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井口参考人 大東文化大学の
井口と申します。
私が呼ばれた趣旨は、立派な先生の後で、
国会法改正について何でもいいからしゃべろ、そういう趣旨だというふうに理解をして、少し違う話をしようと思います。
ただ、私だけ
レジュメが二枚ですので、これは全部しゃべれないなと思いますので、ひょっとしたら
小林先生が私に五分ほどプレゼントしてくれたのかもしれませんが、それでもしゃべり切れないと思いますので、省略しながらしゃべろうと思います。
少し
制度設計の基本的な
考え方のところに触れようと思っています。そのことが
制度の適切な運用に資するというふうにも
考えているからです。
レジュメの一番目の、
憲法改正の
発議の位置づけというところです。これは当たり前の話なんですが、確認しておきたいというふうに思います。
憲法改正の
発議というのは、
国民に提案される
憲法改正案を
国会が決定すること、一般的にこういうふうに定義されるわけです。イメージとして、下のように図をつくってみました。これは先ほど
小林先生が
憲法問題というふうに語ったような場面ですね。これは、ある問題に対して、
憲法を
改正する、明文の
憲法を
改正することによって解決することが必要であるという認識に基づいて、ある
改正案が
国会でつくられる。この場合、Aという問題に対して、A1という
憲法改正案がつくられる。これの承認の
手続が
国民投票ということになるわけです。
当たり前ですが、それは、
一つは、
発議がなされなければ
国民投票がなされないという
意味でもあるし、逆に、
発議に対応した
国民投票であるという
意味もあって、そのことを確認しておきたいというふうに思います。
二番目の、
国民投票の
意味というところですが、今申し上げましたように、
発議された
憲法改正案に対して
国民の過半数の承認があるかどうかということが問われているわけです。上の図で言えば、A1という
憲法改正案についての過半数の承認が
国民の中にあるのかどうかということが問われているということです。
若干、この特別
委員会で次のような趣旨の発言があったように聞いております。大多数の
国民が改憲を望んでいないという改憲反対派の主張を実証するためには、
国民投票で否決するのが筋であるという、この種の発言があったように伺っております。これは恐らく
手続法制化に反対するなという文脈で言われたのだというふうに思いますが、若干これは気になっております。
というのは、
憲法改正案が否決された場合であっても、それは大多数の
国民が改憲を望んでいないということを実証したことにはならないわけです。例えば、上の図で言えば、A1という
改正案が否決されたというだけであって、
国民の大多数は、実はA2とかA3とか別の
改正案を望んでいたかもしれないわけです。あるいは、別の問題、Bの問題についてのB1、B2という
改正案、あるいはCという問題のC1、C2という
改正案を望んでいたかもしれないわけです。
ですから、あくまでも、
日本国憲法の九十六条の
憲法改正国民投票制というのは、
発議された
憲法改正案に対する
国民の過半数の承認があったかどうかを確認する
手続であるというふうに理解すべきであると思っています。
残念ながら、
国民の過半数が、圧倒的多数が
憲法改正を望んでいないということを実証するための
国民投票というのは、
憲法は予定していない。というのは、
憲法改正しないことを
発議する
権限は、
憲法九十六条によって
国会には与えられていないからです。そう
考えるべきだというふうに思っているわけです。あくまでも、図で言ったら、A1という
国会が
発議したものに対する賛否が問われているにすぎないわけです。
そうでなくても、
憲法改正に反対だったら
国民投票で反対すればよい、こういう主張があるわけです。これも、よく吟味してみると、誤解を招くようなことではないかなというふうに思います。
実際に
発議されて
国民投票ということになれば、反対する人は言われなくても反対をするわけです。問題は、
発議の場面でそのことを言われた場合どうなるかということです。
非常に生々しい例で申しわけありませんけれども、あくまでも仮定の話だというふうに理解をしてください。
自由
民主党が、昨年まとめたような新
憲法草案を
憲法改正案として
国会に
提出したとします。この場合、
民主党がそれに反対すると
国民投票は行われないわけですね。もし
民主党がこれに反対であれば、
発議に反対ということになるわけですから、
発議が不成立で
国民投票が行われないということになるわけです。その場合、
憲法改正案に反対だけれども、それは、
国民投票を行わないということによってその
意思を選択したということになるわけです。その場合、反対だったら
国民投票で反対せよというのは、それは筋がおかしいというふうに僕は思っています。
もし、これは
国民投票で決めるべきだというふうに言って、
民主党も賛成して、
国民投票をやると、これはなれ合い
