物から見れば、今使われていない言葉とかもう時代後れな表現が一杯あるわけですね。変えない方がおかしいわけです。問題は先ほど言ったようにどう変えるかで、変えるんなら早く行って次の段階に進んでくれ、小田原評定いつまでやっているんだということが正直自分の思いです。問題は一杯あるんで、次に早く行ってくれというのが実際の現場にいる人間からの発想でございます。
  81. 成嶋隆

    参考人成嶋隆君) 今回の教育基本法改正問題の発端となりましたのは、御承知のように二〇〇〇年の十二月に出されました教育改革国民会議の最終報告書であります。この教育改革国民会議というのは首相の私的な諮問機関、つまり、故小渕首相、次いで森首相の私的な諮問機関でありました。  この国民会議における議論ですけれども、ある教育学者は飲み屋談義というふうに酷評いたしました。酒場で、飲み屋で酒を飲みながら、酒を酌み交わしながら無責任な放談をしていると。そういったことであるというふうに評したわけです。確かに、委員の非常に印象論的な教育に対する批判が出されまして、例えば、子供がひ弱でこらえ性がなく、モラルが低下しているといったような、総じて子供、そして教師、そして親に対する、何といいましょうかね、不信感あるいは敵がい心とでもいうような、そういった教育現場に対する不信に満ちた報告書でありました。  この報告書の内容の一部が翌年すぐさま法制化されました。その結果、例えば問題を起こした児童生徒を出席停止にするとか、学校教育に奉仕体験活動を導入するとか、あるいは指導力不足教員を免職し、配置転換するといったようなことが法制化されております。恐らく、今回の教育基本法改正もその延長上にあると。見方を変えれば、これまで既に先取り的に行われている教育改革を言わば法的に集大成する、あるいはそれをオーソライズするといったような意味合いを持つというふうに考えております。このような方向が果たして妥当なのかどうか。  今子供たちは競争主義的な、あるいは選別主義的な学校の中で自己肯定感を失い、そのことが自らの命を絶つといったような行動にまで至っているわけですね。恐らく今回の教育基本法改正というのは、そういった子供たちを救うことには決してならない、ますます子供たちを苦しい環境に追いやっていくというふうに考えます。
  82. 世取山洋介

    参考人(世取山洋介君) そもそも教育基本法とは何なのかというところからやっぱり考え直すべきだという、とらえ直すべきだというふうに思います。先ほど申し上げましたように、教育における国家と個人との関係を憲法十三条に基づいて整序するというのが現行教育基本法意味、なわけですね。もしこの基本的関係を変動したいのであれば、そうであるということを明言した上で、むしろ本来であれば憲法改正をしてからやるべき事柄であるというふうに私は思います。その意味で、現段階でそもそも国家、個人間関係の百八十度転換を内容としているということがはっきり国民に知らされてない段階でこれを決めるということはちょっと私の常識の範囲外に属する事柄だと言っております。  国家、個人関係をむしろ百八十度転換してでもなお解決できない問題があるのかどうかということが次の問題ということになります。つまり、個人の尊厳を無視して国家が個人を手段として用いても構わないし、そうしなければ解決できない問題があるのかということなんですけれども、実はそのことを立証する責任こそが提案者にあるはずで、その立証責任を果たしていないことについては私は間違いないことだというふうにこの間の審議を精査して思っております。その意味で、僕は規範意識という言葉は嫌いですけれども、権力を持っている人たちが果たすべきモラリティーというのをやっぱりきちんと果たしてもらいたいというふうに私は思います。
  83. 小川義男