国民投票というべきものですから、これは
憲法が予定していないものであるというふうに僕は思っています。
そういう点で、
国民投票の
意味というのは、あくまでも
発議された
憲法改正案に対する過半数の承認の
有無が問われているということにすぎないわけです。とすると、
発議に対応した
国民投票ということですから、
発議に
意味がないと、
国民投票の
意味がないものというふうになるように思います。
レジュメの三番目ですが、不適切な
発議は
意味のない
国民投票をもたらすというところです。
これは、よく、条文と現実が乖離しているから
憲法改正をしよう、こういう主張があるわけです。ここでは余り生々しい例を出すとよくないので、私学助成の場合を例にして、たまたまきょう三人とも私立大学の教師でありますので、いい例かなというふうに思ってしゃべろうと思います。
よく、私学助成が
憲法に違反している、だから
憲法を変えろ、こういう
議論があるわけですね。では、私学助成を合憲化するような、はっきりと合憲化とわかるような
憲法改正案を
国民投票にかける、これで
国民が賛成をすればどうなるかというと、別に何も変わらない。私学助成は今までもあったわけですから、何も変わらない。では、
国民投票でこれが否決されたらどうなるか。私学助成がなくなるのかというと、多分なくならないと思いますね、今でもあるんだから。なくすのであれば、私学振興助成法ですか、これをなくせばいい。つまり、
法律を
改正すればいいということになるわけです。
だから、現実と
憲法の乖離が
憲法改正の正当化事由とよく指摘されますが、
国民投票というのは、
発議というのは、ある
意味では、
国民は何を選択するんだという、実は何にも選択できないということになるのではないのかというふうに思うわけです。
よく、条文と現実が乖離しているから解釈改憲によって
憲法改正をする、これをこのままほうっておくとどんどんどんどん
憲法がなし崩しになる、こういう
議論があるわけですね。今言ったように、そのような
改正案が仮に承認されたとしても、現実は変わらない。否決されたからといって、
国民の否決の
意思を、もっともっと解釈改憲をやっていいという
意味にとるのは全くおかしなことになるわけですから、実はこれは何にも変わらないではないのかというふうに思うわけです。
だから、そういう不適切な
発議が
意味のない
国民投票をもたらすという点、あるいはそういう
発議をすることの
責任ということを理解しておく必要があるのではないのかというふうに思っております。そういう
意味では、
国民投票にとって
発議は重要な
意味を持っているというふうに思っています。
もう
一つ、
レジュメの四番目、
発議過程の情報提供機能というところです。
先ほど言いましたように、あくまでも
国民投票は、Aという問題に対して
国会がA1という
発議された解決策を提案して、
国民がそれを承認するかどうかということが問われるわけです。その際、
国民にとってAという問題に対してA1しかないのかどうかということ、これを知っているかどうかは
国民投票にとって重要な機能、
意味を持つというふうに思います。つまり、A2やA3の
可能性があるのかどうかということ、これが重要な
意味を持ってくると思います。つまり、他の選択肢の
可能性ということですね。この点で、
発議の過程でどれくらい少数派の
意見が酌み入れられるのかということ、これが重要なことではないのかというふうに思っています。
両
法案とも、これは
国会法改正案というふうに言った方が正確なのかもしれませんが、いずれも通常の
法律の場合よりも
議員の
憲法改正原案の
提出について要件を加重しております。言ってみれば、その分だけ少数派にとっては別の対案を出しづらいというふうになっているのではないのかというふうに思います。修正動議についても同じような取り扱いがなされています。
これは学説でも、確かに、
憲法改正の
発議については可決の要件が加重されているんだから、
提出の段階で要件を加重することも合理的であるという
考え方の方が多分強いように思います。しかしながら、私自身は、今言ったような少数派にむしろ
提出の
可能性あるいは修正の動議の
可能性を認めることによって、同じAという問題に対してA1以外の選択肢、A2、A3というものがあるんだということを知って
国民投票が行われるかどうかは非常に重要なことであるというふうに思いますので、この
国会法改正案については少し疑問が残るところです。
もう
一つ、
民主党案の中の諮問的
国民投票の方についても
発議要件が加重されていますが、これは少し私は
意味がよくわからないところでございます。
続いて五番目ですが、恐らく、
憲法審査会の
部分を除くとすると、
制度設計の中で重要な
意味を持つものは、
国会法改正案六十八条の三の「内容において関連する
事項ごとに区分して行うものとする。」という、この
部分であろうというふうに思っています。
法案では、
憲法改正原案の
提出の場面で内容において関連する
事項ごとに区分をして行うというふうになっていますが、いわゆる個別投票、個別
発議の
原則というのは、
国会が
国民に対して問題を投げかけるときに個別でなければいけないということですので、
法案は
原案の
提出の
部分でそれを要求していますが、これは出すところでも要求されるということだというふうに思っています。つまり、
憲法九十六条一項の
意味での
発議の場面での要請であるというふうに思っています。
ただし、内容において関連する
事項ごとに区分するという、この区分というのを今まで割と肯定的に私も評価していたときもあったんですが、よく
考えてみると、区分というと、大きなものがあって区分するということになると思うんですね。何を区分するのかというと、大きな
改正案があって、これをこう区分するということだと思うんですね。そう
考えると、どうも私が
考えているのとやはり違うんじゃないかというふうに思うんですね。
私の
考えは、先ほど図にかいたように、Aという問題があったら、それに対してA1という
改正案が出てくる、それが幾つかの条文にわたるときがあるということですから、これは区分することはあり得ない。むしろ問題なのは、Aという問題に対するA1という
改正案なのに、そこに別の問題を入れるなということだと思うんですね。つまり、内容において関連しないことをくっつけるなということになるというふうに思います。つまり、僕の
言葉で言ったら、個別
発議、個別投票の個別の単位というのは、その問題ごとだということになるわけです。
これも例で申し上げると、これはちょっと生々しいかもしれませんが、例えば、
現行の自衛隊を
憲法上何らかの形で位置づけるべきであるという問題がある。それに対して、いろいろな、A1、A2、A3というような立場があり得ますね。例えば、自衛のための必要最小限度の実力として自衛隊を置くというような
規定を置く。あるいは、自衛のための戦力として位置づけるという
改正案がある。いろいろな
改正案の
可能性がある中で、
憲法改正の
発議を
国会は行うわけです、
一つの案として。もう
一つ、そこで位置づけられた自衛隊がどういう
活動をするのかということについて、例えば海外での
活動について、文字どおり
集団的自衛権を認める、あるいは国連指揮下のもとでだけ認める、あるいはそうではない形のものを認めるといういろいろな
改正案がある中で、
一つの
改正案ができる、そして提示されるということですから、これはそれぞれ別の問題に対する
改正案というふうに僕の
考え方では理解すべきものだというふうに思っています。そこを、両方とも安全保障にかかわる問題であるから、これは内容において関連するものであるというふうにくっつけるということは、できない、するべきではないというふうに思っています。
ただ、私が今言ったようなことは、多分、条文化するのは非常に困難だというふうに思っています。自分で
考えてみても、具体的にどういうふうに条文にすればいいのかということがやはり難しいんだというふうに思っています。なので、今私の言ったような立場と同じであるという
可能性の限りにおいて、内容において関連する
事項ごとに区分するという点は支持したいというふうに思っています。
今の点にかかわって、全面
改正と
部分改正という話があります。
全面
改正も、内容において関連する
事項ごとに区分して個別に
国民投票にかけるということはできるではないかという見解があるわけですが、この点は、多分、僕と
高見先生は少し
意見が違うのかもしれませんが、文字どおりの、例えば
制定過程そのものを問題にしている、押しつけ
憲法だからこれはよくないというような
議論というのは問題が一個なわけですね。それに対して
一つの別の
憲法をつくるということですから、僕自身はそういう全面
改正は
憲法上できないというふうに理解していますが、その場合というのは、やはり分割できない、区分できない、だから
一つのパッケージでしかかけられないということになると思うんですね。
というのは、
制定過程が問題だと言っておきながら、象徴天皇制は押しつけられてもいいけれども九条は嫌だというのは、実は
制定過程は問題にしていないわけです。区分できないはずなんですね。その点では、全面
改正というのは一括でしかかけられないということになると思います。
それでも、全面
改正であっても、それぞれ問題がいっぱいあって、全部くっつけて、全部問題なんだというふうにしてやれば分割できるじゃないか、こういう
議論はあるんだと思いますが、これも、ふと
考えてみると、あくまでも仮定の話ですが、明治
憲法から
日本国憲法への転換、これは一応帝国
憲法の
改正手続に沿ってなされているわけですね。この場合、厳密に
制定と言わずに、こだわらずに、一応
改正と言っておこうと思います。もし仮に、
日本国憲法が明治
憲法の全面
改正だと。この場合、もし
国民投票にかけたときに、個別にかけていったときに、第一章の天皇は明治
憲法のまま残っちゃって、あとは全部
日本国憲法というのはあり得ないということだと思うんですね。そういう点で、全面