    参考人小川義男君) 偏差値競争というようなことは本当に残念なことです。それで、実は、これは国民全体が最高学府まで通わせるだけ豊かになっていると、この土壌で起こっているために、簡単に議論しただけで防げる問題でないということを現場の第一線に立って苦悩しております。ただ、最近、公立に関して行政機関が意図的にこのような競争を激化させるような動きが起こされていると。この点、私は遺憾といたします。それで、私は私学だけれども、私の学校は茶道を必修にしているし、世界史どころか日本史も来年は必修にしようと思っております。全人教育という根本命題に我が国全体が立ち返るべきでないかと。この点は国会議員の先生方が党派を超えて御結束くださるようにお願いしたいと思います。  それから、教育基本法が国家百年の計であるということは、今後百年間変更しないということを意味するものでありません。ですから、もし改めてまずければまた改めていく。我々は法に服従するために生きているんではなくて、法は国民のためにあると。合衆国憲法がどれだけ修正してきているか、ドイツがどれだけその根本規範を変更してきているか、この辺り考えて、時代に合わせて法規範もまた発展していって、そのように生き続けていくがゆえに国家百年の計なのであると。この辺は踏まえるべきであると思います。  ただ、拙速というふうに渕上先生言われましたので、拙速に改めてよいかと問われれば、拙速に改めてよいわけはないんですね。ですけれども、恐らくこの教育基本法改正に反対なさる方は、そうでないかもしらぬけれど、どれだけ審議しても、なお議を尽くしていないから拙速であるとおっしゃるでしょう。  それで、国法を制定していくというのは、議会のこれまでの沿革に比してほぼ十分と思われる論議を尽くされた段階で前進しなければ、国会も内閣も政府も進んでいくことはできないものだと、素人だけれども私は思います。  その意味で、それからもう一つ申し上げたいのは、教育基本法が、現行教育基本法が不十分だからいじめが起きたなんて、私思っておりません。現行教育基本法の中で非常に優れた前進をした時期もあるし、今残念ながら後退が起こっている。ここで教育基本法を改めたら、総理が言われたように今すぐではなく長期には改まるだろうという御見解も、教育基本法に原因があるというふうにお考えのようです。ただ、私は、教育基本法をここで改める必要あると思うけど、いじめ問題とか過当競争の問題なんかは教育基本法から自動的に出てくるような問題ではなくて、そのほかもっと複雑な教育問題として我々はとらえ返していく必要があると。  いずれにしても、一九四五年以降に行われた一つの根本的な規範、私は教育基本法が準憲法であるというようなことは考えておりません。最高裁が言ったのも、これはほかの法律教育基本法とが抵触するかのごとくに見えるときは、この両者が調和を保てるように解釈すべきである。すなわち、法律に対する解釈の可能性が多様に存在するときには教育基本法と調和を保つ方向で目的論的に解釈すべきだと最高裁も言っているのであって、これは教育基本法が憲法に次ぐ準憲法であるということを言っているんでありません。我が憲法には、法律という規範に関して準憲法なんてものは認めたところは一切ないと。そういう点で、教育基本法が私はそれほどのものとは思ってないんですね。  ただ、まあ少し改正して前進してみようではないかと。その程度で、ベストであるかどうかは論議があるだろうけど、ベターを求めて前進するにはある段階で決まり付けていかなならぬと思います。
  84. 渕上貞雄

    渕上貞雄君 ありがとうございました。  なおそれぞれの先生方の御意見いろいろあるなと思いながら改めてまた聞かさしていただきましたが、世取山参考人にお伺いしますけど、憲法を改正して教育基本法改正することが最もいいと。なるほど非常に明快だなと、こういうふうに思いました。  そこで、今やはり国際化の社会の中で、子どもの権利条約というのを全く無視することはできないと思うんですが、今度の与党案並びに民主党案の中でも、この子どもの権利条約を基盤にして法案というものが成り立っているかどうか。憲法とのかかわり、ちょっとそこら辺が私もよく整理できませんけれども、そういう法案になっているかどうか、ちょっとお伺いします。
  85. 世取山洋介

    参考人(世取山洋介君) 資料で一番後ろに一覧表を付けておきましたが、これが対照表、「与党案は子どもの権利条約とこんなに違う」という対照表で、与党の方にはちょっと目障りかもしれませんが。これはDCI日本支部代表の福田雅章先生が作った表で、ちょっと分かりやすいように、専門家の方が読む雑誌ではなくて、分かりやすいように言葉をちょっと、ややトーンを変えて専門家の言葉でない言葉で書いてあるものなんですけども、それでもなおこれは非常に分かりやすいというふうに思います。  まず、子供観の違い、子どもの権利条約は尊厳を持った一人の人間主体、改正案は未熟にして管理と選別の対象。教育目標は、全面的発達に対して、人材養成あるいは日本国民の養成云々云々。あるいは、教育の場の形成の方法として、成長主体である子供自身及びその援助者である親及び教師を中心に相互関係性の中で形成されるのに対して、政府法案では法律と規定と命令云々云々というふうに書いてあるわけです。  政府法案と権利条約がどちらが法律上優位するかといえば、権利条約なわけです。それは、国際尊重主義の憲法の下で国際条約の方が優位するわけですので、したがって、本来であればこういうものをきちんと政府の基本法案に入れておくべきだというのが私の判断ですけれども、しかし、政府法案はこういうことを書かないで、例えば子供に規律を重んじる義務を課していたり、あるいは教育法律に基づいて行われなきゃならない。つまり、自分の目の前にいる先生の行動はすべて既に法律で決まっていて何を言っても変わらないと、こんな冷たい教育の場があるのかどうかというのは私には、これ以上のものあるのかどうか私には分かりません。  したがって、政府法案は、はっきり言って、今度ジュネーブで審査があったときには、これは条約と不適合であるという評価をもらう可能性は相当に高いんだということは言っておきます。それに対して民主党は、確かに国際人権条約を相当程度反映させて、基本法の作り方としては真っ当な線を含んでいるということは私はそう思います。ただし、十二条の押さえ方が弱くて、そこの部分の反映をきちんとしていただけたら随分違うのではないかなと。  先ほど成嶋先生が、民主党案の十八条でしたか、民主的に運営されなきゃならないということについてちょっとやや批判的な意見を言いましたけれども、ただ民主党案は、学校が自主的に運営されなきゃならないとか、あるいは学校管理何とか制度とかというのを入れていて、実は直接責任に代わる原理を書き込んでいるとも読めるわけですよね。本当にそうであるならば、是非とも十二条の精神を入れて、そういう法案なのだということをはっきりさせていただきたいというのが僕の民主党案に対する意見だということになります。  以上です。
  86. 渕上貞雄

    渕上貞雄君 ありがとうございました。  終わります。
  87. 亀井郁夫

    ○亀井郁夫君 国民新党の亀井でございますが、最後になりましたんで、もう皆さんお疲れだと思いますので簡単に済ませたいと思いますけれども、簡単に済むようにひとつ明快な答弁を短くお願いしたいと思います。私の質問も簡単にしたいなと思います。  実は、まず第一に、国を愛する態度の問題なんですけれども、昨日集中審議あって、総理も、態度には心が伴う場合と伴わない場合があると。あなたを愛します、愛しますと言ってもふりだけで、本当は全然心はどこかへ行っているというケースもあるわけですね。だから、そういうことを言いましたら、総理は、この場合は態度に心が伴ってくるんだと、こう言われるんですけれども、なかなかこの表現は問題があると私は思うんですけれども、この問題について、態度といった場合に心が付いてくるものかどうか、ゆうべ考えたらどうも分からないんですが、私の考え方が間違っているのか、小川参考人からずっと皆さん方に順番にお聞きしたいと思います。
  88. 小川義男

    参考人小川義男君) 態度には必ず心が伴うと思うんです。ですから、政府原案がそれを愛国、国を愛する心と言わないで国を愛する態度にとどめたのは、過去の我が国の歴史に対する自省があると、抑制、セルフコントロールですね、反省、こういうものがあって、あえて態度にとどめたのだと。ここには深い理念、哲学が潜んでいると私は思います。  そのときに、口先だけで国を愛するようなふりをして実は国に反する行為を取るというようなケース、それは世の中に絶無ではないだろうけれども、政府原案は、人間性というものに対してそういう悪意な見詰め方をしているんではないと思います。やっぱり、態度は必ず心が表われるものだという、人間に対するオプティミズムに立って作られた原案であると。したがって、そう悪意に見る必要はないと思います。  ただし、そうであるならば、ずばり、もう反省は反省として自戒しながら、ここで論議も重ねたことだから、これまで先生方がですね。だから、ずばり民主党案のように国を愛するという美しい文章にした方がいいんでないかと。ただし、どっちだから親の敵討つような大変な違いではないと思います。
  89. 世取山洋介

    参考人(世取山洋介君) そもそも、立法府の方が態度と心との関係を論じることの意味がどこにあるのかということがやっぱり問題だと思うんですね。前国会でこの議論が始まったときは、多分多くの国民の方々は、我々の国民代表は一体何をやっているんだろうと思ったと思います。  私が思うには、ある態度を表明することを求めたときに、内心と食い違う場合があるわけですね。つまり、国旗敬礼という態度を求められたんだけれども、実はこの国旗を国旗として認めたくないという心を持っていたときに、じゃ一体この心と態度のねじれは、そういう心を持っている人の自由の方に軍配を上げて解決するのか、それともねじれたまま態度を強制して解決するのかという、そういう問題があるわけです。  九月二十一日の東京地裁の難波判決は正にこの問題を取り上げて、両方のねじれがある場合があるのだから、態度を強制しているだけだから心の問題ではないだろうというのは余りにも不自然だというふうに難波裁判長は言ったわけですね。そのとおりだと思います。  なので、是非とも立法府の皆さんには、なぜこの議論をするのかということも含めてもう一度議論をし直してもらって、このねじれに対して、いや、これは態度を強制しているだけだから、求めているだけだから、いや、ねじれていたって構わないだろうって、こういう姿勢は絶対取っていただきたくない。それは、やっぱり憲法十九条に反しているんだというのが東京地裁判決の判断だからです。
  90. 成嶋隆