改正でも個別にできるというのは、私は若干違うのではないかというふうに思っております。
次に六番目の
国民投票における
国会の位置づけということですが、これは、今
高見先生が言われたとおりであるというふうに思っております。あくまでも
発議機関としての
国会ということです、そこに徹するべきであるというふうに思っています。どうもイメージとして、
国民投票で、護憲派と改憲派という二元論的な対立があって、そこで闘うみたいなイメージを持っているかもしれませんが、まずは
国会と
国民が向かい合うということになっているはずですね。
国民投票の場面で、無料の
意見広告について、賛成、反対派について両方均等にという
議論がなされているようですが、私は、そもそもなぜ政党を優遇するのかよくわからない。これはどういう
憲法改正案か
前提としないという
議論をしているわけですから、仮に、全会一致で
憲法改正案が
発議される
可能性はあるわけですね。そうすると、全政党が賛成ということになるはずです。その場合でも、
国民投票で
国民に賛成か反対かを問うということになるわけですね。今のような場面では、賛成派だけに無料の広告枠が与えられるということで、やはり変わりがないということになるのではないかという点で、政党の優遇
制度そのものに少し疑問を持っております。
ただ、ではどうすればいいのかという具体案、よい代替案を出せと言われると、少々、これについても、ないというのが現状でございます。
七番目の
憲法審査会。これについては、今
小林先生、
高見先生二人の方からお話あったところだと思いますので、省略したいと思います。
八番目の
立法化をめぐってというところも省略をして、最後の九番目の終わりにというところに行きたいというふうに思っています。
こういう発言はふさわしくないのかもしれませんが、私自身は、法制化することについて、今
憲法改正手続を
制定するということに若干の懸念を持っております。
六十年前につくっておけばいいというのは、そのとおりかもしれません。しかし、六十年前と同じスタンスでつくる、これはそもそも不可能です。それができるんだったら、
憲法も六十年前に戻りましょうよという
議論になるはずです。真空の状態で、こういう
法律がいい、こういう
憲法がいいというのは我々
憲法学者がやればいいことなのであって、
国会議員の
先生方は、生身の、
政治的、社会的な状況の中で
立法化の
仕事をされているはずです。現実の情勢の中で
立法化をして、それを実際につくることがどういう
政治的な効果とか歴史的な
意味を持つのかを無視して
法律を
制定するというのは、やはり僕は無
責任であるのではないかというように思います。
もちろん、私自身は、あらゆるタイミングで、どんな内容であっても、
憲法改正手続法を
制定することに反対という立場ではありません。しかし、現状では、多分、隣のお二人の
先生方が言ってきたことと関連するんだと思いますが、誤った
憲法論というか誤った改憲論というか、あるいは僕から見た誤った
国民投票論というものにつながる、むしろそれを促進する
可能性があるから反対というふうに思っています。
これは、十月に、先月、学会の中で、私じゃなくて隣の
高見先生が
報告された中で、実は、
憲法改正の
発議がなされて
国民投票が行われるころには、いわゆる
憲法改正はもう全部完成している、そういう状況になるのではないかということを言われておりました。これは、私、全くそのとおりだというふうに思っています。
つまり、最初、あの表に基づいて、Aという
憲法を変えなきゃいけないような問題があるのに、実を言うと
法律でやる、
内閣法制局の解釈を変えてやるというような動きがあるわけです。つまり、
国民投票を行わないで実質的な
憲法改正を進めていく。そういう状況で行われると、多分、まともな
憲法改正にも、まともな
国民投票にもならないというふうに私自身は
考えているので、今
憲法改正手続を
立法化することが、むしろそういうよくない
国民投票論というか
憲法改正を助長する
可能性があるので反対であるというふうに思っています。
一番最後に、これはフランス語なのですが、これは、私が、比較的昔、大学院のころ読んだフランスの
憲法の教科書の
言葉なんですが、訳を間違うとよくないので、原文でそのまま書いておきました。これを一応直訳すると、一八七五年
憲法は不完全なものではあるが、しかし、我々は
憲法改正に反対するのはなぜかということです。我々はというのは、著者は二人います、一人は
政治家でもあるんですけれどもね。つまり、
憲法が不完全だから変えましょうという
議論ではないんだという。
憲法改正という試みは、不完全だから
改正しましょうというものではないんだということです。その
理由をこの後ろで二人の著者は書くわけですね。それは、私なりに理解するところでは、今述べましたように
憲法改正というのは現実の
政治、社会状況の中で行われるものであるから、そういうことをよく
考えろということだというふうに思っております。
最後にこの一節を御紹介して、私の
意見陳述を終わらせていただきたいと思います。