    参考人成嶋隆君) 簡潔に申し上げます。  道徳の規範を法定すべきでないという私の原則的なとらえ方からしますと、態度という文言が妥当か、あるいは心がいいのかということは二次的な問題であります。  ただ、先ほども言いましたように、「態度を養う」という文言から予想される事態は、先ほど言いましたように、政府によって公認の行為モデルが指示されて、そのような態度を示すことが確実に求められる。そして、その態度を履行したかどうかということが評価の対象になるという、そういう教育の在り方を導くと。そこが大きな問題であるというふうに思います。  それから、今の世取山参考人のねじれの問題でありますけれども、当然に面従腹背ということが予想されるわけでありますけれども、もしこの法案が面従腹背を織り込み済みであるというのならば、そのような教育の在り方が果たして教育と言えるのかどうかということが根本的に問われると思います。  以上です。
  91. 馬居政幸

    参考人馬居政幸君) 心を入れたい人と入れたくない人が現行の法に対して両方から攻撃をするというやり方ですよね。すなわち、反対する人は愛国心自体を入れたくない人と、むしろ入れたいから反対する人と、態度に対してですね。  ですから、結局、国ということを子供たちに教えていく必要があるのかどうかというときに、それに対して国をプラスに評価するように教えたいということを否定するのか肯定するのかという程度の問題であって、そんなに大層な問題ではないというふうに私は切り下げたいと思っています。国家が愛国心を云々なんという時代錯誤の発想ではなくて、この国に生きる者が自分の国に対して誇りを持てるようにしてほしいということの表現というふうに取りたいと思っています。それに対して、そんなこと必要ないという人が反対するのは、これはこれで理解をします。が、そういう人たちに私はともにあるわけではないと。ただし、愛国心を入れたいという人の、心に込めた人を言う人に対しては、私はやはり同じ立場には立ちたくないと。  先ほど心と態度がねじれることをやっちゃいかぬと言うけれども、その自由はちゃんとおいておいてほしいということが生きる知恵として私はおきたいという、ある意味ひねくれた発想かもしれませんけれども。  以上です。
  92. 杉谷義純

    参考人杉谷義純君) 先ほども申し上げましたけれども、心と態度、行動は一致するのが自然であろう、ですから、ごく自然に考えた方がいいんであろうと。そこに議論があるというのは、その背景に、悪く言えば純粋でないというか、いろんなものがそこへ付いているために、それを基に理論武装しなきゃいけない。教育基本法ですから、ごく自然に行く。  そして、心を養うことが内心の自由云々というんですが、それを評価したり、そういう場合の問題に、いわゆる自分の国が好きになるような伝統文化等いろいろ教えた中で、あっ、これは好きになったと結果的に心が動くんで、動くように教育をするというのがこれは教育の仕方の誤りであろうと。  これは非常にちょっと微妙なところもございますけれども、そういう意味で、ごくごく一般国民は自然で分かりやすい方がより違和感なく受け入れていくんだろうと。あとは今後のやっぱり国民主権の中でこの教育基本法概観を本当に自然に生かされるというような形が望ましいと思います。
  93. 山本恒夫

    参考人山本恒夫君) 態度と心で心が伴うか、これは分かりません。分かりませんというのは、態度というのは、先ほど馬居参考人も言っていました構え方であります。  それで、心というのはいろんなとらえ方がありますが、精神構造のとらえ方からすれば、国に対する考え方とか感情とか価値観を含んでおります。その構え方みたいなものがそこまでかかわってくるかどうかというのがその態度、構え方のところをどう受け止めたか、一人一人によって違うと思うんですね。それがその人の経験の中でどうなっていくかということなんで、しばらくしてから、それこそ調べてみれば分かるかもしれませんけれども、今の段階で我々が伴うか伴わないかと言ってもほとんど意味がないんじゃないかという感じがします。ただ、広い狭いということはあると思います。深さとかそういうのもいろいろあると思いますが、今の御質問に対しては分からない、一人一人によって違うと。ただし、トータルでいけば、いつかは調べれば少しは分かるだろうということでございます。
  94. 亀井郁夫

    ○亀井郁夫君 ありがとうございました。  非常によく違うということが分かりましたけれども、それだけ難しい問題だということが分かりました。  次に、宗教的情操教育の問題なんですけれども、これも議論しているんですけれども、これが入っていないわけですけれども、この問題についてどうあるべきかというのをまた六人の方に聞きたいんですが、小川参考人の方からお願いします。
  95. 小川義男

    参考人小川義男君) もう一回、済みません。恐れ入ります。
  96. 亀井郁夫

    ○亀井郁夫君 宗教的情操教育の問題について。
  97. 小川義男

    参考人小川義男君) ごめんなさい。失礼いたしました。  先ほど申し上げましたように、うっかりすると七夕でお祈り、お祈りというか牽牛織女に祈りを込めるのも宗教。それから、寺に入っていって、行ったところで我が国では手を合わせて、神社へ行ったらかしわ手打ってというようなことは、我が民族の多神教の宗教寛容性として一般的に行われてきたわけですね。  これら全体が、私が昭和二十六年、中学校の代用教員をやっていたころはこういう規制全然なかったんです、教育基本法あったんだけれども。伸びやかにやっていたのが、どういうものか、異常なくらいいわゆる信教の自由、政教分離ということで強調されるようになって、これは我が国の信教の自由の名の下に、習俗や我が民族の文化伝統が害されているのでないかと。その結果、そういうことを一切しないようになって、学校における教育が結果的に無神論の教育になっている嫌いはないかということを私は憂慮いたします。  私の学校は私立学校ですけれども、いわゆる宗教、宗派的教育は一切やっていないんですね。黙想して、親や大自然や先祖や、そういうものに感謝する心というのを非常に大事にすると。それも宗教かという人もいるわけですね。ですけれども、こういうようなものは習俗として認めてよいし、それから、遺伝学者のサムシンググレートというお話をしましたが、やっぱり人間人間を超える何かもっと大きなものにつき動かされて生きているのかもしれないという謙虚さですね、これを残すような余地はとどめたいと。  その点で、宗教的情操育成というのは残しても、決して多神教国家である我が国、宗教寛容性が確立されている我が国においては決してヨーロッパにおけるように混乱を生むものでないと。その点で、今度の改正案では宗教的情操育成ということを盛り込んでいる民主党案を生かしてもらえないかと。先ほどの提言と多少重なりますけれども、そのように思っております。
  98. 世取山洋介

    参考人(世取山洋介君) 問題は、宗教的情操という言葉の定義に掛かっているというふうに思います。  一般的には、人間の力を超えた崇高な力に対して畏敬の念を持つというのが宗教的情操という言葉の意味です。したがって、今、小川参考人のおっしゃった習俗とかそういうものとは別次元のものだと思います。  しかも、宗教的情操ということになりますと、情操というのは相当に気持ちの深い部分での事柄ということになるわけですから、単なる感性とはまた違ってくるんだろうというふうに僕は理解しているんですね。いかなる宗派であれ、すべての宗教に共通していようとも、果たしてそういう宗教的情操を培うことを学校教育で行うことが政教分離原則を定めた日本国憲法と適合的なのかどうかということについては、よほど慎重な検討が必要とされると思います。  ただし、私としては、宗教的情操教育をやりたい人たち生命と死の教育をしたいと、特に死を意識させることによってよく生きるということを子供たちに伝えたいんだという、そこは動機としては分かります、私は。ただ、それでもなお、本当にそれが子供にとって幸福な人生を本当に約束するのか、あるいは本当にもたらすのかということは僕にはまだ分からないです。というのは、僕は、あした死ななきゃいけないから、今、君、よく生きなさいというふうに言われたら、それは随分脅迫的に映ると思うんですね。それが子供にとって本当にいいのかどうかということまで含めてやはり議論してほしい、これは。そうでないと、いきなり入ったということになると、やはりうちの娘についていうと、やっぱり宗教的情操教育をやるための教科とかその科目のところについては、やっぱり親の第一次的養育責任の発揮どころですけれども、それに基づいて拒否権行使をするということになるだろうというふうに思います。  以上です。
  99. 成嶋隆

    参考人成嶋隆君) 宗教的情操という言葉自体、今の世取山参考人が言われましたように、非常に特殊な意味合いを日本においては持っております。宗教教育研究者によりますと、この宗教的情操というのは、特定宗教、宗派を超えた一般的、普遍的な宗教的信条であるというふうに説明されております。そして、その実態はといいますと、これも世取山さんが言われたように、人間の力を超えるものに対する畏敬、崇拝の念と、これが宗教的情操であるというふうに言われております。  この宗教的情操が我が国の歴史において果たした役割ということでありますけれども、特に戦前期における宗教的情操の観念というのは、学校教育の中にいわゆる国家神道ですね、これを導入する媒介の役割を果たしたというふうに言われております。学校教育の中でこのような宗教的信条が植え付けられて、例えば自らの個体が滅んでもその生命は民族の生命の中に永遠に生き続けるといったような多分に非合理的な信条を養うことによって、例えば教育勅語が求めていた国家に対する奉仕とかそういったものを導く、そういった考え方を補完するという役割を果たしたんだというふうに分析されております。  それで、現行教育基本法が制定されたときに、当初この宗教的情操という言葉が導入された経緯がございます。それがその後、今申し上げましたような宗教的情操という観念が戦前期においてもたらした負の役割に着目してその文言が削除されたという経緯がございます。  以上です。
  100. 馬居政幸

    参考人馬居政幸君) 先ほどの愛国心と同じなんですけれども、情操は心の領域に多分入っていくんだと思いますし、今の定義の仕方はいろいろありますが、私はそう考えませんと言うこともできるわけですね。一般的に広辞苑に書いてあることが正しいというわけではないわけで、概念ですから幾らでも操作可能なわけです。そんなものを持ってくるなというのが一つです。  それからもう一つは、何でそう何もかも学校へ持ってくるんだという。学校ができることはたかが知れているんだという。もし持ってくるんだったら、できるような仕組みと人とお金をセットで持ってきてほしいと。  その上で、宗教の持つ世界というのは、この改正の中にある寛容の態度とか一般的な教養というのは、これは学校が担わなきゃならないでしょう。でも、情操という宗教が持っている役割にかかわる部分については、これは中間集団が持つべきことでしょう。公教育ではなく、私教育というのは中間集団の一つと私は思っています。すなわち、公的な税によって動いている世界はそこに入ってはならない、むしろ入らないことを守り、逆に中間集団、そういうことを担えぬ様々な宗派なり教団なり宗教なり団体なりをバックアップすることの方に向けるべきであって、公教育の中にそうやって学校教育、それも公的な学校教育の中で云々ということは、これはできるわけもないことを言っているにすぎないというふうに思っています。
  101. 杉谷義純

    参考人杉谷義純君) 私は、先ほど来再三申し上げておりますけれども、宗教的情操、これについては非常に解釈も難しい点もよく分かります。そういう意味で、宗教的感性、本来人間人間らしく持っているもの、これを、宗教という名を出すとすぐ否定したがる方々も多いんですが、これはごく世界的な見地からいえば、ごく自然、人間の営み、人間人間である文化伝統の中にはぐくまれてきたものであるものだと思うんです。ですから、宗教的な感性を育てるような、そういう道筋を公教育の場ですべきではないかというふうに思います。  ただ、宗教情操といって強く決めますと、特定宗教そのほかが入り込む余地もありますので、ごくごく習俗としてなぜ今日連綿と日本文化伝統が続いてきて、お互いに仲よく生きてこられたかと、まあいろんな問題はもちろん内包はされていますけれども、国家が存続してきたかという中にある自然な気持ちの発露としての宗教的感性ということは教えていいんではないか。  それから、宗教的情操教育基本法を制定されるときに削除された、これは私どもはGHQ等の意向も随分反映されて、それは国家神道的なものが復活する可能性があるということを危惧したということではないかと言われておりますが、国家神道というような言葉が公に出てくるのは、本当もう昭和十六年ごろからなんですね。それまではそういう言葉はなかった。そして、なお明治維新になって神道は宗教でない、国民の道徳であると。大変な宗教間の議論が行われまして、明治憲法でも信教の自由を保障されておりますけど、それは仏教やキリスト教、そのほかの宗教、それで神道は国民の倫理、道徳であると。それで、倫理、道徳は全国民が守るべきもの、それが戦時体制になってなお戦争遂行のために利用されてきた、そういうような背景がございますので、改めてこの今の時代において宗教という概念を正しく把握し直した上での宗教教育というようなことになれば、その国家神道的なことは今後の、まあ杞憂と言ってはいけませんけど、より注意していけば問題にはならない、そういう時代の流れがあることを申し上げたいと思います。
  102. 山本恒夫

    参考人山本恒夫君) 人間形成の中で宗教的情操をはぐくむということは非常に大事だと思います。ただ、今、学校教育の中で宗教的な情操に関する教育ということを拾っていきますと、道徳を中心としたりいろいろな行事、いろいろあります。ですから、むしろそういうようなところでの取組を進めた方がいいんではないか、いろいろ杉谷参考人から出たような問題もありますから、むしろそちらの方の、いろいろ今行われているものの充実を図るということでやっていった方がいいんじゃないか。実はこれは中教審で議論したことでございます。私もそう思っております。
  103. 亀井郁夫

    ○亀井郁夫君 どうもありがとうございました。  時間がわずかになりましたが、もう一つお聞きしたいのは不当な支配介入の問題でございますけど、私の郷里広島は解放同盟の介入によってひどいことになってしまったのが教育の実態でした、今は大分変わりましたけども。そういう状況で、この不当な支配介入というものは何とか外してほしいという、不当な支配介入を教育委員会じゃなしに解放同盟がやったわけですからね。ですから、それに対する反発が非常に強かったんですが、そういう意味では皆さんに全部聞きたいんですが時間が余りありませんので、現場で非常に教育をやってこられ、苦労してこられた小川参考人にちょっとお尋ねしたいと思いますが、この問題についてお願いしたいと思います。
  104. 小川義男

    参考人小川義男君) 私は、学校教育というのは校長の恣意でもなく、そこに生活している教員の恣意でもなく、国民全体の意思を体現して行う、これが学校教育というもののあるべき姿だと思っております。  それで、国民全体が求めるような内容の教育、それは何かというと、一部の人は、教師の専門性に基づく判断なのだと、あるいは下級教育機関の教師も教授の自由を持っているから自分の見解で教育を進めることができる、実際にはもっと良心的にやると思いますが、そういうふうに主張してくると。そのときに、やっぱり国民全体が求める内容の教育とは何かというと、それはやっぱり学習指導要領なんですね。その学習指導要領の網の目が小さ過ぎるというのであれば、これを広げることは必要でしょう。そういう点で、私は現行学習指導要領を昭和二十六年以来ずっとその下でやってきて、今のゆとり教育になってからは少しきめが粗過ぎるかなという思いはありますけれども、やっぱりそれに基づいてやっていくという以外によりどころがないんですね。  公務員は、すべて公務員は全体の奉仕者であって一部の奉仕者ではないわけだから、国民全体の意思に従って学校というのを運営しようとする校長に協力していただかねばならない。ところが、ここに、学校は、教育は創造的活動だから自治的にやればよいとする主張があるんです。私はよく言うんだけれども、例えば、狭山警察署で署員がその市内における速度制限を勝手に決めたら市民は納得しないだろうと。教育は警察行政と違いますから、非常に創造的、弾力的、独創性を尊重する分野です。ですから、それに掛けるネット、規範というのは相当緩やかなものでなきゃならないと。しかし、それに基づかねば国民全体の求める内容の教育はやれないと、そのような教育子供は受ける権利がある。  私は、校長というのは子供教育を受ける権利を保障するために国民学校に送り込んだ特命全権大使だと思っているんです。これを妨げる動きは、私の校長在任中全期間を通じて激しくあったと。しかし、それは十分説得して、最終的には納得してきたけれども、やっぱりこれらは、国民全体が求めるような規範を実質的にあらゆる方法を使って妨害しようとする動きは、これは教育に対する不当な支配だと思っております。
  105. 亀井郁夫

    ○亀井郁夫君 どうもありがとうございました。  済みません。これでもって終わります。
  106. 中曽根弘文

    委員長中曽根弘文君) 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。  参考人の方々に一言御礼のごあいさつを申し上げます。  本日は、長時間にわたり御出席をいただき、また貴重な御意見をいただきまして誠にありがとうございました。委員会を代表して一言御礼とさせていただきます。本当にありがとうございました。(拍手)  本日は、これにて散会いたします。    午後五時十三分散会